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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 5 最終回

岩崎弥太郎の話も今回が最終話。書いてて胸が熱くなりました…。
では、いきましょう!

弥太郎が目指した日本の海運業の海外からの自立。
しかし、当時上海航路はアメリカの「パシフィック・メイル社(Pacific Mail Steamship Company 1848年創業で、アメリカ政府の助成金を手太平洋定期航路を開設していた)」が独占していた。ここでいう上海航路とは横浜、神戸、下関、長崎、上海を結ぶルートである。この巨大な外資に勝つ見込みなど未知数であり、相当な覚悟とバックグラウンド、資本を要するものであった。

この上海航路を巡って、パシフィック・メイル社と三菱との戦いの幕が上がったのである。

戦いの手段は「値下げ競争」である。これは双方にとって大変苦しい戦いとなった。明治八年2月から10月にかけての三菱の運賃は、横浜―上海間30円から8円へ下がった。今の物価に引き直すと、30万円から8万円への値下げである。実に73%減。そのため三菱の負債は増加の一歩を辿る。このまま値下げを続けていては会社の存亡に関わる。

しかし、弥太郎は勝つまで止めないという信念の下、値下げ競争が継続していた。ここでパシフィック・メイル社がついにこの値下げ競争に音を上げた。彼らの上海航路からの撤退を条件に、彼らの設備と船を三菱に購入して欲しいという要求を飲み、弥太郎は交換条件として今後30年間パシフィック・メイル社が日本航路へ復帰しないことを約束させたのであった。

だが、外資との戦いはこれで終わりではなかった。

パシフィック・メイル社の撤退を期に、イギリス最大の海運業者であるP&O社が参入してきたのである。この世界最大の海運業者との戦いを三菱は再び行わねばならなくなった。

やはりこの戦いでも値下げ競争が始まった。パシフィック・メイル社との戦いの直後で満身創痍の三菱は、やむを得ず会社経費を徹底的に削減するという策に出ることとなった。

しかし、三菱の役員連中から、自分たちの給与を半分にしてほしいという懇願も出た。経営者に人徳があると、このような苦境の中でも社員はついていく、という正に典型的な社員たちの振る舞いである。このような会社にいることが誇りに思える社員は苦境の中でも幸せだっただろう。ただ、弥太郎を初めとして、社員もこのまま値下げ競争をしては負けることがわかっていたが、なかなか妙案は浮かばなかった。

そこに、以前坂本龍馬が言っていたことを思い出した、という。それは次のようなものであった。

資本金がなかった海援隊は、ある藩に武器の購入を持ちかけて輸入を代行する。そしてその藩からの金を運用し、別の藩にその金を貸して武器を買わせる。このようにして、船荷をダシにして金を貸して儲けていく、というものであった。こうしたキャッシュフローの円滑化によって、流通が拡大していくのである。

これをヒントに、弥太郎は「荷為替金融(にがわせきんゆう)」という起死回生の秘策を思いつくこととなる。これは、荷主が船荷を担保にして融資を受けられるサービスのことであり、顧客の流出を防ぐことも出来る優れた案であった。

海運業者である三菱の顧客の荷主には問屋が多かった。この問屋とは、江戸時代に荷主から委託された貨物を販売したり、または、商品を仕入れて販売したりした卸売商人のことで、室町時代の問丸(といまる)が分化・発達したものである。

弥太郎が商品である荷を担保にして資金を荷主に貸し付けるという、この「荷為替金融」を始めたところ、顧客の定着と融資先からの金利獲得が可能になった。これも一石二鳥の策で、これ以降P&O社との戦いは有利に運んでいったのである。

そして、この「荷為替金融」のシステムが発展し、「三菱銀行」が設立した。

こうして9ヶ月に及ぶ値引き競争に敗れたP&O社は日本から撤退し、外国資本との戦いに勝利したのであった。

・・・しかし、世界の海運業へと乗り出し、サンフランシスコに日の丸の国旗を掲げる夢が実現することはなかった。

胃がんを患い、志半ばでついに倒れたのだ。最後の力を振り絞って遺した言葉は、「まだ志半ば、十のうち一つか二つしか達成しとらん。けんど、もはや仕方ない。みな、わが志を継ぎ、事業を落とすことなかれ」というものだ。

その日は明治十八(1885)年2月7日、家族・社員、あわせて40名に見送られて岩崎弥太郎はこの世を去った。享年50歳であった。

その後、郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併し、「日本郵船会社」が設立された。三菱出身の日本郵船社長、近藤廉平は、明治二十九(1896)年、日本発のアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパの定期航路を開発した。

ここに岩崎弥太郎の悲願がついに達成されたのである。

その最初の船の名は「土佐丸」。日本最初の5千トン級の大型貨客船であった。マストに掲げられた旗は、共同運輸と三菱を象徴する、白地に赤二本線の二引きの旗。それは奇しくもあの「海援隊」の旗に良く似ていた。これが、以前この<シリーズ2>で、覚えておいてほしい、と言っていたものである。

日本郵政社の旗
日本郵政社の旗

海援隊旗
海援隊旗

この二つの旗を見比べるにつけ、ボクには岩崎弥太郎や弥之助らの、坂本龍馬への尊敬の念を感じとってしまう。本当はこの旗に込められた当初の意味は全然違ったものかもしれない。しかし、度重なる困難に知恵と努力で立ち向かい、諸外国から日本を自立させようとする精神が脈々と130年以上も続く今の「日本郵船」に引き継がれているとしたら、この重厚な歴史が美しい結晶となって過去から学ぼうとする人を魅了すると思う。

そして、三菱は弥之助以来の多角経営により、造船業をはじめとして、世界の大企業へと成長していった。

最後に、次のエピソードをぜひ知ってほしい。

大正11(1922)年11月17日、アルベルト・アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

 私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の
海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の
島々を見た時でした。
 [1,p140]

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組
員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せた
ことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を
見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはい
そいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私は
そうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛
しています。
・・・[1,p140]

これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

日本郵船とアインシュタイン 
※<アインシュタインの見た日本


弥太郎の精神を受け継ぐ三菱の社訓:三綱領は次の通りだ。

所期奉公 :期するところは社会貢献である。
処事光明 :フェアープレイに徹しなければならない。
立業貿易 :グローバルな視野で考えて行動せよ。

この社訓を読むと、弥太郎の理念が良く理解できる。大変素晴らしい社訓である。しかし、多角化し、巨大化した今の三菱の社員達全員がこの社訓を暗記し、その歴史の重みを十分理解して行動していると言えないはずだ。

なぜなら・・・特に昨今の度重なる三菱自動車の不正のニュース:パジェロ事件・リコール隠し・燃費改竄(かいざん)などを聞くにつけ、この初期理念はどこへ行ったのか?と思うからである。これまで書いてきた岩崎弥太郎らのすさまじい努力の歴史を知って、そのような三菱の社員であることに誇りを持てるような教育がなされていないことに由来する、一連の事件なのだろう。三菱の復活のために、全員がこの素晴らしい理念にもう一度立ち返ってみる必要があるだろう。

高島 岩崎弥太郎像
長崎市高島町 岩崎彌太郎之像

最終話を書き終えて、岩崎弥太郎のこうした生きざまを整理して考え直すと、この立像をまた訪れたくなります。全部読んでくれた人も、弥太郎のことを知ってこの像の前に立つと、また違ったまなざしで対峙することが出来るのではないでしょうか。
ボクらにかかわる一人でも多くの子供たちが歴史からの有機的な学びを得て、その後の人生に活かされるよう、ボクら自身も襟を正される思いがします。



■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4


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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4

もう飲んでも、筋トレしても、ギター練習しても、飲みながら映画観ても、にゃんと戯れてもさっぱり眠れないので、前回の続きを書こうと思い立ちました。結局、紫がかった東雲の空の頃寝落ちしました(;・∀・)

弥太郎4、いきまーす!!


明治七(1874)年4月、三菱商会はすさまじい経営努力の甲斐あって、業界2位へと躍進し、東京へ進出した。
船も10隻に増やし、社名を「三菱蒸気船会社」に変更。

この前年である明治六(1873)年11月に父の弥次郎が急逝。弥太郎の懇願もあって1年で留学を中断してアメリカ留学から戻った弟:弥之助も経営に参加していた。

岩崎弥之助
<DATA>
岩崎弥之介
■1851年2月8日~1908年3月25日(満57歳没)
■出生地:土佐国安芸郡井ノ口村


現在のように三菱が造船・金融・地所・倉庫など多角化したのは、この弥之介の功績である。1890年には、当時の価格10万円で、端島(軍艦島)炭鉱を購入している。また、後藤象二郎の長女:早苗子と結婚している。いずれグラバーの関連でまた登場することになるだろう。

そして、明治七(1873)年5月、三菱躍進の転機となる事件:台湾出兵が起こる。

台湾出兵
<台湾出兵>
この事件は、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害されたという事件があった。この犯罪捜査などについて、清朝政府が「台湾人は化外(けがい)の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避した。明治七(1874)年に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵である。54人が殺害されたという大規模な殺戮事件であるから、警察ではなく軍を派遣したのである。これは日本軍が行った最初の海外派兵であった。


話はそれるが、時の清朝政府が台湾の事を「化外」の地と考えていたということが公に語られている点である。・・・いずれこの話も詳細にすることがあるだろう。今の中華人民共和国の主張する台湾への考えと真逆だからである。

台湾出兵に際し、国には軍需物資を送る船と乗組員が不足していた。時の大蔵卿:大隈重信は、当然のように運輸業界トップの日本国郵便蒸気船会社頭取:岩橋万蔵を呼び、船を出させる提案をするが、外国への輸送は未経験という理由から、この提案を拒否する。

大隈重信
<DATA>
大隈重信
■1838年 3月11日~1922年1月10日 (満83歳没)
■出生地:肥前国佐賀
■内閣総臣(第8・17代)を歴任。早稲田大学の創設者であり、初代総長。
■身長:180cm (歴代内閣総理大臣の中で最も背が高い)


ただ、この岩橋万蔵がこの提案を拒否した裏には、自分らが断ればこの話が業界2位の三菱に行き、三菱がこの仕事を請け負えばその隙に日本の海運業の市場を独占し、主導権を更に盤石に出来るという考えがあったのである

しかし、弥太郎にはこれに対抗する策があった。それは政府が戦争のために購入していた10隻の船の借用を、この台湾出兵という政府の急場に付け込んで、申し出ることによって、これらの船を今後自由に使えるようにすることであった

そして弥太郎の目論見通り、台湾出兵後も政府の大久保利通より、この10隻の船の無償で使用許可を取ることが可能になる。大久保にとっては、海運に新参者の弥太郎への不信があった。しかし、海のプロフェッショナルを備えているという自負が弥太郎にはあった。なぜなら・・・・三菱にはあの解散した「海援隊」のメンバーを揃えているのであるからだ

大久保利通

<DATA>
大久保利通
■1830年9月26日~1878年5月14日(満47歳没)
■出生地: 薩摩国 鹿児島城下高麗町
西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。台湾出兵の戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡り、交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。ちなみに「義挙」とは正義のために行動を起こすという意味である。


これで、当初ライバルであった日本国郵便蒸気船会社を抜いて船舶所有数は21隻となって国内1位となり、台湾出兵で失った市場を瞬時に取り戻すことが出来たのである

更には、このようにして弥太郎は政府との大きなパイプを作った「政商」となり、政府からの支援金を年に25万円、台湾出兵後も船12隻を無償で借用することも出来たのであった。

 一方、この台湾出兵を契機として政府から見放された日本国郵便蒸気船会社は解散、三菱はこれを吸収し、「郵便汽船三菱会社」となった

ビジネスの業界において、このような一石二鳥のプランはそう易々と訪れるものではないだろうが、岩崎弥太郎がちゃんとしたビジネスの「機」を見ることに長けていたことを示す例の一つだと思われるし、リスクを背負い、認識し行動することの信頼度の高さがしっかりと政府側にも伝わったと思われる。

ボクも経営の立場にいるので人を見る時、この点は大変重要なポイントとなっている。リスクを背負わずに、外野からあーだこーだと指南するのは誰だって出来ることで、これがパートナーとして信頼できない人の典型と考えている。

自らの身の丈を認識せず、有能な部下のおかげで成り立っていることを忘れ、いわゆる数学的なリスクヘッジも行わず、感情の赴くまま拡大再生産をする経営者に誰もついていくはずがない。

この点において、岩崎弥太郎はやはり素晴らしい経営者である。自らリスクを背負い、権力者の顔を立てつつ自分の優位な条件を獲得する。もちろんここにはしっかりとした将来への予見も含まれていたのかもしれない。このような段階を踏まえているからこそ、次に訪れる最大の危機にあたって、後に紹介することになるが、社員達も一丸となって身を粉にし、三菱の危機を回避しようというモチベーションが生じたのである。


これで日本最大手となった弥太郎の次の目標は、外国船との闘争に勝つことであり、海運自主権を回復することにあった。ここに弥太郎の公民としての意識の高さもうかがい知ることが出来る。

当時は外国への航路が外国資本に独占されていた。そこへ大久保利通より、上海航路開設に向けた取り組みをしてもらいたいという依頼が舞い込む。

これで坂本龍馬との夢の実現へ向けて、世界の海運業へと乗り出すことになるのである。
世界の「海援隊」へと向けた、最初の船出であった。

■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3

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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3

さてと、GWの喧騒も終わって、日常に戻ったようなあまり変わらないような…。

弥太郎、いきまーす。


弥太郎が面白さや凄さは、ストーリーテラーだったにもかかわらず、「龍馬伝」ではさっぱり描かれておらず、むしろ強い言葉でいうとねつ造されてトリックスター的な役割であったのが残念だった。ちなみに、「トリックスター」とは→コトバンク “トリックスター”

ただ、時の権力者に接待攻勢をかけて、有利な情報を仕入れるために100人以上ある芸者のブロマイドを使っていたりもした、というエピソードもある。もちろん、その100人から好みの芸者を選ばせるためだ。武士の世の中が終了した直後だけに、このような生き残り術を駆使せねば、多数の従業員を抱える経営者があのような大企業へと発展することもなかったのかもしれない。いつの世も、このような古典的な接待やハニートラップによって政治や経済は動かされてしまうという側面があるのは面白い。


明治5年8月、既に政府高官となっていた土佐の同郷:後藤象二郎より、弥太郎のもとに重要情報がもたらされる。
それは・・・
「日本国郵便蒸気船会社」という外資に対抗するために設立した巨大な国策海運会社によって、三菱商会が脅かされる可能性があるというものであった。この時点で、たった2隻しか船を所有していない三菱が、15隻もの船を所有している日本国郵便蒸気船会社に、社員一丸となって対抗することを弥太郎は決意するのであった。

国策会社であるだけに、資金的なバックボーンが大きい。これに対抗するために弥太郎は一計を案じる。

そもそも三菱には武家出身者が多く、客に対して尊大な態度をとる者もいた。武士の世の中だった江戸時代には最高位にある武士に対し、商業は蔑視されていたからである。

ところで、なぜ、「士農工商」なのだろうか?なぜ商業が最下位におかれているのだろうか?
江戸時代に流行った「朱子学」の影響なのである。朱子学とは儒教の流れをくむもので、朱熹(しゅき)によってまとめられた学問で、ある意味宗教と言ってよい実態のものである。

朱熹
朱熹 1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日)

江戸時代には徳川氏の社会支配において、「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれた。五代将軍:綱吉の時代に孔子を祀る湯島聖堂が建造され、更には老中:松平定信時代に幕府の藩校で朱子学以外の講義を禁止する、というあの「寛政異学の禁」が出されたほどであった。

湯島聖堂
史跡湯島聖堂

この朱子学において、商業とは蔑視されるべき対象なのだ。商売とは見方を替えればある意味卑怯な職業である。人が汗水流して作った物を安くで仕入れ、それに利ザヤを付けていかに人に高くで売るかを行うからである。
現代ではこれがごく当たり前に行われているから理解しづらいかもしれないが、労働が尊いと考える人たちにとっては、苦労もせず商品を横流しするだけで利益を得るということが耐え難いのである。

実は、あのシェイクスピアの「ヴェニスの商人」も似たような構造がここにあるのだ

なぜシャイロックが「商人」なのか?ということ。シャイロックというユダヤ人はキリスト教から見れば、キリストを殺した民族:ユダヤ人なのであるから蔑まれる存在であるために、キリスト教徒からすると真っ当な仕事は全てキリスト教徒が担う。ユダヤ人であるシャイロックは、商品を横流しする「卑怯な商業」にしか職がなかったから商人をやっていたのである。

しかし、現代でもユダヤの大資本家といいうのはたくさんいる。あのロスチャイルド家もユダヤの資本家として有名だし、アインシュタインもそうだったが、もともとユダヤ人はこのような優秀になる素地もその教育や民族の資質そのものにあるのかもしれない・・・。


江戸時代はこの商業を蔑視する「朱子学」が、その他「親孝行」やさまざまな理念が都合良いこともあるので、封建社会を維持したい武士によって受け入れられた、ということになる。

このようにして、商人は武士にとって蔑む存在であるため、借金をしては踏み倒し、また借金をしては踏み倒し、ひいては「徳政令」という名目で借金帳消し令が幕府からも公的に出されていたのである。これは金を貸していた商人にとってはたまったものではなかっただろう。
こういうことをしていたのが、以前にも書いたように<※肥前の妖怪 鍋島直正 1>、学校で習うような幕府の改革でなく、むしろ幕府が滅びる要因とすべきことなのである。

弥太郎の許にいた元武士にとっては、このように商業とはずっと蔑むべき存在だったのが、明治になって今度は自分たちがその商人として働かなければならなくなった。当然、これまでの商業に対する感覚をすぐにぬぐい捨て去ることは難しかったであろう。教育とてしも、ずっとその社会の支配における「道徳」の規範としての儒学、中でも特に朱子学に重きがおかれていたためである。

弥太郎の凄いところは、このような武士たちの意識変革を、自らも武士階級であったのにやってのけた点にある。

社員の服装を商人の着流し&前掛けに改めさせ、武士の悪弊を捨て、現在の商売のホスピタリティに通じる笑顔での接客を訓練させた。このようにして弥太郎は社員の意識改革を進めてサービス向上に成功したのであった。

現代でも他社との競合において、資本や物量でかなわないなら自社の何らかのメリットを強調させるしかないが、自分の習慣や身に着いたものまで真逆にしてしまうことはかなり難しいのではないだろうか。しかし、弥太郎はこれを事実やってのけている。やはり歴史に名を残す人物というのは、このような学ぶべき側面が山ほど備わっている。

こういうのを知ることが歴史を勉強する本当の意味なのではないか、とボクは思う。入試や学校のテストで採点の不便さを解消するために選択問題ばかり行われていたり、無機的に年代を覚えさせられたりしている現状では、真に学ぶべき内容がおざなりで、問題を解くテクニックや入試に高確率の語句暗記という本末転倒な学びになってしまう。日本人が英語教育をあれほど強迫観念に駆られて6年間も行うのにあまり話せないということと、この誤った教育システムとは無関係であるはずがない。

■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2





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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2

岩崎弥太郎伝をすっかり忘れてました:(;゙゚'ω゚'):

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1

既に最終話までは原稿書いているんですけどね・・・
得意の放置プレイです。では、予告通りの「船中八策」から!


慶應三(1867)年六月、坂本龍馬は、京都に上っていた前土佐藩主の山内容堂に対し、大政奉還を進言するために藩船の夕顔丸で長崎を出航し、洋上で後藤象二郎に口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したと、されている。内容はこうだ。

「船中八策」
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
二、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
三、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
四、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
五、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
六、海軍宜シク拡張スベキ事。
七、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
八、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。

以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。

この8つを訳すと概ね次のようになる。

1、江戸幕府は政権を朝廷に還し、政令は朝廷が発すること。→大政奉還
2、上下の議会を設けて、そこに議員を置き、全てを参加させて、全て公の議論で決めること。→議会政治の開始
3、有能な公卿や諸侯、その他天下の人材を顧問として登用し、従来の有名無実の官職を除くこと。→人材登用4、外国との交際については広く議論して、新たな規約を立てること。→不平等条約の改正
5、古来の律令を改訂し、新たに永遠となる憲法を制定すること。→憲法制定
6、海軍をうまく拡大すること。→軍事拡大
7、政府直属の親兵を置いて、帝都を守護させること。→国家防衛
8、金・銀物価を外国と平均する法を設けること。→不均衡通貨レートの改正


どれも近代国家になくてはならないものだが、やはり坂本龍馬も「8」を重視していたことがわかる。なぜなら、これこそが国家の富が流出した元凶だからである。

■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題
■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題

この後、十月十四日。京都二条城にて、坂本龍馬の提案によって、徳川慶喜は政権を朝廷へ返還し、「大政奉還」が実現した。

新時代の幕開けかと思われたが…

その矢先、京都の近江屋で何者かによって暗殺される。享年31歳。日付:十一月十五日(新暦:12月10日)
この頃、岩崎弥太郎は大坂に滞在していたが、後藤象二郎からこの訃報を聞きショックを受けたと言われている。しかし、世界の「海援隊」志の火を消す訳にはいかないと思い直し、坂本龍馬の意志を受け継ぐ決心をするのであった。

慶應四(1868)年一月 鳥羽伏見の戦いが勃発。四月に維新軍は江戸城を接収し、薩摩・長州による明治新政府が樹立した。そうした時代の流れに抗えず、海援隊は解散せざるを得なかった。

岩崎弥太郎は矢も盾もたまらず海援隊に駆けつけた。そして、行く宛のない海援隊の隊士を土佐商会が引き取りたいという旨を長岡兼吉に伝え、彼らの面倒を見ることになる。この時、長岡から弥太郎は海援隊の旗を受け取るのである。

海援隊旗
この旗は二曳(にびき)と呼ばれていた。・・・この海援隊旗のデザイン、覚えておいてほしい。

ちなみに、この長岡兼吉は土佐藩の医師の家の出自で、あのシーボルトから鳴滝塾で医学を学んでおり、龍馬死後は海援隊の二代目隊長を務めていた。
海援隊
<海援隊>
この集合写真は、左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬である。


時は進み、明治二(1869)年。この頃、岩崎弥太郎は「土佐商会」で責任者として活躍していた。翌年には社名を「九十九(つくも)商会」と改め、ここから海運業にも乗り出すになる。「九十九」は土佐湾の地名「九十九浦」にちなんでつけられたものである。

明治四(1871)年七月、弥太郎の今後を決定づけたのが、新政府による「廃藩置県」である。従来の藩はなくなり、武士の時代が終わりを告げることになった。これにより、弥太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった。しかし、九十九商会には四万両という多額の借財が存在したが、その借財まで含めた一切合財を弥太郎は進んで引き継ぎいだのであった。

明治六(1873)年三月、社名を「三菱商会」に変更。現在のスリーダイヤのトレードマークは次のような成り立ちがあった。

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三菱グループポータルサイトより

弥太郎は世界を海運業でかけ巡り、世界中の港に日の丸を掲げることを目指した。
このようにして、弥太郎は海援隊の継承に向け、龍馬が目指した理想に向けていよいよ舵を取ることになったのである。

しかし、そこに待ち構えていたのは国内外での熾烈な競争だった。

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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1

久々大量の本を読めた日曜でした。で、さっぱり眠れないのでこの時間に(;・∀・)
どーせ眠れないから、記事を追加しておこう、ということで今回より、

「三菱がくしゃみすれば、長崎は風邪をひく」 とまで言われた(※正しくは、ウチのばあちゃんが言ってました^_^;)、NEW カテゴリーの三菱関連といきましょう!

長崎では2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」として以下の8つの構成資産が難産の末、世界遺産に登録されました。

1:小菅修船場跡
2:三菱長崎造船所第三船渠
3:三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン
4:三菱長崎造船所旧木型場
5:三菱長崎造船所占勝閣
6:高島炭鉱
7:端島炭鉱
8:旧グラバー住宅

ボクが直接関連しているのは、かつての大学院の研究で8、今の軍艦島ツアーガイドの仕事で7と6、となります。

これを見ると、ほとんどが三菱造船所と関連していることがわかります。
と、いうか、実態は全てが三菱との関連です。だから、これらはバラバラに存在しているのではなくて、明治の日本が近代化していく上で必要となった、現代に連なるコンプレクスなのです。そこで、

一体、三菱って何? という、疑問がわきますよね?

このカテゴリーである「三菱関連」の初めとして今回より、その創始者:岩崎弥太郎からスポットを当てます。彼の出自などはWiki など、ネットにも数多く書かれてあるので割愛し、まずはやはり坂本龍馬との出会いから始めたいと思います。


岩崎弥太郎といえば、恰幅の良い下の写真が最も有名であろう。

岩崎弥太郎
天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年2月7日)(51歳で病没)

この岩崎弥太郎が三菱の初代総帥となって、今に至る三菱グループの基礎を作ったわけである。
土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮 に生まれた。

ところで、土佐といえば、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気で、この時代は坂本龍馬を想起する人が多いだろうが、他にも明治日本の主役級の人材を輩出した地である。

この「龍馬伝」では坂本龍馬とは幼馴染の関係として描かれており、弥太郎は心理学で言うトリックスター的な役であったが、実際には土佐でこの二人が出会っていたということはないようである。

土佐藩の長崎での経済活動の拠点となったのが、「長崎土佐商会」(※正式名称:土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)である。弥太郎は土佐藩士:後藤象二郎に次ぐ二代目の主任として、ここでらつ腕を振ったと言われている。

土佐商会あと


坂本龍馬との出会いはこの長崎であり、それも大政奉還の年(1867年)だった。この年、弥太郎は再度の来崎であり、土佐藩のために金策に走り、蒸気船や武器弾薬を買い付ける仕事を行っていた。そして、後藤象二郎の仲介で、海援隊の給金のことで坂本龍馬が金の計算が得意な岩崎弥太郎の許へやって来たことが始まりだった。その内容は坂本龍馬ら海援隊の給金のことであった。
具体的には、亀山社中の時には隊士一人につき、月に土佐藩から3両2分もらっていたが、5両にすべしと弥太郎が申し出ることで折り合いをつけた。加えて彼らの脱藩赦免も申し出ることとなった。

しかし、後に海援隊隊士:長岡兼吉がやってきて、総額100両では足りないと言うのである。龍馬の分が入っていなかったからであった。弥太郎としては、龍馬らは丸山で毎晩遊び呆けているが、薩摩と長州に顔が利く龍馬に強く当たれない。そこで、弥太郎の裁量でしぶしぶ+50両を用意する。

その後すぐ、龍馬は弥太郎の所を訪れた。
「海援隊約規」を見せるためであった。それは今で言う「社則」のようなものである。後にも重要なので以下に示しておこう。

<海援隊約規> 

一. 凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及 佗藩ヲ脱スル者 海外ノ志アル者此隊ニ入ル 運輸、射利、開柘、投機 本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス 今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之 
二. 凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス 敢テ或ハ違背スル勿レ 若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ 隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス
三. 凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ 義気相責メ条理相糺シ 若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ 若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス 是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ 
四. 凡隊中修業分課ハ 政法、火技、航海、汽機 語学等の如キ其志ニ随テ執之 互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ 
五. 凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル

亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ 若挙事用度不足、或ハ学科欠乏を致ストキハ 隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ 右五則 右五則ノ海援隊約規 交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス 豈樊中ノ物ナランヤ 今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン 亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ 皇慶応三丁卯四月

これを現代語訳してみる。

一. およそ、かつて本藩(※土佐藩)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志ある者は皆この隊に入る資格がある。運輸、営利活動、開拓、投機、本藩の応援をもって主業務とする。今後、異論がないなら方針に叶う業務はこれに加わる。 
二. およそ隊中のことの一切は隊長の処分に任せる。隊員は、隊長の指示方針などに違背してはならない。もし暴乱や違反行為、隊に対する迷惑行為などがあれば、隊長がその死活を制することを許す。 
三. 隊中にあっては、互いの困難を助け合い、守り合い、互いの気分が緩んでいるときには責め合い、道理や筋道の通らないことは正し合い、独断で過激な行為に走るのを制し合うこと。仲間の邪魔をしたり、集団で他人の行為の邪魔をしたりするなどの行為は最も慎むべき事で決してこれを犯してはならない。
四. 隊中の修業分課は 政法、火技、航海、汽機、語学等で、その志に従ってこれを学ぶ。互いに勉励し、怠ってはならない。
五. 隊中の活動は独立採算とする。

活動に必要な経費などは、隊の活動で得た利益で賄うこと。収益は互いに分配し、私腹を肥やしてはならない。万一、資金が足りず、修業に支障が出るような場合には、隊長が建議し、出崎官役(※後藤象二郎)の支給を待つように。右五則、以上五則の海援隊の約規は実に簡素なものである。事細かな規則など必要ない。我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所にまかす、鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸をも合わせて「翔天隊」と言おう。この理想と精神を忘れてはならない。 
皇慶応三丁卯四月


海援隊約規
「海援隊約規」

この第1条は、身分出自に関係なく海外への志ある者なら誰でも登用するという。しかも、運輸・開拓・投機などを行い、利益を追究する。ただ、これは明らかに金儲けの追究は儒教道徳に侵された当時の日本の武士道に反するものである。しかし、龍馬としては金儲けをして社会のために使うというのが良いことであると言う。弥太郎は銭金を日々扱っているがそのように考えたことがなく、この龍馬の発想が今後の経営への考えに大きく影響を与えられることとなったのである。

以来、弥太郎の日記(「岩崎弥太郎日記」)には、しばしば龍馬が登場している。例えば、6月3日、共に酒を酌み交わし、その心中を打ち分ける。そして刀が時代遅れとなり、銃を売る連中が暴利をむさぼる時代となることを龍馬は弥太郎に語った。つまり、西洋から日本が市場化されてしまうことの懸念である。だから、日本が外国との対等の貿易が出来るように、国を富ませ、自らが先駆けとなって七つの海を駆け巡り、大きな仕事をすると言うのである。
また、同日記に「天気快。午後坂本龍馬来たりて酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」というように、弥太郎が龍馬と意気投合していく様子が目に浮かぶようである。

このような話を聞いて、自己の出世ばかりを考えて行動していた弥太郎は龍馬のスケールの大きさに感激した。出世のために学問に励み、武士が嫌う金のことも頑張ったにもかかわらず、このような話に大いに心を動かされた。
しかし、その自分の才能が土佐の宝であるとまで龍馬に言われた弥太郎は、龍馬の「一緒に世界の海に繰り出そう」という提案に、世界の海援隊を夢見るのである。「世界の海援隊」、この構想こそが、後の「三菱」へとつながっていくのであった。

慶應三(1867)年6月、龍馬は大政奉還のために長崎を土佐藩船「夕顔」に乗って、後藤象二郎と共に京都へ旅立つ。出会ってわずか3カ月足らずなのに、この龍馬の存在が弥太郎の胸には深く刻み込まれた。

そして、この日の日記には「余不覚にも数行の涙を流す」と記されてある(「岩崎弥太郎日記」)。

つづきます。たぶん次回は「船中八策」から!!




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