CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1

出島表門橋が本日開通、おめでとう記念~!! ということで、みんなでオランダのことを楽しく&詳しく学んでいこうかと企んでいます。
ただ、これまでのブログの内容が・・・「難しい」「長くて読みたくない」「文章がカタい」など、そうした批判は本来蹴散らすか、無視して良い真摯に受け止めたいのですが、ここ数年で学んだ大人の対応を発揮しどころはココだろう、ということで、今回より「妥協」の産物文体を採用したいと思います

いきなりですが、「オランダ」という国は歴史上一度もありません。

オランダ本国全体を表わす呼称は「The Netherlands」です。

The がついていることがポイントです。というのも、「低い土地」という意味を表わすのが「Nederland(ネーデルラント)」という普通名詞なのです。この普通名詞を固有名詞にしようという、いわば英語の文法的便宜のためというのが The がついている理由です。オランダはそもそも低地が多く、国土の4分の1が海抜0m以下であって、高い山はほとんどありません。一番高いところでも海抜322.5mで、長崎の稲佐山(333m=東京タワー)より低いのです。

それで、どうしても低地から水を排除しなければ住むところが確保できないので、水を汲み出すのに使われたのが「水車」です。
みなさんがオランダを思い浮かべる際にまず出てくるのが、「水車」でしょう。実は、「水車」はオランダが低地であったという地形的な不便さを克服するためにどうしても必要だった灌漑用アイテムなのです。

余談ですが、昔、カルピスまんが劇場「フランダースの犬」という昭和の教養アニメがありました。イギリスの作家ウィーダが19世紀に書いた児童文学で、日本で人気になったことで、ベルギーでは「『フランダースの犬』、何それ?」 となったものの、日本人観光客があまりに問い合わせするものだから、ネロとパトラッシュの銅像を作ってしまったという、ジャパニメーションのある意味で凄さを物語るエピソードまであります。ネロを虐めてばかりいる「ハンス、ゴルァ!!」と毎度思いながら見ていた方も多いかと思われます。この舞台となったのはアントウェルペン(英語名:アントワープ)です。このアントウェルペン辺りまでがかつてネーデルラントと言われた土地なのですが、この作品の象徴ともなったのも風車でした。何を隠そう、ウチにもかつてのEP盤レコードが現存しており、このジャケットにもバッチリ「風車」が写りこんであります。

フランダースの犬


話を元に戻しましょう。

このような訳で、正式国名「オランダ王国」は英語で「Kingdom of the Netherlands」と表されています。首都はアムステルダム。面積は九州よりやや小さめの41,526km^2、人口は1650万人足らずで、2017年9月29日 - 通信社・ロイターの28日付けの報道によると、世界の100万長者の数とほぼ同じで、東京の人口より300万人多いくらいです。

・・・ていうか、オランダの場所って知っていますか?ココです↓

オランダ地図
< Google map >

世界史は地図をとことん見ろ!というのが基本です。ついでにベルギーの位置も覚えておきましょう。

ベルギー地図
< Google map >
すぐ下でしたが。

以前※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」シリーズを書きましたが、次回は、「オランダ人はなぜ日本に来たの?」です。

dejima_agin_rogo-3.png


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お母さんが預かったお年玉の行方 愛ゆえに 長崎Love編

扇型を見ると出島を連想したり
小腹がすくとちゃんぽんを思い浮かべたり
お世話になった人へのおみやげはカステラだったり


長崎の地元民(ジゲモン)が、普段なにげなく行なっているひとつひとつが、郷土愛に溢れていたりします。

我々も普段はお互いのことを

「長崎バカ」
「長崎オタク」

と呼び合っていますが
まるでそんな我々のことを
見るに見かねたような企画が
長崎市でスタートしております。


その名も
「長崎◯◯ラバーズ」











ちゃんぽんが好きな人は
長崎ちゃんぽんラバーズ

出島が好きな人は
長崎出島ラバーズ

坂道の街並みが好きな人は
長崎坂道ラバーズ


といったように
真ん中に、自分が好きな長崎のもの、事、場所などを入れて
アピールしよう!という企画です。
観光都市ならではで、ぼくはこういうの好きですね……
このロゴがある場所にはラバーズがいるということなので
困った時は訪ねてみるのもいいかも知れません。




長崎○○LOVERS 公式ホームページ
https://nagasakilovers.jp/




長崎○○LOVERS facebookページ
https://www.facebook.com/nagasakilovers/




また、インスタグラムでは
#nagasakilovers
で、投稿されたラバーズ達の写真がたくさんあります。
ガイドブックにはないジゲモンならではの長崎が見られるかもしれません。


んで、このcrossroadsブログを運営する我々PEACEBLUEも
もちろん参加してみました。




ぼくらは長崎の 「G」 が好き!
Gラバーです。
長崎といえばGですから。
ギターも、3フレット目でFを握るのが手首的に一番楽で好きです。


……


…もうおわかりですね?


頭を柔らかく、そして長崎です。
全国こども歴史科学伝習所として活動するにおいて、これ以上に長崎の歴史を愛する◯◯もないのではないでしょうか。
公式ホームページではより分かりやすく長崎◯◯ラバーズの活動が紹介されていますので、ぜひ一度ご覧ください。



え?
ぼくが長崎と聞いて一番に連想する著名人ですか?
うーん、やっぱり
グラバーさんかなぁ……




休日に早起きをして洗濯機を回し
干さずに二度寝して再度すすぎ
忘れて出かけて夜3回目をすすぐ
そんな32歳がいたら、それはわたしです。



今日の一曲 中山美穂 BE BOP HIGHSCHOOL





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 5 最終回 ‐グローバリズムの落とし穴‐

今、日本の語学系大学のHPを見ると、ほとんどが「グローバル化」を唱えています。やたらとこのグローバリズムが素晴らしいと喧伝してまわる学校教師(特に文系)もいます。

今回は、このグローバリズムの正体をこの「スペイン・ポルトガル関連」カテゴリーにおいて暴こうと思います。
では、行きましょう!


ところで、「アメリカ」という名前はいつから呼ばれるようになったのだろうか?
1501年からの航海報告で、「ここはアジアではない」と言ったフィレンツェ人がいる。名を「アメリゴ・ヴェスプッチ」という。彼は天文・地理に精通しており、4回にわたって探検を行って、このいわゆる「新大陸」をアジアではないと確認したのである。

Amerigo_Vespucci.jpg
アメリゴ・ヴェスプッチ
<DATA>
■Amerigo Vespucci
■1454年3月9日~ 1512年2月22日
■出身:フィレンツェ、イタリア
■セビリア、スペインにて活躍

しかし、この段階ではまだ北アメリカと南アメリカがパナマ辺りで陸続きになっていることは分からなかった。ヨーロッパからアジアに向けて船で出港しても、結局は南アメリカの下をかなり迂回するルートで行くことになり、インド航路よりも非効率であるが、この迂回ルートを始めて通ったのが、初めて世界周航を成し遂げた、として歴史に登場するマゼランである。

Ferdinand_Magellan.jpg
フェルディナンド・マゼラン
<DATA>
■Ferdinand Magellan
■1480年頃~1521年4月27日
■探検家、航海者

マゼランはポルトガルの航海者で、彼もまたスペイン王カルロス1世の援助を受けてセビリャを280人で出航した。そして、南アメリカ南端に水路を発見する。ここは断崖絶壁と暗礁が多くて、潮流ももちろん速く、航海の難所である。ここを1520年10月にマゼラン一行が無事通過し、ようやく太平洋横断に向かうのである。

この海峡を「マゼラン海峡」という。
magellan-course.jpg
<引用:消滅した航路標識

マゼランは太平洋に到達し、ここを「平和な海」と名付けた。これが「太平洋:Pacific Ocean」の語源となった。マゼランは100日を越える航海で太平洋を横断し、1521年に今のフィリピン諸島に到達する。しかし、セブ島の対岸にあるマクタン島で首長ラプラプとの戦いが起こってマゼランは殺されてしまう。この後、マゼランの部下(1隻の船と18名)が目的の一つであったモルッカ諸島(香料諸島)を経て、1522年にパロスに到着し、これでトスカネリが唱えた地球球体説も実証されたのである。

ちなみに、フィリピンとは援助したカルロス1世の皇太子:フェリペから名付けられた。このフェリペが後に父カルロス1世からアメリカ大陸などの広大な領土を継承し、あのオスマン・トルコ帝国をレパントの海戦で撃破、ポルトガルの併合など行ってスペイン絶対王政の最盛期を現出した。こうしてスペインを「太陽の没まぬ国」にするのである。「太陽の沈まぬ国」とは、このフェリペが地球表面上至る所に植民地を領有し、世界最大の植民地帝国を形成したので、その土地の必ずどこかに太陽が出ていたことを意味する。

King_PhilipII_of_Spain.jpg
フェリペ2世
<DATA>
■Felipe II
■1527年5月21日~1598年9月13日
■ハプスブルク家のカスティリャ王国・アラゴン王国の国王(在位:1556年 - 1598年)
■1580年から、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。

16世紀から17世紀半ばの160年間ほどで、ヨーロッパの銀の保有量の3倍の量がアメリカ大陸からヨーロッパに運び込まれる。この金や銀を使用して、スペイン・ポルトガルは軍事力を強化していく。つまりこれが、前回の冒頭に述べた金・銀の保有量が国力を決めるという考え方「重金主義」なのである。コロンブスに始まるアメリカ大陸からのこの収奪によって、大量にもたらされた金・銀を香料諸島に持っていき、それを香辛料の支払いに充てたのである

ん? と、ここで、
スペインやポルトガルは、なぜ香料諸島のスパイスを武力で収奪しなかったのか?という疑問がわくだろう。

実はアジア圏においては、「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1」で述べたように、既にスパイスの交易が古くから広く行われていて、さすがに彼らもここのスパイスを武力で奪うことが出来なかったのだ。そこで、はるばるアジアまで来て、自分たちだけが金・銀を流出させるだけでなく、自分たちの持つ武器の販売などを通じてアジアでも香辛料を購入するための金・銀の獲得を目指した。

Silk_Route_extant.jpg
<青いラインが「スパイスの道」>

もちろん、この時代に交易で金や銀を支払うことが出来る国は限られる。

それが、日本。

ポルトガル人が種子島に「偶然」やって来て、鉄砲を置いて行ったのではない、ということを以前ブログで書いた(「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 1」)。この真意がここで更に良く理解出来るはずだ。

これが初期のグローバリズムだ。

国家の枠を超えて、手段を問わずに、とにかく自分たちだけ儲けられるだけ儲かってやろうというものである。鉄砲を売りに来たポルトガルが、日本には交易品が少ないので、たくさんあった金・銀、そして「人」を交易品の代価として設定したということだ。初めにキリスト教が広まった九州の人たちが大量に、そして世界中に売られていったこと(一説には50万人と言われる。総人口が2000万人程度の時代に、である)は、まさにグローバリズムの手法そのものである。世界中の文献に日本人奴隷の話が登場するのである。

このように立体的に考えると、なぜスペインやポルトガルが日本にやって来たのかも納得出来ると思う。豊臣秀吉や江戸幕府がキリシタンを弾圧したから酷い奴らだという、一面的な見方では真相がつかめないどころか、善悪の価値観すら逆転してしまう。

現代に即して言えば、グローバリズムとはEU、アメリカの前オバマ政権、日本の小泉政権がそれである。ただし、そこには必ず経済格差の増大や、国内の失業者が増加することをを正当化するための方便が必要となる「それは地球のため」、「人権を守る」、とかね。今のCO2排出による地球温暖化問題、石油から原子力へのエネルギー転換、過剰なまでの英語教育など、科学的に様々な立場がある論議なのに、これらは全てグローバル化を推し進める勢力によって進められている方便なのである。

先般のアメリカ大統領選挙において、オバマ大統領の後を継ぐヒラリー・クリントンがグローバリズム継続を唱え、ドナルド・トランプが「アメリカ・ファースト」の保護貿易主義を唱えた。エスタブリッシュメントと言われる権力者は、ほとんどがグローバリズム側で、CNNなどのメディアが盛んにトランプを、あることないこと非難しまくっていたのは、まさにこうしたメディアがエスタブリッシュメントの代弁者と化してしまっているかが良く分かった事例だった。日本のメディアもCNNなどから情報を仕入れて、ワイドショーにまでトランプの悪をフェイク・ニュースとして言いまくっていた。しかし、これを日本で唯一科学的に、冷静に見抜いていたのが国際問題アナリストで、拓殖大学客員教授の藤井厳喜先生だった。そしてその予見通りに、前政権下でのグローバル路線の悪を認識したアメリカ国民がドナルド・トランプを大統領にしたのである。


さて、今回のシリーズでボクが言いたかったことは、もちろんキリスト教の悪を弾劾するということではなく、スペインやポルトガルが現代の感覚からしてもいかに危険な交易を行っていたか、ということを知ってもらうためというものですが、今の教育業界ではこのグローバル化という言葉を無条件に良いものと捉える傾向に異を唱えたかったから、ということもあります。

数年前に小論文を教えていて、こうした話になったことがあり、とてもショッキングだったことがあるのです。
高校入試問題の英語長文で、「外国人に道で話しかけられたがうまく英語で案内できず恥ずかしい思いをした。だからもっと英語を勉強しようと思った」という趣旨の文章を頻繁に見かけます。

これこそまさにグローバリズムの落とし穴です。

逆に考えてみましょう。日本人がアメリカに行って日本語で話しかける、しかしアメリカ人は日本語を話せない、だからその人は恥ずかしい思いをした、・・・となるでしょうか?もちろんなるはずがない。しかも、生徒に「君、英語話せる?」と聞いても、「いや、話せません」と言う。自己紹介して、と言えば出来るし、これはペンです、とも言えるし、どうやら完全に話すことが「話せること」だと勘違いしています。英語に対する劣等感は甚だしく、それなのに教師は文法や単語ばかりやらせて、ホントにアホかと思ってしまいます。
・・・と、これほど力説しても、その公立高校3年生女子はこう言い放ったのです。
「いえ、話せなくて恥ずかしいです」
こういうことで、真の対等な関係で国際交流が進むはずがない、ボクは暗澹たる思いを経験しました。

みなさんはどう思いますか?

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4
 

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4

さて、「胡椒」の支払いには当時何が使われていたのだろうか?
紙幣はまだ流通しているはずがないし、このいわゆる「大航海時代」における共通の通貨もない。

そこで当時世界中が信用できるモノ、それは今も変わらず金と銀なのである。
ヨーロッパ絶対王政時代初期の重商主義政策において、「重金主義」というのがある。これは16世紀のスペインで典型的に行われたもので、海外植民地の金銀鉱山の開発や貴金属の輸出制限などの手段を通じて、貨幣獲得を重視する立場のことを言う。簡単に言うと、金の保有量の多さが国力を決めると考えることである。しかし、スペインにはこうした金山や銀山がないのである。

また、当時の世界で、食生活など様々な面で豊かだったのはヨーロッパではなく、アジア(日本を除く)と中東だった。つまり、経済学的な観点からすると、この辺りは物やサービスの生産力が高いので、その意味において当時はアジアの方が先進国だと言える訳である。物を輸出して儲かるという交易システムがアジアこそ盛んだったのだ。

しかも、8世紀の奈良時代に、あの正倉院の宝物にも胡椒が残っていて、日本でも既にこの時代には胡椒の交易があったことの証拠である。そのリストを示したものを「種々薬帳」(しゅじゅやくちょう)という。これは良い話なので、少し詳しく書いておこう。

種々薬帳1
<引用:「種々薬帳」前部 正倉院の『種々薬帳』 『漢方の臨床』42巻12号 1450-1452頁、1995年12月

聖武天皇が崩御された765(天平勝宝八)年5月2日から四十九日が経過した6月21日に、光明皇后は聖武天皇遺愛の品々であった、調度品・楽器・遊戯具・武具・装身具など約650点を東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ:いわゆる「奈良の大仏」)に献納した。この時に光明皇后は、天皇の遺愛品とは別に薬物も納めた。これが「東大寺献物帳」のなかの一巻である、上図「種々薬帳」で、ここに献納した60種類の薬物名と、その数量および質量などが列記されているのである。この巻末には、「病に苦しんでいる人のために必要に応じて薬物を用い、服せば万病ことごとく除かれ、千苦すべてが救われ、夭折(ようせつ)することがないように願う」といった願文が記載されていて、実際に、願いどおり薬物は持ち出されて病人を救うために役立てられた。光明皇后は貧しい病人に施薬や施療をするための「施薬院(せやくいん)」や、貧窮者や病人、孤児などを救うために「悲田院(ひでんいん)」も創設した、大変自愛の深い方であった。仏教に深く帰依(きえ)し、東大寺大仏造立を成し遂げた聖武天皇が大仏開眼(かいげん)からわずか4年で崩御されたため、光明皇后はとてもお悲しみになったのだという。
このような皇后だからこそ、体が丈夫でなかった聖武天皇を心配して、様々なまな薬物を揃えていたのだ。植物をはじめ、珍しい動物や鉱物などを、唐や新羅、東南アジアなどからも取り寄せていたことをうかがい知ることができる。その胡椒の一部がこの正倉院の宝物の中でに今でも残っている。


ここで話を戻そう。

16世紀には既に日本は金山と銀山の開発が進んでいた。ということは、生産物は他のアジア諸国と違って少ないが、支払いとして、金・銀が払えるのである。江戸時代末にとてつもない分量の金が流出したことは以前のブログで書いたとおりであるが(※歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題)、交易はいつの時代も需要と供給のバランスによって成り立っている。需要量が多いのに物が少なければ当然価格は上がる。

ここで前回までのヨーロッパ事情を振り返ってみると、次の流れだった。

ヨーロッパ人は肉食である。

肉は腐るし不味くなるが食べるしかない。

ずっと肉を美味しく食べるためには「胡椒」が必要であることがわかっている。

しかし、ヨーロッパには胡椒はない。

アジアから輸入したいが、オスマン・トルコ帝国が幅を利かせているので交易ルートの障害となっている。

ならば回避ルートを見つけよう。

いわゆる「大航海時代」が始まる。


こうして、胡椒にはプレミアがついていたことも以前示した。
需要量が半端なく多いのに、供給量が半端なく少ないからである。でも、肉を美味しく食べたいから胡椒はのどから手が出るほど欲しい。したがって、むしろヨーロッパ人の胡椒に対する需要量は、無限に近いくらいあったのではないか?

ただ、スペインやポルトガルには金や銀がない。では、どうするのか?大量にあるところから獲ってくるしかない・・・となるはずだ。

これが、マヤやアステカ、インカなのから略奪した金や銀などの宝物なのである。しかし、この宝物は略奪後に溶かされて通貨として使用された。つまり、スペイン人らにとってはインディオの宝物の歴史的な価値やデザイン性などまるで関心がなく、ただ香辛料貿易のための媒体として金・銀には唯物論的な価値があったのだ

西インド諸島やメキシコなどのスペイン植民地では、1503年から、「エンコミエンダ」という制度によって現地のインディオを労働力とすることが認められていたが、人道的観点から一時スペイン王室によって制度廃止が叫ばれてはいた。しかし、ポトシ銀山の発見により、銀の増産可能性が高まったせいで、ここでの労働力不足を補うために「エンコミエンダ制」の導入が加速していくのである。このボリビアにあるポトシ銀山はアンデス山中にある山で、ここでの銀は1545年にインディオがリャマを追って山に入った時、銀鉱を発見したことに始まる。その発見がスペイン人に知れて、この銀鉱をスペイン人が採掘権取得したのである。そして、この銀山の採掘強化のために再開されたのが、「エンコミエンダ制」というシステムだ。これは、スペイン人入植者に対して、現地のインディオをキリスト教化(きょうげ)を預託する代償として、インディオを労役に従事させることのできる制度である。
つまりは、キリスト教を軸にした強制的労働制度である
これによってヨーロッパでは、「価格革命」というまた別の負の側面が出てきたしまったことはブログにも述べた。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題」

ここで「彼が」登場する訳である。

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バルトロメ・デ・ラス・カサス
<DATA>
■Bartolomé de las Casas
■1484年8月24日 - 1566年7月17日
■スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。

ラス・カサスには、1552年に出版され、日本では染田秀藤訳で1976年に岩波文庫から出版された「インディアスの破壊についての簡潔な報告」という本がある。ここには次のような記述がある。

「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。」

この内容に触れる前に、「インディアス」という聞き慣れない単語があるが、これについては次の記述に詳しい。

「コロンブスは、現在いうインドに行こうとしたのではなかった。現在のインドは「ガンジス川内のインディア」というインディアスの一部でしかない。彼が目指したのは「インディアス」陸塊の東にあるインディアス大半島であった。その東端にはシパンゴ、つまり日本があると考えていた。彼が大洋横断の基点をカナリア諸島におき、そこから北緯28°にそってほぼ真西に進んだのは、当時、マルコ=ポーロのいう黄金のシパンゴ島は北緯5°から35°の間に伸びていると考えられていたからであった。」
<「コロンブス」増田義郎 岩波新書>
ColombusMap.jpg

ラス・カサスはこの他にも有名な「インディアス史」など、複数の書物を書いているが、そのほとんどは彼がアメリカ大陸で経験したスペン人の蛮行についてである。1502年にラス・カサスはインディアスに渡り、はじめ彼自身もインディアンを奴隷として所有使役しながら、農場を経営していた
しかし、コルテスらの軍の、あまりの蛮行に心を痛め、1514年8月15日には熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らの「エンコミエンダ」を放棄した。そして、サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中で、この「エンコミエンダ」の矛盾を厳しく糾弾したのである。

ラス・カサスの資料に客観性がある、という理由はここなのだ。自らもインディアンを所有していたのに、自分たちの国の人間の蛮行に気づいて改心したという点から、ラス・カサスの資料はスペイン人たちの当時の常識を知る一次資料となっているのである。

実はこうした過去のスペイン・ポルトガルから、現代のある現象をも読み解くことが可能である。
次回はいよいよそれに迫ってみよう。

つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」
このように我々は幼い頃に習ってきたのであるが、最近の教科書では是正されて「大航海時代が始まった」という教え方になっている。

コロンブスが山川の世界史B用語集ではどのように記述されているか。

コロンブス Columbus
1451~1506 ジェノヴァ生まれの航海者。地球球体説を信じ、西航してアジアへの到達を企てた。スペイン女王イサベルの後援を得て、1492年8月、3隻120人でパロスを出航し、72日の航海ののち、10月12日、現在のバハマ諸島に到着、近辺を探検して翌93年3月帰国した。到着地をインドの一部と信じ、第2回(1493~96)、第3回(1498~1500)、第4回(1502~04)と航海をしたが、金銀も胡椒も発見できず植民地経営にも失敗し、失脚して隠退した。

しかし、未だコロンブスに関する本質的な記述を見ることは出来ない。このシリーズ1のコロンブス<DATA>の所に書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1」参照)、コロンブスは「奴隷商人」なのである。前々回の記述でみなさんは気づいていただろうか。

そして、なぜ子供たちに教える歴史では、この面をそんなに隠さねばならないのだろうか?

キリスト教会も、コロンブスがアジア到達(本当はアメリカ大陸)という吉報に沸き立った。時の教皇アレクサンデル6世はこの「発見」の報に触れて、翌1493年に「植民地分界線(教皇子午線)」なるものをでっち上げた。これも用語集にはスペインとポルトガルが「ヴェルデ岬西方の子午線で、西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏にした」としか書かれておらず、これではその真意が全く分からない。

教皇子午線
引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico!

これは、地球を子午線という半分に分割する線で、まんじゅうを半分こするように、勝手に地球を二つに分けたという意味である。自分たちのまんじゅうならまだしも、みんなで分けているまんじゅうをこのような勝手な分界線によってまっ二つに分けられたら、この二国以外の国はたまったものではない。そして、これが「教皇」子午線であるということも見逃せない。つまり、キリスト教会も、他国を侵略して奴隷化することを積極的に推進した、ということである。

更に1494年には「トルデシリャス条約」で、この教皇子午線が両国に都合良いように西方へ移動し、海外の領土分配を決めた。この時にポルトガルがブラジルを領有したのである。

トルデシリャス条約
トルデシリャス条約という縄張り">引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico

トルデシリャス条約条文
<トルデシリャス条約 条文>

1529年に「サラゴサ条約」が締結。スペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却し、勢力圏の範囲も確定。太平洋側にもこの両国の境界を分ける子午線を引かれた。このモルッカ諸島はセレベスとニューギニアの間の島々であるが、ここがヨーロッパ人たちの主目的となった島である。なぜならこの島は「香料諸島」とも言われ、丁子(ちょうじ)やナツメグといった、肉食のヨーロッパ人にとっては貴重な香辛料の主産地だからである。1521年のマゼラン遠征隊の来航以来、各国の争奪の的となったのがこのモルッカ諸島なのである。その意図はあまりに明白だ。

香料諸島

さて、ここで南北アメリカにも目を向けてみよう。

アメリカ文明地図
<引用:ラテンアメリカ文明と文化

15世紀に既にアメリカに存在していた文明は、上の地図にあるように、今のメキシコ近辺にアステカ文明とユカタン半島にマヤ文明、アンデス高原にはインカ文明である。彼らの多くが北のベーリング海峡が地続きであった時期にアジア系の人々が移住し、拡散したとされていたが、近年の研究によって遥か太平洋を横断して定着した可能性も示唆されており、日本人にとっても大変興味深い文明群である。いずれ必ず書く予定だが、赤道直下のエクアドル(そもそもエクアドルはスペイン語で「赤道」という意味)からは縄文土器が発掘されるし、ボリビアのモホス平原に2万個以上点在する「ロマ」(スペイン語で丘の意味)から発掘される人骨は180cm以上の巨人であり、遺伝学的にありえない。今この辺りに住むインディオたちとの連続性が全く感じられないばかりか、日本人の痕跡もあるのだ・・・。

モホス

南北アメリカの文明には高度な灌漑技術と自然との共生への知恵があり、いずれも神秘に満ち溢れていて、地球外生命体の存在でさえ疑っている人がいるほどである。インカ文明から遥かさかのぼると、ボリビアの高原に「モホス文明」という高度な文明が存在していたことも明らかになってきている。文明が無いと思われていた場所から青銅などの金属器も出土し、モース硬度最大がダイヤモンドで10、そのうち6.5から7という硬い鉱石であるヒスイを加工して、装飾品として身に着けた「高貴な人」もドイツ隊によって発掘された。ヒスイはビーズ状に加工されているが、一つの大きさはわずか0.8㎜。とてつもなく小さな断片に穴を空けている。ちなみに、高度7はナイフで傷をつけることができず、刃が傷む硬さである。鋼鉄のやすりが硬度7.5であるため、鉄器が存在しないのにヒスイをどのようにして細かく加工したのかが未だに不明なのである。(※このモホス文明についてはブログで書くので、こうご期待!!)

話を元に戻そう。

いずれにしても15世紀に存在したこの3つの文明全てがスペイン人によって征服され、滅ぼされた。このスペイン人の征服者のことを「コンキスタドール」と言い、代表的な悪名高い人物が、アステカを滅ぼしたコルテス。インカを滅ぼしたのがピサロである。コルテスは1519年に少数の兵を連れてユカタン半島に初めて上陸した。
途中のアステカにおける攻防の経緯は省くが、最終的に1521年の始め、コルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、アステカの若き王:クアウテモックは捕らえられたのである。

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エルナン・コルテス Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
■1485年~1547年12月2日
■メデジン、カスティーリャ王国
■コンキスタドール

また、南米のインカ文明を滅ぼしたのも、スペイン人:ピサロである。

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<DATA>
フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro
■1470年頃 - 1541年6月26日
■スペインの軍人、探検家、コンキスタドール

このピサロは1531年、約180人の部下を連れてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。そして、インカ皇帝:アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。この時、アタワルパの身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、アタワルパが存在する限り先住民が彼をリーダーに担いで反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にして、1533年7月26日処刑を敢行したのである。この3度目の挑戦で、ようやくインカ帝国内部に潜入したのが180名だった。この180名が歴史に残る大虐殺と情け容赦のない略奪をおこない、歴史上、ヨーロッパより遥かに高度な文明を誇っていたにもかインカ帝国を滅亡に追い込んだのである。

これは詳細を述べよう。

当時のインカ帝国の人口は一千万を超えており、最盛期には約1600万人だった。インカ皇帝:アタワルパは、はじめ自ら数万の軍勢を率いてピサロ軍180人と対峙したとき、そのあまりの戦力差に戦後スペイン人達の処遇まで考えるほど余裕があったと言われている。だから、この戦闘に勝った後、スペイン軍の半分を神の生贄、残りの半分は去勢して王宮で使役させるつもりだったという。しかしピサロの軍180人は彼らが想像することができないほどの戦闘のプロであった。武器も強力で、インカ軍とは比較にならなかったのである。大広場での会見でピサロは、数万人の兵士に護られて油断し切っている皇帝:アタワルパにいとも簡単に近づく事に成功し、いきなり拉致を敢行する。それを合図に、スペイン兵が一斉に飛び出し、銃や大砲を撃ちまくった。

インカ帝国軍の石や骨で作った武器は、この戦いでは全く役に立たず、戦闘が始まって30分もしないうちに2,000人を超える死者を出し大パニックに陥ってしまった。皇帝のアタワルパは、これで捕虜となってしまい、この一戦で完全に戦意を喪失した。スペイン人が探している金銀を与えさえすれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロにエル・クアルト・デル・レスカテという部屋1杯の金と、銀を2杯提供することに同意した。ピサロはアタワルパの身代金として、この莫大な金銀財宝を受け取ったが、この約束は反故にされた上に、アタワルパは解放されなかったのである。

こうしてスペイン人達は思うままに財宝を手に入れたが、しだいにインカ軍の反乱を恐れるようになり、アタワルパを処刑した方がよいのではという意見が大勢を占めるようになってくる。アタワルパが存在する限り、インカの先住民が彼を担ぎあげて反乱を起こす可能性があるとして、ピサロはアタワルパを処刑にする決断を下す。まず、模擬裁判を行って皇帝が偶像崇拝を常習としたこと、実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した。ただ、インカでは、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖したという。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに進言した。やむなくアタワルパはこのキリスト教の洗礼を受けることに同意、洗礼名:フランシスコ・アタワルパを与えられ、キリスト教徒となった彼の要求に従い、火刑に代えて絞首刑となったのだ。
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<火刑に処されそうになったアタワルパ>

なお、スペインでは1992年から2002年のユーロ導入まで、スペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の裏面には、何とピサロ、表面にはコルテスの肖像が使用されていたのである。
コルテス紙幣

・・・なぜこの侵略の場に「バルベルデ神父」が参列しているのか?そうした疑問がわく。

実は、この当時スペイン人の征服とキリスト教布教とはセットなのである
スペイン人の征服者は自分たちの侵略行為が正当であるとしたのは、スペインが定めた勧告(レケリミエント)を実行したからである、という方便に過ぎなかった。これはアメリカへの武力征服が行われる前に、インディオに対して教皇からこの地の支配を認められたスペイン王(当時はカルロス1世)の支配に服するよう勧告することで、それに従わないインディオに対しては如何なる害を加えても良い、というめちゃくちゃな理屈であった。ただ、この勧告は、インディオの村を襲撃する夜明け前に、村の入口から離れたところで通訳を通して読み上げられただけで、征服者が自己の残虐行為を正当化するための形式でしかなかったのである。

つまり、武力で現地人を思いっきり制圧した後に、キリスト教による思想統一が行われるということだ

これが真実であるかどうが疑わしいという人も多いだろう。

しかし、それを客観的に検証する資料が存在している。それは彼が書いている。
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つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2

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