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「肥前の妖怪」 鍋島直正 4

鍋島直正公生誕200年を記念し、いよいよ直正公像の除幕式が、カノン砲の祝砲とともに昨日3月4日(2017年)執り行われました。

直正公銅像除幕式
直正公の銅像完成 「シンボル復活、感無量」 佐賀新聞

この像、実は直正公生誕から100年を迎えた大正二(1913)年、佐賀城北御堀端に県内外からの寄附金により銅像が建設されたものの二代目となる。この11月10日の除幕式では、式辞を述べたのは、建設委員長を務めた大隈重信。
当日の写真をみると、シルクハットを被った参列者から踊りを披露する子どもまで、老若男女を問わず様々な人で賑わった。旧城下の各町では競って電飾や作り物を凝らしたり、茶店や相撲を開催したりと、城下全体が奉祝ムードに包まれたという。

直正公銅像除幕式古写真1

しかし、この銅像は昭和十九(1944)年に太平洋戦争のため供出された。
それから70年経過し、直正公の生誕200年を迎えた平成26年、銅像再建に向けた募金活動が開始され、この3月4日には佐賀城二の丸跡にて除幕式が行われ、その英姿は幕末の雄藩・佐賀を象徴する存在として再び現代によみがえった。
(※鍋島閑叟公銅像除幕式古写真 徴古館一部転記しました)

とにかく佐賀行きたい。





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「肥前の妖怪」 鍋島直正 3

1844年、天保十五から弘化元年に代わる年の旧暦7月2日、オランダ軍艦がやって来た。それがオランダ海軍コープス大佐率いる軍艦パレムバン号。

Palembang.jpg
<オランダ軍艦パレムバン号長崎入港の図)>長崎学デジタルアーカイブズ

この時、長崎奉行所の役人にオランダ国王の親書と献上品を差し出した。しかし、その親書の現物は残っていない。だが、その日本語訳は、以前紹介した呉秀三氏の「シーボルト先生其生涯及功業」に全文が載っている(※シーボルト先生 ~その生涯と愛~ 1参照)。一部を抜粋してみよう。


我日本国が西洋各国と、なるべくは安穏平和の手段によりて、和親通商の条約を取結ぶことを望み、彼此雙方に差支のなき通商を開始するは、第一に日本の国益となることにして、徒らに国法と旧慣とに泥みてこれを拒絶するは、国家に取りても国民に取りても大いなる災害を招くものなりとの意見を提出せり。

大意:日本が西洋各国と、なるべく平和的な手段によって、通商条約を結ぶことをオランダは望んでいる。これは、双方にとっての支障がない通商を開始することが、第一に日本の国益となることであって、これまでの(いわゆる「鎖国」の)ような国法と旧来からの慣習とにこだわって、こうした諸外国との通商を拒絶するのは、国家にとっても日本国民にとっても大きな災害を招くものであるという意見を出させてもらう。

しかも、これは将軍徳川家慶に充てて、次のような大変丁寧に記されているのである。

貴国の政治に関係する事なるを以て、未熟の患を憂て、始て殿下に書を奉る。伏して望む、此の忠告に因て、其未熟の患を免れ給はん事を。

大意:貴国の政治に関係することなのではあるが、近い将来の災いを心配して、あえて将軍様にこの書を献上するのである。強く望むのであるが、この私の忠告を受け入れてもらい、将来の災いを逃れなさって欲しい。

また、次のようにも述べている。

是等の船を冒昧に排擯し給はゞ、必ず争論を開かん。争端は兵乱を起し、兵乱は国の荒廃を招く。二百余年来我国の人貴国居留の恩愛を謝し奉らんが為に、貴国をして此災害を免れしめんと欲す。古賢の言に曰く、災害なからしめんと欲せば、険厄に臨むこと勿れ、安静を求めんと欲せば、紛冗を致すこと勿れ。

この意味は概ねこうだ。

これら諸外国の船をむやみに排除するなら、将来必ず紛争を招く。紛争は必ず戦争となり、国の荒廃を招くだろう。二百年以上、我が国は貴国出島での居留を認めてくれた恩義に感謝するために、貴国がこうした戦争災害を逃れて欲しいと思っている。昔の賢人の言葉に、災害が無いようにしたいと思うなら、自ら災いが起こるようにしてはいけない。安定を求めようと思うなら、いらぬ紛争を起こしてはいけない、と。


このオランダ国王からの進言は、短絡的にシーボルトのアドバイスがあったからということだけではないだろう。1623年にイギリスはアンボイナ事件によってアジア経営から締め出されたが、この17世紀に繁栄していたオランダは、その後オリバー・クロムウェルによって1651年に制定されたイギリスの「航海条例」をきっかけとして4次に渡る「英蘭戦争」を経験して敗北、両国はヨーロッパ市場において完全に敵対関係にあった。したがって、オランダ国王としても、このような進言には、日本での貿易を独占していたオランダの権益を守るための側面があったことも確かであろう。

ここでは省くが、このオランダ国王ウィレム2世の親書は他にもアヘン戦争の事情や、日本へのアドバイスがたくさん盛り込まれている。この親書は1844年のものだから、ペリー来航の9年前の出来事であるにもかかわらず、その危険を的確に予測している点が本当にすごい。

にもかかわらず、江戸幕府の返答はこうだ。原文が漢文なので、いきなり現代語に訳して載せておく。

昨年七月、貴国の船が王の親書を携えて長崎港へ来航した。伊沢美作守がその国書を受け取って、幕府へと持って参った。貴国の王とは二百年もの通商があったので、さすがに日本の悪い点をよく御存じであり、たくさんの忠告をいただいたことには大変感謝いたす。
しかし、今その心配には及ばないところである。幕府の祖である家康公が幕府を開いた時、海外諸国とは通信も貿易も行っていなかった。後に通信を行う国、通商を行う国を定めている。通信を行っているのは、朝鮮と琉球に限っていて、通商は貴国と清のみである。この他に新たに交易を行っている国はない。貴国と我が国との関係は、これまで通商を介してであったが、通信はなかった。
したがって、今回こうした親書を遣わしたことは、我が国の祖法に反することになる。このことを国王へお伝えしたい。このように我が国の祖法は厳密に守られている。しかも、この祖法は子々孫々に至るまで長く守られるべきものである。失礼ではあるが、以後、こうした親書はご遠慮いただきたい。ただ、貴国との通商に関しては約定に従って、これまで通り続けていく所存である。
国王の忠告を聞いた我将軍は、とても深い感銘を受けている。十分な意を尽くすことは難しいが、こうした経緯があるので、どうかご了承いただくようお願い申し上げる次第である。
弘化二年乙巳六月朔日

日本国老中
阿部伊勢守正弘
牧野備前守忠雅
青木下野守忠良


・・・この江戸幕府からの返答書。明らかにおかしい点がある。
それは、「幕府の祖である家康公が幕府を開いた時、海外諸国とは通信も貿易も行っていなかった」という点。なぜなら、以前にも述べているが、徳川家康は、イギリスのウイリアム・アダムスを外交顧問として、イギリス国王ジェームズ1世の国書を受け取ってイギリスとの国交を持っていたからだ。

william adams2
William Adams
(※鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5 参照)

更には、伊達正宗の家臣:支倉常長がローマに渡ったが、これも元々家康がスペインとの交流に関心を持っていたからである。
つまり、オランダ国王からのこのような丁寧な進言に対して、江戸幕府は「ウソ」で返しているのである。

支倉常長
< DATA >
■ 支倉常長(はせくら つねなが)
■ 元亀二(1571)年)~元和八年七月一日(1622年8月7日)
■ 別名:六右衛門
■ 霊名:ドン・フィリッポ・フランシスコ
■ 主君:伊達政宗

サン・ファン・バウティスタ号復元
<復元された サン・ファン・バウティスタ号>

筆者は現代の常識や視点から歴史を断罪するのは間違っていると考えているが、さすがにこうした幕府の体たらくでは切迫する情勢を見究められず、滅んでも仕方がなかったのではないか、と思ってしまう対応であるのだ。

しかし、こうした幕府の粗悪な対応をよそ目に、鋭い着眼点から自ら長崎港に浮かぶオランダ軍艦パレムバン号に乗り込んだ人間がいたのだ。

それが、鍋島直正。





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「肥前の妖怪」 鍋島直正 2

さて、鍋島直正公の2回目です。
今回より数回は世界史的な視点を入れて考察を加えていきます。


1853年、ペリー艦隊が浦賀を訪れた時、実は鍋島直正公はこれを打ち払うよう意見を述べている。

夷狄共 倨傲之振舞 難差摑
大意:異国共の傲慢な振る舞いは差し置きがたい。
「鍋島直正公伝」

ところが、この言葉に反して、世間に「攘夷論」が後に高まった際には次のようにも言っている。

攘夷ハ不得手ニテ甚ダ迷惑
大意:私にとってはこの攘夷という風潮は本当に苦手なことであって、迷惑なことである。 
「続再夢記事」

これら相矛盾した言葉でわかるように、この当時の直正公の真意は量り難いのである。その真意は・・・後にわかる。

ここで視点を変えて、日本を取り巻く当時の世界情勢を見ておく。

1853年、アメリカ合衆国がペリー艦隊を日本に派遣したのは、ホイッグ党のフィルモア大統領の時である。ペリーはフィルモアの国書を持参して江戸幕府に迫り、翌1854年、「日米和親条約」を締結し開国を実現させた。この時、ペリーは出島三学者のひとり、シーボルトの日本に関する書籍を熟読していて、最近の調査によってペリー進軍の前に、シーボルトが日本を軍事侵攻しないようにという手紙を送っていた事実があった。これまで散々アメリカの友好的な船団を砲撃し、アメリカ人に死傷者まで出していた江戸幕府の政策は蒸気船という最強の軍事力に対して屈することになったのである。

perry the illustrated london news oct 22 1853
<The illustrated London News Oct 22 1853>

日米和親条約原本
<日米和親条約原本>

また、いわゆる「鎖国」政策を続ける日本に対し、世界の国々にとっても200年以上もの長い通商関係を続けているオランダが日本との仲介役になって、こうした極端な保護貿易主義を改善してくれないだろうかという期待もあった。

そして、日本にとっても重要な転機であるはずだったのである。それが、イギリスのウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判もあった、チャイナで発生したアヘン戦争(1840~1842年)。この戦争を始めるよう、イギリスでロビー活動をしていたのがあのグラバーも関連する「ジャーディン・マセソン商会」である。

世界は蒸気船の発明によって、いわば「第二次大航海時代」へと突入している。さかのぼると、アメリカのロバート・フルトンは、外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、1807年8月17日にハドソン川で乗客を乗せた試運転に成功していた(※発明に関しては諸説あるが、ここでは通説のフルトンの発明としておく)。

Robert_Fulton_Clermont_cropped.jpg
<外輪式蒸気船:クラーモント号>

徳川家康の時代以来、海からの防衛は楽だった。帆船の時代だったからである。そこで家康や国内の街道を整備し、国内の適切な個所に譜代大名らを配置、そして甲板のある船の建造を禁止した。つまり、海からの攻撃は敵にとっても容易ではないので、陸からの江戸攻撃さえしのげると幕府は安泰であったということを家康は熟知していたのである。この地政学観点からの家康の政策は情勢を鑑みた素晴らしいものである。

ただ、ここには条件がある。「海からは容易に攻撃されない」、というものだ。逆に海から攻撃が容易になると、あっという間に江戸は破壊されてしまうのである。それを可能にしたのが、「蒸気船」なのであった。

このような世界の海上交通革命が進む中、日本だけが無理を通せば、帝国主義を推し進めるイギリスなどの西欧諸国にチャイナ同様確実にやられてしまう。こうした情勢をシーボルトは知っていたのだ。だからこそシーボルトは、国外追放処分となってオランダに戻ると、国王ウィレム二世に日本に開国を勧告すべきだという旨を説いた。もちろん日本に残してきた妻子に会いたいという個人的な願望もあったであろう。しかし、日本で生活し、江戸参府を行って日本の調査を行ううちに、当時の日本の、海外に対する軍事的防衛の脆弱さに気づいていたということだ。

この進言を受け入れたオランダ国王ウィレム二世は、日本の開国を手助けすべく、シーボルト起草による開国勧告を、江戸幕府への正使を派遣して送ったのであった。

King_Willem_II.jpg

次回は気になるこの開国勧告の中身が、どのようなものであったか?というところから続けます。


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「肥前の妖怪」 鍋島直正 1

今回から、筆者:浜口改めメカ口(※注「めかぐち」、「めかろ」ではありません)が、幕末に坂本龍馬や数々の志士達を差し置いて、ダントツで尊敬する「鍋島直正(なべしまなおまさ)」です。

鍋島直正なくしては、今の日本はない!

まず、この写真です。
鍋島直正

・・・どうでしょうか?背後に妖気さえ漂う、このただならぬ風貌。まさに「肥前の妖怪」と呼ばれるにふさわしい… 
懐に手を突っ込みブーツに立ちポーズで遠くを見るなどのポーズでなく、折り目正しく正座でカメラをガン見。

この直正の先見性とメカへの情熱は狂気に満ちたモノがあります。今でいう「理化学研究所」創設、初の反射炉完成、国産アームストロング砲初開発に成功、2015年に世界遺産ともなった三重津海軍所創設、日本初の実用蒸気船「凌風丸」完成、部下への寛大な御心、などなど、とても1回では終わりそうにありません。

< DATA >
■ 時代:江戸時代末期(幕末)
■ 生涯:文化11年12月7日(1815年1月16日)~明治4年1月18日(1871年3月8日)
■ 改名:貞丸 → 斉正 → 直正
■ 別名:閑叟(かんそう)
■ 戒名:綱聖院殿閑叟尭仁大居士
■ 官位:従四位下・侍従、肥前守、議定、北海道開拓使長官、大納言



では、1回目は鍋島直正を語る上で、とても重要な事件。それが、

「フェートン号事件」

江戸時代、唯一西洋との窓が開かれていた長崎。佐賀藩は幕府の命令により、福岡藩と1年おきに、長崎の警護を任されていた。

しかし、ペリー来航の45年前、佐賀藩に強烈な危機感を持たせる出来事:フェートン号事件が発生する。この年1808年は佐賀藩が警護担当の年であったが、オランダ船の来航もなく平穏であったため、莫大な経費のかかる警護の手を緩め、兵を通常の1/10の100名を残し、残りは藩に戻していたのである。
そもそも佐賀藩藩主:鍋島斉直が就任した時、すでに藩の借金が1万5000貫あったとされ、財政破たん寸前であったという事情がある。したがって斉直の財政再建の一環として、不要な経費削減の政策を行わねばならなかったのである。しかし、天領:長崎の警備には莫大な予算を投入しなければならず、内密で熊本藩に引き継いでもらおうとまで画策していたが、その密約が露見して、年寄役の有田権之允は切腹したという経緯もあった。

鍋島斉直 高伝寺所蔵
<鍋島斉直 高伝寺所蔵>

そのような中、文化五(1808)年8月15日、突如、オランダの国旗を掲げてオランダ船に偽装したイギリスの船が出現する。イギリスのフリゲート艦フェートン号であった。てっきりオランダ船だと思ったオランダ商館では、商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)を派遣したが、彼らは武装ボートに拉致される。船にはイギリス国旗もただちに掲げられた。

フェートン号
<フェートン号> 長崎歴史文化博物館所蔵

< DATA >
■ クラス: ミネルヴァ級フリゲート
■ 全長: 砲列甲板:141ft(43.0m)
■ 全幅: 39ft(11.9m)
■ 喫水: 13ft 10in(4.2m)
■ 機関: 帆走(3本マストシップ)
■ 乗員: 280名
■ 兵装: 38門(公称値。カロネードは含まれていない)
■ 上砲列:18ポンド(8kg)砲28門、後甲板:9ポンド(4kg)砲8門、18ポンド(8kg)カロネード6門、艦首楼:9ポンド(4kg)砲2門、
18ポンド(8kg)カロネード4門


そもそも、このフェートン号がやってきた目的は、世界史的に見ると当時ナポレオン戦争でオランダはイギリスと交戦状況にあったので、このアジア方面での敵国オランダ船の捕獲であった。しかしオランダ商館員二人を捕らえたものの、長崎港内にはオランダ船が長崎におらず、代わりにこの商館員を人質に捕らえたのである。そして、艦長フリートウッド・ペリューは人質解放の条件として長崎奉行所に食料と水を要求、この要求を飲まなければ長崎を砲撃すると威嚇した。

これに激怒した八十一代長崎奉行:図書頭(ずしょのかみ)松平康平は、警護に当たっている佐賀藩に出撃を命じるが、佐賀藩は警護の兵を松平図書頭に無断で帰藩させており、四国の各藩も対処に消極的であったので、この事件に対応できなかった。

そして、オランダ商館長:ヘンドリック・ドゥーフの説得により、やむなく松平図書頭がこの要求を飲んで、食料と水を与えたことによって人質二人は解放。17日の朝にはフェートン号は長崎を離れた。

ただ、この人質解放の条件となったことは、幕府に禁じられていた内容だったので、この責任をとって松平図書頭は、始末を書いた遺書を残して享年41歳にて切腹し、佐賀藩家老らも5人が切腹した。この事件の処遇として、幕府は佐賀藩の責任を追及し、11月に100日の閉門を鍋島斉直に命じた。

・・・しかし、この幕府の対応はあまりに理不尽であろう。

そもそも佐賀藩のような外様には、幕府に武装して反抗させないよう、参勤交代など財政的にもきつい政策を課しておいて、このような突発的な事件が発生して、いざ武力が必要となった時には、なぜちゃんと武装して防衛しないのか、ということを強いていることになるからである。
江戸幕府のこうした理不尽さにはいずれ詳しく触れることもあるだろうが、このような理不尽極まりない処遇を行うからいずれ滅びの道を進むのである。

それはさておき、事件後には歌舞音曲すら禁じられ、城下は正月にもかかわらず静まり返っていて、髭を剃ることすらも禁じられていたという。更に不幸なことには、文政二(1819)年には藩の江戸藩邸が焼失。文政十一(1828)年には台風が直撃し、藩内では死者1万人の大被害となった。この台風は通称「シーボルト台風」と呼ばれるが、この台風襲来で財政は極度に悪化し、借金は十三万両に上ったと推計される。坂本龍馬の時代には5両で今の約50万円と言われているので、それより50年前の出来事であるから、多少のインフレ率は無視しても、十三万両は今の価値で130,000×100,000=13,000,000,000円。13×10の9乗だから、130億円の借金となる。
こうして、かねてよりの借金などと相まって、佐賀藩の財政は本当に破たん寸前であった。

そうした藩の逼迫(ひっぱく)する状況下で、父:斉直のあとを継いで、天保元(1830)年、17歳で第10代藩主となったのが、この直正であった。


次回は、直正の財政再建策などからです。

松平図書頭墓地大音寺
<図書頭松平康平墓地 大音寺>

康平社 諏訪神社境内
<図書頭松平康平 康平社 諏訪神社境内>




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メカ口のメカ:その1

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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