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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 22 - アジアへ(2) アンボイナの虐殺 -

関ヶ原の戦い後、江戸幕府が開かれて以来、平戸にはオランダとイギリスが次々に設置されます。

慶長十四(1609)年にオランダが平戸に商館を設置し、慶長十八(1613)年にイギリスが商館を設置します。
オランダ商館
2011年に復元された、平戸 阿蘭陀商館

しかし、香料モルッカ)諸島は以前にも書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)、香辛料の丁子(ちょうじ)とナツメグの唯一の産地として、肉食のヨーロッパ人にとっては、相変わらず非常に重要な場所です。

オランダはこのアジアへやって来てから、相当な利益をゲットしています。

ちょい後の統計ですが、下に載せておきましょう。

オランダのアジア交易
オランダのアジア交易統計 1694年

日本との交易は断トツで儲かっています
オランダ人が、幅200mちょいしかない「国立の監獄」(=出島)に押し込められながらも、日本から出ていかなかった理由は、これを見てもよく理解できます

出島1
出島 川原慶賀筆

もう一度、東南アジアに目を向けてみましょう。

1511年、ポルトガルがまずマラッカを占領して、次にスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してきて以来、この両国が香料諸島で争うようになります。

香料諸島
香料諸島(モルッカ諸島)図

初めはポルトガルが香辛料を独占していましたが、17世紀にはオランダ東インド会社が進出して、この地にいたポルトガル勢力を追っ払います。そして、オランダがここアンボイナ島に要塞を築いたのです。

アンボイナ島
引用:4.インド・東南アジア史(II.東南アジア史) アンボイナ島

しばらくして、イギリス東インド会社が、この地の香料貿易に参入してきます

これでオランダとイギリスの東インド会社が香辛料の利権をめぐる交易で激しく争うことになってしまったので、同じプロテスタント国で友好国であるため、「まあ、ヨーロッパではあれほどカトリックにいじめられて、戦った仲じゃないすか、ここは仲良く」と、この二国は、ここでの対立を避けようとして、1619年に両社を合同、香料諸島を共同で経営することを決定します。

こうして、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にもイギリスも商館が設けられることになりました。

けれど、本国では両東インド会社の、香料諸島での合同は合意されましたが、現地ではオランダ人が合意をシカトして独占を続けて好き放題やるわ、バタヴィアではやられたイギリス人もオランダ人を追っ払うわ、など、交易を巡る対立はずっと続いている、という状況でした。

こんな中で大事件が発生します。

1623年にアンボイナのオランダ商館では、イギリス商人が日本人傭兵(武士)らをここへ連れ出して、ここのオランダ商館を襲撃しようとしているという疑念(妄想だったのですが…)を抱きます。

こうしてアンボイナのオランダ人は、イギリス人・日本人・ここに残存していたポルトガル人を捕らえて、ヒドイ拷問にかけます。
そして、あらぬ罪を自白させ、イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名の計20人を処刑してしまいます。

これを「アンボイナの虐殺(通称アンボイナ事件)」と言います

事件当時オランダの東インド総督はヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
Jan_Pieterszoon_Coen.jpg
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)
■オランダの軍人で、第4代オランダ東インド会社総督
(在任1619年 ~ 1623年、1627年 ~ 1629年)

なぜ「虐殺」なのかと言えば、オランダ人の行った拷問は、火責め、水責め、四肢の切断など、あのお馴染みヨーロッパ式(※「ヨーロッパの拷問方法・処刑方法【古代/中世/近代/異端審問/魔女狩り】」いちお参照・・・・しない方が良いですけど、いちおです、いちお)のバラエティ豊かな(もち、皮肉です)自白が強要されたからです。そりゃ、やってなくても自白しますよね、普通…。
ハイ、コレ
アンボイナの虐殺
アンボイナの虐殺

この虐殺の目的は当然、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占です

 この事件を契機に、イギリスは東南アジアでの香辛料貿易あきらめ、ある場所へ進出するのです。

それが、インド

…なぜインドなのかは、のちほどイギリス編にて。

ただ、
「出島でオランダ人だけが交易を許された」

という、これまで習ってきた常識は正確ではありません。
前回まで見てきたように、イギリス人だって徳川家康に許されていたからです

同じプロテスタントで、命がけで交易を開いたウィリアム・アダムス以来、イギリスとも交易を続けていました。

しかし、この1623年に、イギリスは銀の獲得のために日本までやって来たものの、平戸での貿易は採算がとれず、イギリス商館を閉鎖して、完全に日本から撤退しているのです

撤退の要因として、オランダほどの日本でのシステマティックな交易方法と、当時のヨーロッパにおける市場の規模とコネクションの差ではないかと推測されます。新規参入のイギリスが、商業の手練れ、当時のオランダにかなうわけがありません。

このように考えると、出島には、カトリックのように布教を目的とせず、交易だけをしようとしているオランダ人とイギリス人が同時に住む可能性だって十分にあったのです

しかし、1623年の「アンボイナの虐殺」+「平戸の不採算」の二点で、イギリスはごく短期間のうちに日本からも撤退していくのです。
つまり、「オランダ人だけが」ではなく、「イギリス人たちも認められてたけど、勝手に撤退していなくなったから、残ったオランダ人が出島で交易を行った」というのが正しい歴史観です。こう言わないとちゃんと理解できません。

この撤退は、ウィリアム・アダムスが平戸で亡くなった3年後のことでした。
あの世でアダムスは、ずどーん・・・・・・・・orzと、落ち込んだことでしょうね。

この「アンボイナの虐殺」はイギリス国内でオランダに対する憎悪の世論を喚起してしまいます

これが後の、4次に渡る「英蘭戦争」の一因ともなりました

事件をきっかけに、東南アジアでのイギリスの影響力は縮小します。
そして、覇権を手にしたオランダだけが支配権を強めていきました。

しかし、かつて無限の需要があり、同量の金と交換されたこともあったほどの香辛料の価格は、次第に下落していきます。
そして、オランダの経済的な世界の地位も…。

一方で、アンボイナから追い出されたイギリスですが、拠点をインドに定めたのには、現代の我々にとっても極めて重要な理由があるからです。

それが何か?・・・は、次回のお楽しみです!


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<オランダ編>
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<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 21 - 特別企画展 出島の青い薔薇 -

いろいろ調べることもあって、3連続で出島に行ってきました。ボクは出島商館員なんで(て言っても、800円の年間パスですが)、入り放題で楽しめます。

ちなみに、ウチの管理人と副管理人は長崎検定ホルダーの知識人で、その強力な権威があって、背後には後光が差しているのでたぶん死ぬまで無料入り放題す。

今、ちょうど「特別企画展 出島の青い薔薇」をやっています。
(※期間は来年3月18日(日)まで)

出島の青い薔薇

いわゆる「大航海時代」に乗っかかる形で、スペイン・ポルトガルの後、イギリス・オランダから17世紀以来、文物や情報と一緒に西洋の陶器が出島にもたらされました。

マヨリカ陶器が起源ですね。

西洋では、東洋の「染付」をパクってオランダ・デルフト製のファイアンス陶器が作られて、これが日本へ輸入されます。

そうした西洋のデザインに感化され、日本中にその後西洋の陶器が食器として、この出島を起点に広がっていきます。

出島をその扇型の形状やオランダ人の「国立の監獄(コレ、本人らが言ってますから…)」、表門橋開通やらとはしゃぐのみならず、せっかくの良い企画展なので、このような工芸品へのシブい「通(つう)」な見方をしてみてはいかがでしょう?

表門橋・内から

染付芙蓉手花鳥文voc大皿
17世紀:染付芙蓉手花鳥文VOC大皿

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<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
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「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -

寄り道イギリス編。最後の舞台となるのは長崎の平戸です。

平戸
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

「三浦按針」の「三浦」姓は、現在の横須賀市逸見(三浦半島)に、250石(220石という説もあります)の土地を与えられ、外国人としては唯一の、農民を抱える領主となったことにちなんでいて、「按針」の名は航海士(=水先案内人)という意味であるといいます。もともとイギリスの貧しい平民だった三浦按針は、ここの領民たちを大切にして、公平に接したので、領民たちからも大変慕われたといいます。

三浦按針の足跡
昭和24年〈1949年〉7月15日に建立除幕されたE・ブランデン碑と按針の胸像(昭和62年〈1987年〉8月10日除幕)と帆船建造400周年に建てられた標柱(平成16年〈2004年〉12月23日除幕)
引用:三浦按針の足跡

この三浦按針ことウィリアム・アダムスは、家康の命を受けて日本で初めて洋式帆船:80トンを建造しています。この船は日本の沿岸測量に活躍しました。更にいろいろあって、120トンの「サン・ヴェナ・ベンツーラ」とい大型外洋帆船を建造しました。船は難破したマニラ総督に貸して、日本で初めて太平洋を渡り、メキシコのアカプルコへ行っています。

ところで、このメキシコのアカプルコは以前「肥前の妖怪」 鍋島直正 3」で書いた、伊達政宗からヨーロッパ行き命じられた支倉常長(はせくらつねなが)が立ち寄った所でもあります。
支倉航路図
引用:サン・ファン・バウティスタの航海と支倉常長の辿った足跡

支倉常長を大使とする慶長遣欧使節団は、1613年10月に乗組員約180名で仙台領月ノ浦港から、まずメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)に向け出港しました。


最近の研究によれば、この直前に甚大な津波被害を受けた仙台では、経済復興が急務だったので、仙台とメキシコ間の直接の通商関係を樹立することにあったといいます。併せて、被害を受けた仙台藩領内で領民を救うための秘密裡でのスペインとの交易であり、そのためのキリスト教の布教を行うための宣教師の派遣であり、そして、最も必要としていたと考えられるのが、当時世界有数の銀生産国であったメキシコの銀生産技術を獲得することです

経済とは「経世済民」であり、人を救うことが本義です

この伊達政宗の意向と同様に、家康が直接イエズス会を派遣しているカトリック国スペインへ、ではなく、アメリカ大陸でスペイン領メキシコに行ったのも、イエズス会の影響力が弱いが、非常に効率良い銀の加工技術の習得出来るからなのです

この加工技術を習得した日本は、その後、金と銀による豊かな貨幣経済を享受できるようになっているのです。のちにこの豊かさがアダとなってしまいますが…。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題」 参照)

三浦按針は日本で妻子を持ちました。イギリスへ帰る機会もありましたが、結局はその生涯を日本で終えています。
その最期の地が長崎の平戸でした

慶長十四(1609)年7月には、徳川家康がオランダ人に日本通商免許を与え、9月にはオランダ商館が平戸に建てられます。更に、慶長十八(1613)年にはイギリス人も通商特許を与え、平戸にはイギリス商館も建てられます。けれども、のちに幕府のキリスト教排斥で、この平戸の商館とともに外国人墓地も破壊されたので、その際に三浦按針の埋葬地が分からなくなっていました。当時のヨーロッパで、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントの戦いのことなど、当時の日本人に、ましてや平戸の領民に知る由もありません。これは致し方ない処遇だったのかもしれません。

しかし、1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」という伝承のあった墓から、遺骨と遺品の一部が発掘されます。また、三浦家は通詞(つうじ)の末裔(まつえい)で、按針の墓を守りたい人によって、密かに遺骨の一部をもらいうけて、そこに埋葬したという口伝があったのです。

今年の夏に次のような記事が出ました。

平戸市 按針の子孫調査方針 英故郷に協力求め /長崎
毎日新聞2017年8月3日 地方版

 平戸市の黒田成彦市長は2日の定例記者会見で、徳川家康の外交顧問を務めた英国人航海士、ウィリアム・アダムス(三浦按針(あんじん))の没後400年の2020年を目標に、按針の子孫を捜す方針を明らかにした。市内の「伝三浦按針墓」から7月に見つかった人骨について、抽出するDNAを子孫と照合して按針の骨か確かめる。
市は来年度以降、関連予算を計上。按針が生まれた英国メドウェイ市や、按針が洗礼を受けた記録が残る教会に協力を求めるなどして子孫を捜す方針。黒田市長は「按針の骨か追究したい」と話した。
 按針は1564年、ジリンガム(現メドウェイ市)に生まれた。オランダ船で1600年に日本に漂着し、オランダ、英国商館の平戸設置に尽力。平戸滞在中の1620年に死亡したことは分かっているが、埋葬地は不明となっている。
 市は6月27日~7月24日、1931年に発掘された記録に基づき伝按針墓を再発掘。西洋系の特徴である長方形の墓坑(縦2メートル、横80センチ)と骨片約100個を見つけた。
 
【峰下喜之】〔長崎版〕
.
 
 のち、三浦按針は慶長十四(1609)年、この長崎の平戸「イギリス商館」の開設に関りました。
イギリスは、あのヨーロッパでの苛烈な宗教戦争とアジア貿易を巡る混乱を抜け出すために画策した日本への派遣が、ようやくこれでウィリアム・アダムス(三浦按針)によって、その国家の命(めい)が成就されたのではなかったかと思います。しかし、もうエリザベスは6年前に亡くなっていました。それは江戸幕府が成立した年、1603年のことでした。

ウィリアム・アダムスにとっては、その達成のため、ヨーロッパに残した妻と子2人との別れもありました。途中で弟もインディオに殺されています…

もちろん、イギリスはウィリアム・アダムスだけに日本とのアジア独占交易の命(めい)を託した訳ではないと思いますが、結果的に彼らの5隻の船団は、命からがらリーフデ号しか目的地の日本に辿りつけませんでした。
江戸の方へ回航後にリーフデ号も国へ帰ることが出来ずに沈んだと言われています。

そして、高速の通信手段がない17世紀では、アダムスの消息も完全に本国とは絶たれたのです

日本で家康に引見した時のアダムスの心理を推し量るに、もしもこの過酷な航海が国家を背負ったものであったなら、途中で多くの命が失われ、日本へ辿りつけなかった仲間たちのためにも必ず成果を残したい、そう思ったのではないでしょうか

これは裏返すと、一歩間違えば家康に思いが伝わらず、カトリックの宣教師が進言したように処刑される危険だって十分にあったのです。

結果として、将軍:家康からの破格の栄達を賜り、その後日本で家族を持ち、母国への思いを馳せながら日本人になっていったアダムスが、最後にやって来た地:長崎の平戸で何を思い、何を考えて生涯を閉じたのか…。

果たして、これほど将軍から絶大な信頼を得るに足るものとは一体何だったのか?


ボクはこの平戸を何度訪れたかわかりません。その度に、400年という果てしなく長い時を隔てて、アダムスがこの変ることのない美しい海から同じ夕日を眺めたんだと想像します。
平戸夕日
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

アダムスは落ちる夕陽の方角で、遥か西方にある故国イギリスに思いをはせていたかもしれません。

そうしてボクは、これからも年変わることのない平戸の海のほとりに立って、このどこかに今でも眠っているハズの彼の冥福を祈ります。

定説通りに偶然漂着しただけかもしれないウィリアム・アダムスであったとしても、彼が日本とイギリスの歴史的転換点の大きなファクターであることには誰もが、何の疑いもないでしょう。

たとえ計らずとも、日本はデ・リーフデ号の来航によって確実に歴史の潮流が変化したのです。大量の武器をもたらしたことで「関ヶ原の戦い」では徳川家康を天下人にしました。逆説的な言い方ですが、戦争によって戦乱の世が終わり、のちに265年続く太平の世が創出されたのです。それが日本にとって正しかったのか、悪だったのかは今のボクの価値観からはよくわかりません。

また、およそ40年後には、商業圏の覇権を巡りプロテスタントの友好国であった、このイギリスとオランダは4次に渡る大規模な戦争へと駆り立てられていきます。更に19世紀初頭には、ナポレオン・ボナパルトによってオランダがヨーロッパから無くなってしまう時も到来するのです。

見知らぬ遥か異国:日本へのウィリアム・アダムスの派遣がなければ、そしてその功績がなければ、のちに江戸の大繁栄を築いた貨幣経済の発展する契機すら失われたままだったかもしれません。

ウィリアム・アダムスがイギリスに残してきた二度と会うことのない妻子、そして我々日本人に遺したもの…

奇しくも彼が乗ってきた船名「Liefde(リーフデ)」は、オランダ語で「愛」というのです

william adams2

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 19 - 寄り道イギリス編(5) -

「関ヶ原の戦い」で徳川家康が石田三成を下し、天下を獲った年
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)
手が滑って変な画像が。気にしないで下さい。

西暦に換算すると、1600年10月21日。

つまり、この天下分け目の戦い半年ほど前、1600年4月29日にリーフデ号は「漂着」しているのです

ところで、関ヶ原の合戦は、武士が平原に出て大勢で切り合いをしているイメージですね。
関ヶ原の戦い1620頃狩野派

「関ヶ原合戦屏風」 狩野貞信 

しかし、実際の戦いは大規模な銃撃戦です
この天下分け目の関ヶ原の決戦は、東軍である徳川家康軍で、あのリーフデ号の大量の武器が使用されているのです。
 
戦いの経緯をざっと述べると・・・
徳川家康率いる東軍:75,000人 VS  石田三成率いる西軍82,000人
家康と三成

しかも東軍は(遅刻してきたので)良い陣形を敷くことが出来ませんでした _(:□ 」∠)_

しかし、そういった逆境をはねのけて、ただ後ろで陣取って動かないのではなく、果敢にも家康が自ら中央へ攻め込みます

これを見た、(予め黒田長政から説得されていたけど松尾山の上でヒヨっていた)西軍の小早川秀秋がよーやく三成を裏切る覚悟を決めて、味方に右サイドから襲い掛かります(「吉川家文書(きっかわけもんじょ)」にそう書かれてます)。家康様が自ら攻めてキター.゚+.(・∀・)゚+.てことで、東軍の士気もうなぎ上りです。(ホントは自分だけ弾をはじくアレ、着てるんですけどね)

これで総崩れとなった西軍は、当初3カ月くらいかかるだろと予想されてた戦闘が、わずか7時間であっという間に東軍に敗れ去りました。
(※かなり長期戦になると見越して、九州から漁夫の利を狙って、自ら天下人になろうと登って来てた黒田官兵衛は「ウソ―!orz」とコケましたが…息子:長政の余計な小早川への説得工作でジ・エンドです)

これが大戦になる事を見越して、家康は予め、元々敵方で豊臣方の子飼いであった、黒田長政、加藤義明(よしあきら)などをある方法を使って自軍に抱き込んでいました。

家康:「日頃頑張ってる君に良いものをやろう。ほらコレ。めっちゃイイでしょ。試したけど鉄砲に当たっても死なずにすむよ」

長政:「おおっ!!家康様、コレめっっっちゃイイすね!賢いウチの親父(官兵衛)と違ってオレ、猪突猛進(笑)とみんなに言われてるから、当たっても死なないのあればイイなぁて、こういうの探してたんすよ」

それが「南蛮胴具足・改」でした
南蛮胴具足 家康用

しかし、ウィリアム・アダムスからもらった西洋式甲冑を超・短期間でアップグレードし、来るべき三成との大決戦に備えて、家康はこの最新型甲冑(かっちゅう)をエサに根回しを徹底していったのです。(前回からの近未来への伏線2、帰結しました)

家康恐るべし…。

関ヶ原の戦いの勝利には、まだ様々な要因もありますが、オランダの話の中のイギリス編なんで(-_-;)
いずれ詳しく。

家康のことを褒めてばかりではつまらない科学でないから、ちょっとディスり、いや、相対化しときましょう。

1573年、徳川家康&織田信長軍と武田信玄軍が戦ったのが、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦いと言います。これに大惨敗を喫し、家康は浜松城に向かって命からがら逃げまくります。で…馬上で、恐怖過ぎて、「う○こ」もらしてしまいます。

大久保彦左衛門という家臣が、異臭、違った、異変に気付き、「…殿、まさか、ソレ?(-_-;)」とダイレクトで指摘すると、「ち、違うぞ。こ、こ、これはだな、焼き味噌だ!」と、言い訳をしたという記録があり、この時の臭態、違った(;・∀・)、醜態を今後の自分の教訓にしようという、わけわからない理由で、その時の自分の困った感と恐怖感の入り混じった情けない絵を描かせました。
それが↓
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)
着物の色が茶なのはカモフラージュです(推)

誰もネットに書き込んでないのでひとこと言わせてもらうと、乗ってた馬が一番の被害者でしょう。一応、動物愛護の観点から指摘しておきます。

余談ですが、この「う○こ」事件の前に、とある茶店であずき餅を食べてたところ、恐怖の武田方の追っ手が直前まで迫ってきました。ビビりまくった家康は金を支払わずに、慌てて逃げようとしたところ、店の主人に「ゴルァ!」と追いかけられて捕らえられ、金を払わされたという、殿にあるまじき失態もしでかしてます。
なかなか御茶目な生き様ですこと。

ところで。

「あれ?オランダ船が持って来たのに、なぜ『紅毛』胴具足でなく、『南蛮』胴具足なの??」と思った人もいることでしょう。
一般にはイギリス・オランダ人が「紅毛人」、スペイン・ポルトガル人が「南蛮人」でしたからね。

初めてこれがもたらされたのは、ちょっとだけ時間を遡(さかのぼ)ります。史料上では、ということになりますが、1588年にポルトガル領ゴアのインド総督より、豊臣秀吉への外交文書(妙法院所蔵)と一緒に贈呈されたとかいう、目録上の甲冑が初めだと言われています。しかし、あくまで目録上なんで実物は不明です。

その12年後に、ヨーロッパでスペイン(南蛮人)と宗教&独立戦争をガンガンやっている紅毛人のオランダ船がいわゆる「漂着」して持ち込まれたのです。
だから、先に南蛮人が似たような甲冑は既に持ってきてたんで、「南蛮」胴具足だということになってます。

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北海道未発見の時代の地図とウィリアム・アダムスが将軍に謁見するの図

アダムスの功績は間違いなく、この日本史の最も起点となった戦いで最大化されています

このアダムスが、ふらっと超険しいマゼラン海峡を通って太平洋を散歩してたら、嵐で遭難し、たまたま遥か日本に漂着していまいました(;´∀`)いやあ失敗失敗(照)。・・・って、誰が信じますかそんな話!

第一、南アメリカの最南端:マゼラン海峡はフィヨルドが発達していて、多島海が形成されてて複雑怪奇な海峡です。しかも、気候が寒過ぎで霧もよく出るから、航行には常に難破の危険が伴うという恐ろしい場所です。
magellan-course.jpg

①何らかの重要な使命を帯びているか、
②オレが初めてココ通ったるわ!という野心がないと命がけで行く意味がない海峡です。
昔マゼランが通ったんで、もう誰にとっても初めてではないですが。

リーフデ号ルート
リーフデ号のルートと目的(?)
引用:三浦按針の話《4》日本到着までの苦難の航海

ロンドンの大英図書館には、アダムスが本国へ送った11通の書簡が残されています。
そこに、アダムスが、あのイギリス東インド会社に送った書簡に次のようなものがあるのです

「20ポンドの金をイギリス東インド会社が、イギリスに残されたアダムスの妻:メアリに渡した」と。

これは今の価値に換算すると、およそ500万円に相当し、他にも計5000万円ほどが妻に渡っているのです
まさに東インド会社はエリザベスが設立した貿易会社です。だからこそ、この会社にはアフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る、全域での貿易独占権が付与されており、国家プロジェクトとして莫大な資金が投入されているのです。

一個人に支払うことが可能な金額としては、私的には結構な額ですが、国家が絡んでいるなら楽勝だと思われます。しかもウィリアム本人でなく、妻に渡っているし、この額ですからちゃんとした契約がなされたものであると推測されます
単なる私的な口約束であったなら、妻にまでこれほどの金が渡ることはないのでは?

また、ウィリアム・アダムス自身、王の使命を帯びた重要な任務だと認識していたからこそ、妻子も顧みず、栄達や名誉のためにも命がけで航海へ出かけたのではないでしょうか
こうした状況から推測すると、この金は、妻と二人の子供たちを抱えたアダムスが、イギリスの国家の威信をかけた、初めてで、かつ危険なアジア貿易開発プロジェクトに対する報酬であると同時に、万一自分が帰国できない際に支払われる、ある種の「遺族年金」もしくは「生命保険」に近いものだったのではないでしょうか?

もちろんこの時代には、まだちゃんとした保険制度が確立していなかったので、推測の域を出ませんが…。

妻が国の東インド会社を通じてこの大金を得た理由、ボクはこう推測してます。(伏線1帰結しました)

・・・・しかし、彼はこの書簡の中で、ハッキリとこう書いています。

「我々は日本を目指した」と。

次回、この寄り道イギリス編は最終回です。

お楽しみに~!


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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -
「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -

ウィリアム・アダムスはオランダのロッテルダムから東アジアへ向けての航海士として(誰かから)雇われています
そして、弟トマスと共に、5隻の船団でアジアへ向けて出港しました。

リーフデ号2
デ・リーフデ号と仲間たち
ちなみに、リーフデ号はこの船団の右下です。
ホープ号を旗艦として、リーフデ号・ヘローフ号・トラウ号・フライデ・ボートスハップ号の5隻です。しかし、この中でロッテルダムに帰還できたのは、太平洋にも到達できなかったヘローフ号だけでした。

この時、アダムスには妻とまだ小さな二人の子供がいましたが、この遠くてとても危険なアジア行を、なぜか優先させています(伏線1)。

詳細は以前書いたので避けますが、日本でのいわゆる「リーフデ号事件」で、あれほどイエズス会士が、「こいつらは我々の敵:プロテスタント国の船だから、乗組員をぶっ殺せ!」と家康に進言したにもかかわらず、逆にこの得体のしれないプロテスタントの紅毛人を重用したというのは、やはり不可思議です。

アダムスの技術供与などもあったでしょうが、のちに250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許し、更には相模国逸見に采地も与えています。
どう考えても家康の気持ちが測りかねるというか・・・
定説に縛られず、より論理性の強い理由が必要であろうと思います

一体、リーフデ号1隻に何が積まれていたのでしょうか?

その時調べられた「積荷目録」をざっと見ておきましょう。

◆毛織物
◆ガラス玉少々
◆青銅の大型大砲19門
◆小型大砲数門
◆銃500挺
◆鉄製砲弾5000発
◆鏈弾300発
◆火薬2500㎏

◆鋼鉄製の胴と胸当て…などなど。

コレ、国立国会図書館にある、リーフデ号を調べた、オランダやイギリスの敵国のカトリック宣教師が書いた記録です。

「こいつら…日本を征服して、ここに住み着くつもりかっ?」とも。

これが、予め戦乱の世:日本の情報を得ていたエリザベス1世からの交易品、もしくは今後イギリスが貿易独占をするためのお試しプレゼントだったとすれば、そして、アダムスがこれらを無償で提供して大喜びされたとすれば、ある重要な意味を持ってきます

家康は大坂城にいたのですが、情報を得た後すぐに行って積荷を調べてくるよう命じます。
この時の積荷で、特に家康の目を惹いたのが、この「鋼鉄製の胴と胸当て」だったのです

ここでデ・リーフデ号がいわゆる「漂着」した日を西暦で確認しましょう。

1600年4月29日

ん? 1600年?・・・・・・・・・







まぁ、この頃までには殺傷能力の高い様々な種類の銃が使われていたのです。だから、銃弾に対する防備は生死に関わるので常に重要です。ただ、従来の日本の甲冑は機動力は高いですが、防弾を防ぐことがあまりできませんでした

直江兼続の甲冑
直江兼続 愛の甲冑

これに対し、西洋の騎士が身に着けている甲冑はどうでしょう。

全身を覆うプレートアーマー 1540年
プレートアーマー 1540年

日本の地形は複雑なので戦場では、より機能性の高さが求められますが、西洋の甲冑は丈夫だけど逆に重すぎて動けません。重量は高度な軽量化技術を使ったものでも最低20kg、重いものでは40kg以上あったらしいです。しかも超ムレますΣ(゚д゚|||)

日本人はここでもアイデアを炸裂させてます

この二つの利点を兼ね備えた甲冑を即座に開発しているのです。

それが、家康専用「南蛮胴具足」↓
南蛮胴具足 家康用
引用:和歌山市の文化財・遺跡 南蛮胴具足(徳川家康所用)

この合戦の様子を記した「関ヶ原御一戦記」という書物があります。
ここに、家康が「南蛮甲冑を着けて出陣した」という文が出てきます。この時の甲冑が和歌山県立博物館に残されているものです。

しかも、よく見ると分かりますが、弾痕が10か所あります。これは強度を測るための試し撃ちの跡だと言われています。家康の慎重な性格がよくわかりますね。鳴くまで待とう、なんとやら。
更に、鉄製の特殊なヘルメットで頭も守る。

つまりコレ、日本にかつてなかった「防弾チョッキ」の役割を果たすものなのです。そして、胴の中央とヘルメットは「しのぎ」と呼ばれる凸構造になっていて、これが物理的に弾丸を外方向へそらすように工夫が施されています

この甲冑の存在は一部の人間を除いて、そのすぐ後の戦いまで秘蔵されていますけどね…一部を除いては(近未来への伏線2.)。

つくづくと、日本人の高度なモノづくりへの飽くなき魂は、このような所でも感じられます

これがウィリアム・アダムスの重用とどうかかわってゆくのか。

そして、イギリスとは?オランダとは?

それは次回、お楽しみに~!

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