CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 3

予め、一連の記事を書くにあたって、参考にした主な文献を列挙しておこう。

「鉄炮記」 文之玄昌
「鉄砲伝来考」 坪井九馬三
「種子島譜」 1677年
「種子島家譜」 1805年
「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽二十二年)~1867年(同治六年)
「新旧発見記」 アントニオ・ガルバン
「日本教会史」 ジョアン・ロドリゲス
「東洋遍歴記」 フェルナン・メンデス・ピント
「エスカランテ報告」 ガルシア・デ・エスカランテ・アルイヴァラード


いずれも、これまでに様々な研究が行われている文献である。
これらの内容を比較対照することが求められるわけであるが、信頼のおけるものとしては、やはり「エスカランテ報告」ではないかと思われる。

この「エスカランテ報告」はガルバンの「新旧発見記」と比べて、その目的が異なるのである。つまり、前者がメキシコ副王に宛てて書かれた内部報告書であるのに対し、、後者は公開を目的としたものであるということ。したがって、「エスカランテ報告」はあえて誇張や虚構を書く必要がないということ。ガルバンの「新旧発見記」はポルトガル帰国後編さんしたものを、彼の死後、友人によってまとめられて1563年に出版されたものである。だから、帰国後に伝聞情報によって書かれているので、一級資料とは呼べず、内容自体に確からしさを求めることができないのである。

これに対し、そもそも、この「エスカランテ報告」とは?

1542年、メキシコ副王がルイ・ロペス・デ・ヴィリャロボス率いる艦隊を派遣。これは新大陸とアジアへの航路開拓を目指すものであった。エスカランテはこの艦隊の商人頭だった。この途上、ポルトガル勢力圏にあったモルッカ諸島のティドレ島に至った際、ポルトガル人でティドレ島の隣の島であるテルテナ島守備隊長(※「カピタン」という):ジョルダン・デ・フレイタスより停泊が認められた。このカピタンの兄がディオゴ・デ・フレイタスというが、その時にこの兄であるディエゴから得たと思われる情報がここで重要なのである。

その内容を以下にまとめると次のようになる。

① ディエゴ・デ・フレイタスがシャム(現在のタイの古名)に停泊していた時に、レキオ人たちのジャンクが一隻やってきた。この「レキオ人」とは「琉球人」のことだとされている。ポルトガル人たちは彼らとここで良い交流を持った。

② ある時には、フレイタスと一緒にシャムにいたポルトガル人二人がチナ(China)沿岸で商売をしようとして、一隻のジャンク船で向かったのであるが、彼らは暴風雨に遭遇し、レキオス(琉球)の、ある島へ漂着した。そこで彼らは国王などから手厚いもてなしを受けたが、それはシャムで交流したあのレキオ人らのとりなしによるものであった。そして、食料を提供されてここから去った。

③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

この「エスカランテ報告」にはこの二度のレキオス渡航の年代が記載されていないが、フレイタスが1544年にシャムを去ってマラッカを経てテルテナ島に到達しているため、レキオス渡航の1度目は1542年、二度目が1543年だとシュールハンマー氏など、様々な研究では考えられている。

この二度のレキオス渡航が、ガルバンの「新旧発見記」と類似するのであるが、最も異なる点は「新旧発見記」では「種子島」へやってきたという。しかし「エスカランテ報告」では「レキオス(琉球)」にやってきた、という点である。
更に考えなければならないポイントは、ポルトガル人らの友人となったあの「レキオ人」たちのことである。つまり、果たして彼らは種子島からやってきたのか、それともレキオス(琉球)からやってきたか、ということである。

ここで、次の資料の出番となる。

「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る443年間
「歴代宝案」 
収録期間は1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る444年間 であり、、琉球王国の外交文書を記録した漢文史料。1集49巻、2集200巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の全270巻からなるが、現存するのは1集42巻、2集187巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の計250巻である。大変資料的な価値が高い文書である。

この時代に琉球国王であったのは、尚清王(しょうせいおう)1497年(弘治10年) - 1555年7月13日(嘉靖34年6月25日)で、琉球王国第二尚氏王統の第4代国王である。
この信頼のおける文書において、1541(嘉靖十九)年と1541(嘉靖二十)年に一艘の貿易船をシャムに派遣しているという記述がある。
そこで、先ほどのフレイタスらが交流を持ったというのが、この琉球王国から派遣され、貿易船に乗ってやってきた琉球(レキオ)人であろう。そして、1542年にポルトガル船が漂着した際に歓待したのが、種子島ではなく、やはり琉球ではないか?

次回は、なぜこのポルトガル人らの二度目の来航を拒否したのか、という点について考察してみたい。


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1:大浦天主堂 1

大浦天主堂。副理事長と、この冬一番の極寒の寒風吹きすさぶ中、物好きも程々にしろと方々で揶揄されつつ行ってきました。
今回はその創建にあたって、どのような経緯があったがに焦点を当てます。

大浦天主堂正面
正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」といい、日本にある天主堂の中で最古である。「ふらんす寺」とも呼ばれた。
長崎は事始めが大変多いことに改めて気づく。

<DATA>
■着工:1863(文久三)年12月
■竣工:1864(元治元)年12月
■完成:1865(元治二)年 2月19日(旧暦1月24日)
■設計者:フランス人宣教師 ルイ・テオドル・フューレ(Louis-Theodore Furet, 1816年 - 1900年)神父&ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)
■建築者:小山秀之進
■建築様式:ゴシック様式・リブ・ヴォールト天井(別名 コウモリ天井・柳梁天井)。空間を天上へ導くゴシック様式の教会に多い。
Oura_Church_Nagasaki.jpgquatation:Chris_73※天主堂内部は撮影不可。
■国宝指定:1933(昭和8)年1月23日
■国宝再指定:1953(昭和28)年3月31日

「日本二十六聖殉教者天主堂」の名の通り、日本二十六聖人に捧げられた教会堂であり、彼らの殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。
ちなみに筆者の実家は西坂町で、この二十六聖人のすぐ近くに住んでいて遊び場にしていたのであるが、このような事実があるとはつゆ知らず子供時代を過ごしてきた。長崎の、いや日本の重要な歴史が身近にあるのに、長崎の子供が何も知らずに成長してしまう…。これがこのブログを始める契機の一つともなっている。

この天主堂は創建されたいきさつは、まずアヘン戦争(1840~42年)にまでさかのぼる。
戦後1844年にフランスにも開港したチャイナだったが、パリ外国宣教会は既に東アジアへの布教を行っていた。日本の開国も近いとローマ教皇庁は、琉球で日本語を学んだフォルカード司教を長崎に上陸させようとするが拒絶されて彼の来日は果たせないままだった。このフォルカード司祭は、あのルルドの奇跡、ベルナデッタ・スビルーの愛徳女子修道会の入会を斡旋した人物である。
フォルカード司教
引用HP:聖母に出会った少女、ベルナデッタの歌

琉球ではその後も多くの神父が日本語を学んでいる。日仏条約締結の翌年、1859年にはジラール神父がフランス総領事通訳として来日し、1862年に横浜の外国人居留地に天主堂を創建。
ジラール神父
ジラール神父
このジラール神父が日本布教総責任者となり、今度は長崎に天主堂を建てるために琉球で学んでいたフューレ神父を1863年に派遣する。元々この天主堂創建には、1597年に殉教した二十六聖人を保護者と仰ぐためという目的があり、西坂の地に建てたかったのであるが、御触れにより居留地以外での建設が許可されなかった。だからこの天主堂は西坂に向けて建てられたのである。二十六聖人はこの年、ローマ教皇ピオ9世により列聖されている

フューレ神父
フューレ神父
1863年8月、司祭館が完成する頃にはプティジャン神父も加わったが、フューレ神父は禁教化での信者獲得が困難であることを悲観して翌年10月に帰国してしまう。
あとを継いだプティジャン神父だったが、棟梁の小山秀之進らが工事中止の態度に出たことで苦境に立たされる。しかし、長崎奉行(※当時は服部常純:はっとり つねずみか?)が工事人夫を3倍に増やしてくれたおかげで、予定通り師走までに工事が終了。
翌1865年2月19日には献堂式が行われ、居留地に住む多くの異国人が参列した。

大浦天主堂はパリ外国宣教会本部を模して造られたことが2007年1月に判明した。私も少しお世話になった、長崎総合科学大学・林一馬教授が発見した、以下の設計図からである。
大浦天主堂パリ外国宣教会本部
完成後の画像と比較すれば酷似していることが見て取れる。
大浦天主堂上野彦馬江崎べっ甲店所蔵
創建時大浦天主堂:上野彦馬撮影 江崎べっ甲店所蔵

天主堂が創建された3年後である1868年(明治元年)、星取山から大浦居留地越しに長崎港を俯瞰した写真。矢印の先端に天主堂の尖塔が小さく見えている。
大浦天主堂1868年ごろ星取山から長大図書館
大浦天主堂(1868年頃)星取山から 長崎大学附属図書館所蔵

別角度からの画像で、1872年(明治5年)に上野彦馬がドンの山中腹から撮影した居留地の風景。大浦天主堂は左端に写っているが、創建時の尖塔の両サイドは取り払われていることがわかる。
外国人居留地1872年上野彦馬長大図書館
外国人居留地(1872年) 上野彦馬撮影 長崎大学付属図書館所蔵

洋館が多く立ち並ぶ居留地の繁栄がよくわかる一枚であろう。海上にも多国籍の船が停泊していて、長崎はまさに異国情緒あふれた景色が展開した街であった。

こうしてたった一つの教会の創建を知悉するだけで、キリスト教布教というのは大変な使命感をもって行われた事業であることが理解できる。

2017年1月21日、明日より「沈黙―サイレンス―」(マーティン・スコセッシ監督)が公開される。
もちろん、原作は遠藤周作の「沈黙」。もうずいぶん前に読んだ小説だけど、この作品以来、遠藤周作の作品はエッセイまで含めて数多く読みました。「沈黙」の内容に関しては様々な異論はあるにしても、遠藤周作は人物的にもとても大らかで素晴らしい人です。



また外海の遠藤周作文学館に行きたくなりました。

遠藤周作文学館


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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 2

前回の文献:「鉄砲伝来をめぐって」『鉄砲伝来前後』種子島開発総合センター編 有斐閣刊所載 の中での推論で気になるのは次の3点。

1 一五四二年(天文一一年)に三人のポルトガル人、アントニオ=ダモッタ、アントニオ=ベイショット、フランシスコ=ゼイモトがシナのジャンクにのってリャンポウに向かおうとしたところ台風に襲われて種子島についた。そして貿易上ひじょうに有利な国を発見したという情報を、マラッカへ帰ったか、あるいはチモールへ帰ったかは知りませんが、南の方へ帰ってそれを報告した。それではまた早速行こう、そんなに貿易上有望な土地なら行こうということで、その翌年、一五四三年(天文一二年)にふたたびジャンクに乗ってやってきた

2 『鉄炮記』のどこを見ても台風で漂着したとは書いておりません。ただ大きな船がやってきたと書いてあるだけで、台風に襲われて難破したとは、どこにも書いてないんです

3 一五四二年は自分たちの意思でなく日本へたどりついた。一五四三年は自分たちの意思で日本についた。その時に鉄砲を日本人に伝えたのだということです


このポルトガルの資料であるアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563)では、1542年に、3人のポルトガル人が、中国船(ジャンク)に乗って雙嶼(リャンポー)に向かって出航したが、台風に襲われて日本の種子島へ漂着した、と書かれている。

「新旧大陸発見記」には3人のポルトガル人の名を、アントニオ・ダモッタ、アントニオ・ベイショット、フランシスコ・ゼイモトの3人だと書いてあるが、「鉄炮記」には「牟良叔舎(ムラシュクシャ)、喜利志多陀孟太(キリシタダモウタ)」の2人。「牟良叔舎」は当時の明の発音で読むと「フランシスコ」になるという・・・。「陀孟太」が「ダモッタ」であることは音からして間違いはないだろう。

ただ、私にはこの「牟良叔舎」がフランシスコに当たるかどうか、かなり疑わしいのである。日本の資料に書かれてあるのだから、日本風に音読みしても「フランシスコ」に聞こえないからである。カタカナ表記すれば、「ムラシュクシャ」。「フランシスコ」と比較すれば、母音箇所において「ラ」のみが共通するだけである。更にこのアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563年)の記載は、いくつか矛盾点も指摘されていて、「新旧大陸発見記」と「鉄炮記」の記述を比較すると、一致しない部分がかなり多い。いくつか列挙してみると次の通りとなる。

1:「新旧大陸発見記」では3人のポルトガル人が日本に漂着したとするが、「鉄炮記」では百余人の南蛮人が来航したとあって「頁胡の長」 2人の名しかない。

2:「新旧発見記」では暴風雨により日本に漂着したと記しているが、「鉄炮記」では実は暴風雨によって漂着という記述がない。

3:「新旧大陸発見記」ではポルトガル人の漂着地を北緯32度としているが、「鉄炮記」が来航地とする種子島南端は、北緯30度20分である。当時の航海技術が2度近く誤るほどの不確実性しかなかったのか?その誤差は260km程となってしまい、長崎から山口まで行ける距離である。

4:「鉄炮記」 に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が「新旧発見記」 には全くない。

以上を加味すると、「鉄炮記」と「新旧大陸発見記」における共通点が本当にあるのか?という疑問すら最終的に残るのである。果たして、どちらを信頼すべき資料とすべきか?

・・・ただし、鉄砲伝来についての資料はこれだけではない。



次回は、その他の資料も比較検討してみましょう。








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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 1

「鉄砲伝来」についての説は現在いくつか存在します。
でも、今回は定説や教科書にとらわれず、筆者が合理的に考えてみて最も妥当な結論を導いてみます。

・・・と、ここでいきなり結論を言えば、真の意味で鉄砲を伝えたのは南蛮船(あの有名なサンタマリア号などのキャラック船(※ポルトガル語では「ナウ」という)に乗ってきて、意図して鉄砲を伝えようとしたのはポルトガル人ではない。
また、その初来日は定説の1543年ではなく、1542年である。

650px-NanbanCarrack.jpg
以下はそう考える根拠となるものを示す。確かに、文献に書かれた内容も確かに大事だが、当時の周辺状況や一般的な人間行動学といったものまで含めて考察してみたい。

日本人に鉄砲の現物を供与し、使用法を直接指導したのはポルトガル人であることは間違いないだろう。アジア諸国や日本に銃があったとは思われないからである。しかし、様々な状況や文献を比較してみると、通商としてお膳立てをしたのがチャイナ倭寇:王直(おうちょく)である。
王直
平戸にある王直立像

王直は安徽省歙県(あんきしょうきゅうけん)の生まれで、はじめは塩商人であったが、失敗して貿易商人になったという。日本に初めて来航した時期については不明だが、天文九年(1540年)に五島福江に来航し、領主:宇久盛定(うくもりさだ)に通商を求め、盛定は彼を歓待し、福江に居住させた。現在の福江市唐人町(五島市福江町<通商、唐人町>)に残っている明人堂(みんじんどう)が、当時の王直の屋敷であったとの伝説があるほどだ。
明人堂

ここからいくつか参考文献の一部を列挙してみる。
王直は天文十一年(1542年)には長崎の平戸に移り、後の印山寺屋敷付近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。王直が平戸を拠点とした裏には、当時の平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)の保護があったことは疑いない。松浦氏が王直と結んで中国との密貿易をおこなっていたのである。
(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社刊)
王直邸1
長崎 平戸にある王直屋敷・天門寺(てんもんじ)跡
王直2
天文一二(1543年)八月二十五日、種子島(鹿児島県)に一隻の大船が流れ着いた。船には百余人が乗りこみ、その中の明の儒生である五峰(ごほう:のちの倭寇の首領王直)という者との筆談で、西南蛮種の商人たちであることがわかった。その中の牟良叔舎と喜利志多陀孟太という二人の長が鉄砲をもっていた。かれらが火薬と鉛弾を中につめて発射してみせると、光と雷のようなごう音とを発したので、耳を覆う掩わない者はなかった。
(『日本の歴史⑩ 戦国の群像』池上裕子著 集英社刊)
記録に残る日本に入国した最初の西洋人は、ここでいう「牟良叔舎と喜利志多陀孟太」。下に示した「鉄炮記」の中では「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ)の2人が来日したとなっている。しかし、次回考察するが、アントニオ・ガルバンの「諸国新旧発見記」では「アントニオ・ダ・モッタ」、「フランシスコ・ゼイモト」、「アントニオ・ペイショット」の3人が来日したとなっているのである。
天文葵卯八月二十五丁酉、我が西ノ村小浦に一大船有り、何れの国より来たれるかを知らず、客百余人、其の形、類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪と為す。其の中に大明の儒生一人、五峯と名づくる者あり。今、其の姓字を詳らかにせず。時に西の村の主宰、織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶々五峯に逢ひ、杖を以て沙上に書して云ふ「船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや」と、五峯即ち書して云ふ「此れは是れ西南蛮種の賈胡なり、粗ぼ君臣の儀を知ると雖も、未だ礼貌の其の中に在るを知らず。是の故に其の飲むやゝ抔飲して盃せず、其の食ふや手食して箸せず」(原漢文) 「鉄炮記」
鉄炮記
「鉄炮記は鉄炮伝来の経緯や国内伝播の経緯を詳しく記し,日本における鉄砲の起こりに果たした種子島(たねがしま)氏の功績を讃えた記録。慶長11(1606)年に大龍寺の僧・南浦文之(なんぽぶんし)が種子島当主・久時の依頼によって著したもので『南浦文集』に収められている。鉄砲伝来に関わる史料は国の内外に数多いが,国内で唯一信頼できる史料として高い評価を得ているものである。
南浦文之は,宮崎県南郷町の生まれ。臨済宗の僧侶で桂庵玄樹の学統に連なる義久・義弘・家久に仕え外交・文教の顧問として活躍した学僧であった。元和6(1620)年鹿児島城下大龍寺で病気になり,国分の正興寺に帰る途中,加治木で亡くなり安国寺に葬られた。墓は安国寺境内にある。」
<文引用>鹿児島県HP 鉄炮記

ここでいう、五峯とは、もちろん五つの峰ということだが、ここは峰が山を指すのではなく、海中から突き出た五つの峰の意で、つまり長崎の五島のことを指している。倭寇の本拠地と言われた日本の三島(壱岐、対馬、五島)のうちの五島である。
三つ目に示した資料:「鉄炮記(てっぽうき」)は、1606年(慶長11年)、江戸時代に第16代種子島久時(たねがしまひさとき)が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(なんぽぶんし)に編纂させた鉄砲伝来に関わる歴史書で、鉄砲をポルトガル人から入手した経緯や火縄銃製法確立の過程が克明に記されている。
しかしながら、ポルトガルの資料ではここに「1542年」という記述があるのだ。ただ、、「ザビエル伝」で著名なゲオルグ・シュールハンマーがこの「鉄炮記」を重視して、1543年説を提唱して以来、これが定説となって今に至る。
そうした経緯によって、この「鉄炮記」が、鉄砲を伝来したポルトガル人の初来日が「1543年」という説の基本資料となっているのである。

更に次の資料を見てみよう。
南蛮船と伝えられる明国船が島の南端、門倉岬の「前之浜」に漂着した。この年の三月、種子島も戦国動乱の埒外ではなく、突如、大隈半島の雄、祢寝(ねじめ)氏の来襲を受け敗北、屋久島を割譲することによって動乱を収終した。南蛮船が漂着したときは、まさに失った屋久島奪回のため、緊迫した臨戦体制化にあった時である。

 漂着船は肥前平戸に居を構えた倭寇の大頭目王直の持船で、王直も五峰と名を変えて乗船していた。この船に、たまたま乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持、これを見た十六歳の少年島主時堯(ときたか)は戦局打開の新兵器と看破、これを入手するや直ちに刀鍛冶八板金兵衛(やいたきんべえ)に製作を命じた。金兵衛は刀鍛冶の非凡な技術と努力によって短期間に国産化に成功、これが我が国の国産第一号の鉄砲となった。 
「鉄砲伝来 種子島鉄砲」鉄砲館編集発行
この資料から読み取れる重要情報の一つが、種子島氏が「緊迫した臨戦体制化にあった」、という部分。つまり、種子島氏が屋久島奪回のために今度は勝てる有力な武器があればなぁ~と、一般的に考えててもおかしくないということ。

こうした情報を、商人たちは見逃す訳がない。大きなビジネスチャンスだからである。
同様のことは幕末の長崎でも起こっている。すなわち、「亀山社中」の大きな取引である。この話はいずれ別の項目で伝える予定なので詳細は省くが、ともかくこのビジネスチャンスを大商人:王直が利用した、と考えられないだろうか?
次回は、この続編として、他の資料やポルトガル側の資料と商業などの観点から考察し、そしていかに古(いにしえ)より日本がいかに技術立国であるのかを書く予定です。


テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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長崎市の教会一覧

これから訪れる予定の、長崎市にある主な教会です。
ご迷惑でなければ出来るだけミサにも参加させていただき、キリスト教の教義と長崎におけるキリスト教の果たした役割を理解していこうと思っています。また、追って画像やインプレッションも、各教会ごとにUPしていきます。
ちなみに、筆者は長崎駅近くの「中町教会」保育園出身で、小中学校時代よりも鮮明な記憶があって不思議な気がします。
山川先生、お元気でしょうか?

1:大浦天主堂
所在地 850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3
建物 レンガ造(創建時は木造)538.9㎡
竣工 1879年 初代は1864年
設計 フューレ神父、プティジャン神父
施工 小山秀之進
アクセス JR長崎駅前から路面電車(正覚寺行乗車、築町乗換え、石橋行乗車)利用20分、大浦天主堂下下車、徒歩5分
大浦天主堂HP

2:中町教会
所在地 850-0055 長崎県長崎市中町1‐13
小教区 中町小教区
内覧時間 9:00~17:00(※但し、①ミサ、冠婚葬祭時には不可の場合もあります。 ②閉まっている場合もあります。)
ミサの時間 日曜6:30、9:00 土曜19:00 平日6:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
駐車場 有(※但し、ミサ時は一般観光客使用不可。)
アクセス JR長崎駅から徒歩6分
中町教会HP

3:浦上天主堂
所在地 852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79
小教区 浦上小教区
内覧時間 9:00~17:00
ミサの時間 日曜6:00、7:30、9:30、18:30 土19:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
休日 無休
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
アクセス バス:天主堂下・センター前・神学校前停留所から徒歩1分 電車:松山電停(路面電車)から徒歩8分

4: 聖フィリッポ・デ・ヘスス教会
所在地 850-0051 長崎県長崎市西坂町7‐8
ミサの時間 日曜6:00、11:00、18:00 初金6:00、18:00 平日6:00
※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
アクセス JR長崎駅から徒歩5分

5:善長谷教会
所在地 851-0302 長崎県長崎市大籠町519
小教区 深堀小教区
内覧時間 9:00~17:00(※但し、①ミサ、冠婚葬祭時には不可の場合もあります。 ②閉まっている場合もあります。)
ミサの時間 日曜7:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
休日 特になし
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
アクセス 深堀教会堂から車10分

6:神の島教会
所在地 850-0078 長崎県長崎市神ノ島町2‐148
建物 煉瓦造平屋290㎡
竣工 1897年
小教区 神ノ島小教区
内覧時間 9:00~17:00(※但し、①ミサ、冠婚葬祭時には不可の場合もあります。 ②閉まっている場合もあります。)
ミサの時間 日曜8:00 土曜19:00 平日5:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
休日 特になし
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
アクセス 神ノ島教会下停留所から徒歩3分

7:馬込教会
所在地 851-1201 長崎県長崎市伊王島町2丁目617
建物 鉄筋コンクリート造平屋340㎡
施工 1931年
小教区 馬込小教区
内覧時間 9:00~17:00(※但し、①ミサ、冠婚葬祭時には不可の場合もあります。 ②閉まっている場合もあります。)
ミサの時間 日曜8:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
休日 特になし
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
アクセス 船津港から徒歩10分

8:大野教会堂
所在地 851-2427 長崎県長崎市下大野町2619
建物 石造平屋133㎡
竣工 明治26(1893)年
設計 ド・ロ神父
小教区 出津小教区
ミサの時間 年1回 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
アクセス 国道202号線大野停留所から徒歩10分
大野教会堂HP

9:出津(しつ)教会堂
所在地 851-2322 長崎県長崎市西出津町2633
建物 レンガ造395.46㎡
竣工 1882年
設計 ド・ロ神父
小教区 出津(しつ)小教区
ミサの時間 土曜19:00 日曜6:00(第1・3は9:00) ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
アクセス 国道202号線出津文化村停留所から車5分
出津教会堂HP

10:黒崎教会
所在地 851-2324 長崎県長崎市上黒崎町26
建物 レンガ造平屋532㎡
竣工 1920年
施工 川原忠蔵
小教区 黒崎小教区
内覧時間 9:00~17:00(※但し、①ミサ、冠婚葬祭時には不可の場合もあります。 ②閉まっている場合もあります。)
ミサの時間 日曜6:00(第1・3は前晩19:00)、9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
休日 特になし
拝観料・入場料 無料(※献金箱にご寄付をお願いします。)
アクセス 国道202号線、黒崎教会前停留所から徒歩2分

11:三ツ山教会
所在地 852-8142 長崎県長崎市三ツ山町775
ミサの時間 土曜19:00日曜8:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

12:本原教会
所在地 852-8123 長崎県長崎市三原2-23-12
ミサの時間 土曜19:00日曜7:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

13:牧野教会
所在地 852-2323 長崎県長崎市新牧野町591-9
ミサの時間 第1木曜6:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

14:樫山教会
所在地 851-2202 長崎県長崎市樫山町3059
ミサの時間 日曜11:00(第2,4) ※原則として ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
15:本河内教会
所在地 850-0012 長崎県長崎市本河内2-2-1
ミサの時間 日曜6:30/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

16:東長崎教会
所在地 851-0134 長崎県長崎市田中町366
ミサの時間 土曜19:00日曜7:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

17:さくら里聖家族教会
所在地 851-2207 長崎県長崎市さくらの里3丁目1700
ミサの時間 土曜19:30日曜8:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

18:滑石(なめし)教会
所在地 852-8061 長崎県長崎市滑石5-2-6
ミサの時間 土曜19:00日曜6:30/9:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

19:城山教会
所在地 852-8023 長崎県長崎市若草町6-5
ミサの時間 土曜18:30日曜8:00/10:00/18:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

20:西町教会
所在地 852-8044 長崎県長崎市音無町9-34
ミサの時間 土曜17:00日曜7:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

21:稲佐教会
所在地 852-8011 長崎県長崎市稲佐町18-17
ミサの時間 土曜19:00日曜7:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

22:飽の浦(あくのうら)教会
所在地 850-0063 長崎県長崎市飽の浦町8-50
ミサの時間 土曜18:30日曜7:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

23:木鉢教会
所在地 850-0077 長崎県長崎市小瀬戸町86
ミサの時間 土曜19:00日曜6:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

24:福田教会
所在地 850-0067 長崎県長崎市小浦町59-2
ミサの時間 第3日曜7:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

25:岳(たけ)教会
所在地 850-0068 長崎県長崎市福田本町477
ミサの時間 日曜18:00(第4・5 なし) ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

26:愛宕教会
所在地 850-0822 長崎県長崎市愛宕4-3-3
ミサの時間 土曜19:00日曜9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

27:大浦教会
所在地 850-0931 長崎県長崎市南山手町2-18
ミサの時間 土曜19:00日曜7:00/10:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

28:小ヶ倉教会
所在地 850-0963 長崎県長崎市ダイヤランド4-2-3
ミサの時間 土曜19:00日曜9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

29:大山教会
所在地 850-0964 長崎県長崎市大山町566-1
ミサの時間 土曜19:30日曜8:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

30:深堀教会
所在地 851-0301 長崎県長崎市深堀町5-272
ミサの時間 土曜19:00日曜9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

31:香焼(こうやぎ)教会
所在地 851-0310 長崎県長崎市香焼町409-1
ミサの時間 日曜6:00/9:00 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

32:高島教会
所在地 851-1315 長崎県長崎市高島町1138
ミサの時間 土曜15:30(夏は17:10) ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

33:大明寺(だいみょうじ)教会
所在地 851-1201 長崎県長崎市伊王島町1-1060
ミサの時間 日曜6:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。

34:八幡町教会
所在地 850-0801 長崎県長崎市八幡町8-8
ミサの時間 日曜9:00 土曜19:00 平日6:30 ※教会のミサの時間は、変更になる場合がございますので、ご留意下さい。
アクセス 電車:諏訪神社前か新大工町で下車徒歩約5分 バス:諏訪神社前下車徒歩約5分
※「ながさき旅ネット」さまのHPから引用させていただきました。詳細はリンクを貼ってますのでそちらからどうぞ。ありがとうございました。
キリスト教関連 | コメント:0 |

太古より 1

たくさんの異国文化が融合してきた長崎の新たな科学的な通史を創っていきます。
古今の文献を調査し、いろんな場所を巡り、自然や偉人達が積み上げてきた魅力あふれる長崎を詳しく知ろうというインセンティヴから、軽快にフィールドワークを始めます。
志を共有する人達と共に、これまでにない歴史が楽しみながら編めれば良いなと思っています。

では、スタートははるか太古の夫婦から。

長崎の岩石類は地質年代でおよそ3つに分類できる。
1:変成岩類・・・野母崎半島の大半や北部西彼杵半島を占める中生代に形成された岩石
2:堆積岩類・・・高島・端島(軍艦島)・伊王島など、新生代 古第三紀に形成された岩石
3:火山岩類・・・長崎市中心部を占める新生代 新第三紀から第四紀にかけて形成された岩石
「長崎変成岩類と呼ばれるものは、主に結晶岩・蛇紋岩・変成斑レイ岩であり、これらが長崎の基盤となっている岩である。白亜紀後期(9000万~6000万年前)に編成されたものが、長崎と西彼杵半島に見られる岩石である。
中でも、野母崎半島のながさきサンセットロードの以下宿(いがやど)にある「夫婦岩(めおといわ)」は、最も古い岩石のひとつで、約4億8000万年前前にできた変成斑(はん)レイ岩。

夫婦岩
この編成斑レイ岩の「夫婦岩」や「綱掛岩(つなかけいわ)」は九州最古の岩石であり、これらが分布する周辺海岸を「野母崎変はんれい岩露出地」として、2005年1月4日、長崎県の天然記念物に指定された。

夫婦岩説明

サンセットロード

第三紀には生物の「大量絶滅」が起きた。現在のところ、寒冷化による絶滅や地磁気消滅説など諸説ある中で、最も有力な原因とされているのがメキシコのユカタン半島付近に衝突した隕石によるものである。この威力はすさまじくて、一説には広島型(ウラニウム型)原子爆弾のおよそ30億倍で、直径180kmに渡るクレーターが出来たほどである。

この後に新生代(6600万年前)が始まるが、この初期である古第三紀に高島や端島(軍艦島)などの「端島層」が形成されたのである。日本最大の海底炭田「高島炭田」の誕生である。

ここで、「石炭」とは何か?

恐竜たちが繁栄した中生代には現在の10倍ほどのCO2(二酸化炭素)があったと推定されている。大量にあるCO2のおかげで、植物は光合成を行い、草食恐竜たちが食べても食べても食べてもなくならないほどの植物が繁茂していた。こうした数億年前の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長期間に渡って地熱や地中の高圧力を受けて変質したことによって生成された物質であり、つまりは植物の化石である。

長崎の石炭は、瀝青炭 (れきせいたん bituminous coal)といって、炭素含有量83~90%の良質な石炭である。粘結性が高いものは製鉄業におけるコークス原料に使われ、最も高値で取引される石炭なのである。
蒸気機関発祥の地イギリスで、石炭の燃焼実験があった際にも長崎の石炭はどの石炭よりも優秀であるという結果となった。
高度経済成長期までの日本を支えたと言っても過言ではないのが、こうした長崎の世界最優良炭なのである。
長崎の太古からの歴史は石炭だけに留まることはない。あの恐竜たちのパラダイスでもあった。

「夫婦岩(めおといわ)」
長崎県長崎市以下宿町  ※バス停横に小さな展望所とトイレあり
バス:JR長崎駅→長崎バス「樺島(かばしま)」行きまたは「岬木場(みさきこば)」行きで40分、以下宿下車、徒歩1分
車 :長崎道長崎ICから国道499号経由25km 35分
問い合わせ先 長崎市野母崎行政センター
電話:095-893-1139


次回は、恐竜にスポットを当ててみようと思います。

テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術

地質 | コメント:0 |

太古より 2

とかく日頃は世界遺産関連で近代の長崎にばかり目が行きがちだけど、実は8100万年前の長崎は日本でも数少ない恐竜の楽園だった。
長崎の野母崎半島付近「三ツ瀬層」(白亜紀:8100万年前)から、恐竜の化石が2004年(平成16年)からどんどん発見されています。コレは、かなり長崎人としてはかなりエキサイティングな話ですよね?リアル・ジュラシックパーク in 長崎!
ということで、どのような種類の恐竜が発見されているのかを今回はざっと紹介します。


地質年代で、「中生代」というのがある。
これは、
1:2億5217万年~2億130万年前 「三畳紀」
2:2億130万年~1億4500万年前 「ジュラ紀」
3:1億4500万年~6600万年前 「白亜紀」
というように3つに分類している。

「三畳紀」に移行する前段階は古生代「ペルム紀」というが、三葉虫などがいた時代である。この末のP-T境界(2億5100万年前)に、地球史上最大の大量絶滅がおこった。海生生物のうちで最大96%、全ての生物種の90%~95%が絶滅したとされている。カンブリア紀(5億4200万年前~4億8830万年前)から生きていた三葉虫はこの時期に完全に絶滅した。主に恐竜が活躍したのはこのジュラ紀と白亜紀である。

発見の初めは2010年、体長が10mほどあった大型草食恐竜:ハドロサウルス科サウロロフスの左太ももの骨の化石が野母崎地区の海岸:三瀬層で発見されたものである。
長崎県長崎市で発見された恐竜化石について(2010年7月1日)福井県立恐竜博物館
ハドロサウルス科は世界中で最も繁栄した草食恐竜でカモノハシ恐竜とも呼ばれている。口ばしが平らで長く、カモのように見えることに由来する。また、頭に「とさか」を持っていた。ここから音を発して仲間への情報伝達を行っていたとも考えられている。
ハドロサウルス復元CGCG作成:服部雅人氏 産経フォト 2016.8.10

また、長崎市教育委員会と福井県立恐竜博物館による共同調査によって、2012年4月26日発表によると、アズダルコ科の翼竜が発見される。アズダルコ科ケツァルコアトルスも白亜紀末の大量絶滅の直前まで生きていた翼竜である。現在知られている翼竜のうち史上最大級の翼竜であり、今のキリンと同じくらいの大きさがある恐竜である。
アズダルコ科

ケツァルコアトルスの骨格画像:ドイツのフランクフルト・アム・マイン センケンベルク博物館所蔵全身骨格化石標本↓
Quetzalcoatlus.jpgquatation from Father

この翼竜の名前である「ケツァルコアトルス」は、アステカ文明の神:ケツァルコアトルに由来する。マヤ文明ではククルカンというが、ケツァルが鳥の名であり、コアトルが蛇の意味である。まさに史上最大の翼竜にふさわしいネーミングであろう。
ただ、翼竜は恐竜の仲間ではなく、空飛ぶ爬虫類(はちゅうるい)であるという。

そして、2013年には鎧竜(よろいりゅう)の歯の化石も発見される。
鎧竜(北米の白亜紀後期の鎧竜:ユーオプロケファルス画像)
鎧竜2福井
鎧竜の画像は福井県立恐竜博物館HPより引用
福井県立恐竜博物館バナー

最新の発見では2014年7月、同三ツ瀬層からティラノサウルス科の国内初となる発見があった。
その歯が以下の画像。
ティラノの歯

真ん中の歯の、右の側面を拡大するとのこぎり」のようになっていて、これは「鋸歯(きょし)」と言われる。
現代のライオンと同様、獲物の肉を引きちぎる際に都合の良い形をしている。ティラノサウルス化の歯は大きくてぶ厚く、獲物を川や骨ごと砕いて食べていたと考えられている。

これが発見された場所はおおむね以下の赤で囲った楕円形の部分である。
map2.jpg

この三ツ瀬層からはこうした恐竜の化石だけでなく、アンモナイトやイノセラムス(二枚貝)の化石も出てくる。
この層との関連では、天草市御所浦(ごしょうら)(熊本県)や上益城郡御船町(かみましきぐんみふねちょう)(熊本県)からも恐竜の化石が発見されており、ここにも三ツ瀬層と同じ地層が広がっていると思われるのである。


・・・というわけで、調べるほどに面白い、歴史の奥が深すぎる長崎!!


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