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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

西郷隆盛 (5)-斉彬閣下の007 -

さて、先頃の大河ドラマで、月照さんと入水自殺を試みるも救出されて奄美大島へ流される形となった西郷さんでした。「愛加那」さんと結婚し、子どもを二人授かります。
愛加那さんは絵画が残っていますね。
愛加那
愛加那


その時の子で、長子を西郷菊次郎といい、後の京都市長などを歴任します。また、娘の菊草(きくそう)は西郷さんのいとこで、大山巌の弟:大山誠之助の妻となりました。ちなみに、大山巌はこの話でしたね(※西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

この奄美大島編から、やや時間をさかのぼって、殿様の島津斉彬(なりあきら)公の工作活動をしていた時期を見ておきましょう。

ちょうどペリーが浦賀に来航した頃、斉彬に取り立てられて「御庭方」という役目を担います。あまり地位は高くないのですが秘書のような役目で、幕府の八代将軍吉宗が創設した「御庭番」を模倣し、斉彬が新たに作った役職。それが「御庭方」でした。ここで西郷さんは斉彬の近くに控えていて、なかなか自由に動けない藩主である斉彬に代って、幕府の実力者や有力大名、公家の所へ出入りして人脈を作っていくのです。

大河ドラマでもありましたが、一見出世したかに見えて、途方もなく江戸では金がかかるのです。現代でも人脈を作っていくのに、取引外での接待や贈答など、経費で落ちないことも進んで行わないと密な情報は得られないのと同様です。また、ドラマではほぼ語られていなかったようですが、京都や大坂では女遊びもしていたようで、祇園のお気に入りの仲居がいました。あだ名が「豚姫」(笑)。歌舞伎の「西郷と豚姫」として残っていますね。一説には京都祇園の茶屋「奈良富」の仲居をしていた「お虎」という人だということです。ドラマでは芸人の近藤春菜さんが演じていた人がそうでしょう。
西郷と豚姫
西郷と豚姫

そんなあだ名つけるなんて女性に失礼じゃないか、と怒る人もいるでしょうが、本人もそう呼ばれて喜んでいた、という話も残っています。今と違って男女ともふくよかな人が評価されるという側面もあるので。ただ、西郷さんがデブ専だったかどうか、というとそれもよくわかりませんが、勝海舟が「氷川清話」の中で「京都に、西郷隆盛に愛された『豚姫』というふくよかな女性がいた」、「たかが女遊び一つとっても、西郷はたいしたもんだよ。何か見た目じゃないところで惹かれあったんだろうね」とは言っているし、人物本位で人との付き合いをしていたのでは、とボクは思っています。

一方で薩摩では、新婚なのにすぐ単身赴任し、父と母が相次いで亡くなり、新妻のスガとの生活二年で破綻してしまいます。家父長制の下でのスガの生活は苦労が絶えなかったであろうと推測されます。夫が単身赴任で全然家にいないのに、つい先日まで他人だった西郷家という大家族の家事をほぼ一人で切り盛りしなければならない。それなのに、夫は仕事の一環とはいえ派手で奔放な浪費生活をしていることが耐えられなかったのかもしれません。

ただ、この時期の人脈作りとしては後の展開において、大変重要な人物らと知り合いになっていきます。松平春嶽(しゅんがく)の懐刀で優秀な橋本左内、水戸藩の改革派で西郷さんが大変心酔した藤田東湖、そして薩摩の錦江湾へ共に入水した月照さんなどですが、この時の人脈作りの妙が西郷さんの真骨頂とも言えるものでした。先ほどの「豚姫」との付き合いが人物本位であろうと思ったのは、この事例があるからです。

一般に人は自分と気が合って、一緒にいて心地よい人との付き合いを求めるでしょう。その方が楽だし、まるで違う考えの人とはケンカになるに決まってます。しかし、西郷さんは、当時の「尊王攘夷派」とも「開国佐幕派」とも分け隔てなく、その人物の度量を見極めながら交流を深め、これが後の明治に至るまでの財産となっていくのです。

この人脈作りは、もちろん斉彬公の下での情報収集活動を行いやすくするためということが優先していたでしょうが、これが現代で「インンテリジェンス」と呼ばれるものの基礎をなしています。映画の007のように殺しや裏切りや錯綜し、美女が解決のカギを握っている、などいうのはまずありえないでしょう。ま、美女系で言うと、かつて分かりやすいチャイナのハニートラップに楽々引っかかってしまった首相もいましたが、確か、はしも…
はしも・・・
えと、はしも・・・


とにかく、西郷さんらが行っていたのは、異なる身分や立場を巡る水面下での非常に地道な活動です。

果たして、これまでのみなさんの「幕末」イメージはどんなものでしょうか?

尊王攘夷派がとにかく外国人を毛嫌いしていて、至る所で徒党を組んでテロ活動を行っており、それに輪をかけて凶暴な連中らと刀で切り合いをしている、という殺伐としたものではないでしょうか?それってまさに「坂本龍馬」や「新撰組」などのイメージです。

けれども、幕末の実際の政治においては、そのような表に出ている暴力的な手段で下っ端連中が権力を掌握するという所まではいけません。幕末最強の佐賀鍋島藩は、むしろ国内の殺し合いをしないために努力していたので、最後の最後あたりまで佐幕でした。

今の我々民主主義社会と違って身分制社会である上に、権力者は血縁関係者であって、選挙で選ばれるということは皆無です。しかも、その上には天皇がいらっしゃいます。権力を握ろうにも高貴な武家に生まれついていないならそもそも即アウトです。だからといって権力者が常に権力を自由に使えるという訳にはいきません。そこで、諜報活動を盛んにして、様々な人達への根回しを十分に行い、権力を行使しやすくしておく場を予め作っておくことが必要となる訳です。

だからこそ、あまねく権力を行使するには異なる身分や立場、思想をも超えて、有能で話せる人間とのつながりが意味を持ってくるのです。

既存のイメージとは随分かけ離れていますが、若かりし頃の西郷さんはそのような諜報活動のエキスパートでした。

さあ、大河ドラマでも奄美大島編が終了して、薩摩へと戻ってきそうです。そして、いよいよ動乱の世の幕開けです。

では、次回もお楽しみに―!

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-
西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-
西郷隆盛 (3)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 2-
西郷隆盛 (4)-かる~く、グラバーとは -

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西郷隆盛 (4)-かる~く、グラバーとは -

大河ドラマ「龍馬伝」 の第43話29:30~辺りからで、なぜかわかりませんが英語と日本語交じりで、こんなシーンがありました。

岩崎弥太郎が「オルトさん、オルトさん。エゲレス流のビジネスを教えてくれや~」とぶしつけに部屋に入ってきた後の会話です。

龍馬伝グラバー・オルト

ウィリアム・オルト「君はいつから日本人贔屓(びいき)になった?」

トーマス・グラバー「何だと?」

オルト「稼ぐだけ稼いだら、日本から逃げろと君は言ったじゃないか。一体どうしたんだ?」

グラバー「確かに。確かに私は、日本人を軽蔑していた。だけど、今は違う。名も無き若者たちがこの国を変えようと懸命になっている。私心を捨ててね。彼らに会って私は考えを変えたんだ!」

オルト「なるほど、だが残念なことに彼らには将来の展望が無い。幕府を倒して帝に政権を返す?そんなことをすれば混乱を招くぞ。だが我々にとっては願ってもないことだ」 と、オルトはグラバーに不敵な笑みを見せる…。

このウィリアム・オルトのリアリティある言葉こそ、世界史を学んだ人間からすると、当時の西洋人の本音だろうと思われるシーンでした

しかし、本当にグラバーはこのように感じていたのでしょうか?

あの大英帝国から見ると、日本は未だ軽蔑すべき対象であるアジアの他国と同様に弱小国です。小さな島国が20世紀に世界最大の国家となってましたから。

20世紀初めのイギリス領
https://jugo-blog.com/industrial-revolution11

グラバーが幕末の志士達と長崎で過ごした20代という青年期は、現代を生きる我々が想像することすら難しい激動の時代でした。この真っ只中で、グラバー自らも商人としての立場から大変革の「核」とも言うべき役割をも担いました。それが軍需品の取引です

スコットランドのアバディーンから、ほぼ地球の裏側の日本に21歳でやって来て、初めは茶の取引で財をなしますが、英国までの航路は湿度がきわめて高い熱帯を通ることになるので、長期の運搬中に茶はカビが生えたりと不安定です。しだいに割の良い軍需品の取引を行うようにもなります。

ただ、それが様々な事例を見ていくと、ただ「割の良い」という利潤の上だけで済む話ではないとボクは考えています。

グラハーは以来、ずっとこの日本の地に滞在し、73年の生涯のうち21歳から53年間は日本で過ごしているのです(途中、海外へはもちろん数回船出しています)。

グラバー旧邸南麻布
↑ゲートの奥に晩年のグラバーが過ごした邸宅があった、東京の港区南麻布邸付近。今、ドイツ大使館や中国大使館がありますね

唯一グラバーの言葉が残っているといわれる、長州の毛利家が編んだ維新史が毛利家文庫にあります。

その編集人の取材にグラバーはこう応えています。

当初は、ハリー・パークスは幕府の側に立っていたが、鹿児島で島津久光と会談の後に態度を変えたと語り、続けて

「このグラバーが、日本のため一番役立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩、長州の間にあった壁をブチこわしてやったということだ。
これが私の一番の手柄だと思う。
私は日本の大名たちと何十万、何百万の取引をしたが、私は日本のサムライの根性でやった。
徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分が最も大きな叛逆人だと思っている」
と。

この話は、グラバー研究の第一人者で、ボクの師匠であるブライアン・バークガフニ博士に一度確認したことがあります。

「コレ、先生は本当の話だとお考えですか?」

バークガフニ博士:「いや、本当のところはよく分かってないと思います」

バークガフニ博士も、やはりこの全てを信じている訳ではない、ということでしたが、ボクなりに研究を進めてきたことからすると、これもまた十分にあり得る話ではないかと考えています。「龍馬伝」のこのシーンはグラバー研究者にとっても、案外グラバーの本音ではなかったか?と思ったシーンです。

グラバーの話は、いずれ別カテゴリーで必ず詳細に書こうと思っています。
みなさんも、グラバーや西郷隆盛、五代友厚など幕末の志士たちを偲ぶ、グラバー園にぜひおいでください!

◆グラバー園ウェブサイト



西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-
西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-
西郷隆盛 (3)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 2-

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西郷隆盛 (3)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 2-

「西郷どん」今日からすね。

ところで、昨年2017年秋に、「坂本龍馬が教科書から削除されるかも」ということを受けて、「ふざけるなーっ!」とヒス○リックに騒いでいる人も多いようです。例えば、とある有名な先生の記事を引用しておきましょう。おヒマがある方、下にリンク貼っているので全文読んでみてください。

参考:「『坂本龍馬が教科書から消える』には、大誤報が潜んでいる」

・・・はい、それはもうおっしゃる通りかと。

ただ、教科書に登場してたからメジャーだということでなく、また、昔から有名でないから載せるなということでもなく、坂本龍馬を載せる載せないにかかわらず、子どもらに薩長同盟のちゃんとした内容と意義を正しく伝えられていないことを本来問題にしなければならいはずです。でないと、正しい歴史を子ども達に伝えるという教育の目的が本末転倒します。

で、この記事を読んでもさっぱりそれが書いていないので、この先生もしかして?…と疑ってしまいます。いやいや大先生に向かって畏れ多いことですね。それでもまあ、「縁の下の力持ちはなりだろ」とは思いました(;・∀・)

しかし、現にウチの中学生や高校生に聞くと、軒並み、よく分からないけど坂本龍馬が仲の悪い薩摩と長州を結び付けてくれたおかげで、幕府が滅びて明治の日本が作られた、と思い込んでますからね~。残念ながらボクの知り合いでも、このことをまともに語れる人は皆無です。

まだ今シリーズを書いてる途中で言うのもアレですが、メディアや学校が坂本龍馬をそんな誤解のあるように教え続けるなら、龍馬の記述のない方がよっぽどこの場合に限っては歴史の真理が伝わると思いますが…。

とにかく、この件に関してのボクの論点は、そんな今の世の中が騒いでいるところにはなく、ずっと前から懸念していることなのです。

さてと、前回は薩長同盟に至る国内事情を書きました。

あれほど血で血を洗う戦いを繰り広げてきた薩摩と長州が、その怨念の垣根を越えてまでどうして同盟を結ぶに至ったかの前提となる基礎編でした。

今の長州(山口県)の人をいっぱい知っていますが、やはりそれでも忸怩(じくじ)たる思いは抱いているようです。今でさえそうなので、当時は大変なものだったでしょう。何しろ、時の長州の人達は草鞋(わらじ)の下に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書いて、毎日踏み潰していましたからね。憎しみの深さがわかるエピソードです。ま、そりゃそうでしょうけど。

これは、「あの薩摩のカスどもと、会津のクズどもを毎日踏みつけにして、あの時の恨みを忘れまい」ということです。

しっかし、よくそんな所に西郷さんはほぼ単身乗り込んでいけたものです。よほどの根回しと、確固たる自信がないと出来ないことで、下手すると長州へ行った瞬間に首を取られます。

ただ、この時は長州に主導権はありません。その理由の一つが、幕府と朝廷、そして強力な諸藩をほぼ長州一藩で敵に回している状態だからです

だから、いろんな理由があるにしても薩摩が手を差し伸べてきたのは長州にとってラッキー過ぎます

というのも、西郷さんらがいくら味方の一橋慶喜を毛嫌いするようになったから、といって、逆賊長州と結ぶのは大変なリスクがあるからです。幕府が敵にまわるのは薩摩にとっても危険です。つまり、そこまでして同盟など結ぶ理由は薩摩にはないということです。

しかし、長州で高杉晋作によって俗論派が追い出され、正義派の政権が立てられたことによって、せっかく西郷さんらが和平の妥協案を取り付けてきたのに、一橋慶喜はそれに不満を持ち、ついに今度は自らが軍を率いて長州を滅ぼすための征討に出かけます

この情報は当然長州も得ることになります。

でも、長州にはもはや戦える武器がない。いや、逆賊長州はどこからも武器を売ってもらえないのです

絶体絶命の長州。まさに存亡の危機です。

ところが、思わぬルートから武器の入手が可能になります。

まず、当時の両藩の経済事情を見ておきましょう。

この年あたりはちょうど不作で、米がとれず金に困っているのが薩摩でした
当時は俸禄米(ほうろくまい)という制度であり、武士は給料を今のようにお金でなく、米で支払われ、その米を換金して生計を立てていました
ただ、武器はたくさん持っています。

これに対し長州は、普通に米はたくさんとれて金はあるのですが、肝心の武器がそうした事情で手に入らないのです

どうやったら迫り来る一橋慶喜らの軍に立ち向かえるのか?幕府軍が巨大な軍事力を持っていることは、「禁門の変」で既に身をもって体験済みです。早急に武器の入手ルートを探さねばならない・・・。

ここで偶然(?)にも、イギリスのラザフォード・オールコックのあとを継いだ、新公使ハリー・パークスなる人物が上海へ向う前に、下関にやって来ます。
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サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes)
■1828年2月24日~1885年3月22日)
■明治初期までの18年間、駐日英国公使を務める

パークスはここを訪れる前に京都へ行き、軍事力を背景に、安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を朝廷に迫ったのです。
これを「兵庫開港要求事件」と言いますが、朝廷からすると、穢れた外国人をそんな都の近くに来させるわけにいかない、という理屈だったので、いろいろあってこんな事件にまで発展しています。

ちなみに、この当時の天皇はガチガチの攘夷論者:孝明天皇で、明治天皇の父ですね。

下関にやってきたパークスは高杉晋作、伊藤博文と会談する場を持ちましたが、その時、ふと、この困窮した長州がすでに、敵であるハズの薩摩を通して秘密裏に武器を大量に購入しようとしていることを察知します、それも、ある人物から…

その人物の名は・・・













トーマス・ブレイク・グラバー。

thomas glover

次回もお楽しみに~!

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-
西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-

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西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-

薩長同盟を「正しく」理解しよう、ペガサスファンタジーを打ち砕く~、流星拳でーって、逆か(笑)何が逆なのかは、いつもの昭和の教養です。

て、ことで今シリーズは龍馬ファンを落胆させるかもしれませんが、事実なので仕方ありません・・・。

そももそ、明治時代では「坂本龍馬、誰それ?」 でしたが、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく(※『龍』でなく、『竜』であるのがポイントです ま、それは追って)」が「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載され、高校時代にこの本を読んだ武田鉄也さんなど、大変感化されて「海援隊」という意図が分かりやすい名のバンドまで作っていらっしゃいます。

ボクも高校生の時、海援隊の長崎公会堂のライヴに、武田鉄也を大好きなウチのおばに連れられて行ったことあります。あの時は海援隊でなく、ソロコンサートだったかな…。ステージに譜面台を置いて、歌詞を見ながら歌っている姿に驚きました。「え~っ!! あんた、コンサートなのに歌詞覚えてないのか?」(゚Д゚) ポカーンって。

坂本龍馬は、今でも中学校や高校でも教科書に薩長同盟の仲介をした、と必ず出てきます。
手元にある日本史B用語集(山川出版社)の薩長同盟を(例によって、これではさっぱり真意が伝わりませんが)書いておきましょう。

薩長連合(同盟)
第二次長州征討に当たり、結ばれた薩摩・長州両藩の同盟。1866年京都で坂本・中岡らの斡旋により、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛・長州の木戸孝允が会盟、相互援助を約し、討幕の主力を形成した。薩長盟約ともいう。

・・・・ま、いいわ。ではそもそも「同盟」とは何でしょうか?

どう‐めい【同盟】
[名](スル)個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束すること。また、それによって成立した関係。「同盟を結ぶ」「同盟してストライキを打つ」
<デジタル大辞泉>


ハイ、ここで問題です。

Q.1866年に結ばれた薩長同盟において、薩摩と長州は互いの共通の目的を達成するために、各々どのような行動をとることを約束したのでしょうか

・・・と、答える前に、一口に同盟といっても、そこにはいくつか種類があることを知っておきましょう、例えば、

1:今の日米同盟のように、日本国とアメリカ合衆国という国民の総意に基づいてなされているもの。※上記辞書の定義では「国家」となっています。

2:18世紀のヨーロッパなどでよくあった、王様同士で約束するというもの。※上記辞書の定義では「個人」となっています。ちょい重めの口約束みたいなもんです。

3:内容が「秘密」なのか「公然」なのかというもの

薩長同盟の場合、慶應二(1866)年一月。京都の薩摩藩小松帯刀(たてわき)邸にて、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允(たかよし)によってこの盟約が交わされ、証書の裏書を坂本龍馬が行っているものが今でも伝わっていますが、この時点では上記のうち2であり、3で言えば「秘密」に該当します。各藩の人たちは知りません

ここから更に時間が約二年経過し、翌年の慶應三(1867)年十二月になってようやく薩摩の島津久光と長州の毛利広封(ひろあつ)が公式に会見しますので、これで3はようやく「公然」となります。

そもそもなぜ薩長同盟なのか? 言い出したら長くなるので相当端折るのをご理解いただきたいのですが、薩摩と長州は血で血を洗う苛烈な戦いをこの前にやってますから、この当時の両藩は相当な犬猿の仲ぶりです。

まず、ここに至る流れを簡単におさらいしておきましょう。

単純化すれば、この時は幕府方諸藩と薩摩に対し、長州という構図であると思って下さい



1:1863年6月、幕府方:京都守護職の松平容保(かたもり)が「新選組」を使って長州の志士たちの隠れ家「池田屋」を襲撃する。「池田屋事件」
池田屋事件
池田屋の有名な階段のシーン


2この報復で7月に長州は京都へ出兵すると、一橋慶喜によって体よく取り込まれていた会津と桑名の兵がこれを迎撃する。「禁門の変(蛤御門の変)」
禁門の変
禁門の変 図
左が幕府軍で、右が長州軍


3これらの情報を探っていた薩摩の西郷隆盛らも初陣を果たし、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)は狙撃されて、大将を失った長州は混乱。多くの戦死者を出して敗退。町は一面火の海と化す。
久坂玄瑞
久坂玄瑞
■天保十一(1840)年五月~元治元年七月十九日(1864年8月20日 満24歳で没)
■生地:長門国 萩


4:援軍で活躍した薩摩&西郷隆盛の存在感が増す。


5:この「禁門の変」で逆賊認定された長州へ追い打ちをかける「第一次長州討伐」が決定

6:揉めに揉めた長州への討伐軍の総大将がやっと尾張藩の徳川慶勝(よしかつ)に決定し、その大参謀に西郷隆盛が就く
徳川慶勝
徳川慶勝
■文政七年三月十五日(1824年4月14日)~明治十六年(1883年)八月一日
■尾張藩14代藩主


7:9月に幕府の軍艦奉行:勝海舟が西郷隆盛の許をふらりと訪れ、幕閣のくせに幕府がこんな戦争するのが今の日本にとって不利益だということを諭し、長州討伐の強硬派だった西郷隆盛は考えを改める契機となった
勝海舟
勝海舟
■文政六年一月三十日(1823年3月12日)~明治三十二年(1899年)一月十九日
■異国応接掛附蘭書翻訳御用、 海軍伝習重立取扱、講武所砲術師範役、 天守番頭過人、蕃書調所頭取助、 天守番頭格、 二の丸留守居格軍艦操練所頭取、軍艦奉行並、海軍伝習掛、海軍奉行並、陸軍総裁、軍事取扱を歴任。


8:長州に寛大な措置を下し、西郷は吉井友美(のち、友達なのに西郷の名前を間違った人 ※「西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-」参照)と税所篤(さいしょあつし)だけを連れてほぼ単身で、血の雨を降らせた敵の長州へ入る((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル



9:西郷が説得中に、長州内でも改革派の正義派と、西郷に融和したい俗論派がどうするかで更なる内ゲバを起こす。



10正義派の高杉晋作がたった一人で決起し、夜半に伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて合流し、俗論派を追い出す。「功山寺決起」
高杉晋作 功山寺決起像
高杉晋作 功山寺決起 像
■天保十年八月二十日(1839年9月27日)~慶応三年四月十四日(1867年5月17日 満27歳没)
■生地:長門国 萩
ちなみに、「正義派」と「俗論派」は、正義派の高杉晋作が名づけたもの。


11:一橋慶喜の地元水戸で尊皇攘夷を求めた「天狗党の乱」が発生し、慶喜を慕って蜂起して敗れ、降伏してきた者まで斬首するという慶喜のやり方に、薩摩の西郷隆盛と大久保利通は嫌悪感を抱くようになる
一橋慶喜
この頃の一橋慶喜
■天保八年九月二十九日(1837年10月28日)~大正二年(1913年)十一月二十二日
■第十五代征夷大将軍:徳川慶喜
■在任:慶応二(1866)年十二月五日~慶応三(1867)年十二月九日


12:7で勝海舟が言っていたように、アヘン戦争以降、他国からの侵略の脅威が増す中で、今日本がなすべきことは長州との国内問題ではなく、いずれ将軍の座に就いて権力を握ろうとしている卑劣な一橋慶喜を排除することだと考えるようになる

つまり、本来日本の利益のためには薩摩と長州は手を取り合うべきなのではないか、と。


・・・あれほど犬猿の仲であった薩摩と長州が同盟へと至る基礎知識です。

一橋慶喜への不信&日本の将来への明確な意思とビジョン。これが西郷や大久保らが抱いた同盟への根本理由です

そして、ここから日本を大きく変えた、そして誰もが想像さえ出来なかった(正しくは、想定していた人間はちゃんといますが…)薩摩と長州の同盟へと怒涛の展開が待っているのです

あとは、そのやり方です。

さて、みなさんはこの上記1~12までの項目で、この時、日本の未来を決定づけたものとして、どれを選択しますか?

ボクはためらうことなく、10です。高杉晋作の決起こそ、日本の歴史の転換点だと思っています。ただし、これら一連の流れの中には西郷隆盛の緻密な工作活動が随所に含まれていることも知っておいてください。

次回は、いわゆる「薩長同盟」の内容と、後世で誤解の元となっていることについて書きます。
あ、上で書いてる質問にも「忘れずに」答えます(; ・`д・´)

お楽しみに~!

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

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西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

次の日曜日から、今年の大河ドラマ「西郷(※せご)どん」が始まる、ということで、当ブログでも便乗して多少、西郷隆盛に触れておこうかと。

幕末といえば、一橋慶喜、松平春嶽、勝海舟、大久保利通、高杉晋作、木戸孝允、鍋島直正、三条実美、岩倉具視、山内容堂、いくらでもキャラ立ちした人がいますね。
…あれ?誰か大事(と世の中で思われてるよう)な人がいないような……気のせいでしょう。

で、いきなりですが、この人、西郷隆盛(たかもり)ではありません

Saigo_Takamori.jpg

華麗なる手違いと寛容の精神で後の世に伝わっています

どう手違ったかというと、日頃西郷さんは「吉之助(きちのすけ)」と友達連中からは呼ばれているのですが、公的な場、つまり、政府の高官や貴族宛の手紙なんかには、当たり前ですが本名を書かねばなりません。

その証拠に、貴族だった岩倉具視(いわくらともみ)宛の直筆の手紙のひとつには別に、ちゃんとした名前のサインが残っているのがあるんです(※「吉之助」と書いてるものもあるんですけどね…)。
こんな感じで↓
岩倉様 吉之助

また、1869年8月、「正三位」という位を明治天皇より授かることになります

ここでも位を与えるのに、本名を知る必要があります。

けれど、これが歴史の面白いところで、西郷さんはちょうど函館戦争を終えて、鹿児島に船で戻る途中で連絡がつかなかったのです

明治政府は仕方なく、西郷さんの友人:吉井友実(ともさね)なら知ってるだろ、てことで西郷さんの本名を聞きに行きます。
でも、吉井はいつも「吉之助」としか呼んでいないため、なかなか本名を思い出せません。

はっ!と、吉井は思い出しました。

明治の役人に、「思い出しました、隆盛です!!」と伝え、明治政府はこれを理由に「西郷隆盛」の名で書類を作成しました。

しかし、実はコレ、西郷さんの父親の名前です

でも、これを変更することなく、この名で位を与えてしまいました。その後も西郷さんは名前が間違っていたことを知っても、
「ま、いっか」と、この父親の名前をそのまま使ったのです。

ちなみに、本名は「隆永(たかなが)」と言います

ところで、「間違い」ということではありませんが、似たようなことは他にもあります。
はい、コレ↓
西郷隆盛2

誰でもご存じの西郷さんの肖像画です。

でも、この肖像画も本人ではありません。

西郷さん、大の写真嫌いだったために、一枚も残っていないのです。
例えば、西郷さんのことを尊敬している明治天皇が、西郷さんの写真を欲しがった時でも断っているくらいです。

実は、あの西郷さんの写真は、イタリア人の銅版画家エドアルド・キヨッソーネが、西郷さんの実弟の従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を参考にして、なんと合成して描かれたものです

ただ、次の絵もあります。
肥後直熊筆「西郷隆盛像」(黎明館蔵)

この絵は、昭和二(1927)年、没後50年祭をきっかけに、西郷屋敷の隣に住んでいた肥後直熊が幼い頃、西郷に可愛がられ昔の思い出をもとにして描いたもので、これが西郷さんを見たことがある人によって描かれた唯一の肖像です。

ちなみに、
身長は、五尺九寸八分(181.194cm)
体重は、二十九貫(108.75kg)
 なので、当時としては超デカいサイズです。男子が150cm台くらいでしたから。ちなみに勝海舟が156cmで、一橋慶喜は150cmらしいです。

デカい、と言えばですが、こんなエピソードも残っています。

西郷さんはのちに西南戦争で自害して果てます。その時に切腹せず、介錯(かいしゃく)されたため首がなかったのですが、首のない身体を見て誰だか皆がわかったのです。というのは、西郷さんは「陰嚢水腫(いんのうすいしゅ)」に侵されていていて、いわゆるキン〇マが膨れ上がっていたから、「あ、これ西郷さん」と判別できたのです。

犬猿の仲である島津久光に、沖永良部島へ島流しの刑に処された時、過酷な炎天下で、しかも大変不潔な環境下での野ざらしの牢獄生活をしていたため、バンクロフト糸状虫に寄生されてフィラリア感染症になっており、その後遺症から象皮病を併発し、馬にも乗れないほどにカボチャくらい肥大化した陰嚢水腫を患っていたのです。薩摩へ戻ることが許された時には足にもダメージを負っていて、ほとんど歩けなくなっていたくらいでした(※調べたところ、もしかすると薩摩にいたころに寄生されたかも、という説もあるらしいです)。

この島流しの刑の話はいずれ必ず話をしますが、一般的のイメージや想像以上に、西郷隆盛は大変優秀な工作や諜報活動のプロです
せっかくの機会だから出来るだけ簡単に話をまとめられるよう、副業1が激多忙なんですが、ちょい頑張りますね(;・∀・)

ぜひ、今年の大河ドラマを日曜から深く・正しく・楽しく見るためにも、いきなり「核心部分(その1)」をUPしておこうと思います。
その次回の予告をしておきましょう。

「西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く-」・・・です。

お楽しみに~!



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