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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

お母さんが預かったお年玉の行方 家事に専念せんね編

揃いの赤いジャケットを羽織り
棄てられた孤島の中を
並んで歩いたあの日。

行き止まりまでの最後の曲り角で
海原の彼方を見つめながら
男は歴史の時計を動かし始める祈りをつぶやく。


「ティーチャー、グラバーさんのこと広めんとマズイっすね、
特に子どもたち」



柔らかな髪をなでながら
いつものようにさらさらと
言の葉は木の葉のように

歴史の始まりの祈りに
海原をなでる北西の風のように
男は優しく剛く、応えた。


「そやろ?やっぱね~わかっとるね~祐さん、やろうか?」






crossroadsブログをご覧の皆様、こんばんわ。
今日も合計5時間くらい浜の町のドトールにいた
わたしですが、いかがお過ごしでしょうか。

長崎活動(と勝手に名付けています)のために
色々と出かけて写真を撮ったりしながらさるいているわけですが
のっぽの、爽やかでもないおじさんがひとりで
パンフレット片手にiphoneやミラーレス一眼で
グリーンの芝の目を読むように写真を撮ったりしていると

すんごく
怪しいんですよ・・・

長崎の街のこと

興味はあるけどキッカケがない

何からやろうか迷ってる

魅力を語る同志が欲しい


そんな方がもしいらっしゃったら
一緒にやりませんか?
ぼくももう、冷ややかな視線を浴びながら
公共の施設でひとりで四つん這いになり
マニアにしかわからない角度で写真撮るのが
辛いんです・・・


共同管理人であるわたくし たかお のfacebookページ

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お友達申請して頂きたく存じます。
このブログを読んで、とコメントしてもらえたら幸いです。



ドトールの二階で、
友達がfacebookにあげた飲み会の楽しそうな写真の
「全員集合!やっぱ仲間最高」
という投稿に

「呼ばれてませんが」

とコメントしようか悩んでる青年がいたら
それはわたしです。



今日の一曲  しばたはつみ My Sweet Little Eyes






管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5

前回の続きで、「地政学」を用いて推論を進めていきます。

ところで、この「地政学」とは?

地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもので、やや古い学問であるけど、ボクは現代においても十分に通用する学問であると思っています。コレなくしては近隣諸国の思惑は測れないからで、特に尖閣諸島や南沙諸島など、まさに現代の動向もここで読み取れるんですよ。その話はいずれ・・・として、ココではその軍事と経済的な影響に着目していきます。


まずは、次の古地図を見ておこう。
アジア図 1645年 W. J. Blaew 作
<アジア図 1645年 W. J. Blaew作 日本二十六聖人記念館所蔵 ※特別な許可を得て撮影しました>
これを拡大すると、
アジア図 拡大
青で囲ったところに、「Timaxuma(?)」、赤で囲ったところには「Leqeo grande」とある。

これは1645年の地図であるが、その音と位置関係からして、前者が種子島、後者がレキオ(琉球)であることがわかる。
そして、以下の地図と比較してみる。
黒潮
引用:黒潮圏の考古学

地質時代区分でいうと、もちろん完新世以来絶え間なく流れているのがこの黒潮のルートである。当然、16世紀も同様な流れだったであろう。もともと黒潮は、ドイツの医師・地理学者:ベルンハルドゥス・ヴァレニウス(Bernhardus Varenius/Bernhard Varen 1622~1650年)によって、その著書で初めて記載されたとされている。

しかし、彼が生きた17世紀以前から、この黒潮のルートは経験的に知られていたと思われる。朱印船貿易もその一つである。

<朱印船貿易のアジア寄港地>
「安南」 当時のベトナムの正統な王朝・黎朝を擁立していたハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
「交趾」 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権(広南国)のこと。その主な交易港はホイアン(會安)及びダナンであった。
「占城」 ベトナム人勢力によって、現在のベトナム南部の一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
「暹羅」 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
「柬埔寨」 メコン河流域のウドンを首府とするカンボジア王国である。
「太泥」 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
「呂宋」 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
「高砂」 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった

以上の渡航先はWikiからの引用であるが、これらの寄港地を地図にプロットしていくと、フィリピンのルソン島(呂宋)から台湾の(高砂)を経由した季節風と黒潮ルートが、日本と他国の交易には使用されていた。蒸気船の発明以降でもこの黒潮ルートは有効で、特に台湾海峡から日本へのルートでは現在でも重要なシーレーンの一つである。

豊臣秀吉による「朱印状」の発行が1592年であるとされているが、これは「倭寇」との区別を行うための許可状なのであるから、「倭寇」は既にこのルートを知り尽くして東南アジアへの交易を行っていたはずである。
交易ルートとして確立していたこの黒潮ルートをどう見ても、ポルトガル人らが乗ったジャンク船が嵐に遭遇して漂着した先が、たまたま種子島であったとは考えにくいのである。東南アジア辺りからやって来て、この黒潮ルートならば、長々と種子島まで進まずに、まず近くの琉球のどこかへ到達したはずだからである。

そして、琉球を越えて種子島南端へやって来たのは、この地理的条件上、やはり意図して到達したものではないか?これならば、前回考察した「エスカランテ報告」にある1542年に琉球へ漂着し、翌年またやって来たが清国との事情で上陸出来なかったために引き返そうとした、しかし種子島が戦時中で武器を必要としていたという情報をここ琉球で得た王直が、より利益の出そうな種子島へと交易先を変更した、と考えられないだろうか?

もちろん、やはり種子島まで漂着した、と考えられないこともない。
しかしこの事件を参考にすべく、1600年という、ここから約50年後、ある出来事が起こっている。それがデ・リーフデ号の「漂着」である。

関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、オランダ船:デ・リーフデ号は豊後臼杵(現大分)の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだとされている。太田一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報し、ウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らを拘束、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求した、という。
アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)
<アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)>

私にはこの種子島と類似する事件が、とても波の穏やかな瀬戸内海で起こった、偶然漂着した出来事とは思えないのである。大英図書館にはアダムス自身の手紙に「我々は日本を目指した」と明記されているからである。ここでは趣旨からズレるので詳細を省くが、世界史的な観点からすると、この出来事はイングランドとオランダ、スペイン・ポルトガルの市場拡大に向けた勢力争いの一環であり、後に徳川家康から異国の人としてはあまりに破格すぎる重用をされることになる、このウイリアム・アダムスもエリザベス1世からの密命を帯びていた可能性もあるからだ。

ちなみに、三浦半島と八重洲といった地名は何とこのイギリスの「三浦按針」からつけられたものである。ここでこの話の詳細を述べるには長すぎることになってしまうので、この辺りで終わるが、ここで言いたいのは、当時の「漂着」といった言葉の位置づけなのである。
ウイリアム・アダムス
<ウイリアム・アダムス(三浦按針像)>

この点は資料がないのでどうしても推論にしかならないのであるが、「漂着」とすることによって、「単に他国から武器を売りにやって来た」とするより、後世に残る歴史の記述においては「たまたま漂着した」とする方が劇的さを帯びることになるので、このデ・リーフデ事件は種子島への鉄砲伝来を踏襲して記述されたのではないか、と思っている。事実、このリーフデ号の事件では、現在もこの出来事が「漂着」か否か、という議論が絶えない。

この種子島への鉄砲伝来も、西洋人による初の出来事であることからしても、デ・リーフデ号と同様に、倭寇の手引きによる商売とするより、「漂着」と記述する方がドラマチックだからではないのだろうか?

また、「倭寇」といえば、その大頭目の「五峯:王直」の話をこれまでずいぶん書いてきた。
「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」と、あった。

最終的な結論としては次のことが言える、
この王直は1540年頃から広東を拠点として、東南アジアと日本を結ぶ密貿易を行っており、この文献の中にある「西洋」の中心港がマラッカなどであって、ここで既にポルトガル人らと接触していた。そして、これまで見てきた資料などからも、交易ルートと1543年の琉球と清国の関係、種子島の軍事的事情などを考慮すると、鉄砲の伝来は漂着という偶発的な出来事ではなく、やはり王直を軸にした明確な意思をもって行われたものではないだろうか。そして、ガルバンの「新旧発見記」などで食い違いがあったような、2人でやって来たのか、3人でやって来たのか、ということも、別の人々が違った意思をもってやって来たとすれば良いのではないだろうか。

こう考えると、ポルトガル人による鉄砲伝来は、通説にあるような漂着による偶然なものではなく、

まずは、ポルトガル人らは1542年に琉球へ交易にやって来た。
その琉球で、近隣であった種子島の事情を知る。
そして、翌年1543年、軍事物資を欲していた種子島に鉄砲を売りに来た。

・・・ということになる。

このチャプターも次回が最終回です。鉄砲伝来以後と技術国日本について書きます。




スペイン・ポルトガル関連 | コメント:0 |

4: 聖フィリッポ・デ・ヘスス教会

まだ子供の頃、こんなに遊び場にしていた場所はない、というのがこの日本二十六聖人記念堂です。

なのに、この歴史は全く知らない。というか、誰も教えてくれなかった、というのが正しいように思います。
ただ、夕方まで遊んで、この独特なフォルムの教会の横を通って家に帰る時、正直この見慣れない外観がどことなく怖かった印象がありました。

高校で芸術をやって、はじめてこの建築があのアントニオ・ガウディの研究者で建築家:今井兼次氏による特殊なデザインだということを知りました。

聖フィリッポ・デ・ヘスス教会26聖人から
26聖人の広場から

ちなみにガウディは、もちろん「聖家族教会:サグラダ・ファミリア」の設計者。この教会の尖塔もこれに模しているけど、それよりも、ボクにとってはこれら、
カサパトリョ
<カサパトリョ>
コロニア・グエル
<コロニア・グエル>
この二つに、より近い感じを得ていました。

西坂の丘で殉教した26人が列聖されたのが、その殉教から約250年後。この聖堂は、列聖100年を記念し日本二十六聖人記念レリーフが今井兼次氏によって建立されたのが昭和37(1962)年。
「日本二十六聖人記念館」と同時期に日本のカトリック系の人々が中心となって建てられました。

設計は「日本二十六聖人記念館」同様、今井兼次氏によるものです。昭和の初め頃、アントニオ・ガウディを日本に紹介したのがこの今井氏です。彼がカトリック信徒だったので、信仰と建築が一体となった中世カトリックの世界を実践し続けたガウディの創作方法に心底共鳴し、この聖堂にガウディのエッセンスを盛り込んでいる、というのです。

26聖人を象徴するものは教会内部でも垣間見ることができます。

祭壇26聖人

こうした26個の大きさの異なる十字架をあしらった意匠の祭壇があります。

また、こじんまりとした聖堂でしたが、とても幻想的な雰囲気に満ちているのが印象的でした。

背面

そして、ここには聖なる遺骨も安置してあります。

26聖人遺骨室

これは、聖パウロ三木・聖ヤコブ喜斎・聖ヨハネ五島の遺骨の一部が収められてる遺骨室です。
さすがに開けて撮影しようとは、畏れ多くて出来ませんでした。

この聖パウロ三木の殉教に直面した言葉が後世に残るものです。

「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。」

「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王(関白)とこの私の死刑に関わったすべての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」


これは、26聖人の殉教を直接見聞したフランシスコ会員マルセーロ・デ・リバデネイラが、マニラに追放後書き記したパウロ三木の最後の説教だそうです。

・・・果たして、自分がここまで死ぬ間際に、こうした利他的で、一種の悟りを開けるものだろうか?

西坂の丘を1981年2月26日、ボクらが小学6年生の時、雪が舞い散る中をヨハネ・パウロ2世がいらっしゃいました。
今でもその時の事ははっきりと覚えています。学校帰りに友達数人とここまで学校から走ってきて、訳もわからずパウロ2世と間近でお逢いしました。

DSC01900.jpg
<日本二十六聖人記念堂内 ※特別な許可をいただき撮影しました>

隣にある「日本二十六聖人記念堂」も、あまりの資料の充実ぶりに、これで500円か?と疑ってしまうほどでした。
そのインプレッションは副理事長が書いてくれてます↓
お母さんが預かったお年玉の行方 「沈黙」編

次回は、この日本二十六聖人記念堂について触れたいと思っています。





キリスト教関連 | コメント:0 |

月琴唄 ―丸山を濡らす旋律―

月琴唄

みよみよ 我に賜ひし九連環を
九つ九つ連る鎖の指輪
もろ手かけても解きほどかれぬ
小刀で切りても割きかねる
ええ なんとしょう      (九連環)

春は牡丹に蝶したい
迷い迷うてあちこちと
遂に夫婦となりにけり    (四季)

春は三月風頭
金比羅まいりのにぎやかさ
野に出て遊ぶ人々も
酒のきげんでハタあげる
おすやら引くやらくれるやら
ハタげんか 帰りは空びょうたん
家のみやげはおとしごめ  (紗窓)

なんのかんの だまくらかして
うちが知らんつもりへ
みんな知っとるばの
こないだも彦山やまの月の暁
あんなんと出島ばさるいとる
いいえ この目で見たも
んあんた 勝手ばかり
うちはさびしかと       (水仙花)

「ながさきの民謡」長崎新聞社編(1969年)より

月琴を弾く女性(1886年、アドルフォ・ファルサーリ撮影
<月琴を弾く女性>(1886年、アドルフォ・ファルサーリ撮影)

水仙花、リアルに聴いてみたい。丸山の「長崎検番」に取材行こう。





長崎のうた | コメント:0 |

2:中町教会

今回は長崎駅のすぐ近く、「中町教会」です。副理事長祐さん&鶴ちゃんと一緒に先日訪れてみましたが、筆者とは幼い頃からの縁のある教会です。
まずは、インプレッションから。

改めて見ると、
あれ、こんなに大きかったっけ? と思うほど天井が高く、解放感があります。キリスト教建築は「天」へいざなうようこのような様式になっている所が多く、信者が中へ一歩印すと、そこから既に心理的に解放感を得られる作用が働くように配慮されているんだなぁと、つくづく感じます。

内部2Fより
<教会内部2Fから>

外観は高い尖塔を持つゴシック様式です。
尖塔
<教会南側尖塔>この日は雲一つない冬空の碧さと教会のコントラストが良かったです。

西側
<教会西側入口>

また、聖堂内部は「主の誕生」から「聖母の戴冠」までのストーリーとして、イエス様とマリア様に関連する、1982年ミラノ・グラッシ作の10種のステンドグラスが壁面に表現されています。
内部東側壁面ステンドグラス
10種の詳細は、中町教会公式ページ:聖堂内のステンドグラスよりドウゾ。
西からの陽光が射して、柱にステンドグラスの色彩が映っている姿がイイ感じでした。

中町教会の歴史
< DATA >
■ 明治二十二(1889年) 教会設立を開始。 創立者:島内要助神父
■ 明治二十四(1891年8月) 教会建設着工。
■ 明治三十(1897年9月8日) 献堂式を挙行。
■ 昭和二十(1945年8月9日11:02)アメリカによる 原爆投下。教会は外壁と尖塔を残して焼失。
■ 昭和二十六(1951年10月) 教会再建。

元々ここはキリシタン大名:大村純忠(※日本ではなかった!?「小ローマ」:異国の長崎 参照)の大村藩蔵屋敷があった所で、あの26聖人殉教の歴史をもつこの地に、島内神父が日本人のための教会を建てようと志し、苦労の末、明治22(1889)年の暮に教会設立の仕事に取りかかったとされています。1889年といえば、大日本帝国憲法が創られた年ですね。

大村藩蔵屋敷跡2
<大村藩蔵屋敷跡>

中町教会は、フランスのパピノー神父の設計で、明治二十四(1891)年8月より建設に着手され、三十(1897)年9月8日聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行されました。この教会建設にあたっては、フランスのある婦人の当時の金額で8万フランにものぼる寄付や、多数の恩人の協力があった、という記述が紹介されています。ここでも、大浦天主堂(※「1:大浦天主堂」 参照)と同じくフランスの人たちが大きく関わっています。長崎といえば、オランダ、という印象が強いですが、こと、キリスト教の歴史においてはフランスの影響が大変強いことがわかります。

しかし、この教会も昭和二十(1945年)8月9日午前11時02分、アメリカによる原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失しました。しかし、昭和二十六(1951)年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。
そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けています。(教会の門の側に銘版が設置されています↓)
米国戦略爆撃調査団撮影プレート
<米国戦略爆撃調査団撮影画像のあるプレート>

また、「26聖人殉教者」がバチカンで1862年に列福(れっぷく)されて以来、実に125年ぶりの1987年10月18日、バチカンの聖ペトロ大聖堂前で、長崎にも訪問されたことのある時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって、トマス西と15瀬殉教者たちが荘厳に列聖(れっせい)されました。
彼らの内訳は次の通り。

<日本人>
1:聖トマス西(司祭) 平戸 1643年11月17日殉教 
2:聖ヤコボ朝長(司祭) 杭出津 1633年8月17日殉教
3:聖ビセンテ塩原(司祭) 長崎 1637年9月29日殉教
4:聖マテオ小兵衛(修道士) 1633年10月19日殉教
5:聖フランシスコ正右衛門(修道士) 1633年8月14日殉教
6:長崎の聖マグダレナ(修道女) 長崎 1634年10月15日殉教 
7:大村の聖マリナ(修道女) 肥前大村 1634年11月11日殉教 
8:聖ミゲル九郎兵衛(信徒) 1633年8月17日殉教
9:京都の聖ラザロ(信徒) 京都 1637年9月29日殉教


<異国人>
11:聖ロレンソ・ルイス(信徒) フィリピン・ビノンド島 1637年9月29日殉教
12:聖ドミンゴ・エルキシア(神父) スペイン 1633年8月14日殉教
13:聖ルカ・スピリト・サント(司祭) スペイン 1633年10月19日殉教
14:聖メゲル・アオザラザ(司祭) スペイン 1637年9月29日殉教
15:聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭) イタリア 1634年11月17日殉教
16:聖ギョーム・クルテ(司祭) フランス 1637年9月29日殉教


16聖人-1
16聖人-2

彼らはキリシタン弾圧が激しかった17世紀初期(1633~1637年)に長崎で殉教しました。彼らは激しい迫害に耐えながらも、信仰のために強い信念をもって命をかけた人たちです。


教会のリーフレットによれば、キリスト教では「殉教者の血は信者の種」 と言うそうです。つまり、日本のカトリック教会は、日本26聖人殉教者・日本205福者殉教者・聖トマス西と15殉教者らによって、その存在の証となしているというのです。

こうした世界史と日本史上、苛烈なキリシタン迫害があったから、その存在意義と信仰が強化されていったという事実の因果関係を考察すると、人間とはなんて皮肉な存在なのかという思いに駆られます。誰もが心の安寧や自由を求めているはずなのに、この歴史で証明された事実として、それを達成するためには「迫害」が必要であるという結論に帰着するからです。

確かに、「十字軍」などの、むしろキリスト教徒による暴虐などの側面も忘れてはならないことです。しかし、この根本的な人間存在の矛盾こそが現代における大小様々な諍(いさかい)いごとを、特定のバイアスなしに理解しうる「核」となるものだと思います。
長崎の教会訪問によって、いきなりこのような大きな命題に直面して自分なりにもちょい驚きですが、これまであまり考えてこなかった「信仰」とは何なのか?ということに関して深く考察する必要があるようです。何も、この近世におけるキリスト教信仰だけではなく、人類は数万年前の原初から人々を埋葬したり、死者のために花を捧げたりという何らかの信仰を基盤にしているという事実があるからです。

最後に、中町教会にあるイエス様像について触れておきます。
聖堂内部にあるこのイエス様の像は平成十六(2004)年に奉献されたまだ新しい像です。その由来は、フウランシスコ・ザビエルにあります。
内部イエス像
<聖堂内部にあるイエス様像>

この像は、スペイン・バスク地方にあるザビエル城にもともと安置されている「ほほえみの十字架」と言われている像を元に制作されたそうです。

スペインバスク地方ザビエル城イエス像
<スペインバスク地方ザビエル城イエス像:ほほえみの十字架>
「ドイツ再発見」より

フランシスコ・ザビエルについては、カテゴリーを新たに作って必ず特記しなければならない、我々日本人にとってきわめて重要な人物です。
いずれこのブログにて書きます。

中町教会入口壁
中町教会公式ページ




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