CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

日露戦争(3) -佐世保の海を眺めて思うこと-

昨日は天気にも恵まれて、久々バイクで高速に乗って遠出してきました。日頃高速で乗り回すことがないので、即チェーンが伸びてしまい、明日メンテです(T_T)

5月27日

この日は、日本の存亡をかけた日、ロシアとの日本海海戦の日です。佐世保の天神山の山頂近くの高台にある東公園では、ちょうど式典の準備をされている最中にお邪魔しました。

佐世保 東公園
東公園 (佐世保市)

東公園拝殿

東郷平八郎提督もここに立って見守っていらっしゃいます。

東公園 東郷平八郎提督像

この東公園は旧海軍墓地で、「佐世保鎮守府」の開設から、太平洋戦争終結までの戦死・殉職された176,000柱の大日本帝国海軍など、軍人・軍属の英霊が祀られています。ボクの祖父は「硫黄島の戦い」に出陣して、三人の幼子を残したまま帰って来ませんでした。きっとここにはその魂が安置されていると思い、日本のために戦っていただいた英霊の皆様と共に丁重にお参りを捧げてきました。

旗艦「三笠」で東郷平八郎提督ら日本海軍は、この長崎の佐世保から出陣していきました。
開戦前の1889年には第7代の佐世保鎮守府司令長官が東郷さんでした。

「佐世保鎮守府」は平成28年に「日本遺産」に登録されています。

佐世保鎮守府

そもそも「鎮守府」とは、かつて日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関でした。なぜ佐世保に鎮守府が置かれたか?なのですが、佐世保は大小さまざまな島が点在する軍事的には攻められにくい良港である上に、土地が安かったという理由で佐世保村に軍港を開き、この鎮守府を置くことが決定します。そして、1889(明治二十二)年7月1日、正式に「佐世保鎮守府」が開庁したのです。ちょうど東郷さんが7代の司令長官だった年で、大日本帝国憲法が発布された年でもあります。

この東公園にとある碑があるので、ご紹介します。

小笠原海軍機関曹長碑

まだ23歳だった、小笠原年夫 海軍機関兵曹長の妻への手紙です。その全文を原文のまま紹介します。

遺書
妻 静子に
好伴侶を得た己れは実に幸福たった
夫としての愛情は何人にも負けないで来たが将来を唯一の希望に心と心とで結ばれた結婚生活をいかに有難く感謝してゐる
何かにつけてよく仕へてくれたお前に感謝
この心で一杯だ 有難う
皇国の礎となるに及びてお前に若し一子ありとせば我が小笠原家の後継者として大事に大事に強く正しく養育し 祖先に勝る後継者としてくれる様に 即ち男子なれば軍人として女子なればよき配偶者を見つけて全からしむべし 
家門の名誉を担ふ己れなれば妻は其の分身なり
決して見苦しく人様に笑はれる様な事の無き様 子供の授からざりし場合は「己の真の心のままに行動すべし」斯く書けばお前には充分におわかりの事とおもふ
この真の愛情だと聞いて貰ひ度い 
では之にて


23歳にして、何と立派な、そして尊い文章なのかと思います。

現代に生きる自分と、幕末から昭和の初めまでに生きた人たちと比べて、ボクは20年前に決定的に違うことに気づきました。

自分は何のために学んでいるのか?という点です。

この目的に大きな隔たりがあることに気づいた時、これまでの学習とは一体何だったのだろうかと気落ちさせられたほどでした。
ボクは塾の講師なので、生徒たちに勉強のやり方や大学受験に上手く合格するにはどうすれば良いかを分かりやすく伝えることに苦心してきました。自分が教えてもらった先生たちも、同様だったでしょう。

ここに決定的な乖離(かいり)があります。

「良い大学に受かるため」、「良い就職が出来るため」、「将来経済的に豊かになるため」
今ほとんどの子供たちはこのように応えるでしょう。もちろん、自分だってそうでした。

しかし、これらは個人主義的な願望ですよね。日本史や世界史を学んでも、受験で良い点数をとるという目的が先んじて、歴史上の事例や人物から教訓を得ようという目的は非常に軽んじられているように思えます。

今引用した小笠原機関兵曹長は、ちょうど今でいえば大学を卒業するくらいの歳に英霊となられました。
これを拝読すれば、今の大学生とは人としての精神性の熟度に大きな開きがあることは誰だって気づくはずです。

時代が違うから、と一言で簡単に片づけて良いとはボクには思えません。
いつの時代も個人が社会を構成して、国も成り立っています。ここに社会や国のために学ぶ、という目的がないまま、単に学問を上手にやれるだけのエリートとなって東●大学法学部に入り、そのまま卒業して上級官僚になるから、昨今の官僚腐敗や社会問題はいつまでたってもなくならないのです。

「国のため、民のため」という言葉、西郷隆盛や勝海舟らの書物で何度見たことでしょうか。

一体、あなたは何のために歴史を学んでいますか?

この問いに、今のこどもが自分なりに学んで公民としての答えを導き出せる、ちゃんとした教育が出来るよう、日々ボクらも学ぶ必要があるのです。

東公園 (佐世保市)


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日露戦争(1) -必ず知っておきたい日本の誇り-
日露戦争(2) -100年の機密-

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日露戦争(2) -100年の機密-

シンガポールでの米朝首脳会談予定が破局に終わり、トランプ大統領から金正恩チェアマンへの手紙が公開されていたので読みましたが、なかなかの面白さでした。
後半をごく一部超訳すると、「いやあ、今回残念だったけど、君とはいつか会えるのを楽しみにしてるよ。で、君らが拉致ってたアメリカ人を解放してくれて、ほんとサンキュー。気が変わったらオレに電話か手紙くれよな」でした。
英語読める人はどうぞ↓
トランプ大統領書簡

トランプ大統領のことをさんざんディスりまくっている日本のオールド・メディアやテレビの言論人などが、「どうせノーベル平和賞をトランプはもらいたいんだろ?」と言っておりましたが、ハイ残念、お疲れ様でした。一方で、トランプ大統領の当選前から科学分析的にトランプ大統領の正当性をおっしゃっている藤井厳喜先生や青山繁晴参議院議員などは、北朝鮮は絶対に核を放棄するはずがないと明言されていていました。どこぞの大統領と違って、トランプ大統領はノーベル平和賞などに目がくらんでいないこともよくわかりましたね。

ただ、年老いていく拉致被害者のご家族にとっての落胆は激しいものであることも推察されます。本当に今回は安倍首相との事前の十分な用意があったのに、と思えば・・・次の機会は果たして本当に訪れるのだろうかと暗澹たる気持ちになってしまいます。

この北の独裁者は、自分の実の兄を毒殺し、義理の叔父さんを対空機関銃(飛行機を打ち落とすやつ)で粉々にして、その肉片を火炎放射器で炭化させている人間です。これまでに100名以上の側近などが粛清されています。

そんな人間を、「血の通った人間なんだっていう、すごく好印象」と言い放ったフ●テレビのアナウンサー、安藤●子のことをぜひご記憶下さい。拉致被害者のご家族の方々はどのような思いでこれを聞かれたことでしょうか…

さて、本題に入りましょう。

前回書きましたが、バルチック艦隊は7カ月もの極東へ向けての地球をほぼ一周するよう航海してくるので、それだけでも海兵隊員らはかなり疲弊していました。更に、1902年に締結された日英同盟がうまく機能しました。バルチック艦隊の第2太平洋艦隊が、バルト海のリバウ軍港を出航し、10月21日深夜、北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまうという、「ドッガーバンク事件」が発生し、イギリスの世論は一斉に反ロ親日になっていきます。これでイギリスは自国の植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否したり、スエズ運河通行を邪魔したり、蒸気船の燃料となるまともな石炭を売らなかったりと、至る所で邪魔をしまくりました。

こうした理由もあって、極東に到達した時にはバルチック艦隊の第2、第3太平洋艦隊はかなり疲弊していたのです。しかし、この艦隊が朝鮮半島から北東方面にあるウラジオへ行って、そこに駐留している味方艦隊と合流して態勢を立て直されてしまうと、やはり物量にかなりの劣りがある日本は苦境に立たされます。

果たしてバルチック艦隊は対馬海峡を通ってウラジオまでダイレクトで行くルートをとるのか、日本列島の東側を回って太平洋を北上して回り道をして行くルートをとるのか、この情報を得ることが日本の命運を握っていました。


バルチック艦隊ルート
バルチック艦隊の予想された3つのルート

もちろん、現在のようにレーダーがない時代、敵艦発見は容易でなく、蒸気船の煙や光を広大な海の中で、目視で確認するしか方法がないのです。

日本海海戦の前日である5月26日深夜0時過ぎ、バルチック艦隊に随行し、その燃料を運んでいる石炭運搬船6隻が、上海に25日の夕方に入港したという情報をようやく得ます。ロシアがこの運搬船を艦隊から離脱させたのは、航行距離が長くなる太平洋ルートを通らないことを意味するので、この情報は日本にとって大変重要な情報でした。そして艦隊を発見したのは「信濃丸」でした。午前4時50分に「203地点で敵艦発見」と打電します。


信濃丸
偽装巡洋艦「信濃丸」

次いで、5時35分、聯合艦隊には「直ちに出港用意」が 通達され、6時6分、ついに東郷平八郎提督の旗艦「三笠」をはじめとする聯合艦隊が出撃します。

呉に入港した三笠、1905年2月
呉に入港した戦艦「三笠」1905年2月
<DATA>
■建造所:ヴィッカース社(イギリス) バロー=イン=ファーネス造船所
■級名:敷島型(四番艦)
■発注:1898年9月26日 起工:1899年1月24日
 進水:1900年11月8日 就役:1902年3月1日
■除籍:1923年9月20日
■排水量:15,140トン(常備) 全長:31.7m 最大幅:23.2m 吃水:8.3m
■機関:15,000馬力 最大速力:18ノット 
■乗員:860名
■主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門 副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
 対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門 47ミリ単装砲16基
 魚雷発射管 45センチ発射管4門
■装甲 KC装甲鋼板(クルップ鋼) 舷側:9インチ(229mm) 甲板:3インチ(76mm)

そして、6時21分。この時大本営に向けた、あの有名な打電がなされます。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

いよいよ最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊との激戦が幕を開けるのです。


と、ここで、日本海海戦へと入って行く前に、10年ほど前新事実が判明しました。実はこの海戦のさ中、日本の艦隊には、ヨーロッパなどからの「観戦武官」派遣の申し入れがあり、イギリス、アメリカ、ドイツ、ブラジル、アルゼンチン、オスマン帝国など13の国々から70人以上の武官が各艦に乗船していました。

そして、100年もの間、アルゼンチン国外へは機密資料だったアルゼンチンの観戦武官による文書が公開されたのです。その武官の名はマヌエル・ドメック・ガルシア。この後にアルゼンチンの海軍トップになる、いわばエリート軍人による記録です。

マヌエル・ドメック・ガルシア
マヌエル・ドメック・ガルシア

彼は、砲弾を受けた際の炎と血まみれの軍艦上にあって、客観的、かつ詳細に日本海海戦を分析しました。この文書によって、戦闘の全貌がより明らかとなってきました。「日露戦争観戦武官の記録」 全五巻 約1400ページにもわたる詳細な記録です。戦闘現場からの報告、作戦の分析、日本海軍の戦略、当時の日本国民がロシア帝国のことをどう思っていたか、また、どのようにしてロシアとのこの戦争に挑んでいったのかが記録されています。


アルゼンチン観戦武官の記録―日本海海戦
アルゼンチン観戦武官の記録―日本海海戦

世界最強の艦隊と呼ばれていたバルチック艦隊に対し、物量で劣る日本聯合艦隊が綿密な知略と情熱によって圧倒的に撃破した戦いの様子が克明に分かります。

この時、マヌエル・ドメック・ガルシアは1904年に来日し、観戦武官として装甲巡洋艦「日進」に乗船しました。

装甲巡洋艦「日進」 マルタ島
装甲巡洋艦「日進」 マルタ島にて

なぜアルゼンチンの軍事であるガルシアが日本の軍艦にいたのか?それには理由がありました。当時、イタリアのジェノヴァにアルゼンチンは軍艦を2隻発注していました。1904年1月7日、ジェノヴァの造船所でこの2隻を日本が買い取る交渉が行われていました。アルゼンチンが隣国のチリとの国境紛争に備えていたにもかかわらず、この軍艦の完成前にチリとの紛争が解決したのです。そこで、この2隻がもはや不要になってしまったので、日本海軍への導入を働き掛けることになったのでした。

この時、日本聯合艦隊は戦艦6隻など(軍艦23.3万t)、ロシアの極東における太平洋艦隊は戦艦7隻など(軍艦19.1万t)で、ロシアは極東の艦隊だけで、日本とほぼ互角の戦力を持っていました。ここにロシアはヨーロッパ側の戦艦が加わると戦艦26隻など(軍艦51万t)となって、圧倒的な差が生じてしまうので、日本は是が非でもこのアルゼンチンが発注していた2隻を手に入れようとしていたということです。これらの名が「日進」「春日」で、当時の最新技術を導入して作られていた速力のある装甲巡洋艦です。この譲渡契約にアルゼンチン側から派遣されていた建造指揮官がガルシアで、自らが建造に立ち会ったことから日本への観戦武官として行くことになったのです。

この2隻の引き渡しが行われた頃には、日本はロシアとの外交交渉は破局寸前だったので、日本の海軍本部から、一刻も早くこの2隻を日本へ向わせるようにとの催促の電報が入って来ていました。その進展をけん制するかのように、ジェノヴァの造船所の沖で「日進」「春日」の動向を見ていた船がいました。ロシアの戦艦「オスラービア」です。

1903年にビゼルトで撮影されたオスリャービャ
1903年にビゼルトで撮影された戦艦「オスリャービャ」

日進と春日が日本へ向けて出港する際に、このオスラービアが日進と春日の前を遮るように横切る、という一触即発の挑発行動をとったのです。

日本海海戦で重要な役割を演じるので、次回のためにもこの2隻の姉妹館の名「日進」「春日」と、ロシアの戦艦オスリャービャ」をぜひ覚えておいてください。

日本海海戦記念日である次の日曜日は、東郷平八郎提督が司令長官を務めた鎮守府があり、戦艦「三笠」が出陣した佐世保へ行ってきます!

では、次回もお楽しみにー!

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日露戦争(1) -必ず知っておきたい日本の誇り-

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日露戦争(1) -必ず知っておきたい日本の誇り-

みなさんは、これまでに何かを深く「誇り」に感じた経験はあるでしょうか?現代では価値が多様化している上に、平穏な毎日を過ごすことが当たり前となっているので、何かにそう感じる機会は少ないかもしれません。

ところで、このイケメンをご存じですか?
東郷平八郎 1877年

明治時代、最強の海軍を率いたロシアからの侵略に少ない兵力で立ち向かい、知恵と科学力を駆使して、日本が大勝利を収めた戦いがあります。

それが日露戦争です。

この戦争は西洋列強に植民地化されていたアジア諸国に勇気を与えた戦いで、特に「日本海海戦」は世界史史上、世界中の歴史家によってこれに勝る戦いはないと言われています。また、未だに世界中の海軍軍人が世界史最高の海軍提督は東郷平八郎と答えます。上の写真は、その東郷平八郎の若かりし頃のもので、彼がイギリスのポーツマスに留学した時の写真です。

そして、次の日曜日である5月27日は「日本海海戦」の開戦日です。

今回は、まもなくやって来る日曜日の記念日に際し、現代を生きる我々が享受している平和の意味を少し考えてみたいと思っています。日露戦争については多くのことがネットでも語られているので、今シリーズは出来る限り簡潔に、分かりやすさを求めて、列伝形式で人物に主眼を置いて書きます。では、行ってみましょう!


日露戦争の十年ほど前、ロシアはドイツとフランスを誘って日本に対し「三国干渉」を行いました。これは日清戦争後に国際法に基づいて獲得した朝鮮半島にあるリャオトン半島の放棄を強要するもので、撤退後、あろうことかロシアがここに居座ったのです。ヨーロッパでの南下政策を度々イギリスなど封じ込められていたので、ロシアは軍事力を背景に彼らのいないアジア方面に進出してきました。

そもそもなぜロシアが南下したいのか?というと、隣接するバルト海などは冬に港自体が凍ってしまい、ロシアは交易が出来ず金儲けが出来ないからです。ということは、しのぎを削っている他の西洋諸国と闘うための資金や外資を冬になると獲得できないことを意味します。だから、通商を行うためにロシアはとにかく凍らない港を獲得したかったので、「南下」政策を進めていたのです。しかし、ヨーロッパ・ラウンドでは大英帝国らに勝てないのです。黒海近辺で行われたクリミア戦争などがそれに当たります。イギリスの看護婦であったナイチンゲールが活躍した時の戦争ですね。

こうした事情でアジアに目を向けて、フランスから資金を借り入れて建造していたのがユーラシア大陸横断の「シベリア鉄道」です。だからアレは決して旅行目的で作ったのではありません。この鉄道の敷設目的はロシアによるアジア支配の円滑化だったのです。鉄道だと楽に軍需品や軍人を運べますからね。難航した建設でしたが、ようやく日露戦争の最中の1904年9月に全線開通しました。

このロシアに対し、日本は外交交渉によって何とか戦争を避けようとしましたが、ざっくり言うと、ロシアは強気の姿勢で聞く耳を持ちませんでした。当時、西欧の列強諸国から見ても、弱小な日本などロシアの相手になるはずがないと思われていました。いくつかその情勢を表す風刺画が残っています。

日露戦争風刺画1

日露戦争風刺画2

いずれも日本とロシアの国力を人物の大きさで表現したもので、教科書などでもお馴染みなので詳しい説明は必要ないでしょう。

この日露戦争は、陸と海とで行われたすさまじい戦いでした。

特に日本が警戒したのは、世界最強の艦隊と言われるロシアのバルチック艦隊がバルト海からアジアへやってくることでした。
ポートサイドでのバルチック艦隊−エジプトの巡視船に監視されている
ポートサイドでのバルチック艦隊 日文研データベースより

これがやって来るともう日本に勝ち目はない、と考えられていたからです。この戦いでロシアに負ける、ということは東京まで侵略される恐れがあり、この艦隊が到着して朝鮮の旅順港にいるロシア艦と合流する前に、まずは旅順港のロシア艦を陸から壊滅させることが急務でした。

この時、まさに日本の存亡の危機だったのです。

しかし、旅順のロシア艦を攻撃するには陸上での戦いは避けられません。時の司令官は乃木希典(のぎまれすけ)。

乃木希典
乃木希典将軍

陸上では、想像を超えていた難攻不落のロシアの要塞を攻略できず、映画にもなりましたが二百三高地での激戦など、最終的には実に84,435名の戦死者を出しながらもギリギリの所で旅順攻略を果たします。
日露戦争 朝鮮半島での戦闘マップ


この1年ほどの戦闘で、8万名以上の日本人が、祖国を守るために犠牲となりました…。

命を賭して祖国のために勇敢に戦った兵士らは、戊辰戦争の犠牲者を祀るために造られた靖国神社に、新たに「英霊」と称されて祀られることになったのです。

多大な犠牲を強いながらも陸での戦いに勝利した乃木将軍はその後、、明治天皇の大葬が行われた日の午後8時頃、妻・静子さんとともに明治天皇を追うかのように自刃して亡くなります。享年64(満62歳)でした。実は、あの戦闘で自分の息子二人を失っていたのです。司令官の地位にあるゆえ、大きな悲しみを抑えて公のために戦い、明治の終わりと共に人生も自らの手で終焉させたのです。

何という壮絶な死でしょう。

乃木将軍は次のような辞世の句を遺しました。あえて意訳はしません。

神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる

うつ志世を 神去りましゝ大君乃 みあと志たひて 我はゆくなり



余談ですが、日本各地にある「乃木神社」はこの乃木将軍の功績を称えて建立された神社です。
また、東京には「乃木坂」というのがありますが、これも乃木将軍の功績によってつけられた地名です。
・・・乃木坂46、でしたっけ?彼女らやファンの人たちはこのこと、知っているんでしょうか??

こうした陸での多大過ぎる犠牲の上に、バルチック艦隊と日本国聯合艦隊との決戦が準備されました。その間には、圧倒的な物量と軍事力で日本を徹底的に叩くため、バルチック艦隊はバルト海にあるリバウ港を出発し、ほぼ地球を一周する形で7カ月もの航海を経て日本を目指しました。

バルチック艦隊航路
バルチック艦隊航路


迫りくるこの世界最強のバルチック艦隊にどう立ち向かうのか?

次回は、いよいよ伝説の日本海海戦へと突入します!

東京青山霊園:乃木希典将軍の墓


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