CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

伊王島の子守唄

<伊王島の子守唄>

馬込の浜の番人が
四つ竹もって テボさげて、
あんまりおしを女が泣きこがれ
えっと泣くなよみやげやる
びんのかたびら すすの帯
こたてしてから 花よめご

舟はつっかげ船頭さんはちんば
表のカジ取りゃ二度ちんば

打たれ叩かれやぐらだいこ
打たれながらもおもしろい

えっとそしるなよ人のことそしるな
人のことそしれば憎まれる

いっちょこよいよい
言うてねえらす子を
乳を飲ませて たたきねや

おまやどこの人私見て笑う
私も見てやる笑うてやる

つらにっか子はまな板にのせて
なますきざむよにざくざくと

おどまいやばい嫌われてから
二度とあの家のしきゃ越えぬ

親のめし食て他人の飯は
イゲはなけれどノドに立つ

伊王島古写真 馬込教会
「教会がそびえる馬込」

その名の由来として、昔こんな本の記述がある。

「俊寛僧都の配流せる所は此いはふ島なり。異本平家物語に、彼杵郡のいはふ島なるよし見えたるとかや、子いまだ異本をみざれば募りて云がたし、常の説の如くば歌にも薩摩がた沖の小島とよみたれば此島にはあらざるべし、されども彼杵郡は平氏門閥の領にて殊に資盛の領所多しといえば、俊寛等を痛はり此いはふ島におきて、遠き薩摩の沖なるおうに都へは聞へ置し事もあらんか、此島の前原薩摩につづきていと近く、ましてこの島にいにしへは温泉ありしといえば、硫黄もありしならん、然らば硫黄と祝ふといづれが本の名なる事を知らず」
「長崎話草」西川如見


いずれ、その名の由来、つきとめてみせます!







テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

長崎のうた | コメント:0 |

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 4

1543年に2度目の渡航で交易試みたポルトガル人が、なぜ許可されなかったのか?

これを知る手がかりは「明史:世宗実録」にある。

この文献によると、現在の福建:漳州の陳貴が密貿易のため琉球に渡航した。その際、広東の潮州の船と争いがあって殺傷事件が発生した。これにより明朝は陳貴らを厳罰に処したとある。しかしこの密貿易を許可した上に商品を没収、監禁、殺害した琉球も処分された。世宗嘉靖帝もこれを裁可し、1542年5月、琉球が今後も密貿易を放任すればただちにその朝貢を絶つ、という勅旨が下される。

明世宗嘉靖帝
姓・諱:朱厚熜
諡号:欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝
廟号:世宗
正徳2年8月10日 (1507年9月16日) ~嘉靖45年12月14日 (1567年1月23日)
在位期間:1521年5月27日 - 1567年1月23日

ここで前回の「エスカランテ報告」の、
③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

ここが重要な意味を持つ。「チナのジャンク」なのであるから、琉球からすると前年の1542年に明朝より「密入国を放任すればただちにその朝貢を絶つ」とまで言われていた直後だったのだ。1543年というこの年に明のジャンクを入港させて交易をするとなれば嘉靖帝の勅旨に逆らうことになってしまう。だから、入港はさせずに海上に停泊したままの交易は黙認という形にしたものの、琉球への入港は許可されることなく退去を命じられた、と考えれば合理性がある。

次の疑問は、なぜ「チナのジャンク」に乗っていたのがポルトガル人なのか?という点である。

1回目に紹介した、
「王直は天文十一年(1542年)には長崎の平戸に移り、後の印山寺屋敷付近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。王直が平戸を拠点とした裏には、当時の平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)の保護があったことは疑いない。松浦氏が王直と結んで中国との密貿易をおこなっていたのである。」
(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社刊)

そして「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」・・・とある。

この五峯(王直)が当時東南アジアまでの広範囲での密貿易で財をなしていたとするならば、現代においても必要なのは「情報」である。地理的な要因や商品力だけではビジネスを行うことは出来ないし、むしろ「情報」を活用できたがゆえに五峯は倭寇の大商人となりえていたと思われる。様々な資料を通じて歴史に名が残っているのがこの「五峯(王直)」である。だから、1543年に交易を試みたポルトガル人らが乗っていたジャンクは、やはりこの大商人五峯のジャンク船であろうと、当時の情勢を考えても誤りではないはずだ。

これらを総合すると、一般にイメージとして定着しているポルトガル人による鉄砲伝来の船は、このキャラック船 ↓
650px-NanbanCarrack.jpg

・・・ではなく、

まるでイメージの異なる、こうしたチャイナのジャンク船 ↓
18世紀のジャンク船

だとなる。

記事の1回目に1542年の状況として次の資料も出した。

「南蛮船と伝えられる明国船が島の南端、門倉岬の「前之浜」に漂着した。この年の三月、種子島も戦国動乱の埒外ではなく、突如、大隈半島の雄、祢寝(ねじめ)氏の来襲を受け敗北、屋久島を割譲することによって動乱を収終した。南蛮船が漂着したときは、まさに失った屋久島奪回のため、緊迫した臨戦体制化にあった時である。」
「鉄砲伝来 種子島鉄砲」鉄砲館編集発行

この資料で不思議な言葉は、「南蛮船と伝えられる明国船」である。これほどまでに形状が異なる船が、なぜ明国船であるジャンクが「南蛮船」なのだろうか。これは交易の主体が、明国の物品ではなくて、ポルトガルのものであったからではないだろうか。そうでないと、単によくある「明国船」としか書かないはずだからである。

そして、ポルトガル人が持っていた「鉄砲」がこれまでのアジアにはない良質で、画期的な武器であることを、予めポルトガル人らとの交流で理解できていたはずだ。つまり、五峯という商人の目にはこのポルトガルの鉄砲が「商品力」として優れていることが理解できていたということである。

また、1542年に種子島の戦時体制下でのビッグビジネス・チャンス情報を、漂着した時に得たか、あるいは五峯が独自のルートで入手していたか、ということになる。残念ながらこの件に関しての資料がないので、ここも推測の域を出ない。

ただ、当時のアジア交易とルートに精通している大商人五峯(王直)が水先案内人として仲介料を得るために同乗していたのであれば、この「武器ビジネス」の商業交易をまず意図していると考えられるわけである。いずれにしても1543年という、漂着の翌年の出来事は明確な意図をもって行われたことであると考えられるのだ。

しかし、ガルバンの「新旧大陸記」よりも信頼性の高い「エスカランテ報告」では1542年に漂着したのは琉球であって、種子島ではない。これをどう説明するのか?

次回はこの疑問点を地政学的な観点から考えます。




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