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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鍋島直正(3) -経済の真義-

いっやー、気がつけば明日で5月も終了ですね:(;゙゚'ω゚'):
結局今月は佐賀や鹿児島に調査で行けず、アマゾンの大河より日々流れてきた書物に埋もれて生活してました。

さて、今回は鍋島直正公の初期の改革です。では、行ってみましょう!


鍋島直正公は、「肥前の賢公」と呼ばれています。

なぜ「賢公」に成りえたのでしょうか?藩主になったからといって、いきなり素晴らしい能力を発揮できるはずがありません。若い頃に十分な学習を行い、そして何よりも良い師に恵まれたことが大きかったと思われます。
その師の名を「古賀穀堂(こくどう)」と言います。
古賀穀堂
古賀穀堂

1781(天明元)年、佐賀藩第八代藩主鍋島治茂(はるしげ)が、「寛政の三学者」の一人で、あの昌平坂学問所の教官でもあった儒学者の古賀精里(せいり)に命じて、弘道館(こうどうかん)という藩校を作りました。弘道館は現在の県立佐賀西高等学校などの前身となっています。その子が古賀穀堂で、彼が第九代佐賀藩主鍋島斉直(なりなお:直正の父)に提出した意見書があります。これは江戸時代の教育論として今でも大変評価されているものです。

その中身では「教育予算は削ってはならず、むしろ三倍に増やさなければならない」と言うのです。前述した通り(※鍋島直正(2) -誕生-)、藩の財政は逼迫(ひっぱく)していたにもかかわらず、それでも藩の発展のためには教育が重要であることを訴えています。また、学問に励まない藩士や僧侶に対する処罰や、儒学以外にも医学、長崎警備のためにも蘭学を習得すべきであるということも主張しました。この優れた知見による意見書を「学政管見(がくせいかんけん)」と言います。
学政管見
「学政管見」古賀穀堂

このような素晴らしい師の下で若い頃に学んだのが直正公だったのです。

逼迫(ひっぱく)する藩を立て直すべく、直正公は経済政策を画策します。藩の財政のほとんどが大坂の商人達からの借銀だったので、この借銀をまず減らし年貢収入で賄(まかな)えるようにと誰に対しても一律質素倹約を命じます。自らも質素な食事や衣服を徹底し、藩を復興させるべく奔走したのです。

ただ、既得権益にまみれた古参の臣下の中には、若い直正公の改革に反対する者も多数いて、直正公が想定するほどの成果が見られませんでした。

この臣下等の体たらくを、当時、今度は直正公の側近としても活躍していた古賀穀堂は嘆き、1831(天保二)年に、直正公に意見書である「済急封事(さいきゅうふうじ)」を提出します。「皆、向学心がなく、直正公の先見性を理解できていない。これは由々しき問題である」というのです。

ところが、佐賀藩に一大事件が起こります。1834(天保五)年の佐賀城二の丸の火災です。
現在の佐賀城本丸
現在の佐賀城本丸

逼迫した財政再建を懸命に行ってきた直正公だけでなく、焼け落ちた城を前にして臣下の間にも絶望感が広がりました。

しかし、直正公はこの火災で全てを失ったことを、古い物は捨て去れという「天啓」だと捉えます。

そして、これをきっかけにして、腐敗役人の三分の一を解雇、その代わりに身分を問わず才能や学識がある人間をどんどん登用するという、斬新な改革を打ち出していくのです。

まず、直接藩の収入に関連する改革は農業からでした。嫌がる地主たちの反対を押し切って農政改革を行い、小作料の支払いを猶予したことで、農民たちの就労意欲が向上し、結果的に農村は収穫が安定していきます。元々佐賀平野は米作りに適した良い土地であることも相まって、財政収入も次第に立て直すことに成功します。

更に、佐賀城の行政組織も、城を再建する際に直正公が直接指揮できるように、行政機関の一元化を図って迅速な対応が出来るように変えていきます。これには直正公が臣下とのコミュニケーションを身分の上下を問わず、密にとれるようにと考えたものでした。

大坂商人達からの借銀も、分割期間を延ばしてもらったり、交渉してかなり削ってもらったり、無くしてもらったりなどして、軽くなっていきました。そんな直正公の力量を大坂商人たちは認めて、「そろばん大名」という異名をつけたほどです。

このように、直正公は自らの指導力をもって、瞬く間に改革が成功していきました。

これが「佐賀藩の天保改革」です。

直正公に現代のボクらが教わることは、学問の「正しい」使い方とその有効性ではないでしょうか?

逼迫(ひっぱく)した佐賀藩の現状をまず十分に把握し、一つひとつの課題に対して感覚的に対処するのでなく、各問題に即した現実的で適切な処置を施していきました。こういうやり方を「課題分割」と言いますが、この改革だけ取り出してみても直正公は、学識に優れた大変素晴らしい藩主であることが分かります。学問による思考の裏付けがないと、このようなことは出来るはずがないからです。

幼い頃に古賀穀堂という優れた師と出会えたことも幸運だったでしょう。そして、師の教えをしっかりと血肉に換えて、超マイナス状況の藩の財政を立て直し、民の生活を豊かにしました。そもそも経済とは「経世済民(けいせいさいみん)」が本来の語義です。つまり、

「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」というものです。直正公は培った学問によって、この「経済」を実践したのです。

まさに賢公です。
鍋島直正

次回は、藩の財政を立て直した次に、直正公が行った偉大な功績の数々について書きます。お楽しみにー!


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鍋島直正(1)
鍋島直正(2) -誕生-

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鍋島直正(2) -誕生-

今回より、鍋島直正公の具体的な足跡を追っていきます。ボクがこれほどまで直正公のことを尊敬する理由を、存分に分かっていただけたらイイなと思っています。
出来るだけ分かりやすい表現で、ここから学び取れることをこの大事な伝記を書き進めて行きますので、ヨロシクお付き合いください!

文化十一(1814)年十二月七日、斉直の子として江戸の桜田屋敷で誕生しました。
山下御門之内 歌川広重
佐賀藩鍋島家上屋敷「山下御門之内」 歌川広重筆

幼名は、貞丸(さだまる)から、文政二年には直謀(なおかず)、同五年に直正、文政十年には第十一代将軍の徳川家斉の「斉」を拝領し、斉正(なりまさ)と称しました。文久元(1861)年に隠居して閑叟(かんそう)となり、明治元年三月十四日には再び直正に戻りました。いやぁ~すごい変遷ですよね?:(;゙゚'ω゚'):

直正が誕生した年である1814年は、ヨーロッパでちょうど皇帝ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島へ流される前年です。

そして、直正が第十代藩主になったのが1830年のことで、まだ17歳でした。佐賀入国のために江戸の佐賀藩邸を出立し、江戸品川宿で休憩をしていましたが、直正は食事中にも関わらず、藩主となる佐賀の実情を表した資料を読んでいたと言います。

というのも、これから藩主となる佐賀藩は超財政難に苦しんでいたからです。確かにこの時期は全国的に財政が苦しくなっていたのですが、佐賀藩は中でも大坂(おおざか)の商人らなどへ莫大な借金を抱えていました。具体的には、1807年の時点で、大坂への負債額が銀千貫と米筈(こめはず:藩札の一種)八千石であったのが、七年後の負債額は銀三万一千貫、米筈三十万石となり、実に三十倍以上に増加しました。

また不運なことに、1828年には台風の被害によって、米がとれずに更に経済が逼迫(ひっぱく)していました。

ちなみに、銀の価値は江戸時代も時期によって変動しますので正確には言えないのですが、銀1貫は現代で約1,250,000円ほどです。したがって、直正公が生まれた頃の負債額は、銀三万一千貫なので、387億5千万円。加えて、一石がおよそ今の10万円ほどでしたから、300億円。これらを足すと、687億5千万円の借金(※額にはレートが絡みますので諸説あります)、ということになってしまいます。これに台風の被害が加わったのです。

こうした状況を詳細に把握し、若い直正公は一刻も早く良い国づくりに励まねばならないと考えていたのでした。

ただ、佐賀へ出立前の品川宿での家臣らの様子がおかしいのです。

夕刻になってもまるで佐賀へ向けて宿を出る気配がありません・・・

さすがに隠せなかった家臣が直正公に告げたことに、江戸藩邸には借金返済を迫る商人たちが押しかけており、佐賀へ随行予定だった藩士たちが外へ出られなくなっている、というのです。これは売掛金を支払っていない家臣たちが引き止められているからという理由でしたが、逼迫(ひっぱぅ)した財政下にある状況では金がなく、家臣たちに支給する分もなかったのです。なかなかこの取り立て騒動は収まらなかったものの、夜になってようやく収まったので、直正公の出立は夜に入ってからという、大変屈辱的な出だしとなってしまいました。

直正公の胸には、自分の予想を超えた財政難を抱える佐賀藩の実態を目の当たりにした、この日の出来事が深く刻まれたのです。

直正公は佐賀へ到着するとすぐ、「長崎警備」の実情を知るために出発します。天領である長崎では、幕府から「長崎警備」という役を佐賀藩と福岡藩が一年おきに任せられており、日本で唯一の国際港であって、西洋のオランダ船が行き来する港が長崎だったので、大変重要な役目でした。そして、この長崎訪問も、直正公にとっては一大転機となりました。長崎港へ投錨中のオランダ商船を初めて見て衝撃を受けるのです。

直正公には、自分が生まれる前に起こった出来事として聞かされていた、フェートン号事件(1808年)のことが頭をよぎったと言います。
フェートン号
イギリス船:フェートン号

この事件はイギリスによる、初の日本への侵略と言っても良いでしょう。オランダ船に扮したフェートン号が長崎港へ不法に侵入し、勘違いしたオランダ商館員二名を拉致し、解放と引き換えに薪(まき)と水と食料を強奪して立ち去った出来事でした。この事件の際に、長崎警備の役を担っていたのが佐賀藩だったのですが、直正公の父の斉直(なりなお)公は幕府より逼塞(ひっそく:城門を閉ざし、昼間の出入りを禁じられた)の重い処分を受け、長崎奉行の松平康英(やすひで)図書頭(ずしょのかみ)は責任をとって自ら切腹しました。
康平社 諏訪神社境内
康平社 諏訪神社境内

佐賀藩はただでさえ財政難を抱えていたので、平和なのに金がかかる長崎警備の人数を大幅に減らしていたという不運も重なったのです。佐賀藩は当然のごとく、また警備費を大量に投下しなければならなくなりました。これも佐賀藩の財政悪化の一因となったものです。

余談ですが、このフェートン号事件後、イギリスの研究が始まりますが、言語の理解がそこには必要です。これで、日本で初めての英和辞典が作られました。その辞書は、当時の阿蘭陀通詞であった本木正栄(まさひで)が、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ、ヤン・コック・ブロンホフらの協力によって完成しました。その辞書の名を「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」と言います。1814年に完成したので、ちょうど直正公が生まれた年です。こうして、英語教育は長崎から始まったのです。
諳厄利亜語林大成 dejima
諳厄利亜語林大成  出島展示 複製本

ドゥーフやブロンホフら、オランダの話はまた違った所で詳しく書きます!

さて、オランダ船を初めて直正公ですが、当時の日本の船と比較してオランダ船の大きさとテクノロジーに魅了されます。あろうことか、家臣が止めることも聞かずに、直正公自らオランダ船に乗り込みたいと言うのです。直接見聞することの大事さを直正公は理解していました。初めて間近に見た大砲と日本の防衛のために置かれた大砲との差が歴然としていたことにゾッとし、この時フェートン号事件のことが頭をよぎったのです。

つまりは、初めて西洋のテクノロジーを目の当たりにし、比較して、改めて日本の国家防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを知ったということです。

家康公以来200年もの間、海に囲まれた日本は偶然にもほぼ軍事侵攻を受けることなく、平和を享受(きょうじゅ)していました。だからある意味長崎警備も手薄で良かったし、オランダから世界の情報が入って来ていたので心配していませんでした。この情報を阿蘭陀通詞が翻訳して、まとめたものを「阿蘭陀風説書(おらんだふうせつがき)」と言い、必ず幕府に提出されていました。
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵

しかし、西洋の航海技術の進歩と後の蒸気船の実用化によって、そして、世界は白人たちによる植民地獲得争奪戦、帝国主義時代へと傾いていく危険な流れに対して、日本は一気に弱小さを露呈したのです。

この長崎視察によって、直正公は佐賀藩の財政難克服と同時に、自らがなすべきことを確信しました。それが、オランダから先端テクノロジーを導入して発展させることで、長崎警備のみならず、ひしひしと迫りくる西洋列強へ対抗できる力と知恵をつけることでした。

ここから直正公の偉大な歴史が幕を開けるのです。

「学ぶ」、というのはどういうことか?

次回もお楽しみにー!



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■鍋島直正(1

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鍋島直正(1)

日本の近代化・産業革命はどこから始まったのでしょうか?

今の大河ドラマ「西郷どん」を見ている人は、おそらく「薩摩」と答えるのではないでしょうか?

その大河ドラマ「西郷どん」で渡辺謙さん演じる薩摩の賢公:島津斉彬がついに没しました。日本の将来を憂い、命を賭して藩主自ら近代化を進めている姿には感動すら覚えますよね。なかなかイケメンな殿様として描かれていました。

島津斉彬 1857年撮影、尚古集成館蔵 

島津斉彬 1857年撮影、尚古集成館蔵

ちなみに、斉彬が死ぬ間際に、西郷さんの発案によって薩摩が攻撃をしかけるという設定になっていましたが、もちろんフィクションです。

さて、あのドラマではサッパリ出てきませんが、島津斉彬と非常に密接な結びつきのある殿様がいます。このブログでは要所で少しずつ登場している肥前の賢公と呼ばれる鍋島直正(なべしまなおまさ)です。

どーん
鍋島直正


ほんとこの写真、堂々としてイイですよね。日本の殿様は西洋と違って、折り目正しく正座して写っているのが素晴らしい。

この二人の母親が鳥取藩藩主:池田治道(はるみち)の娘で、直正と斉彬はいとこ同士です。江戸での佐賀藩と薩摩藩邸が近かったので、斉彬が直正を訪ね、二人は直正の娘について縁談の相談をしていたといいます。当時、共に「蘭癖(らんぺき)」と言われてましたが、こうした交流の中で若い彼ら二人が、将来の異国への対応を話し合っていた姿が目に浮かびます。

ただ、歴史には様々な切り口があるとはいえ、その功績や人物像などを客観的に判断すると、島津斉彬より鍋島直正の方が勝っているとボクは考えています。

日本の科学・化学・医学の本質的な発展である産業革命は、まさしく鍋島直正から始まっているからです。

その偉大な例をいくつか挙げてみましょう。

■1849年:日本初の種痘を実施し、全国への種痘普及起点となる。
■1850年6月:日本初の反射炉築造である「築地反射炉(ついじはんしゃろ)」を設置。
■1852年:最先端の理化学研究施設にあたる「精煉方(せいれんかた)」を日本で初めて設置し、天才・佐野常民(さのつねたみ)らと藩外の有能な科学者らで科学を推進させる。
■1852年5月:日本初の鉄製大砲の鋳造に成功。
※ペリーが来航した際に国内で鉄製大砲を製造できたのは佐賀藩のみ。
■1853年:長崎にロシア艦隊が、予め設置していた本格的な砲台である四郎ヶ島砲台に脅威を抱く。
■1855~59年:幕府の発注で品川の台場に鉄製大砲を設置。今の「お台場」はここから始まる。
■1856年:家臣・島義勇(しまよしたけ)に北海道の探索調査し、後の札幌都市計画の基礎を形成した。
■1858年:「御船手稽古所(おふなてけいこしょ)」=現世界遺産「三重津海軍所」設置。
■1865年:「三重津海軍所」において日本初の実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」完成。
■1867年:パリ万国博覧会へ初の日本代表として正式参加。佐野常民らを派遣する。
■1868年5月:上野戦争で幕末最強の軍事力を駆使して犠牲者があまり出ないように戦闘を早期に終了させる。

研究の場に率先して赴き、学習し、時には自ら長崎でオランダ軍艦へ乗船して船長に教えを請う。また、低い身分の家臣たちとも積極的に意見交換を行って、激励しています。

薩摩の島津斉彬は、佐賀のこうした科学技術の発展を目にして、次のようなことを言っています。

「西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズ倍々(ますます)研究スベシ」

同じ人間なのだから、お前たちも出来ないことはない、と家臣を叱咤激励しているのです。ま、結局出来なかったので佐賀に助けてもらっているんですけどね(;・∀・)

次回より、具体的に鍋島直正の魅力を書いていこうと思っています。

お楽しみに~!


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