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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 5 最終回 ‐グローバリズムの落とし穴‐

今、日本の語学系大学のHPを見ると、ほとんどが「グローバル化」を唱えています。やたらとこのグローバリズムが素晴らしいと喧伝してまわる学校教師(特に文系)もいます。

今回は、このグローバリズムの正体をこの「スペイン・ポルトガル関連」カテゴリーにおいて暴こうと思います。
では、行きましょう!


ところで、「アメリカ」という名前はいつから呼ばれるようになったのだろうか?
1501年からの航海報告で、「ここはアジアではない」と言ったフィレンツェ人がいる。名を「アメリゴ・ヴェスプッチ」という。彼は天文・地理に精通しており、4回にわたって探検を行って、このいわゆる「新大陸」をアジアではないと確認したのである。

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アメリゴ・ヴェスプッチ
<DATA>
■Amerigo Vespucci
■1454年3月9日~ 1512年2月22日
■出身:フィレンツェ、イタリア
■セビリア、スペインにて活躍

しかし、この段階ではまだ北アメリカと南アメリカがパナマ辺りで陸続きになっていることは分からなかった。ヨーロッパからアジアに向けて船で出港しても、結局は南アメリカの下をかなり迂回するルートで行くことになり、インド航路よりも非効率であるが、この迂回ルートを始めて通ったのが、初めて世界周航を成し遂げた、として歴史に登場するマゼランである。

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フェルディナンド・マゼラン
<DATA>
■Ferdinand Magellan
■1480年頃~1521年4月27日
■探検家、航海者

マゼランはポルトガルの航海者で、彼もまたスペイン王カルロス1世の援助を受けてセビリャを280人で出航した。そして、南アメリカ南端に水路を発見する。ここは断崖絶壁と暗礁が多くて、潮流ももちろん速く、航海の難所である。ここを1520年10月にマゼラン一行が無事通過し、ようやく太平洋横断に向かうのである。

この海峡を「マゼラン海峡」という。
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<引用:消滅した航路標識

マゼランは太平洋に到達し、ここを「平和な海」と名付けた。これが「太平洋:Pacific Ocean」の語源となった。マゼランは100日を越える航海で太平洋を横断し、1521年に今のフィリピン諸島に到達する。しかし、セブ島の対岸にあるマクタン島で首長ラプラプとの戦いが起こってマゼランは殺されてしまう。この後、マゼランの部下(1隻の船と18名)が目的の一つであったモルッカ諸島(香料諸島)を経て、1522年にパロスに到着し、これでトスカネリが唱えた地球球体説も実証されたのである。

ちなみに、フィリピンとは援助したカルロス1世の皇太子:フェリペから名付けられた。このフェリペが後に父カルロス1世からアメリカ大陸などの広大な領土を継承し、あのオスマン・トルコ帝国をレパントの海戦で撃破、ポルトガルの併合など行ってスペイン絶対王政の最盛期を現出した。こうしてスペインを「太陽の没まぬ国」にするのである。「太陽の沈まぬ国」とは、このフェリペが地球表面上至る所に植民地を領有し、世界最大の植民地帝国を形成したので、その土地の必ずどこかに太陽が出ていたことを意味する。

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フェリペ2世
<DATA>
■Felipe II
■1527年5月21日~1598年9月13日
■ハプスブルク家のカスティリャ王国・アラゴン王国の国王(在位:1556年 - 1598年)
■1580年から、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。

16世紀から17世紀半ばの160年間ほどで、ヨーロッパの銀の保有量の3倍の量がアメリカ大陸からヨーロッパに運び込まれる。この金や銀を使用して、スペイン・ポルトガルは軍事力を強化していく。つまりこれが、前回の冒頭に述べた金・銀の保有量が国力を決めるという考え方「重金主義」なのである。コロンブスに始まるアメリカ大陸からのこの収奪によって、大量にもたらされた金・銀を香料諸島に持っていき、それを香辛料の支払いに充てたのである

ん? と、ここで、
スペインやポルトガルは、なぜ香料諸島のスパイスを武力で収奪しなかったのか?という疑問がわくだろう。

実はアジア圏においては、「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1」で述べたように、既にスパイスの交易が古くから広く行われていて、さすがに彼らもここのスパイスを武力で奪うことが出来なかったのだ。そこで、はるばるアジアまで来て、自分たちだけが金・銀を流出させるだけでなく、自分たちの持つ武器の販売などを通じてアジアでも香辛料を購入するための金・銀の獲得を目指した。

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<青いラインが「スパイスの道」>

もちろん、この時代に交易で金や銀を支払うことが出来る国は限られる。

それが、日本。

ポルトガル人が種子島に「偶然」やって来て、鉄砲を置いて行ったのではない、ということを以前ブログで書いた(「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 1」)。この真意がここで更に良く理解出来るはずだ。

これが初期のグローバリズムだ。

国家の枠を超えて、手段を問わずに、とにかく自分たちだけ儲けられるだけ儲かってやろうというものである。鉄砲を売りに来たポルトガルが、日本には交易品が少ないので、たくさんあった金・銀、そして「人」を交易品の代価として設定したということだ。初めにキリスト教が広まった九州の人たちが大量に、そして世界中に売られていったこと(一説には50万人と言われる。総人口が2000万人程度の時代に、である)は、まさにグローバリズムの手法そのものである。世界中の文献に日本人奴隷の話が登場するのである。

このように立体的に考えると、なぜスペインやポルトガルが日本にやって来たのかも納得出来ると思う。豊臣秀吉や江戸幕府がキリシタンを弾圧したから酷い奴らだという、一面的な見方では真相がつかめないどころか、善悪の価値観すら逆転してしまう。

現代に即して言えば、グローバリズムとはEU、アメリカの前オバマ政権、日本の小泉政権がそれである。ただし、そこには必ず経済格差の増大や、国内の失業者が増加することをを正当化するための方便が必要となる「それは地球のため」、「人権を守る」、とかね。今のCO2排出による地球温暖化問題、石油から原子力へのエネルギー転換、過剰なまでの英語教育など、科学的に様々な立場がある論議なのに、これらは全てグローバル化を推し進める勢力によって進められている方便なのである。

先般のアメリカ大統領選挙において、オバマ大統領の後を継ぐヒラリー・クリントンがグローバリズム継続を唱え、ドナルド・トランプが「アメリカ・ファースト」の保護貿易主義を唱えた。エスタブリッシュメントと言われる権力者は、ほとんどがグローバリズム側で、CNNなどのメディアが盛んにトランプを、あることないこと非難しまくっていたのは、まさにこうしたメディアがエスタブリッシュメントの代弁者と化してしまっているかが良く分かった事例だった。日本のメディアもCNNなどから情報を仕入れて、ワイドショーにまでトランプの悪をフェイク・ニュースとして言いまくっていた。しかし、これを日本で唯一科学的に、冷静に見抜いていたのが国際問題アナリストで、拓殖大学客員教授の藤井厳喜先生だった。そしてその予見通りに、前政権下でのグローバル路線の悪を認識したアメリカ国民がドナルド・トランプを大統領にしたのである。


さて、今回のシリーズでボクが言いたかったことは、もちろんキリスト教の悪を弾劾するということではなく、スペインやポルトガルが現代の感覚からしてもいかに危険な交易を行っていたか、ということを知ってもらうためというものですが、今の教育業界ではこのグローバル化という言葉を無条件に良いものと捉える傾向に異を唱えたかったから、ということもあります。

数年前に小論文を教えていて、こうした話になったことがあり、とてもショッキングだったことがあるのです。
高校入試問題の英語長文で、「外国人に道で話しかけられたがうまく英語で案内できず恥ずかしい思いをした。だからもっと英語を勉強しようと思った」という趣旨の文章を頻繁に見かけます。

これこそまさにグローバリズムの落とし穴です。

逆に考えてみましょう。日本人がアメリカに行って日本語で話しかける、しかしアメリカ人は日本語を話せない、だからその人は恥ずかしい思いをした、・・・となるでしょうか?もちろんなるはずがない。しかも、生徒に「君、英語話せる?」と聞いても、「いや、話せません」と言う。自己紹介して、と言えば出来るし、これはペンです、とも言えるし、どうやら完全に話すことが「話せること」だと勘違いしています。英語に対する劣等感は甚だしく、それなのに教師は文法や単語ばかりやらせて、ホントにアホかと思ってしまいます。
・・・と、これほど力説しても、その公立高校3年生女子はこう言い放ったのです。
「いえ、話せなくて恥ずかしいです」
こういうことで、真の対等な関係で国際交流が進むはずがない、ボクは暗澹たる思いを経験しました。

みなさんはどう思いますか?

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4
 

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4

さて、「胡椒」の支払いには当時何が使われていたのだろうか?
紙幣はまだ流通しているはずがないし、このいわゆる「大航海時代」における共通の通貨もない。

そこで当時世界中が信用できるモノ、それは今も変わらず金と銀なのである。
ヨーロッパ絶対王政時代初期の重商主義政策において、「重金主義」というのがある。これは16世紀のスペインで典型的に行われたもので、海外植民地の金銀鉱山の開発や貴金属の輸出制限などの手段を通じて、貨幣獲得を重視する立場のことを言う。簡単に言うと、金の保有量の多さが国力を決めると考えることである。しかし、スペインにはこうした金山や銀山がないのである。

また、当時の世界で、食生活など様々な面で豊かだったのはヨーロッパではなく、アジア(日本を除く)と中東だった。つまり、経済学的な観点からすると、この辺りは物やサービスの生産力が高いので、その意味において当時はアジアの方が先進国だと言える訳である。物を輸出して儲かるという交易システムがアジアこそ盛んだったのだ。

しかも、8世紀の奈良時代に、あの正倉院の宝物にも胡椒が残っていて、日本でも既にこの時代には胡椒の交易があったことの証拠である。そのリストを示したものを「種々薬帳」(しゅじゅやくちょう)という。これは良い話なので、少し詳しく書いておこう。

種々薬帳1
<引用:「種々薬帳」前部 正倉院の『種々薬帳』 『漢方の臨床』42巻12号 1450-1452頁、1995年12月

聖武天皇が崩御された765(天平勝宝八)年5月2日から四十九日が経過した6月21日に、光明皇后は聖武天皇遺愛の品々であった、調度品・楽器・遊戯具・武具・装身具など約650点を東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ:いわゆる「奈良の大仏」)に献納した。この時に光明皇后は、天皇の遺愛品とは別に薬物も納めた。これが「東大寺献物帳」のなかの一巻である、上図「種々薬帳」で、ここに献納した60種類の薬物名と、その数量および質量などが列記されているのである。この巻末には、「病に苦しんでいる人のために必要に応じて薬物を用い、服せば万病ことごとく除かれ、千苦すべてが救われ、夭折(ようせつ)することがないように願う」といった願文が記載されていて、実際に、願いどおり薬物は持ち出されて病人を救うために役立てられた。光明皇后は貧しい病人に施薬や施療をするための「施薬院(せやくいん)」や、貧窮者や病人、孤児などを救うために「悲田院(ひでんいん)」も創設した、大変自愛の深い方であった。仏教に深く帰依(きえ)し、東大寺大仏造立を成し遂げた聖武天皇が大仏開眼(かいげん)からわずか4年で崩御されたため、光明皇后はとてもお悲しみになったのだという。
このような皇后だからこそ、体が丈夫でなかった聖武天皇を心配して、様々なまな薬物を揃えていたのだ。植物をはじめ、珍しい動物や鉱物などを、唐や新羅、東南アジアなどからも取り寄せていたことをうかがい知ることができる。その胡椒の一部がこの正倉院の宝物の中でに今でも残っている。


ここで話を戻そう。

16世紀には既に日本は金山と銀山の開発が進んでいた。ということは、生産物は他のアジア諸国と違って少ないが、支払いとして、金・銀が払えるのである。江戸時代末にとてつもない分量の金が流出したことは以前のブログで書いたとおりであるが(※歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題)、交易はいつの時代も需要と供給のバランスによって成り立っている。需要量が多いのに物が少なければ当然価格は上がる。

ここで前回までのヨーロッパ事情を振り返ってみると、次の流れだった。

ヨーロッパ人は肉食である。

肉は腐るし不味くなるが食べるしかない。

ずっと肉を美味しく食べるためには「胡椒」が必要であることがわかっている。

しかし、ヨーロッパには胡椒はない。

アジアから輸入したいが、オスマン・トルコ帝国が幅を利かせているので交易ルートの障害となっている。

ならば回避ルートを見つけよう。

いわゆる「大航海時代」が始まる。


こうして、胡椒にはプレミアがついていたことも以前示した。
需要量が半端なく多いのに、供給量が半端なく少ないからである。でも、肉を美味しく食べたいから胡椒はのどから手が出るほど欲しい。したがって、むしろヨーロッパ人の胡椒に対する需要量は、無限に近いくらいあったのではないか?

ただ、スペインやポルトガルには金や銀がない。では、どうするのか?大量にあるところから獲ってくるしかない・・・となるはずだ。

これが、マヤやアステカ、インカなのから略奪した金や銀などの宝物なのである。しかし、この宝物は略奪後に溶かされて通貨として使用された。つまり、スペイン人らにとってはインディオの宝物の歴史的な価値やデザイン性などまるで関心がなく、ただ香辛料貿易のための媒体として金・銀には唯物論的な価値があったのだ

西インド諸島やメキシコなどのスペイン植民地では、1503年から、「エンコミエンダ」という制度によって現地のインディオを労働力とすることが認められていたが、人道的観点から一時スペイン王室によって制度廃止が叫ばれてはいた。しかし、ポトシ銀山の発見により、銀の増産可能性が高まったせいで、ここでの労働力不足を補うために「エンコミエンダ制」の導入が加速していくのである。このボリビアにあるポトシ銀山はアンデス山中にある山で、ここでの銀は1545年にインディオがリャマを追って山に入った時、銀鉱を発見したことに始まる。その発見がスペイン人に知れて、この銀鉱をスペイン人が採掘権取得したのである。そして、この銀山の採掘強化のために再開されたのが、「エンコミエンダ制」というシステムだ。これは、スペイン人入植者に対して、現地のインディオをキリスト教化(きょうげ)を預託する代償として、インディオを労役に従事させることのできる制度である。
つまりは、キリスト教を軸にした強制的労働制度である
これによってヨーロッパでは、「価格革命」というまた別の負の側面が出てきたしまったことはブログにも述べた。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題」

ここで「彼が」登場する訳である。

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バルトロメ・デ・ラス・カサス
<DATA>
■Bartolomé de las Casas
■1484年8月24日 - 1566年7月17日
■スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。

ラス・カサスには、1552年に出版され、日本では染田秀藤訳で1976年に岩波文庫から出版された「インディアスの破壊についての簡潔な報告」という本がある。ここには次のような記述がある。

「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。」

この内容に触れる前に、「インディアス」という聞き慣れない単語があるが、これについては次の記述に詳しい。

「コロンブスは、現在いうインドに行こうとしたのではなかった。現在のインドは「ガンジス川内のインディア」というインディアスの一部でしかない。彼が目指したのは「インディアス」陸塊の東にあるインディアス大半島であった。その東端にはシパンゴ、つまり日本があると考えていた。彼が大洋横断の基点をカナリア諸島におき、そこから北緯28°にそってほぼ真西に進んだのは、当時、マルコ=ポーロのいう黄金のシパンゴ島は北緯5°から35°の間に伸びていると考えられていたからであった。」
<「コロンブス」増田義郎 岩波新書>
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ラス・カサスはこの他にも有名な「インディアス史」など、複数の書物を書いているが、そのほとんどは彼がアメリカ大陸で経験したスペン人の蛮行についてである。1502年にラス・カサスはインディアスに渡り、はじめ彼自身もインディアンを奴隷として所有使役しながら、農場を経営していた
しかし、コルテスらの軍の、あまりの蛮行に心を痛め、1514年8月15日には熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らの「エンコミエンダ」を放棄した。そして、サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中で、この「エンコミエンダ」の矛盾を厳しく糾弾したのである。

ラス・カサスの資料に客観性がある、という理由はここなのだ。自らもインディアンを所有していたのに、自分たちの国の人間の蛮行に気づいて改心したという点から、ラス・カサスの資料はスペイン人たちの当時の常識を知る一次資料となっているのである。

実はこうした過去のスペイン・ポルトガルから、現代のある現象をも読み解くことが可能である。
次回はいよいよそれに迫ってみよう。

つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」
このように我々は幼い頃に習ってきたのであるが、最近の教科書では是正されて「大航海時代が始まった」という教え方になっている。

コロンブスが山川の世界史B用語集ではどのように記述されているか。

コロンブス Columbus
1451~1506 ジェノヴァ生まれの航海者。地球球体説を信じ、西航してアジアへの到達を企てた。スペイン女王イサベルの後援を得て、1492年8月、3隻120人でパロスを出航し、72日の航海ののち、10月12日、現在のバハマ諸島に到着、近辺を探検して翌93年3月帰国した。到着地をインドの一部と信じ、第2回(1493~96)、第3回(1498~1500)、第4回(1502~04)と航海をしたが、金銀も胡椒も発見できず植民地経営にも失敗し、失脚して隠退した。

しかし、未だコロンブスに関する本質的な記述を見ることは出来ない。このシリーズ1のコロンブス<DATA>の所に書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1」参照)、コロンブスは「奴隷商人」なのである。前々回の記述でみなさんは気づいていただろうか。

そして、なぜ子供たちに教える歴史では、この面をそんなに隠さねばならないのだろうか?

キリスト教会も、コロンブスがアジア到達(本当はアメリカ大陸)という吉報に沸き立った。時の教皇アレクサンデル6世はこの「発見」の報に触れて、翌1493年に「植民地分界線(教皇子午線)」なるものをでっち上げた。これも用語集にはスペインとポルトガルが「ヴェルデ岬西方の子午線で、西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏にした」としか書かれておらず、これではその真意が全く分からない。

教皇子午線
引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico!

これは、地球を子午線という半分に分割する線で、まんじゅうを半分こするように、勝手に地球を二つに分けたという意味である。自分たちのまんじゅうならまだしも、みんなで分けているまんじゅうをこのような勝手な分界線によってまっ二つに分けられたら、この二国以外の国はたまったものではない。そして、これが「教皇」子午線であるということも見逃せない。つまり、キリスト教会も、他国を侵略して奴隷化することを積極的に推進した、ということである。

更に1494年には「トルデシリャス条約」で、この教皇子午線が両国に都合良いように西方へ移動し、海外の領土分配を決めた。この時にポルトガルがブラジルを領有したのである。

トルデシリャス条約
トルデシリャス条約という縄張り">引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico

トルデシリャス条約条文
<トルデシリャス条約 条文>

1529年に「サラゴサ条約」が締結。スペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却し、勢力圏の範囲も確定。太平洋側にもこの両国の境界を分ける子午線を引かれた。このモルッカ諸島はセレベスとニューギニアの間の島々であるが、ここがヨーロッパ人たちの主目的となった島である。なぜならこの島は「香料諸島」とも言われ、丁子(ちょうじ)やナツメグといった、肉食のヨーロッパ人にとっては貴重な香辛料の主産地だからである。1521年のマゼラン遠征隊の来航以来、各国の争奪の的となったのがこのモルッカ諸島なのである。その意図はあまりに明白だ。

香料諸島

さて、ここで南北アメリカにも目を向けてみよう。

アメリカ文明地図
<引用:ラテンアメリカ文明と文化

15世紀に既にアメリカに存在していた文明は、上の地図にあるように、今のメキシコ近辺にアステカ文明とユカタン半島にマヤ文明、アンデス高原にはインカ文明である。彼らの多くが北のベーリング海峡が地続きであった時期にアジア系の人々が移住し、拡散したとされていたが、近年の研究によって遥か太平洋を横断して定着した可能性も示唆されており、日本人にとっても大変興味深い文明群である。いずれ必ず書く予定だが、赤道直下のエクアドル(そもそもエクアドルはスペイン語で「赤道」という意味)からは縄文土器が発掘されるし、ボリビアのモホス平原に2万個以上点在する「ロマ」(スペイン語で丘の意味)から発掘される人骨は180cm以上の巨人であり、遺伝学的にありえない。今この辺りに住むインディオたちとの連続性が全く感じられないばかりか、日本人の痕跡もあるのだ・・・。

モホス

南北アメリカの文明には高度な灌漑技術と自然との共生への知恵があり、いずれも神秘に満ち溢れていて、地球外生命体の存在でさえ疑っている人がいるほどである。インカ文明から遥かさかのぼると、ボリビアの高原に「モホス文明」という高度な文明が存在していたことも明らかになってきている。文明が無いと思われていた場所から青銅などの金属器も出土し、モース硬度最大がダイヤモンドで10、そのうち6.5から7という硬い鉱石であるヒスイを加工して、装飾品として身に着けた「高貴な人」もドイツ隊によって発掘された。ヒスイはビーズ状に加工されているが、一つの大きさはわずか0.8㎜。とてつもなく小さな断片に穴を空けている。ちなみに、高度7はナイフで傷をつけることができず、刃が傷む硬さである。鋼鉄のやすりが硬度7.5であるため、鉄器が存在しないのにヒスイをどのようにして細かく加工したのかが未だに不明なのである。(※このモホス文明についてはブログで書くので、こうご期待!!)

話を元に戻そう。

いずれにしても15世紀に存在したこの3つの文明全てがスペイン人によって征服され、滅ぼされた。このスペイン人の征服者のことを「コンキスタドール」と言い、代表的な悪名高い人物が、アステカを滅ぼしたコルテス。インカを滅ぼしたのがピサロである。コルテスは1519年に少数の兵を連れてユカタン半島に初めて上陸した。
途中のアステカにおける攻防の経緯は省くが、最終的に1521年の始め、コルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、アステカの若き王:クアウテモックは捕らえられたのである。

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<DATA>
エルナン・コルテス Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
■1485年~1547年12月2日
■メデジン、カスティーリャ王国
■コンキスタドール

また、南米のインカ文明を滅ぼしたのも、スペイン人:ピサロである。

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<DATA>
フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro
■1470年頃 - 1541年6月26日
■スペインの軍人、探検家、コンキスタドール

このピサロは1531年、約180人の部下を連れてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。そして、インカ皇帝:アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。この時、アタワルパの身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、アタワルパが存在する限り先住民が彼をリーダーに担いで反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にして、1533年7月26日処刑を敢行したのである。この3度目の挑戦で、ようやくインカ帝国内部に潜入したのが180名だった。この180名が歴史に残る大虐殺と情け容赦のない略奪をおこない、歴史上、ヨーロッパより遥かに高度な文明を誇っていたにもかインカ帝国を滅亡に追い込んだのである。

これは詳細を述べよう。

当時のインカ帝国の人口は一千万を超えており、最盛期には約1600万人だった。インカ皇帝:アタワルパは、はじめ自ら数万の軍勢を率いてピサロ軍180人と対峙したとき、そのあまりの戦力差に戦後スペイン人達の処遇まで考えるほど余裕があったと言われている。だから、この戦闘に勝った後、スペイン軍の半分を神の生贄、残りの半分は去勢して王宮で使役させるつもりだったという。しかしピサロの軍180人は彼らが想像することができないほどの戦闘のプロであった。武器も強力で、インカ軍とは比較にならなかったのである。大広場での会見でピサロは、数万人の兵士に護られて油断し切っている皇帝:アタワルパにいとも簡単に近づく事に成功し、いきなり拉致を敢行する。それを合図に、スペイン兵が一斉に飛び出し、銃や大砲を撃ちまくった。

インカ帝国軍の石や骨で作った武器は、この戦いでは全く役に立たず、戦闘が始まって30分もしないうちに2,000人を超える死者を出し大パニックに陥ってしまった。皇帝のアタワルパは、これで捕虜となってしまい、この一戦で完全に戦意を喪失した。スペイン人が探している金銀を与えさえすれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロにエル・クアルト・デル・レスカテという部屋1杯の金と、銀を2杯提供することに同意した。ピサロはアタワルパの身代金として、この莫大な金銀財宝を受け取ったが、この約束は反故にされた上に、アタワルパは解放されなかったのである。

こうしてスペイン人達は思うままに財宝を手に入れたが、しだいにインカ軍の反乱を恐れるようになり、アタワルパを処刑した方がよいのではという意見が大勢を占めるようになってくる。アタワルパが存在する限り、インカの先住民が彼を担ぎあげて反乱を起こす可能性があるとして、ピサロはアタワルパを処刑にする決断を下す。まず、模擬裁判を行って皇帝が偶像崇拝を常習としたこと、実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した。ただ、インカでは、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖したという。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに進言した。やむなくアタワルパはこのキリスト教の洗礼を受けることに同意、洗礼名:フランシスコ・アタワルパを与えられ、キリスト教徒となった彼の要求に従い、火刑に代えて絞首刑となったのだ。
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<火刑に処されそうになったアタワルパ>

なお、スペインでは1992年から2002年のユーロ導入まで、スペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の裏面には、何とピサロ、表面にはコルテスの肖像が使用されていたのである。
コルテス紙幣

・・・なぜこの侵略の場に「バルベルデ神父」が参列しているのか?そうした疑問がわく。

実は、この当時スペイン人の征服とキリスト教布教とはセットなのである
スペイン人の征服者は自分たちの侵略行為が正当であるとしたのは、スペインが定めた勧告(レケリミエント)を実行したからである、という方便に過ぎなかった。これはアメリカへの武力征服が行われる前に、インディオに対して教皇からこの地の支配を認められたスペイン王(当時はカルロス1世)の支配に服するよう勧告することで、それに従わないインディオに対しては如何なる害を加えても良い、というめちゃくちゃな理屈であった。ただ、この勧告は、インディオの村を襲撃する夜明け前に、村の入口から離れたところで通訳を通して読み上げられただけで、征服者が自己の残虐行為を正当化するための形式でしかなかったのである。

つまり、武力で現地人を思いっきり制圧した後に、キリスト教による思想統一が行われるということだ

これが真実であるかどうが疑わしいという人も多いだろう。

しかし、それを客観的に検証する資料が存在している。それは彼が書いている。
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つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2

奇しくも今日9月2日、続きを書こうとしていると次のニュースが入って来ました。

千々石ミゲルの木棺?発見 天正遣欧使節の1人 長崎の石碑周辺、木片や金具
9/2(土) 10:37配信
JapaneseEmbassy.jpg
画像右下の人物が千々石ミゲル
<DATA>
■1569(永禄十二)年~1633(寛永九)年12月14日
■千々石紀員、千々石清左衛門(通称)
■戒名:本住院常安(諸説有)
■霊名:ドン・ミゲル
■主君 有馬晴信→大村純忠→大村喜前

この中にある記事で、「天正遣欧使節は1582年、九州のキリシタン大名が欧州に派遣した少年4人。8年後に帰国したが、キリシタン弾圧の中で殉教など過酷な運命をたどった。ミゲルは4人の中で唯一、棄教した「異端者」と伝わる。

・・・とあります。これを読んで、みなさんはどう思われたでしょうか?ミゲルだけが棄教?他の3人は信仰を貫いたのに、なんて信念のない人間だ。このように思われた人も多いかと…。
これが今回のシリーズのまさしくテーマなのです。

端的に言えば、
当時ポルトガル人は日本人を大量に、それもとてつもない規模で奴隷にしていた(特に九州の人たち)、という事実に関わるニュースなのです。

以前のブログで、「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」 (リンク参照)というシリーズを書きました。今回のシリーズは、これに関連してはいるけど、視点を変えた場合にどのような客観的な事実の相違が生じるかというテーマでも行っています。だから、ここでは筆者の主観が混じらないよう、出来るだけ資料にある内容に基づいて述べますので、みなさんがこれまで自分が習ってきた歴史とは違うということも多々述べるはずです。今後のこのテーマの展開としては学問的に検証するものになることを理解していただき、どうかその内容には不快にならないでほしいと思っています。

では、シリーズ2話目に進んでいきましょう。


ポルトガル人がやって来た経緯は、鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? で詳細に推論を立てた通りだが、その真の動機ということにはあえて触れなかった。鉄砲という武器は意図的な商業活動の拡大を目指して持ち込まれたのではないか、これを中心に話を進めていった。しかし今回のシリーズでは、歴史教育として学校ではまともに教えられていない、日本人の奴隷化目的という闇の事実を検証していく。


次の資料原文をまず見ておこう。※古文なので読めない人は読み飛ばしてもらっても大丈夫です。

『天正十五年六月十八日付覚』原文

■伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事。
■国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。
■其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
■弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事。
■右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事。
■伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
■本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事。
■国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
■伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事。
■大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
■牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印
— 天正十五年六月十八日付覚



■日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
■其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
■伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
■黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
■自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上
天正十五年六月十九日     朱印

— 吉利支丹伴天連追放令



これがいわゆる「バテレン追放令」である。バテレン追放令は、1587(天正十五)年7月24日に豊臣秀吉が筑前箱崎で発令した、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書である。この「バテレン」とは、ポルトガル語で「神父」の意味のパードレ:padreに由来している。遠藤周作の「沈黙」ではフェレイラの弟子:ロドリゴのことをこの「パードレ」と呼んでいた。

この追放令で重要な内容は後で述べるとして、豊臣秀吉によって出されたと言われるこの法令後、あのサン=フェリペ号事件が起こる。これは、1596(文禄五)年に土佐にスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着し、その乗組員の発言が大問題となった事件である。この事件によって豊臣秀吉は、唯一のキリスト教徒への直接的迫害である「日本二十六聖人」殉教のきっかけとなったとされているが、これは定かではない。

一応、この時の経緯を述べておこう。

1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのサン=フェリペ号はメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ところが、サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受けてしまう。船員たちはメインマストを切り倒したり、400個の積荷を放棄したりで、どうにか難局を乗り越えようとしたが、船の損傷があまりにひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

1596(文禄五)年8月28日、サン=フェリペ号は土佐沖に漂着。この知らせを聞いた土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航(えいこう)されたが、船は湾内の砂州に座礁してしまう。この時に大量の船荷が流出し、船員たちは長浜に留め置かれることになった。協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に派遣し、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の増田長盛(ました ながもり)が浦戸に派遣されることになった。
当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を「フロイス日本史」で述べているが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと述べている。

ルイス・フロイス「日本史」目次
<ルイス・フロイス「日本史」目次>

この荷物没収に抵抗しようとした船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げたとされている。
ただ、この逸話は徳富蘇峰(とくとみそほう)が大正から戦前の昭和年間に記した「近世日本国民史」が初出なので、真偽は不明である。

いずれにしても、ここで注目すべきはバテレン追放令にある、「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事」。

ここなのだ。

これを現代語に訳すと次のようになる。

明、南蛮、朝鮮半島の高麗付近に日本人を売ることは処罰されるべきことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。


奴隷を歴史上全く持ったことのない日本人が、その当時どれほどの恐怖を感じたか・・・
実は上記のアジア近辺だけでなく、資料では世界中に売られていったことがわかっています。
バテレン追放令、26聖人の殉教など、一連のキリスト教迫害の背後にはポルトガル人やスペイン人による暗部の歴史が語られていないのです。
冒頭の千々石ミゲルは、遣欧使節によって見聞した、こうしたキリスト教国の「奴隷制度」と、日本でのすさまじい蛮行への嫌悪感によって棄教したのです。

次回は、彼らが16世紀のアメリカ大陸では更にどのような展開をしたのかを、世界史的な事実を交えながら書こうと思います。


「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1

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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1

どうも、お久しぶりです。
副業1&2が激多忙過ぎて、すっかりこのブログもなおざりにしてました:(;゙゚'ω゚'):
ようやく副業奴隷解放宣言も出されたってことで、いろいろ溜めてたモノを開放していこうかと思われます。
いかに一般の通念が誤っているか・・・
では、副業1で世界史講師をも務める浜口改めメカ口が、今回は長崎とは何かとゆかりの深い国:ポルトガルについて書きます!!


そもそも、なぜポルトガルやスペイン、オランダが遥か彼方のアジアへ来たのか? これを考えたことがあるだろうか。

ます考えなくてはならないのが、ヨーロッパ人たちが住んでいた地理的条件と特有の食文化である。

中世のヨーロッパは国土や気候条件によって極めて貧しい食生活を強いられており、ほとんどが痩せた土地であるヨーロッパでは、食の中心が限られた野菜や穀物、塩漬け肉・野鳥・塩漬けの干し魚などであった。アメリカという、ヨーロッパ人たちにすると「新大陸」からもたらされたトマト・じゃがいも・とうもろこしがしだいに普及するのは16世紀以降のことなのである。
もちろんヨーロッパでも牧畜は行われていたが、豚や牛といった家畜のエサとなる干し草の保存が出来ないため、こうした家畜はほとんど秋に屠殺し、その肉を塩漬けにして冬を乗り切るために保存していた。ただ、当然これも日が経つにつれて腐敗臭が酷くなり、味も劣化していく。しかし、他に方法がないので人々はこの腐った肉をどうにかして食べて、冬をしのぐしかなかったのである。

ここで、この問題を解決したのがアジア特産の「香辛料」の再発見であった。

山川の世界史B用語集には次のような記述がある。

<香辛料>
胡椒(こしょう)・肉桂(にくけい)・丁香(ちょうこう)丁子(丁字:ちょうじ)など、おもにインド・東南アジア産の刺激性嗜好(しこう)品。肉を多食するヨーロッパでは、味覚と腐敗防止を兼ねて求められ、東方貿易最大の輸入品であった。

これを見ても、香辛料がどれほどヨーロッパ人の食生活に潤いをもたらしたのかがよく理解できるし、これが需要と供給量のバランスを考えても高額な商品になったということもうなずける。
香辛料は塩漬け肉の臭いを消して、肉を食べやすくする。必然的にヨーロッパの香辛料の需要が増大したのである。

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この山川の資料では、ナツメグは何と4000%以上の利益率となっていて、いかに香辛料が当時高額取引されていたかが具体的にわかる。

香辛料は以前にもヨーロッパへ多少なりとも流通したことがある。歴史を遡ると、アジア原産の香辛料は、地理的にヨーロッパへの香辛料の供給量は極めて少なかったものの、アジアでは既にこの交易が盛んであった。シルクロードと同様、海の道である、いわゆる「スパイスロード」を通じて中東辺りまでの交易は行われていた。古代ローマ時代には既に流通していたが、東ローマが滅んだことによってこのスパイスロードが断絶する。

次に、11世紀末からの十字軍によって、ヨーロッパ人が再び香辛料を知る契機が生まれる。

十字軍は神聖ローマ帝国のキリスト教軍が今のドイツ辺りから、中東のセルジューク・トルコによって奪われた聖地エルサレムを奪回に行った、イスラム教徒への虐殺である。その時、肉食のヨーロッパ人たちがここ中東に素晴らしいものを発見した、それが香辛料だった。そして、これがイスラムやイタリア商人たちによってイタリアのヴェネツィアなどへ運ばれて行ったのであるが、13世紀末に中東からヨーロッパ、アフリカにまたがる強大なイスラム国家:オスマン・トルコが建国され、ヨーロッパ人たちへの香辛料の交易が中断してしまったのである。何とかして香辛料を手に入れたいヴェネツィア商人たちは、このイスラム商人たちとの香辛料取引をしたかったために、香辛料は大変希少価値が発生し、胡椒の粒と黄金の粒が等しい価値になるほどであった。

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上の図で示されているのは、当時経済的に重要なシルクロード(赤)香辛料貿易のルート(青)である。これがオスマン・トルコ時代に遮断されてしまう。オスマン・トルコが1453年に東ローマ(ビザンツ)帝国を崩壊させたからある。この強大な帝国の存在によって、ヨーロッパ勢力は東方への交易ルートが遮断されてしまった。

香辛料を忘れられないヨーロッパ人は、実はこうした動機によってアフリカ航路開拓のための探検を促し、「大航海時代」を引き起こしたのである。クリストファー・コロンブスが1492年スペイン女王:イサベルの命によってアメリカ大陸へ到達したのも、根っこはこうした事情である。この当時、西ヨーロッパでは、東アジア・東南アジア・南アジアを含むアジア大陸東半分の地域を漠然と「インド(※スペイン語ではインディアス)」と呼んでいた。だから、香辛料を求めてアジアへ向ったコロンブスが、到達したアメリカを「インド」だと勘違いしたので、現地のアメリカ人を「インディアン」と呼んだのである

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クリストファー・コロンブス(伊: Cristoforo Colombo)
<DATA>
■1451年頃 - 1506年5月20日
■探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人
■定説ではイタリアのジェノヴァ出身

コロンブスはこの少し前に仕事の拠点であったポルトガルのリスボンで、地球球体説を唱えていたトスカネリと知り合って手紙の交換をしている。トスカネリは13世紀ヴェネツィアの商人だった、あのマルコ・ポーロの考えを取り入れていた。コロンブス自身もマルコ・ポーロの「東方見聞録」に記述がある黄金の国:ジパングに惹かれていたという。この書物によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」という。この富への野望が掻き立てられたのである。

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<DATA>
マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo)
■1254年 - 1324年1月9日
■ヴェネツィア共和国の商人
■「東方見聞録」(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家
■訪れた元で、色目人(しきもくじん)としてフビライ・ハンに重用される

また、地球が平面だと思われていた時代に、最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もあるほどだ。確かに、コロンブスにはこうした地理上の発見への野望があったことは事実であろう。しかし、彼を援助したスペイン女王や貴族にとってみれば、そうした功績に加えて、香辛料によって食の改善がなされることも現実的には重要なファクターであった。事実、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)でスペインからイスラム教徒を駆逐した後、ポルトガルやスペインの君主たちは直接香辛料貿易の恩恵にあずかろうと、大西洋に着目したのだ。つまり、先ほど書いたように、東方には強大な国家:オスマン・トルコがいて交易が遮断されている。ならば、危険のない西廻りや西アフリカ沿岸を遠回りする、東廻りの交易ルート以外を開発すれば良いのではないか、という発想になったのだ。これがスペインとポルトガルによる「大航海時代」への動機づけである。

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マルティン・ベハイムの地球儀(ドイツ・ニュルンベルク)

ポルトガルは「航海王子:エンリケ」の奨励でアフリカ西岸への探検に乗り出していた。これは司祭王:聖プレスタージョンの国を発見するためという目的と、現実的にはイスラム教を挟撃するためという目的があった。いずにしても、大西洋航路よりもアジアに近く、オスマン・トルコの息のかからない航路を開くことによって、香辛料貿易を進める目的があった。エンリケの後継者ジョアン2世の時代になると、この探検航海はかなり進み、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の「喜望峰」に到達する。喜望峰は「嵐の岬」と呼ばれていたが、そんな危なそうな名前では冒険が進まないということで「喜望峰」というポジティブな名前がつけられたという経緯がある。

このアフリカの下を廻る航路が発見されると、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがこの岬を迂回してインド洋を横切り、ヴィジャヤナガル王国の港であったインド西岸のカリカットへ到達する。ガマはアフリカ東岸のマリンディに寄港して、イスラム教徒の水先案内人であったイブン・マージドを雇い、その指示によってカリカットへは到達したのである。

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<DATA>
ヴァスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama)
■誕生:1469年頃~1524年12月24日 ポルトガル・シーネス
■探検家、航海者

このポルトガルによるこのインド航路開拓はある種の国営事業として行われた。したがって、これに伴う香辛料の直接取引は、当時わずか150万人の人口でしかなかったポルトガルの王室に莫大な利益がもたらされる結果を生んだ。このインド航路開拓によって、ポルトガルの首都リスボンが世界商業の中心となって、ポルトガルが16世紀の世界を支配したのである。

つづく

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