CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

長崎貿易 1.51

さて、この古びた布切れが何か知ってますか?

コレです↓
こしょろ文

長崎の人なら誰でも知ってる、ロマンの銘菓「長崎物語」のパッケージ・デザインの元です。箱の右下には「ガレオン船」も金箔であしらわれてます。
長崎物語

・・・ここで、長崎の人なら誰でも菓舗唐草の「長崎物語」テーマソングが浮かんだでしょう?
ということで、皆さんの絶大な期待にお応えし、浜口改め、
本職:プログレ・メタル・ギタリストメカ口(※「めかろ」でなく、「めかぐち」と読んでください)が歌のコード解析、今さっとやっておきました。楽器を弾ける人、ぜひ弾き語りで歌ったって下さい。
長崎物語テーマ

ちなみに、本職プログレ・メタル・ギタリストのメカ口こだわりで、最後のコードは「A」でもなく、「A7」、ましてや「Asus4」でもなく、「A9」になっています。


YOUTUBEにあった「長崎物語」を張り付けておきます b 
いまや歌聴いただけで泣けてくるわww

現在、長崎・平戸の「平戸オランダ商館」に展示してあります。そして、これは当時の幕府政策に翻弄された女性の、大変切ない手紙なのです。
今回は、長崎貿易シリーズ「2」へ行く前の「1.51」サイドストーリーとして(前回の終わりに「次回は、開港後の『長崎六ヵ町誕生』の詳細を書こうと思います」と書いてしまったので「1.51」てことで;゙゚’ω゚’):)、この「文」と、いわゆる「鎖国」について書きます。
では・・・


オランダ人妻子のマカオ追放の翌年、寛永十四(1637)年に島原の乱が勃発すると、オランダ・イギリス系日本人のジャガタラ(現インドネシアの首都「ジャカルタ」。オランダ植民地時代の呼称は「バタヴィア」)追放が始まる。平戸から「こしょろ」という混血の女性他、20名ほどの者がこのジャガタラに送られた。200年後の明治になってからのバタヴィア↓
Batavia_1897.jpg
<1897年のバタヴィア地図>

この、「こしょろ」などが平戸の木田家縁者に寄せた、ページトップの手紙が「じゃがたら文」と言われるものである。内容はこうだ。

うば様まゐる

日本こいしやこいしや、 かりそめにたちいでて、
又とかへらぬふるさととおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、ゆめうつつとも、さらにわきまえず候へども、
あまりのことに茶づつみ一つしんじまいらせ候
あら日本こいしやこいしや

こしょろ


あえて、現代語訳するまでもないだろう。原文で十分その心意が伝わってくる文章だ。

遥かインドネシアの地から、二度と戻れることのない故郷長崎への望郷の念を想像すると、とても切ない。現在のように飛行機で軽くいけるような距離でもなければ、ネットを介してコミュニケーションも出来ず、手紙ですら本当に届くのかどうか危ぶまれる、そんな時代なのである。

この「こしょろ」による「じゃがたら文」は何枚かの古渡更紗(おらんだぬの)を市松に縫い合わせて茶包みを作って、白地のところに文がしたためてある。平戸にはこしょろの手紙1通の他にも、六兵衛元妻「ふく」のもの1通と「判田こねり」のもの2通が残っているという。やはり当時日本のキリシタンの歴史には、このように物理的にも心理的にも人を切り裂いてしまう悲しさが付きまとっている。

平戸のキリシタンの歴史。
フランシスコ・ザビエルが平戸を訪問したのが天文十九(1550)年であり、以来平戸は南蛮貿易とキリスト教布教を通じて西洋文化と日本文化が重なり合う場となったことに始まる。しかし、既得権益たる仏教勢力によって、永禄四(1561)年、ポルトガル船長ら14人が殺害される「宮ノ前事件」が発生。以後、長崎が貿易港の主となるまでの、いくつかの変遷を経たことも既に述べた(長崎貿易 1参照)。

しかし、この平戸が再び貿易港としてスポットが当てた人物がいる。慶長五(1600)年旧暦3月16日(西暦同年4月29日)、デ・リーフデ号が豊後臼杵の黒島に「漂着」。その航海長がイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針:鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5参照)。1600年と言えば、旧暦9月15日(西暦1600年10月21日)に関ヶ原の戦いが起こった年。これはその戦いのわずか半年前である。

ここもアダムスの詳細は割愛するが、彼は徳川家康によって、江戸幕府の外交顧問となったが、その晩年はこの平戸で暮らし、元和六(1620)年ここで病死し、墓が作られた。

三浦按針の墓
<平戸 三浦按針の墓>

慶長十四(1609)年7月には、徳川家康がオランダ人に日本通商免許を与え、9月にはオランダ商館が平戸に建てられる。更に慶長十八(1613)年、イギリス人も通商特許を得て平戸にイギリス商館を建てた。

寛永十(1633)年にはオランダ商館長の江戸参府が始まった。しかし、次々と発布されるキリシタン禁制令が平戸にも影響を与えたのである。主に5次に渡る、いわゆる「鎖国令」関連を列挙してみると、

■ 第1次鎖国令:寛永十(1633)年:奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じる。
■ 第2次鎖国令 寛永十一(1634)年:第1次鎖国令の再通達。この年、長崎に出島の建設を開始する。
■ 第3次鎖国令 寛永十二(1635)年:チャイナ・オランダなど異国船の入港を長崎に限定する。また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じる。
■ 第4次鎖国令 寛永十三(1636)年:貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放する。残りのポルトガル人は長崎の出島へ移す。
■ 寛永十四〜十五(1637~1638年)島原の乱勃発。幕府に武器弾薬をオランダが援助する。
■ 第5次鎖国令 寛永十六年(1639)年ポルトガル船の入港を禁止する。
■ 寛永十七(1640)年:マカオから、通商再開依頼のためポルトガル船来航したが、徳川幕府はその使者61名を処刑。
■ 寛永十八(1641)年:オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
■ 寛永二十(1643)年:ブレスケンス号事件が発生。オランダ船は日本中どこに入港しても良いという徳川家康の朱印状が否定される。
■ 正保四(1647)年:ポルトガル船2隻が国交回復依頼のため来航するが、徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える


そもそもこの「鎖国」という言葉は、出島の三学者のひとり:エンゲルベルト・ケンベルが書いた「日本誌」という本を、蘭学者で阿蘭陀通詞の志筑忠雄(しづきただお)が、享和元(1801)年に、そのオランダ語第二版(1733年)の巻末附録の最終章を訳出した写本として、「鎖国論」という表題にしたことからできた言葉である。内容としては単に江戸幕府による「貿易保護政策」のことであり、当世風に表現するなら、極度な”Japan First”のことである。つまり、現代教育で子どもたちに教えている、他国を強制的にとある思想から締め出して、世界から孤立していたという短絡的な意味合いのものではない。実際にこの「鎖国」という言葉が幕閣の間で初めて使われたのは1853年であり、そして、本格的に定着していったのは1858年以降とされている。したがって、一般に普及したのは明治時代以降であり、このことからして、江戸時代の人たちにとってはいわゆる「鎖国」をしているという意識がなかったのだ。

ケンペル「日本誌」
<ケンペル「日本誌」 日本二十六聖人記念館所蔵 ※特別な許可をいただいて撮影しました>

「鎖国」と表現した阿蘭陀通詞の志筑忠雄が、おそらくは日本の誰よりも世界史的な情勢を熟知したひとりである、その観点から当時の江戸幕府の対外政策に反対の立場をとっていたので、批判の意味を込めてその対外政策に対して誇張的な「鎖国」という言葉で表現したという話もあるがこれは定かではない。しかし、これは十分に考えられる話ではある。なぜなら、阿蘭陀通詞たちは必ずオランダからもたらされる情報である「オランダ風説書」を読んでいたからである。「オランダ風説書」とは、江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類であり、寛永十七(1640)年、幕府はキリスト教国であるポルトガル・スペインの動向を知るため、オランダ船が入港するたびに彼らが知る世界の情報を提供することを要求した。「風説」とは「噂話」のことだが、噂であろうがなんだろうが、とにかく情報を仕入れていたのである。この「風説」である情報の提供は翌年寛永十八(1641)年、つまりオランダ商館を平戸から出島に移転した年より開始された。

今、世界史的な観点が必要だという話をしたが、江戸幕府によるいわゆる「鎖国」政策が、単に民族主義的な負の政策であるといったとらえ方をするのは少しおかしい。確かに、これまでキリスト教禁教の大きな要因となったのは、仏教勢力が既得権益を守るためのものであったと考えてきた。どう考えても得をするのが寺社勢力であるからだ。しかし、世界史的な視点とは、当時スペインが、これもいわゆる「新大陸」アメリカで何を行っていたか?という視点が必要だからである。このマクロ視点抜きにして、江戸幕府のいわゆる「鎖国」政策を批判するのはあまりに早計である。

次回は、この世界史的マクロ視点からの考察を加えようと思います。・・・果たして「2」へ移行できるのか?:(;゙゚'ω゚'):

メカ口のメカ その1.51
メカ1.51



長崎の発展 | コメント:0 |

長崎貿易 1

日本における長崎の特殊性を物語るキーワード、「異文化の交差点」。
それが、クロスロード

確かに江戸時代の長崎貿易は、オランダとの「出島」を介した、ごく限定的なものだというような印象が強いですが、16世紀末から17世紀当初はポルトガル貿易が主流でした。そして、様々な事由によって明(後に清となる)貿易とオランダ貿易に制限、といような変遷をたどっていきます。

では今回は、この十字路の核とも言うべき「長崎貿易」からスタートします!


長崎の港は、ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」シリーズ参照)、元亀二(1571)年に大村純忠によってポルトガル貿易港となった。

天文十八(1576)年にイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京都へ上る途上で平戸を訪れる。彼は至る所でキリスト教の布教を行ったが、寺社勢力との教義争いも起こるようになった。ザビエルの日記にはこのような記述がある。

「キリスト教は彼らのまちがった教義に真っ向から反対しているので、こちらが福音について説教し、彼らの誤謬(ごびゅう)を証明し始めると、向こうは敵意をあらわにして私たちを総攻撃する機会にします」
「ザビエルの見た日本」(十)ピーター・ミルワード 松本たま訳


来日以来、僧侶との論争が激しかったが、仏教の僧侶の話は矛盾に満ちており、ザビエル自身はむしろ持論が正しいという自信を深めていくのである。

そんな中で、天文十九(1550)年、平戸が長崎で初めてのポルトガル貿易港として開港された。これが長崎における「南蛮貿易」の始まりである。

ところが、永禄四(1561)年、平戸で暴動が発生し、ポルトガル人14名が殺害された。これを「宮ノ前事件」という。その年、ポルトガル船の来航にあわせて、平戸・博多・豊前商人との売買交渉が始まったが、絹製品を巡ってその交渉が決裂したことから、日本商人と南蛮商人の乱闘が起こった。日本人が南蛮人へ商品を投げつけたことに端を発すると言われており、これに南蛮人が殴りかかったという。この乱闘に、見かねた武士が仲裁に入ったものの、この武士の介入を南蛮商人は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装、日本商人や武士団を襲撃した。これに対し武士団も抜刀して応戦した。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14名の死傷者を出し、平戸港を脱出した。

・・・ただ、筆者はこの事件の背後に、確実に既存の仏教勢力の巨大な利権構造が存在したと思っている。キリスト教信者が拡大するということは、仏教信者が減少するということと同義である。事実、隣の生月島と度島では約1400人が改宗している。この改宗したキリシタンが寺社や墓地の破壊を行って、キリスト教への入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていたのである。また、平戸領主:松浦隆信(まつらたかのぶ)もポルトガルとの南蛮貿易の利権を獲得するために布教を受容している

我々現代人が思い浮かべる仏教徒の平和なイメージは、実は織田信長によって武装解除された後の仏教徒像である。信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったのも、ここでは詳細は述べないが、ここが軍事上・地政学上の拠点の一つともなるからである。

平安末、院政を始めた白河上皇も自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として、

「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であり、様々な利権を有していたことがわかる。この比叡山では山法師と称された数千人の僧兵を擁したほどであった。

僧兵のイメージとして、より分かりやすのが、源義経との戦いで有名な武蔵坊弁慶であろう。

武蔵坊弁慶と源義経 歌川国芳
「五条大橋での戦いを描いた浮世絵」(歌川国芳作)

比叡山のみならず、僧兵は軍事力を背景に全国で大きな勢力となっており、多くの荘園を領有、国内の商業活性化の足かせとなっていた。今でもそうであるが、利権を持つ連中がそれを脅かされると、必ず政治やエスタブリッシュメント(社会的に確立した制度や体制。または、それを代表する支配階級・組織。既成勢力)と結びついて新興の勢力を潰しにかかる。この辺りが理解できると、なぜアメリカ大統領にトランプが当選したか、ということもわかるが、それはいずれ。

とにかく、こうした僧たちが、異教でもあるキリスト教拡大に伴った信者減少によって、大幅に収入が減じるばかりか、先ほど述べたように、ザビエルなどから教義の矛盾を指摘されて信者からの信頼も失っていた頃であったのだ。

ザビエルの書簡には、次のような僧たちとの生々しい論争もある。

 日本には仏教の宗派が九つあって、教理は一つ一つ異なっています。各宗派の考えがわかるようになると、私たちは相手方をやりこめるためにあらためて反論を開始し、毎日のように質問したり討論したりして魔法使いの僧やキリスト教のおきてにはむかう敵を困らせました。私たちはそれをとても効果的にやりましたので、私たちが彼らを批判し、反駁(はんばく)すると、彼らはぐうの音も出ませんでした。
 キリシタンたちは、僧がその非を悟って口をつぐめばうれしくなってますます主を信じるようになります。それと同時に討論の場に居合わせた異教徒たちは自分たちの祖先が徐々に衰えていくのを見て動揺しました。僧は少なからず不服でした。彼らは説教に出て聴衆が大勢キリシタンになるのを見ると、新しい信仰が気に入って祖先伝来の宗教に見切りとつける者を厳しく批判します。しかしほかの者は、キリストのおきてが自分たちの法より理にかなうものであり、僧の場合と違って自分たちの疑いを解いてくれるものなので、キリスト教に帰依すると答えました。
同「ザビエルの見た日本」(二十三)


聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
ピーテル・パウル・ルーベンス
(The Miracles of St. Francis Xavier) 1617-1618年
535×395cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館蔵

このような例からして、いかに仏教勢力が利権をむさぼって堕落していたかも理解できるし、既得権益を守ろうとしてキリシタンの排除へと彼らが向かわせたということもわかる。

以前のブログ、「※日本ではなかった!? 『小ローマ』:異国の長崎」に、この事件後の貿易港変遷については書いているので参照していただきたいが、平戸を出たイエズス会は大村純忠の要請で西海市の横瀬浦へ行ったが、ここでも血なまぐさい事件があり港が廃港、そして福田浦、元亀二(1571)年に、より利便性の高い長崎港へと移り変わるのである。

次回は、開港後の「長崎の六ヵ町誕生」の詳細を書こうと思います。

松浦隆信像 松浦史料博物館
松浦隆信像 松浦史料博物館
< DATA >
■ 享禄2年(1529年)~慶長4年閏3月6日(1599年4月30日)
■ 改名:隆信→道可(法名)
■ 別名:印山(号)、一渓斎、通称:源三郎
■ 諡号:尊勝院
■ 官位:肥前守
■ 主君:大内義隆→大友宗麟→豊臣秀吉

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