CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「長崎事件」 -国際化についてちょい考える-

大嫌いな梅雨に入ってしまい、精神を病んでるこの頃ですが、今回は「国際化」ということについて少し考えてみます。

「長崎事件」って知ってますか?と、地元の人に聞いてもほとんどが知りません。長崎ですらそうなのですから、今の日本では?と想像出来ます。また、「なぜ英語をそんなに一生懸命に勉強するの?」と聞くと、英語を学ぶのは国際化に必要だから、と、ほとんどの学生は何の疑いもなく答えます。現代ではもう大人だってそうでしょう。この二つの問いには国際化を日本人が知る上で、大変重要な意味が含まれています。

明治十九(1886)年8月1日、清国の巨大な北洋艦隊が長崎に来航します。それは、船の修理をしたい、ということで長崎港へ入って来たのです。各船の名は「定遠」、「鎮遠」、「済遠」、「威遠」。定遠、鎮遠は7,000t以上の巨大な戦艦で、日本にはこのような大きな戦艦はまだありませんでした。

長崎の人達は北洋艦隊の目的が「修理」だと信じていたので、部品を提供しようなどと考えていた折、8月13日、500人の水兵が周りの制止を振り切り、勝手に上陸をして、丸山遊廓へ繰り出します。ここで、大人しく並んで遊んで帰れば事なきをえたかもしれませんが、登楼の順番をめぐって大声を張り上げていざこざを起こし、備品を壊して暴力をふるいだします。血気にはやった彼らは更に、長崎市内を徘徊して店に押し入り金品物品を強奪しまくります。また、泥酔していた連中は長崎の市中で女子を追いかけまわし、乱暴狼藉の限りを尽くしました。当然の如く、長崎の警察官が鎮圧に向かいます。その警察官らは元武士で、剣術の達人ですから、清国水兵らをビシバシ打ち伏せていき、特に暴れていた2名を捕らえて警察に連行します。ところがその交番の前に10名の清国水兵らがやって来て、2人を返せと暴れますが、この時、清国水兵らは骨董屋で仕入れてきた日本刀なども武器にして再び斬り合いとなりました。双方ともに死傷者を出して、ようやくその水兵らも逮捕されますが、2人の巡査はケガをしたものの事なきをえています。

そこで、翌日、長崎県知事であった日下義雄と、清国領事館の蔡軒が会談し、清国側は今回のように集団で水兵が上陸することを禁止し、上陸の許可が出た時にはちゃんと監督士官を付き添わすこと、という協定を結んで自体は終息したかのように思われました。

ところが、この協定を結んだ翌日、今度は300名の武装した水兵が上陸し、清国水兵らが例の交番の前でわざと放尿し、交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにしたのです。さすがの剣の達人も300人には敵いませんでした。これによって、3人の巡査が袋叩きに合って、1人が死亡し、1人が重体で翌日死亡します。この騒ぎを見ていた、人力車車夫ら周りの日本人たちも、日頃世話になっている巡査らが殺されかけていることに激怒して、清国水兵に殴りかかり、大乱闘となった挙句、清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本の一般人も十数名が負傷するという大惨事に発展したのです。
長崎事件
「長崎事件」


明らかに、これは清国の協定違反が原因となっています。

ただ、この事件後、清国の李鴻章が日本の領事を呼び出して、清国の死者が5名いる、…と死者数の水増しをしてますが…、「武器を持たない」「丸山遊郭で単に遊んでいただけ」の清国の水兵を日本人が無残に殺害した、と根も葉もない言いがかりをつけてきたのです。これに対して、日本側の対応はというと、何と、清国に折れて多額の賠償金を支払い、かつ日本側が悪い、という内容の条約を締結されてしまうのです。

この理不尽な譲歩には理由がありました。当時の国力・武力の差を比較して熟考した上で、日本は清国にはまだ勝てないという判断からでした。

ごく簡単に言い切ると、世界は、隣国の同じ東洋人である清国でさえも武力こそがものを言う時代であったということになります。一般に日本人は、これまで正々堂々一騎打ちといった武士の道徳を根源にして国内では戦ってきた歴史がありますが、世界史を学習すれば、まるでこれが通用しない世の中であることに気づきます。むしろ日本こそ特殊な環境にあることが理解できるでしょう。

世界の歴史とは、誤解を恐れずに言うと「殺戮の歴史」なのです。それも他国人にならまだしも、自国民にですらそうです(※みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革 -)。

当時、7,000tクラスの巨大な軍艦など日本は持っておらず、もし理を通せばあっという間に侵略されてしまうという懸念が拭(ぬぐ)えませんでした。ただ、このような世界の常識を日本人が理解出来た事件、それが「長崎事件」です。

けれど、こうした世界の価値観を理解しない外交が展開した結果、あのことやこのことが近年でも隣国との間で1980年代から90年代にかけて起こりました。それは日本人の価値観を捨てられないままに、この残酷とも言える国際社会においても今でも同様に続いているのかもしれません。

学校で世界史を学ぶ、というのは、このような国際社会の常識を知ることが本義でなければならないと、ボクは切に願っています。

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

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