シーボルト主要事項年表 <未完版>2017-12-25 Mon 03:58
※のちに随時書き加えていきますので、まだ完成版ではありません。
とりあえず、「江戸参府」終了まで。 1796年2月16日: フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生 ドイツ ヴュルツブルク 1809年: 間宮林蔵が二度目の樺太探検にて、カラフトが島であることを確認し、「間宮海峡」発見する。 1815年: シーボルト、ヴュルツブルク大学に入学。医学・科学・植物学・地理学・民族学を学ぶ。 1822年: オランダ外科軍医少佐に任命され、ロッテルダムからジャワへと向かう。 1823年: ・オランダ領東インド・バタヴィアに到着し、 長崎の出島商館医師に任命される。 ・バイテンゾルフにある総督ファン・デン・カペルレンの山荘で3週間滞在する。 ・伊王島北端で、日本人の役人と通詞が来船し、オランダ人でないことがバレそうになる。 ・其扇(タキ)が出島に通うようになる。 1824年: ・鳴滝塾を開く。 ・総督ファン・デン・カペルレンへ、長崎へ画家と医師を派遣してくれるよう依頼する。 1825年: ・「薬品応手録」を執筆する。 ・鳴滝塾弟子筆頭の美馬順三が江戸参府を前にして死去。 1826年: ・念願の「江戸参府」へ、商館長スチュルレルに随行し出発。(2月15日) ・この時、弟子:湊長安・高野長英は情報収集のため1か月前に長崎を発っていた。 ・弟子:二宮敬作に島原の雲仙岳の火山調査を命じる。のち小倉で合流する。 ・川原慶賀に太宰府天満宮を描かせに遣る。 ・川原慶賀を石炭の産地木屋瀬に派遣し、絵に描かせる。この絵が「コークス作りの図」でのち発見。 ・下関の阿弥陀寺(現赤間神宮)に参詣し、関門海峡をファン・デン・カペルレン海峡と勝手に名づける。 ・下関で先発していた湊長英・高野長英らと情報交換。 ・高野長英が連れてきた平戸の捕鯨業者からクジラ漁の話を聞く。 ・姫路の名城:白鷺城の美しさに感動する。 ・京都で天皇の存在に興味を持つ。 ・草津近郊の大野でトキの剥製をゲットする。 ・鈴鹿山のオオサンショウウオを二匹ゲットする。(うち1匹はオランダに到着して1mに成長し、その後50年生きる) ・矢矧橋を測量し、図面を作成。川原慶賀にこの様子を描かせる。 ・川原慶賀に、江戸に近い川崎から品川に至る港図をご法度ながらも描かせる。 ・江戸で、オランダでも著名な薩摩の島津重豪(しまづしげひで)と出会い感動する。 ・当時の江戸は130万人でコンスタンティノープルをしのぐ、世界一の都市。 ・江戸参府一向の定宿は「日本橋長崎屋」。 ・江戸で最上徳内がやって来る。(たぶん間宮林蔵とも会う) ・最上徳内から蝦夷や樺太の地図や資料を借用する。 ・天文方兼御書物奉行高橋作左衛門も面会に訪れ、紅葉山の文庫を見たいと依頼。 ・土生玄碩ら眼科医が来て、瞳孔を開く実験を見せる。 ・作左衛門にクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などと引き換えに、禁制の「日本地図」をくれ、と告げる。 (ミッテルビベラッハ城文庫、日誌に記載) ・択捉のラッコをゲットする。 ・葛飾北斎にオランダ紙を渡し、絵画の依頼ををする。 ・江戸城に登城し、目的のモノをゲットする。 ・最も期待した長期滞在が出来なくなり、長崎へ向けて出発。 ・最上徳内が、なぜかわざわざ小田原まで見送りに来る。 ・京都・大坂を経て、下関に至り海峡の記録をゲットする。 ・商館長のスチュルレルとは犬猿の仲が激化する。 ・143日に及ぶ長旅を終え、長崎に到着する。 |
シーボルト先生 ~その生涯と愛~ 2 -「シーボルト事件」通説を流布す、の巻-2017-12-17 Sun 19:47
もはやボクのライフワークと化している、シーボルト先生の勝手放縦な独自研究ですが、今回は従来の
まず、その経緯を以下に時系列で17項目に分割して箇条書きしておきましょう。 「シーボルト事件」 1:1826年2月15日(文政九年正月九日)、花のお江戸ツアー(江戸参府)に出発。 2:シーボルトが目的としたのは、日本をくまなく調査することだった。 3:江戸に着くまでにいろんな所で見聞を行い、川原慶賀に絵を描かす。 4:花のお江戸に着くと、いろんな人たちと情報交換。 5:この中には、幕府の天文学者:高橋景保(かげやす)がいて、こっそりと日本地図を受け取る。 6:143日にも及ぶ長旅だったが、帰り道も調査しながらようやく長崎の出島に到着。 7:日本滞在が1年ほどになったので、蝦夷のことを詳しく知りたくなり、江戸の間宮林蔵に手紙を出す。 8:手紙を受け取った間宮は「シーボルト、って誰?」と、手紙の封を切らずにお奉行様に渡す。 9:1829年9月17日(文政十一年八月九日)、日本から帰ろうとしてた船が台風で座礁してしまい、なぜか再び荷物検査。 10:持ち出し禁止の「日本地図」が発見される。 11:長崎奉行から幕府に早馬が送られ、シーボルトの帰国は足止めを食らう。 12:江戸で地図をこっそり渡した、高橋景保が逮捕され、「あげました」と自白。 13:シーボルトのオタク・コレクションも残らず没収。 14:関係者や鳴滝塾の弟子たちも捕まり、ひどい拷問を受ける。 15:高橋景保はすぐ獄中で死に、これを聞いたシーボルトも自殺未遂。 16:妻タキに自殺は止められたが、シーボルトは国外追放処分となる。 17:1829年、追いすがるタキと娘イネを残し、泣く泣くシーボルトは帰国するのであった。 以上。 はい、流布してみました。 さて、今後の展開ですが、シーボルト先生のことを知っていただくために、日本へやって来るまでの若きシーボルトの話から進めなくては、事の真相がつかめません。 1990年代ぐらいから、これまでに多くの研究者や現地の人たちの努力によって新資料が発見されて、シーボルト先生が日本へやって来た目的やその背景となるヨーロッパ事情、そして、シーボルト先生の人物像がだんだんハッキリと分かるようになってきています。 いやぁ~ありがたいものです。 いま、宮坂正英先生や秦新二先生らがいらっしゃらなかったらと思うと…。 ただ、このシーボルト先生のことは、高校では日本史でちょっとだけ扱うところもあるくらいなのですが、中学生までで教わることはありません。 ホントにそれでイイんでしょうか? つい先日、シーボルトゆかりの地、オランダのライデン市と長崎は(出島表門橋架橋にかこつけてよーやく)姉妹都市提携を結びました。 しかしコレ、今頃感がハンパないのは何なんでしょうか? おそらくは、長崎市民だけでなく、日本国民がシーボルトの功績をほとんど知らないからだと思います。 そして、シーボルト先生のことを知らずに幕末の動乱を語るな、と言いたいところですが、ここは穏やかにいきましょう。 ボクは従来の歴史の検証に加えて、もちろん世界史や経済学、宗教学、地政学や統計といった様々な学問的観点から、推論と考察を加えていくつもりです。 と言っても、資料検証が膨大になり過ぎてて、なかなかまとまりがつかないのですが、このシリーズの1話目でも言いましたように、よ~~~やっと、まとまりがつきつつあります(;´∀`) ウチの管理人&世界遺産部部長 Takao がシーボルト記念館に入るの図でお別れです。 ![]() では、次回よりお楽しみに~! ![]() |
シーボルト先生 ~その生涯と愛~ 12017-01-29 Sun 17:02
長崎のことを知ろうすれば、人物の生き様に感動することが本当に多い…。
今回より紹介する、この「シーボルト先生」は間違いなくその中でもトップの一人です。 彼のことを研究すると、ボクは長崎人としてというより、人間として尊敬の念しか湧いてきません。 ・・・でも、なぜこんな日本にとって偉大な人のことを、学校で学ばないんだろう? ![]() 川原慶賀筆 < DATA > ■フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold) ■1796年2月17日~1866年10月18日(満70歳没) ■神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ヴュルツブルク司教領、ヴュルツブルク 出身 ■研究分野:医学・博物学 ■出身校:ヴュルツブルク大学 「彼がいなかったら日本はどうなっていたのだろうか?」 書物を読み、資料を整理し、考察を巡らすと必ずふとした瞬間にこの疑問に行き着きます。 日本にやってきた真の目的は何か? 江戸参府で得た情報をどうするつもりだったのか? 鳴滝で弟子たちに行わせた研究とは? 日本を追放されたシーボルトは、なぜそんな日本を救おうとしたのか? 様々な疑問と共に始まったボクの興味も、既に20年近くの歳月が流れようとしています。 これらの問いに結論が出せないままだったものが、近年の研究による新しい史料の発見で明らかになりつつあります。 そんなシーボルトのことをどこから紹介して良いものか…。このブログを始めるにあたって大いに悩んでいましたが、ようやくまとまりもついたので、次回より知り得る限りの情報を分かりやすく発信出来ればよいなと思っています。 「今の世の中はグローバル化している」という、このありきたりな言葉が、ボクにとってはホントに軽薄なものにしか聞こえてこない、まるでリアリティを感じない言葉です。このことを理解した要因の一つが、このシーボルト先生の功績を学んだことに拠ります。 ウチの家宝の書、呉秀三博士の「シーボルト先生 其生涯及功業」 書の大きさも、内容も巨大な学術研究書です。写真ではなかなか伝わらないだろうけどね・・・ ![]() 次回より、具体的にシーボルト先生の功績に触れつつ、様々な人間模様や葛藤、その愛について紹介していきます。 そして、先人の偉大な研究者たちにも敬意を表しつつ。 <交通アクセス> •JR長崎駅から路面電車(3番系統 蛍茶屋行)15分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分 •JR長崎駅から路面電車(2番系統 蛍茶屋行)25分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分 •JR長崎駅から車で15分 •史跡出島から路面電車(2番・5番系統 蛍茶屋行)15分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分 •長崎歴史文化博物館からバス(風頭町行、1時間に1本運行)5分(中川町バス停下車)さらに徒歩7分 または路面電車(公会堂前電停から2番・5番系統 蛍茶屋行)5分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分 |
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