CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

日本ではなかった!? 「小ローマ」:異国の長崎

長崎の開港は元亀(げんき)二(1571)年。

日本を離れて、何と勝手に異国の地となってしまった長崎について。世界が知る貿易港として開かれるまでの、その数奇な運命をたどった歴史的経緯を、キリシタンとの関わりと共に軽~くたどってみましょう!


ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」参照のこと)、天文十九(1550)年に長崎で初めてポルトガル船のために貿易港として開かれたのが「平戸」であった。阿蘭陀はまだまだ主役ではない。

そして、あのイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京へ上る途上、1550年8月に訪れたのがここ平戸である。

しかし、松浦(まつら)氏の領土であったこの平戸で、14名のポルトガル人殺傷事件が発生する。これを永禄四(1561)年の「宮ノ前事件」という。この事件以来、ポルトガル人は新しい港を探していたのであった。

翌年、当時長崎の有力な支配者となっていた大村純忠(おおむらすみただ)は、この事件を知ったのち、ポルトガル人に大村領であった横瀬浦(西海市)の提供を申し出て、今度はこの横瀬浦がポルトガル貿易港へと変貌する。ここには、ポルトガルとの貿易に際し、イエズス会宣教師はポルトガル人に対して大きな影響力を持っていたから、というのが純忠の思惑であったとされている。

また、イエズス会士には住居の提供なども行い、教会も建設。純忠の思惑通り、大村領横瀬浦は貿易港として大変賑わった。この横瀬浦では、貿易目的の商人に10年間税金を免除する等の優遇措置をとっている。ただし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊したり、先祖の墓所も打ち壊したりした。横瀬浦の領民にもキリスト教の信仰を強いて、仏教の僧侶や神道の神官を殺害し、改宗しない領民が殺害され、土地を追われるなどの事件も相次いだことから、次第に家臣や領民の反発を招くことになっていく。こうした純忠に恨みを持つ後藤貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し、クーデタを起こして横瀬浦を焼き払ったのである。これが永禄六(1563)年に起きた、純忠暗殺未遂事件である。

このクーデタは失敗に終わったものの、横瀬浦は廃港になってしまう。そこで、同年ポルトガル船は、純忠の重臣:福田兼次(ふくだかねつぐ 洗礼名は「ジョーチン」)の支配地・長崎の福田浦に入港するようになるが、地形上あまり良好とは言えなかったので、新たな貿易港として浮上してきたのが「長崎港」だったのである。

こうして、長崎港は元亀二(1571)年に大村純忠の慎重な決断を経て、ポルトガルとの貿易港として開港した。
(※この開港に伴う町の建設などは、いつか詳細に触れる機会が訪れると思うので、今回は割愛しますm(__)m)


・・・ここで話は少し時間をさかのぼり、横瀬浦の1563年へ。

純忠自身も横瀬浦の教会でコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、「ドン・バルトロメウ」という洗礼名も授かっていた。同時に、大村氏に属していた長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)ら25名も洗礼を受けたという。

ちなみに、この長崎甚左衛門が、永禄十(1567)年に長崎へやって来た日本最初の南蛮外科医でありホスピタルの創始者であるルイス・デ・アルメイダに布教を許可。永禄十二(1569)年には、ガスパル・ヴィレラ神父に館の一角を小堂として与え、神父が教会に改築した。これが長崎初の教会で「小さいながらも美しい教会」と言われた「トードス・オス・サントス教会」である。

ルイス・アルメイダ布教記念碑
「ルイス・デ・アルメイダ布教記念碑」長崎市夫婦川町 現・春徳寺

この当時、長崎には1,500人ものキリシタンがいたと推計されている。このトードス・オス・サントス教会の後、教会の建設が進んでいく。
現在の長崎の市街地にあった主な教会は次の通りで、年代順に列挙すると、

■ 岬の教会(1571年 江戸町)
■ サン・パウロ教会(1581年 江戸町)
■ ミゼリコルディア本部教会(1583年 万才町)
■ サン・ジョアン・バプティスタ教会(1591年 筑後町)
■ 山のサンタ・マリア教会(1594年 立山町)
■ サン・ミゲル教会(1601年 立山町)
■ 被昇天のサンタ・マリア教会(1601年 江戸町)
■ サン・チアゴ教会(1603年 場所不明)
■ サンタ・クララ教会(1603年 大橋町)
■ サン・アントニオ教会(1606年 場所不明)
■ サン・ペトロ教会(1606年 場所不明)
■ サント・ドミンゴ教会(1610年 勝山町)
■ サン・ロレンソ教会(1610年 伊勢町)
■ サン・フランシスコ教会(1611年 桜町)
■ サン・アウグスティン教会(1612年 古川町)

・・・などである。

おおよそ縦横で1.5kmの範囲内に、これほど多くの教会が建設された。
この中で、サン・パウロ教会の跡地に建てられた「被昇天のサンタ・マリア教会」にはイエズス会の本部が置かれた教会であり、1603年には大きな時計がついた櫓(やぐら)も増設され、三つの鐘で人々に時を知らせたという。
マカオに没したイエズス会:ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」には、ユーラシア大陸のリムにあたるこの島国日本において、これほど多くの教会が建設され、街中にチャペルが鳴り響く様子を

さながら「小ローマ」のようだ、と形容している。

そして、この教会建設ラッシュの途上である、天正七(1579)年。キリシタンの洗礼を受けていた大村純忠は、イエズス会にこの長崎と茂木(もぎ)の地を寄進したのである。

巡察師であった、かの有名なヴァリニャーノ神父は純忠のこの申し出を慎重に検討した結果、翌1580年にこの寄進の申し出を承諾し、長崎と茂木の地は日本ではなく、遥か遠い異国の地の領土になった。

更に、天正十二(1584)年、肥前日野江藩初代藩主:有馬義貞の次男のキリシタン大名、有馬晴信(ありまはるのぶ ※大村純忠の甥)は、浦上をイエズス会に寄進した。

イエズス会への茂木・長崎の寄進状
「イエズス会への茂木・長崎の寄進状」

これら寄進の背景には、勢力を拡大する肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の長崎攻撃を回避するという目的と関税収入の確保、また、その後の竜造寺氏との「沖田畷(おきたなわて 島原市)の戦い」で勝利を収めた感謝の印だったという。

しかし、この異国だった長崎も、慶長十九(1614)年の禁教令以降にほとんどの教会が破壊され、日本へと回帰していったのであった・・・。


・・・と、いうことでコレが、長崎が今も変わらず、筋金入りで異国情緒薫る街であるゆえんでした。







キリスト教関連 | コメント:0 |

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1

久々大量の本を読めた日曜でした。で、さっぱり眠れないのでこの時間に(;・∀・)
どーせ眠れないから、記事を追加しておこう、ということで今回より、

「三菱がくしゃみすれば、長崎は風邪をひく」 とまで言われた(※正しくは、ウチのばあちゃんが言ってました^_^;)、NEW カテゴリーの三菱関連といきましょう!

長崎では2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」として以下の8つの構成資産が難産の末、世界遺産に登録されました。

1:小菅修船場跡
2:三菱長崎造船所第三船渠
3:三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン
4:三菱長崎造船所旧木型場
5:三菱長崎造船所占勝閣
6:高島炭鉱
7:端島炭鉱
8:旧グラバー住宅

ボクが直接関連しているのは、かつての大学院の研究で8、今の軍艦島ツアーガイドの仕事で7と6、となります。

これを見ると、ほとんどが三菱造船所と関連していることがわかります。
と、いうか、実態は全てが三菱との関連です。だから、これらはバラバラに存在しているのではなくて、明治の日本が近代化していく上で必要となった、現代に連なるコンプレクスなのです。そこで、

一体、三菱って何? という、疑問がわきますよね?

このカテゴリーである「三菱関連」の初めとして今回より、その創始者:岩崎弥太郎からスポットを当てます。彼の出自などはWiki など、ネットにも数多く書かれてあるので割愛し、まずはやはり坂本龍馬との出会いから始めたいと思います。


岩崎弥太郎といえば、恰幅の良い下の写真が最も有名であろう。

岩崎弥太郎
天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年2月7日)(51歳で病没)

この岩崎弥太郎が三菱の初代総帥となって、今に至る三菱グループの基礎を作ったわけである。
土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮 に生まれた。

ところで、土佐といえば、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気で、この時代は坂本龍馬を想起する人が多いだろうが、他にも明治日本の主役級の人材を輩出した地である。

この「龍馬伝」では坂本龍馬とは幼馴染の関係として描かれており、弥太郎は心理学で言うトリックスター的な役であったが、実際には土佐でこの二人が出会っていたということはないようである。

土佐藩の長崎での経済活動の拠点となったのが、「長崎土佐商会」(※正式名称:土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)である。弥太郎は土佐藩士:後藤象二郎に次ぐ二代目の主任として、ここでらつ腕を振ったと言われている。

土佐商会あと


坂本龍馬との出会いはこの長崎であり、それも大政奉還の年(1867年)だった。この年、弥太郎は再度の来崎であり、土佐藩のために金策に走り、蒸気船や武器弾薬を買い付ける仕事を行っていた。そして、後藤象二郎の仲介で、海援隊の給金のことで坂本龍馬が金の計算が得意な岩崎弥太郎の許へやって来たことが始まりだった。その内容は坂本龍馬ら海援隊の給金のことであった。
具体的には、亀山社中の時には隊士一人につき、月に土佐藩から3両2分もらっていたが、5両にすべしと弥太郎が申し出ることで折り合いをつけた。加えて彼らの脱藩赦免も申し出ることとなった。

しかし、後に海援隊隊士:長岡兼吉がやってきて、総額100両では足りないと言うのである。龍馬の分が入っていなかったからであった。弥太郎としては、龍馬らは丸山で毎晩遊び呆けているが、薩摩と長州に顔が利く龍馬に強く当たれない。そこで、弥太郎の裁量でしぶしぶ+50両を用意する。

その後すぐ、龍馬は弥太郎の所を訪れた。
「海援隊約規」を見せるためであった。それは今で言う「社則」のようなものである。後にも重要なので以下に示しておこう。

<海援隊約規> 

一. 凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及 佗藩ヲ脱スル者 海外ノ志アル者此隊ニ入ル 運輸、射利、開柘、投機 本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス 今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之 
二. 凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス 敢テ或ハ違背スル勿レ 若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ 隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス
三. 凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ 義気相責メ条理相糺シ 若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ 若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス 是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ 
四. 凡隊中修業分課ハ 政法、火技、航海、汽機 語学等の如キ其志ニ随テ執之 互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ 
五. 凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル

亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ 若挙事用度不足、或ハ学科欠乏を致ストキハ 隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ 右五則 右五則ノ海援隊約規 交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス 豈樊中ノ物ナランヤ 今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン 亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ 皇慶応三丁卯四月

これを現代語訳してみる。

一. およそ、かつて本藩(※土佐藩)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志ある者は皆この隊に入る資格がある。運輸、営利活動、開拓、投機、本藩の応援をもって主業務とする。今後、異論がないなら方針に叶う業務はこれに加わる。 
二. およそ隊中のことの一切は隊長の処分に任せる。隊員は、隊長の指示方針などに違背してはならない。もし暴乱や違反行為、隊に対する迷惑行為などがあれば、隊長がその死活を制することを許す。 
三. 隊中にあっては、互いの困難を助け合い、守り合い、互いの気分が緩んでいるときには責め合い、道理や筋道の通らないことは正し合い、独断で過激な行為に走るのを制し合うこと。仲間の邪魔をしたり、集団で他人の行為の邪魔をしたりするなどの行為は最も慎むべき事で決してこれを犯してはならない。
四. 隊中の修業分課は 政法、火技、航海、汽機、語学等で、その志に従ってこれを学ぶ。互いに勉励し、怠ってはならない。
五. 隊中の活動は独立採算とする。

活動に必要な経費などは、隊の活動で得た利益で賄うこと。収益は互いに分配し、私腹を肥やしてはならない。万一、資金が足りず、修業に支障が出るような場合には、隊長が建議し、出崎官役(※後藤象二郎)の支給を待つように。右五則、以上五則の海援隊の約規は実に簡素なものである。事細かな規則など必要ない。我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所にまかす、鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸をも合わせて「翔天隊」と言おう。この理想と精神を忘れてはならない。 
皇慶応三丁卯四月


海援隊約規
「海援隊約規」

この第1条は、身分出自に関係なく海外への志ある者なら誰でも登用するという。しかも、運輸・開拓・投機などを行い、利益を追究する。ただ、これは明らかに金儲けの追究は儒教道徳に侵された当時の日本の武士道に反するものである。しかし、龍馬としては金儲けをして社会のために使うというのが良いことであると言う。弥太郎は銭金を日々扱っているがそのように考えたことがなく、この龍馬の発想が今後の経営への考えに大きく影響を与えられることとなったのである。

以来、弥太郎の日記(「岩崎弥太郎日記」)には、しばしば龍馬が登場している。例えば、6月3日、共に酒を酌み交わし、その心中を打ち分ける。そして刀が時代遅れとなり、銃を売る連中が暴利をむさぼる時代となることを龍馬は弥太郎に語った。つまり、西洋から日本が市場化されてしまうことの懸念である。だから、日本が外国との対等の貿易が出来るように、国を富ませ、自らが先駆けとなって七つの海を駆け巡り、大きな仕事をすると言うのである。
また、同日記に「天気快。午後坂本龍馬来たりて酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」というように、弥太郎が龍馬と意気投合していく様子が目に浮かぶようである。

このような話を聞いて、自己の出世ばかりを考えて行動していた弥太郎は龍馬のスケールの大きさに感激した。出世のために学問に励み、武士が嫌う金のことも頑張ったにもかかわらず、このような話に大いに心を動かされた。
しかし、その自分の才能が土佐の宝であるとまで龍馬に言われた弥太郎は、龍馬の「一緒に世界の海に繰り出そう」という提案に、世界の海援隊を夢見るのである。「世界の海援隊」、この構想こそが、後の「三菱」へとつながっていくのであった。

慶應三(1867)年6月、龍馬は大政奉還のために長崎を土佐藩船「夕顔」に乗って、後藤象二郎と共に京都へ旅立つ。出会ってわずか3カ月足らずなのに、この龍馬の存在が弥太郎の胸には深く刻み込まれた。

そして、この日の日記には「余不覚にも数行の涙を流す」と記されてある(「岩崎弥太郎日記」)。

つづきます。たぶん次回は「船中八策」から!!




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シーボルト先生 ~その生涯と愛~ 1

長崎のことを知ろうすれば、人物の生き様に感動することが本当に多い…。

今回より紹介する、この「シーボルト先生」は間違いなくその中でもトップの一人です。
彼のことを研究すると、ボクは長崎人としてというより、人間として尊敬の念しか湧いてきません。

・・・でも、なぜこんな日本にとって偉大な人のことを、学校で学ばないんだろう?

シーボルト 川原慶賀筆
川原慶賀筆

< DATA >
■フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)
■1796年2月17日~1866年10月18日(満70歳没)
■神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ヴュルツブルク司教領、ヴュルツブルク 出身
■研究分野:医学・博物学
■出身校:ヴュルツブルク大学

「彼がいなかったら日本はどうなっていたのだろうか?」

書物を読み、資料を整理し、考察を巡らすと必ずふとした瞬間にこの疑問に行き着きます。

日本にやってきた真の目的は何か?
江戸参府で得た情報をどうするつもりだったのか?
鳴滝で弟子たちに行わせた研究とは?
日本を追放されたシーボルトは、なぜそんな日本を救おうとしたのか?

様々な疑問と共に始まったボクの興味も、既に20年近くの歳月が流れようとしています。
これらの問いに結論が出せないままだったものが、近年の研究による新しい史料の発見で明らかになりつつあります。

そんなシーボルトのことをどこから紹介して良いものか…。このブログを始めるにあたって大いに悩んでいましたが、ようやくまとまりもついたので、次回より知り得る限りの情報を分かりやすく発信出来ればよいなと思っています。

「今の世の中はグローバル化している」という、このありきたりな言葉が、ボクにとってはホントに軽薄なものにしか聞こえてこない、まるでリアリティを感じない言葉です。このことを理解した要因の一つが、このシーボルト先生の功績を学んだことに拠ります。

ウチの家宝の書、呉秀三博士の「シーボルト先生 其生涯及功業」 
書の大きさも、内容も巨大な学術研究書です。写真ではなかなか伝わらないだろうけどね・・・
シーボルト先生其生涯及功業 呉秀三2

次回より、具体的にシーボルト先生の功績に触れつつ、様々な人間模様や葛藤、その愛について紹介していきます。
そして、先人の偉大な研究者たちにも敬意を表しつつ。



<交通アクセス>
•JR長崎駅から路面電車(3番系統 蛍茶屋行)15分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分
•JR長崎駅から路面電車(2番系統 蛍茶屋行)25分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分
•JR長崎駅から車で15分
•史跡出島から路面電車(2番・5番系統 蛍茶屋行)15分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分
•長崎歴史文化博物館からバス(風頭町行、1時間に1本運行)5分(中川町バス停下車)さらに徒歩7分
または路面電車(公会堂前電停から2番・5番系統 蛍茶屋行)5分(新中川町電停下車)さらに徒歩7分


シーボルト先生 | コメント:0 |

お母さんが預かったお年玉の行方 「沈黙」編

無理です。

覚えられません。





先日、日本二十六聖人記念館に理事長とともに見学に行きました。
結果から申しますと


「5000円」


でした。
世界中でここにしかない、という資料が何点かあって
目からウロコとか色々落ちました。
映画「沈黙」の監督の

スセコッシ?
スサコッシ?

寿司?

さんのサイン入り脚本も期間限定で展示してありました!

入館料は500円。
10倍の価値はありましたね。
だから5000円。
財布には3200円しか入ってませんでしたけども。



なので銀行に行かないといけないんですが、銀行と言えば。

「旧香港上海銀行長崎支店」
どすえ!
ここも素晴らしかった。
行って感動して頂きたいのであえて内容は書きませんが
ここも入館料以上の価値は確実にあります。
写真が趣味の方にもぜひ訪ねて頂きたい場所です。


ぼくは現在、長崎歴史文化観光検定の二級に合格しているんですが
その勉強で以前訪れたことがあります。
まだ知る前でしたし、勉強で行っているので楽しむ余裕なんかなかったんですが……
今回はすんごく楽しめました。

理事長とふたり、子どもみたいにキャッキャ言いながら

あーでもない
こーでもない
あれ見て、これ見て と

おじさん2人で
電池無くなるまで写真撮ってました。


要は

知ってから行く のと
知らずに行く のでは
大違いで

もちろんどちらも素晴らしい展示品に刺激をもらえるんですが

これは誰かに紹介する時も言えます。
一度訪れた場所なら、自信持って感想付きで紹介できる。
これは長崎の街の魅力を伝えるには欠かせないなぁと思います。

ここはぜひ!という場所があれば馳せ参じますので
コメント欄にて教えて頂けたら幸いです。
面白いなと思った記事には、下部の


「よかね!」


もポチッてもらえたら嬉しいです。

コメント と

よかね!

お待ちしています。

そして。
二十六聖人の方の名前……

無理です。
覚えられません。


ごっちゃになります。
長崎歴史文化観光検定一級に合格するには必須でしょうから、がんばって覚えたいと思います。


背の高いおじさん2人が
うわぁ、うわぁと言いながら
思いっきりジゲモンなのに
パンフレット片手に騒いでいたら
それはわたし達です。

今日の一曲 オリビア・ニュートン・ジョン
そよ風の誘惑





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

伊王島の子守唄

<伊王島の子守唄>

馬込の浜の番人が
四つ竹もって テボさげて、
あんまりおしを女が泣きこがれ
えっと泣くなよみやげやる
びんのかたびら すすの帯
こたてしてから 花よめご

舟はつっかげ船頭さんはちんば
表のカジ取りゃ二度ちんば

打たれ叩かれやぐらだいこ
打たれながらもおもしろい

えっとそしるなよ人のことそしるな
人のことそしれば憎まれる

いっちょこよいよい
言うてねえらす子を
乳を飲ませて たたきねや

おまやどこの人私見て笑う
私も見てやる笑うてやる

つらにっか子はまな板にのせて
なますきざむよにざくざくと

おどまいやばい嫌われてから
二度とあの家のしきゃ越えぬ

親のめし食て他人の飯は
イゲはなけれどノドに立つ

伊王島古写真 馬込教会
「教会がそびえる馬込」

その名の由来として、昔こんな本の記述がある。

「俊寛僧都の配流せる所は此いはふ島なり。異本平家物語に、彼杵郡のいはふ島なるよし見えたるとかや、子いまだ異本をみざれば募りて云がたし、常の説の如くば歌にも薩摩がた沖の小島とよみたれば此島にはあらざるべし、されども彼杵郡は平氏門閥の領にて殊に資盛の領所多しといえば、俊寛等を痛はり此いはふ島におきて、遠き薩摩の沖なるおうに都へは聞へ置し事もあらんか、此島の前原薩摩につづきていと近く、ましてこの島にいにしへは温泉ありしといえば、硫黄もありしならん、然らば硫黄と祝ふといづれが本の名なる事を知らず」
「長崎話草」西川如見


いずれ、その名の由来、つきとめてみせます!







テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

長崎のうた | コメント:0 |

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 4

1543年に2度目の渡航で交易試みたポルトガル人が、なぜ許可されなかったのか?

これを知る手がかりは「明史:世宗実録」にある。

この文献によると、現在の福建:漳州の陳貴が密貿易のため琉球に渡航した。その際、広東の潮州の船と争いがあって殺傷事件が発生した。これにより明朝は陳貴らを厳罰に処したとある。しかしこの密貿易を許可した上に商品を没収、監禁、殺害した琉球も処分された。世宗嘉靖帝もこれを裁可し、1542年5月、琉球が今後も密貿易を放任すればただちにその朝貢を絶つ、という勅旨が下される。

明世宗嘉靖帝
姓・諱:朱厚熜
諡号:欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝
廟号:世宗
正徳2年8月10日 (1507年9月16日) ~嘉靖45年12月14日 (1567年1月23日)
在位期間:1521年5月27日 - 1567年1月23日

ここで前回の「エスカランテ報告」の、
③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

ここが重要な意味を持つ。「チナのジャンク」なのであるから、琉球からすると前年の1542年に明朝より「密入国を放任すればただちにその朝貢を絶つ」とまで言われていた直後だったのだ。1543年というこの年に明のジャンクを入港させて交易をするとなれば嘉靖帝の勅旨に逆らうことになってしまう。だから、入港はさせずに海上に停泊したままの交易は黙認という形にしたものの、琉球への入港は許可されることなく退去を命じられた、と考えれば合理性がある。

次の疑問は、なぜ「チナのジャンク」に乗っていたのがポルトガル人なのか?という点である。

1回目に紹介した、
「王直は天文十一年(1542年)には長崎の平戸に移り、後の印山寺屋敷付近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。王直が平戸を拠点とした裏には、当時の平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)の保護があったことは疑いない。松浦氏が王直と結んで中国との密貿易をおこなっていたのである。」
(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社刊)

そして「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」・・・とある。

この五峯(王直)が当時東南アジアまでの広範囲での密貿易で財をなしていたとするならば、現代においても必要なのは「情報」である。地理的な要因や商品力だけではビジネスを行うことは出来ないし、むしろ「情報」を活用できたがゆえに五峯は倭寇の大商人となりえていたと思われる。様々な資料を通じて歴史に名が残っているのがこの「五峯(王直)」である。だから、1543年に交易を試みたポルトガル人らが乗っていたジャンクは、やはりこの大商人五峯のジャンク船であろうと、当時の情勢を考えても誤りではないはずだ。

これらを総合すると、一般にイメージとして定着しているポルトガル人による鉄砲伝来の船は、このキャラック船 ↓
650px-NanbanCarrack.jpg

・・・ではなく、

まるでイメージの異なる、こうしたチャイナのジャンク船 ↓
18世紀のジャンク船

だとなる。

記事の1回目に1542年の状況として次の資料も出した。

「南蛮船と伝えられる明国船が島の南端、門倉岬の「前之浜」に漂着した。この年の三月、種子島も戦国動乱の埒外ではなく、突如、大隈半島の雄、祢寝(ねじめ)氏の来襲を受け敗北、屋久島を割譲することによって動乱を収終した。南蛮船が漂着したときは、まさに失った屋久島奪回のため、緊迫した臨戦体制化にあった時である。」
「鉄砲伝来 種子島鉄砲」鉄砲館編集発行

この資料で不思議な言葉は、「南蛮船と伝えられる明国船」である。これほどまでに形状が異なる船が、なぜ明国船であるジャンクが「南蛮船」なのだろうか。これは交易の主体が、明国の物品ではなくて、ポルトガルのものであったからではないだろうか。そうでないと、単によくある「明国船」としか書かないはずだからである。

そして、ポルトガル人が持っていた「鉄砲」がこれまでのアジアにはない良質で、画期的な武器であることを、予めポルトガル人らとの交流で理解できていたはずだ。つまり、五峯という商人の目にはこのポルトガルの鉄砲が「商品力」として優れていることが理解できていたということである。

また、1542年に種子島の戦時体制下でのビッグビジネス・チャンス情報を、漂着した時に得たか、あるいは五峯が独自のルートで入手していたか、ということになる。残念ながらこの件に関しての資料がないので、ここも推測の域を出ない。

ただ、当時のアジア交易とルートに精通している大商人五峯(王直)が水先案内人として仲介料を得るために同乗していたのであれば、この「武器ビジネス」の商業交易をまず意図していると考えられるわけである。いずれにしても1543年という、漂着の翌年の出来事は明確な意図をもって行われたことであると考えられるのだ。

しかし、ガルバンの「新旧大陸記」よりも信頼性の高い「エスカランテ報告」では1542年に漂着したのは琉球であって、種子島ではない。これをどう説明するのか?

次回はこの疑問点を地政学的な観点から考えます。




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端唄「春雨」 長崎の花街情緒薫る名歌

「春雨」

春雨に
しっぽり濡るる 鶯(うぐいす)の
羽風に匂う 梅が香や
花にたわむれ しおらしや
小鳥でさえも 一筋に
ねぐら定めぬ 気は一つ

わたしゃ鶯 
ぬしは梅
やがて身まま 気ままになるならば
サァ 鶯宿梅じゃ ないかな
サァサ 何でもよいわいな

作詞者:肥前小城の藩士 柴田花守
節付け:丸山の遊「女おかつ」

春日芝きみ さんの素晴らしい演奏は↓





長崎のうた | コメント:0 |

長崎マニアの皆様、初めまして。。

長崎好きの老若男女の皆様、初めまして。
わたくし、このブログを共同管理させて頂いております

たかお と申します。

朝起きたらコーヒー飲みたいな、とか
汗をかいたらシャワー浴びたいな、とか

そういう欲求と同じレベルで

出島行きてえええええ!!!!

グラバー園たまらんんん!!!

吉宗の茶椀蒸しいいいい!!!

とか、思っちゃいます。
皆さんはいかがですか?
おくんちや精霊流し、ランタン前の独特な雰囲気を感じると、ソワソワしませんか?

そんな長崎マニアのわたくしが、遂にこの

長崎好きの
長崎好きによる
長崎好きのための


crossroads×nagasakiに参加させていただくことになりました。
同じ志の人はぜひコメントやブロともさんの申請をお願いします。

今回の記事は、初めましてのごあいさつ。

次回からは長崎のことはもちろん
記事のための取材の裏話や
街の小ネタなど
このcrossroads×nagasakiのおまけコーナーとして
楽しんで読んでいただけるような情報を発信していこうと思います。



浜の町のドトールコーヒーでアメリカンのMサイズ一杯で
3時間くらい読書している31歳の独身ひとり暮らし
うお座のAB型
好きな食べ物はハンバーグ  の
好青年がいたら、それはわたしです。

皆さん、よろしくお願いします。


今日の一曲  ヒューイ・ルイス の
power of love





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

1:大浦天主堂 2

大浦天主堂を物語る上で最も大切な人物は、やはりプティジャン神父です。
今回は彼にスポットを当てていきます。

Mgr_Petitjean_first_Vicar_Apostolic_of_Japan.jpg
ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)

フランス出身のカトリック宣教師で、日本では1859年にパリ外国宣教会会員となり、長崎には1863年にやってきた。
以来、その半生を日本の布教に捧げた長崎偉人の一人である。

琉球で日本語とその文化を学んだ彼は、1862年(文久2年)横浜に上陸する。翌年、長崎の大浦居留地に住むフランス人の司牧を目的としてやってきたのである。この「司牧」とは、ローマ・カトリック教会や聖公会で、司祭が教会を管理し信徒を指導することである。プティジャンは安政の五カ国条約の一環の「日仏通商条約」基づき、日本二十六聖人の殉教地である西坂見ることができる丘の上に、居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得たのである。
こうして創建されたのが大浦天主堂であった。

この大浦天主堂の献堂である2月19日より1か月と満たないある日。
宗教史上の奇跡と呼ばれた「信徒発見」が起こるのである。

1865年3月17日(旧暦2月20日)の昼下がり、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず困っていた。そんな様子を見たプティジャン神父が扉を開いて教会の中に招き入れると、彼らは内部を不思議そうに見て回っていた。そして、プティジャンが祭壇の前で祈っていた時、杉本ゆりと名乗る女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのである。

イザベリナ杉本ゆり
イザベリナ杉本ゆり 片岡弥吉「長崎のキリシタン」巻頭写真によるもの
当時53歳だったと言われている。
引用:聖女に出会った少女、ベルナデッタの歌HP

浦上から来た彼らこそ禁教以来約250年もの長い間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた、いわゆる「隠れキリシタン」といわれる人々であった。この歴史的瞬間に立ち会ったのがプティジャン神父だった。

翌日、プティジャン神父はこの信徒発見を知らせる手紙を、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父宛に書いた。そこにはこう書かれてあった。

昨日の12時半ごろ、男女子供を合わせた12-15名の一団が天主堂の門にいました。私が至聖所で少しだけ祈ったあと、40歳ないし50歳くらいの夫人が胸に手をあてて申しました。「ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では、ほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております」。
それからこの夫人は私に聞きました。「サンタ・マリアの御像はどこ?」
私は聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。
「そうだ、本当にサンタ・マリア様だ!ごらんなさい、御子イエス様を御腕に抱いていらっしゃる」

信徒発見の手紙「プティジャン司教書簡集」
引用:大浦天主堂物語 P22 信徒発見の手紙 「プティジャン司教書簡集」
囲みの部分には「santa maria gozo wa doko : サンタ マリア ゴゾウハドコ」とローマ字で書かれているのがわかる。
この手紙は、プティジャン神父から、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父に宛てて信徒発見を喜び、報告するものであるが、直筆ではない。ジラール没後にイエズス会の幼き修道女:スール・エリアが原本から書き写したものである。
だが内容的には、1865年3月18日付けというから、翌日まさに興奮冷めやらぬ思いでプティジャン神父が書いた手紙だと言える。

この「信徒発見」に関して言えば、実はプティジャン神父にはある思惑があったとされている。

創建した大浦天主堂は日本人にとっては当時珍しい洋風建築だったので、すぐに評判になった。近所の日本人は「ふらんす寺」、あるいは「南蛮寺」と呼んで見物に訪れた。プティジャン神父はこうして訪れる日本人たちにも教会を開放し、自由に見学することを許していた。

それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないか?というわずかながらの期待からの行動なのであった。

・・・だが、この「信徒発見」の喜びも束の間、皮肉にも後の「浦上四番崩れ」というキリシタン迫害へと歴史はつながっていくのである。その話は、「3:浦上天主堂」の回で詳細に伝えようと思う。

プティジャン神父は1868(明治元)年には日本代牧区司教に任命され、1873(明治六)年にキリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点として、キリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などにも力を注ぎ、1884(明治十七)年、この大浦の地で死去され、大浦天主堂内に亡骸が埋葬された。

信徒発見碑3

信徒発見碑文3

信徒発見碑文

マリア様後ろから
西坂の丘を望むマリア様のお姿はどことなく悲しげです。




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「沈黙」遠藤周作と碧き海

映画:「沈黙 ―サイレンス―」が始まりましたね。
ウチの書庫にしばらく眠ってた、遠藤周作の原作「沈黙」を引っ張り出してきて久々読み返しました。

この作品や、一連の遠藤周作文芸を読んで思うのは、「信仰」と「人間」の普遍性とは何かということです。
「カトリック Catholic」とはそもそも「普遍」を意味するのに、世界史上のキリシタンの歴史には普遍性を認めず、あの新大陸での虐殺を始めとして、繰り返された多くの負の側面もあります。
そうした人間の両面を捉えて、遠藤周作がこの「沈黙」という作品から時を経て発展させたのが「深い河」(1993年)ではないかと思うのです。

人種を超越して、人間がもつ普遍性とは・・・。ルネサンスの先駆けとなったダンテ・アリギエーリの「神曲」においても、異教徒は地獄に落ちてしかるべきというようなことも書いてあります。異なる信仰を除外し、宇宙の営みに比べれば瞬きの間もない自らの生を正当化するのに都合が良い理を守り続け、権力におもねる人間の脆弱。

こうした、運命的に矛盾する存在の人間とは何か?という大きなテーマに生涯挑み続けたのが遠藤周作であるとボクは思っています。

「沈黙」に登場する架空の「トモギ村」のモデルの一つが、江戸時代に大村藩が治めていた黒崎村です。
黒崎と外海の海の美しさはもう素晴らしすぎて何度訪れたことが…
青いという言葉を使いたくないほど碧い。

外海の海

遠藤周作自身も、ここを「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と評しているほどです。
そして、碧い海を遥か見下ろすこの丘に、「沈黙の碑」が建てられました。

沈黙の碑


「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

あまりにも切ないこの沈黙の碑の言葉は、ここから初めて海を眺めて、訳もなく深く心に突き刺さった言葉です。


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