CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島「表門橋」架橋!2017年2月27日10:00&出島JAZZライヴ

ついに出島に表門橋が架かりました!

今年2017年、11月あたりで通行できるようになるそうです。

小國さんの出島JAZZ ライヴも告知があったので載せておきます。
3月24日 18:30開場 19:00開演
去年素敵なCDを2枚いただきました。ありがとうございますm(__)m
小國さん出島JAZZライヴ

「『DEJIMA AGAIN』のロゴを活用頂き、行政・市民が一丸となって出島を盛り上げていきたいと思っております」と出島HPに記載があったので、じゃんじゃん使おうと思います。
出島HP

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ついでに出島の中から架橋の作業を動画で撮ってきたんで、↓に貼っておきます。10分くらい。



オランダ関連 | コメント:0 |

10:黒崎教会 1

ここ1か月、長崎の教会巡りをし、関連書物を読んで、初めてこんなに深く学ぶうちに、ふと気づいたことがあります。

キリスト教の布教は、単にその思想内容の伝道だけでなく、「科学技術」と必ずセットであるということです。教会の建設も含まれるので、もちろん数学と物理学が投入されるのは当然ですが、医学・生物学・農学など、人を科学的に救おうという神父さまたちと信者さんたちの並々ならぬ意志と努力が感じられるからで、そこには間違いなく人種を越えて積み重ねてきた人間の英知が惜しみなく投入されています。これは筆者にとってはかなり印象深いものでした。これまで抱いてきたキリスト教観念が良い意味で破壊され、長崎って本当に素晴らしい学びの地だなぁ~とつくづく思います。

現代と違って、なにせ少なくとも100年以上も前の時代だから教科書となるものも少なく、西洋の母国から簡単に情報が入手できる環境にないという不便さ、江戸幕府による禁教という恐るべき思想弾圧なども加味しなければならないでしょう。

今回の黒崎教会は、外海地区にあるレンガ造りの大変美しい教会です。軽々しく「美しい」という言葉を使ってますが、この美に至る苦難の歴史は元亀二(1571)年より始まります。では、黒崎での歴史をまず振り返ります。

教会内リブ・ヴォールトの天井(「こうもり天井」とも言う)も大変素晴らしい教会です。
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煉瓦の色も夕陽を浴びてとてもキレイです。
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1571年1月末、カブラル神父らが初めて外海への布教を行った。外海は長崎の中心部からも大村からも外れにあり、管理の目が行き届きにくいということからも、「潜伏キリシタン」の信仰が続いた。この要因として、日本人伝道師バスチャンの功績が大きいと言われている。バスチャンは元々長崎の深堀町平山郷布巻の出身で、深堀の菩提寺の下男をしていたらしく、治兵衛という名であった。そして、宣教師サン・ジワンの弟子になって伝道活動を行うようになった。

サン・ジワン師は、1609年6月26日アンドレア・ベソア率いるポルトガル貿易船ノッサ・セニョウラ・ダ・グラサ号に乗船して、長崎港へ入港したが、長崎奉行長谷川左兵衛藤広、代官村山等安はこの船を冷遇した。貿易品の取引も船の接岸も禁じられ、乗組員の上陸も認められず、べソアは上陸許可を願ったものの受け付けられなかった。奉行の悪計と徳川家康との連絡外交上の駆け引きやオランダとイギリスの中傷もあった。長崎への入港後6ヶ月経過した1609年12月29日有馬軍勢の攻撃へと発展し、遂に1610年11月3日神の島の沖で爆沈した事件に巻き込まれるのである。
ジワン師は海に飛び込み泳いで深堀の教会に難をのがれ、ここで初めてバスチャンと知り合いになり、しばらくここにいたという。そして、福田、手熊を経て外海への伝道を行った。サン・ジワン師は亡くなる前に「私が死んだら海の見える高いところに葬ってください。私の見える範囲で守る」と言われたため、遠くまで見える山の高い所に葬ったのが、このサン・ジワン枯松神社であるとされている。
枯松神社
<枯松神社>

このサン・ジワン師が弟子バスチャンを育て、バスチャンはサン・ジワン師の指導により1634年の教会暦をもとに、日本語による初めての教会祝日表を編纂した。これが後に「バスチャン暦」と呼ばれ、キリシタン迫害のもとで潜伏を余儀なくされたキリシタンたちの信仰生活の規範となったものである。

バスチャンこと、トマス次兵衛は別名:金鍔(きんつば)次兵衛と呼ばれる。「金鍔」という名は、長崎奉行所で役人に成りすましていた際に、腰にさしていた刀の鍔に由来する。禁教令による迫害を逃れマニラに渡ったが、後に密かに帰国し、厳しい取り締まりの中変装し次々と居場所を変えて各地を宣教したが、捕らえられ長崎で殉教したと伝えられる。

彼は1627年にマニラで司祭叙階、31年に帰国して宣教に励んだものの、禁教が激しくなっていた1634年にその正体が奉行所に発覚した。バスチャンは追手から逃れるため隠れ家を転々とした。

バスチャン屋敷
<バスチャン屋敷> うっそうとした山深く、細い清流の横にこのバスチャン屋敷はある。

明暦三(1657)年、「郡崩れ」が起こった大村では、603名のキリシタンが捕えられた。この「郡崩れ」によって、あまりに多くの首はねた役人が疲れ、信徒を生きたままムシロに包んで大村湾に投げ捨てた。それが内海の海岸に打ち寄せられ、いち早くその始末に走ったのがバスチャンだった。こうして、バスチャンは数々の善業に身を費やし、信仰を絶やさなかった。しかし、出津の浜の住人、黒星次右衛門がバスチャンを密告。立ち昇る夕餉の煙で谷間の隠れ家が役人の目にとまり、捕縛され長崎桜町の監獄へ護送。ここで度重なる拷問を受けて、1636年11月6日、あの西坂の丘で二度の逆さ吊りの刑を受けて殉教した。

「郡崩れ」とは、

明暦3年(1657年)のある日、長崎に住んでいた池尻理左衛門は、大村から遊びに来ていた知人から次のようなことを聞きました。
「郡村の矢次という所に、天草四郎の生まれ変わりという神童が現れてのう。その神童は萱瀬村の山奥に不思議な絵を隠し持って、実に奇妙な術を説くんだそうじゃ。もしおまえさんがこの術を見たければ、そこにつれていってもよいが、どうじゃな。」
こう語ったのは大村の郡村に住む兵作という男でした。話を聞いた理左衛門は、すぐにキリシタンだとわかりました。そこで、聞き流しておいては大変と思い、すぐに町役人に知らせました。そして、その話を受けた長崎奉行は早速、兵作を取り押さえました。
長崎奉行からただちに使いが大村へ飛び、藩内にキリシタンがいるらしいという知らせに、大村城内は大騒ぎになりました。そして連日、兵作の妻子や近親者、萱瀬の山中の隠れ家に集まっていた者たちが次々と捕らえられました。天草四郎の再来と呼ばれた少年は、名を六左衛門といい、その家族が中心となって、ひそかにキリスト教の信仰を続けていたのです。それは、長年の間に日本の習俗などと交じりあって、まじないのようになり、その力で多くの信者を引きつけていました。信者たちが集まった場所は、萱瀬の仏の谷にある十畳敷きほどの岩陰でした。
事件は日を追うごとに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村へと広がり、ついに逮捕者は603名にものぼりました。取り調べの結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、取り調べ中病死した者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。打ち首になる者はあまりにもその数が多かったため、各地に分けて処刑することとなりました。大村では131名、長崎118名、佐賀37名、平戸64名、島原56名とそれぞれの地で処刑されました。
大村で処刑されることとなった131名は、刑場となった放虎原に引き立てられました。途中、妻子、縁者との最後の別れが許されました。その場所となった西小路には、今も「妻子別れの石」が残っています。刑場に着いたキリシタンたちは、四列に並べられ、次々に首を打たれていきました。切られた首は、処刑されたのち約20日間も、見せしめのため大曲の獄門所で、さらし首にされました。その後さらされた首は、原口にあった榎の根元に、胴体は処刑後まもなく桜馬場の道路脇に、それぞれ埋められました。現在その地は首塚跡、胴塚跡として伝えられています。
この事件を「郡崩れ」といい、これをきっかけとして、事件のあった一帯からは、キリシタンの姿はまったく消えてしまいました。

「大村の歴史」より抜粋


次回は、この黒崎の地での「カクレキリシタン」と「潜伏キリシタン」について。




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in a galaxy, a little far away....

日本時間:2017年2月23日未明、NASAの Spitzer Space Telescope が、一つの恒星を巡る地球と同サイズの7つの星を発見したという重大発表がありました。



このうち3つが「ハビタブルゾーン」と呼ばれる生命が誕生するのに適当な領域に含まれていて、そのほとんどが水を持つ岩石の惑星。
.
私たちの太陽系の外に発見されている「ハビタブルゾーン」のうちで、1つの恒星を巡る「7つの星」というのは最も数が多く、更に、この全てに水があるかもしれないというのです。

もちろん、「水」は全ての生き物にとって重要なものであり、地球から約40光年と遥かに離れたここに、地球外生命体の可能性があるということになります。

これまでも、2015年7月27日、NASAの系外惑星探査衛星「ケプラー」が、はくちょう座の方向1400光年に位置する恒星に系外惑星を発見してました。これが「ケプラー452b」。これまでにケプラーが見つけた系外惑星の数は1030個、系外惑星の候補の数は4696個でしたが、今回の発見はこの内容を越える大発見となります。

そして、この発見によって地球で私たちが一人ぼっちでなかった、という科学的にもトップクラスの重要性が示されました。それはあたかも「パズルの重要なかけらが見つかったかのようなものだ」、と Thomas Zurbuchen (associate administrator of the agency’s Science Mission Directorate in Washington)は言っています。

ついにこの発見が、ハビタブルゾーン解明の「ゴール」へといざなうのか?

NASA

宇宙物理&天体 | コメント:0 |

8:大野教会堂

ウチからバイクでおよそ45分、長崎の海で最も美しい景色が見れる「外海(そとめ)」。
海の碧さも、サンセットの美しさも素晴らし過ぎます。

外海の夕日
右手にはかつて炭鉱の島で、2,001年11月29日に閉山した「池島」も見えます。

遠藤周作「沈黙」のトモギ村から少し離れた大野地区。
もう、何度ここを訪れたかわかりません。その景色だけでなくて、何かこう空気がDNAに作用する気がするんですよね・・・。

こんな奥深い所に、来年世界遺産となるかもしれない「大野教会堂」があります。長崎の教会も様々な姿をしていて、これまで訪れた教会は豪華さ、立派さ、綺麗さが先んじたインプレッションでしたが、外海にあるこの大野教会堂はこれらとは全く異なるものです。
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この教会は角力灘(すもうなだ)や東シナ海を望み、五島列島が遠望できる小高い丘に建っています。
あまりに鄙(ひな)びていて、お世辞にも物理的に豊かさを感じることのないこの教会が、どうして世界遺産の候補なんだろう?という疑問はありました。

この大野地区だけでなく、外海には黒崎や出津(しつ)などがあって、そのほとんどが潜伏キリシタンの部落となっていました。出津教会にいらした、この辺りの「さるくガイド」の方とも詳しく話をしましたが、ここらは佐賀鍋島藩が統括していたのではなく、大村藩の領域だったというのです。だから、キリシタン大名ともなっていた大村藩だから、あまりに町の中心から離れたこの辺りの方がむしろ独自の信仰を守るのに都合が良かったということかもしれません。

そして、やはりこの外海を語る上で、日本のキリスト教の歴史上で、その「愛」という観点からすると最も偉大な人物がいらっしゃいます。それが、フランスからやって来た
マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)神父です。

Marc_Marie_De_Rotz.jpg
< DATA >
1840年3月26日~1914年11月7日
フランス:ノルマンディー地方ヴォスロール出身
長崎の大浦天主堂にて死没


さるくガイドのお話では、外海においてド・ロ神父はもう神様と同じく、誰もが最大級の尊敬をしている人物だそうです。

もちろん、ド・ロ神父については、筆者も尊敬しているので、このブログでも後に「長崎の偉人編」カテゴリーにて詳細に紹介するつもりです!

ド・ロ神父はこの外海の人達を物・心両面で救った、知れば知るほど本当に素晴らしい神父様だというのが分かります。彼は貴族であったために大変裕福な生活を送っていたのに、遠く離れた日本にやって来て、その財産を外海の人達を救済するのに投げ打って、貧困にあえぐこの村人たちを救うことに生涯をかけたのです。

そのド・ロ神父がフランスで学んだ多くの技術を駆使して、この大野地区の人達のために自費を惜しみなく投じて建造したのが、大野教会堂です。

ここは平屋建て、瓦葺きの教会で、一見するととても不思議な建物であることが分かります。北面と東西側面の外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれ、玄武岩の切石を漆喰(しっくい)で固めた、外海の至る所でよく見られる壁の構造をしています。
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内部は板張りで、人が20人も入るといっぱいになるほどの広さで、中央にはイエス様を抱いたマリア様の像もありました。
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こんな狭いところでも、過酷な弾圧下で潜伏していた多くの信者さんたちが心を救われたんだなと想像すると、じわっと涙が出ました。

海を背にして、綺麗なお顔のマリア様も立っていらっしゃいます。
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鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」の堀川兼通公太政大臣の章、こんな一説があります。

人の祈りは、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。ただ心に入りたるが験(げん)あるものなり

「心」がそこに存在するかどうか。

洋の東西を問わず、これが普遍的な真理であるのではないか、そういうことを考える契機となる教会です。

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キリスト教関連 | コメント:0 |

長崎貿易 1.51

さて、この古びた布切れが何か知ってますか?

コレです↓
こしょろ文

長崎の人なら誰でも知ってる、ロマンの銘菓「長崎物語」のパッケージ・デザインの元です。箱の右下には「ガレオン船」も金箔であしらわれてます。
長崎物語

・・・ここで、長崎の人なら誰でも菓舗唐草の「長崎物語」テーマソングが浮かんだでしょう?
ということで、皆さんの絶大な期待にお応えし、浜口改め、
本職:プログレ・メタル・ギタリストメカ口(※「めかろ」でなく、「めかぐち」と読んでください)が歌のコード解析、今さっとやっておきました。楽器を弾ける人、ぜひ弾き語りで歌ったって下さい。
長崎物語テーマ

ちなみに、本職プログレ・メタル・ギタリストのメカ口こだわりで、最後のコードは「A」でもなく、「A7」、ましてや「Asus4」でもなく、「A9」になっています。


YOUTUBEにあった「長崎物語」を張り付けておきます b 
いまや歌聴いただけで泣けてくるわww

現在、長崎・平戸の「平戸オランダ商館」に展示してあります。そして、これは当時の幕府政策に翻弄された女性の、大変切ない手紙なのです。
今回は、長崎貿易シリーズ「2」へ行く前の「1.51」サイドストーリーとして(前回の終わりに「次回は、開港後の『長崎六ヵ町誕生』の詳細を書こうと思います」と書いてしまったので「1.51」てことで;゙゚’ω゚’):)、この「文」と、いわゆる「鎖国」について書きます。
では・・・


オランダ人妻子のマカオ追放の翌年、寛永十四(1637)年に島原の乱が勃発すると、オランダ・イギリス系日本人のジャガタラ(現インドネシアの首都「ジャカルタ」。オランダ植民地時代の呼称は「バタヴィア」)追放が始まる。平戸から「こしょろ」という混血の女性他、20名ほどの者がこのジャガタラに送られた。200年後の明治になってからのバタヴィア↓
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<1897年のバタヴィア地図>

この、「こしょろ」などが平戸の木田家縁者に寄せた、ページトップの手紙が「じゃがたら文」と言われるものである。内容はこうだ。

うば様まゐる

日本こいしやこいしや、 かりそめにたちいでて、
又とかへらぬふるさととおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、ゆめうつつとも、さらにわきまえず候へども、
あまりのことに茶づつみ一つしんじまいらせ候
あら日本こいしやこいしや

こしょろ


あえて、現代語訳するまでもないだろう。原文で十分その心意が伝わってくる文章だ。

遥かインドネシアの地から、二度と戻れることのない故郷長崎への望郷の念を想像すると、とても切ない。現在のように飛行機で軽くいけるような距離でもなければ、ネットを介してコミュニケーションも出来ず、手紙ですら本当に届くのかどうか危ぶまれる、そんな時代なのである。

この「こしょろ」による「じゃがたら文」は何枚かの古渡更紗(おらんだぬの)を市松に縫い合わせて茶包みを作って、白地のところに文がしたためてある。平戸にはこしょろの手紙1通の他にも、六兵衛元妻「ふく」のもの1通と「判田こねり」のもの2通が残っているという。やはり当時日本のキリシタンの歴史には、このように物理的にも心理的にも人を切り裂いてしまう悲しさが付きまとっている。

平戸のキリシタンの歴史。
フランシスコ・ザビエルが平戸を訪問したのが天文十九(1550)年であり、以来平戸は南蛮貿易とキリスト教布教を通じて西洋文化と日本文化が重なり合う場となったことに始まる。しかし、既得権益たる仏教勢力によって、永禄四(1561)年、ポルトガル船長ら14人が殺害される「宮ノ前事件」が発生。以後、長崎が貿易港の主となるまでの、いくつかの変遷を経たことも既に述べた(長崎貿易 1参照)。

しかし、この平戸が再び貿易港としてスポットが当てた人物がいる。慶長五(1600)年旧暦3月16日(西暦同年4月29日)、デ・リーフデ号が豊後臼杵の黒島に「漂着」。その航海長がイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針:鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5参照)。1600年と言えば、旧暦9月15日(西暦1600年10月21日)に関ヶ原の戦いが起こった年。これはその戦いのわずか半年前である。

ここもアダムスの詳細は割愛するが、彼は徳川家康によって、江戸幕府の外交顧問となったが、その晩年はこの平戸で暮らし、元和六(1620)年ここで病死し、墓が作られた。

三浦按針の墓
<平戸 三浦按針の墓>

慶長十四(1609)年7月には、徳川家康がオランダ人に日本通商免許を与え、9月にはオランダ商館が平戸に建てられる。更に慶長十八(1613)年、イギリス人も通商特許を得て平戸にイギリス商館を建てた。

寛永十(1633)年にはオランダ商館長の江戸参府が始まった。しかし、次々と発布されるキリシタン禁制令が平戸にも影響を与えたのである。主に5次に渡る、いわゆる「鎖国令」関連を列挙してみると、

■ 第1次鎖国令:寛永十(1633)年:奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じる。
■ 第2次鎖国令 寛永十一(1634)年:第1次鎖国令の再通達。この年、長崎に出島の建設を開始する。
■ 第3次鎖国令 寛永十二(1635)年:チャイナ・オランダなど異国船の入港を長崎に限定する。また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じる。
■ 第4次鎖国令 寛永十三(1636)年:貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放する。残りのポルトガル人は長崎の出島へ移す。
■ 寛永十四〜十五(1637~1638年)島原の乱勃発。幕府に武器弾薬をオランダが援助する。
■ 第5次鎖国令 寛永十六年(1639)年ポルトガル船の入港を禁止する。
■ 寛永十七(1640)年:マカオから、通商再開依頼のためポルトガル船来航したが、徳川幕府はその使者61名を処刑。
■ 寛永十八(1641)年:オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
■ 寛永二十(1643)年:ブレスケンス号事件が発生。オランダ船は日本中どこに入港しても良いという徳川家康の朱印状が否定される。
■ 正保四(1647)年:ポルトガル船2隻が国交回復依頼のため来航するが、徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える


そもそもこの「鎖国」という言葉は、出島の三学者のひとり:エンゲルベルト・ケンベルが書いた「日本誌」という本を、蘭学者で阿蘭陀通詞の志筑忠雄(しづきただお)が、享和元(1801)年に、そのオランダ語第二版(1733年)の巻末附録の最終章を訳出した写本として、「鎖国論」という表題にしたことからできた言葉である。内容としては単に江戸幕府による「貿易保護政策」のことであり、当世風に表現するなら、極度な”Japan First”のことである。つまり、現代教育で子どもたちに教えている、他国を強制的にとある思想から締め出して、世界から孤立していたという短絡的な意味合いのものではない。実際にこの「鎖国」という言葉が幕閣の間で初めて使われたのは1853年であり、そして、本格的に定着していったのは1858年以降とされている。したがって、一般に普及したのは明治時代以降であり、このことからして、江戸時代の人たちにとってはいわゆる「鎖国」をしているという意識がなかったのだ。

ケンペル「日本誌」
<ケンペル「日本誌」 日本二十六聖人記念館所蔵 ※特別な許可をいただいて撮影しました>

「鎖国」と表現した阿蘭陀通詞の志筑忠雄が、おそらくは日本の誰よりも世界史的な情勢を熟知したひとりである、その観点から当時の江戸幕府の対外政策に反対の立場をとっていたので、批判の意味を込めてその対外政策に対して誇張的な「鎖国」という言葉で表現したという話もあるがこれは定かではない。しかし、これは十分に考えられる話ではある。なぜなら、阿蘭陀通詞たちは必ずオランダからもたらされる情報である「オランダ風説書」を読んでいたからである。「オランダ風説書」とは、江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類であり、寛永十七(1640)年、幕府はキリスト教国であるポルトガル・スペインの動向を知るため、オランダ船が入港するたびに彼らが知る世界の情報を提供することを要求した。「風説」とは「噂話」のことだが、噂であろうがなんだろうが、とにかく情報を仕入れていたのである。この「風説」である情報の提供は翌年寛永十八(1641)年、つまりオランダ商館を平戸から出島に移転した年より開始された。

今、世界史的な観点が必要だという話をしたが、江戸幕府によるいわゆる「鎖国」政策が、単に民族主義的な負の政策であるといったとらえ方をするのは少しおかしい。確かに、これまでキリスト教禁教の大きな要因となったのは、仏教勢力が既得権益を守るためのものであったと考えてきた。どう考えても得をするのが寺社勢力であるからだ。しかし、世界史的な視点とは、当時スペインが、これもいわゆる「新大陸」アメリカで何を行っていたか?という視点が必要だからである。このマクロ視点抜きにして、江戸幕府のいわゆる「鎖国」政策を批判するのはあまりに早計である。

次回は、この世界史的マクロ視点からの考察を加えようと思います。・・・果たして「2」へ移行できるのか?:(;゙゚'ω゚'):

メカ口のメカ その1.51
メカ1.51



長崎の発展 | コメント:0 |

お母さんが預かったお年玉の行方 長崎ことはじめ編

crossroadsブログをご覧の皆さま
バレンタインデーです。
独身ひとり暮らしのわたしからすると、

バレンタインだの
クリスマスだの

恋人達が盛り上がるイベントはこの世から消えてしまえばいいと思っていますが、こういうイベントはどうやら日本の経済に大きな影響を与えているようです…

今年も我慢します。

そしてもうお気づきの方もいらっしゃる、
というか、気づける要素をお持ちの方がこのブログに辿り着いていると信じているのですが

では皆さま
よろしいですか?
ご一緒に!
せーの!


「日本におけるチョコレート発祥、また伝来についてはやはり長崎で、江戸時代の出島に関する文献も残っており、ああやっぱり長崎ことはじめ最高ありがとうそしてチョコレート万歳!ちなみに万歳を最初に考えた人も長崎にゆかりが!素敵!長崎!」


はい。
ありがとうございました。
どうぞご着席くださいませ。

こんな記事もあります。

チョコレートと長崎↓

http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/japan/j01_a.html

さすが出島です。
今は当たり前に生活の中にあるものの発祥の地がこの街だなんて
素敵だなぁと思います。

ぼくも色んな県に行ったり住んだりしました。
もちろん、その土地ならではの歴史や伝説がたくさんあります。
が、この長崎ほどに、文化において日本に影響を与えている街は無かったですね。


最後に
長崎は中国からもたくさん影響を受けています。
中国から来た隠元(いんげん)禅師がもたらした食べ物

インゲン豆。

スーパーで見かけたら
長崎の街を思い出してください。
わたくしが何かもたらしたら

たかお◯◯

とか名付けてもいいですか?


親切に見返りを求めたら
親切じゃなくなる!

と、本気で言って
ホワイトデーにお返しを渡さなかったら
案の定フラれたことが本当にある31歳が
ドトールでアメリカンを飲んでいたら
それはわたしです。


今日の一曲 寿屋愛唱歌





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

長崎貿易 1

日本における長崎の特殊性を物語るキーワード、「異文化の交差点」。
それが、クロスロード

確かに江戸時代の長崎貿易は、オランダとの「出島」を介した、ごく限定的なものだというような印象が強いですが、16世紀末から17世紀当初はポルトガル貿易が主流でした。そして、様々な事由によって明(後に清となる)貿易とオランダ貿易に制限、といような変遷をたどっていきます。

では今回は、この十字路の核とも言うべき「長崎貿易」からスタートします!


長崎の港は、ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」シリーズ参照)、元亀二(1571)年に大村純忠によってポルトガル貿易港となった。

天文十八(1576)年にイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京都へ上る途上で平戸を訪れる。彼は至る所でキリスト教の布教を行ったが、寺社勢力との教義争いも起こるようになった。ザビエルの日記にはこのような記述がある。

「キリスト教は彼らのまちがった教義に真っ向から反対しているので、こちらが福音について説教し、彼らの誤謬(ごびゅう)を証明し始めると、向こうは敵意をあらわにして私たちを総攻撃する機会にします」
「ザビエルの見た日本」(十)ピーター・ミルワード 松本たま訳


来日以来、僧侶との論争が激しかったが、仏教の僧侶の話は矛盾に満ちており、ザビエル自身はむしろ持論が正しいという自信を深めていくのである。

そんな中で、天文十九(1550)年、平戸が長崎で初めてのポルトガル貿易港として開港された。これが長崎における「南蛮貿易」の始まりである。

ところが、永禄四(1561)年、平戸で暴動が発生し、ポルトガル人14名が殺害された。これを「宮ノ前事件」という。その年、ポルトガル船の来航にあわせて、平戸・博多・豊前商人との売買交渉が始まったが、絹製品を巡ってその交渉が決裂したことから、日本商人と南蛮商人の乱闘が起こった。日本人が南蛮人へ商品を投げつけたことに端を発すると言われており、これに南蛮人が殴りかかったという。この乱闘に、見かねた武士が仲裁に入ったものの、この武士の介入を南蛮商人は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装、日本商人や武士団を襲撃した。これに対し武士団も抜刀して応戦した。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14名の死傷者を出し、平戸港を脱出した。

・・・ただ、筆者はこの事件の背後に、確実に既存の仏教勢力の巨大な利権構造が存在したと思っている。キリスト教信者が拡大するということは、仏教信者が減少するということと同義である。事実、隣の生月島と度島では約1400人が改宗している。この改宗したキリシタンが寺社や墓地の破壊を行って、キリスト教への入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていたのである。また、平戸領主:松浦隆信(まつらたかのぶ)もポルトガルとの南蛮貿易の利権を獲得するために布教を受容している

我々現代人が思い浮かべる仏教徒の平和なイメージは、実は織田信長によって武装解除された後の仏教徒像である。信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったのも、ここでは詳細は述べないが、ここが軍事上・地政学上の拠点の一つともなるからである。

平安末、院政を始めた白河上皇も自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として、

「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であり、様々な利権を有していたことがわかる。この比叡山では山法師と称された数千人の僧兵を擁したほどであった。

僧兵のイメージとして、より分かりやすのが、源義経との戦いで有名な武蔵坊弁慶であろう。

武蔵坊弁慶と源義経 歌川国芳
「五条大橋での戦いを描いた浮世絵」(歌川国芳作)

比叡山のみならず、僧兵は軍事力を背景に全国で大きな勢力となっており、多くの荘園を領有、国内の商業活性化の足かせとなっていた。今でもそうであるが、利権を持つ連中がそれを脅かされると、必ず政治やエスタブリッシュメント(社会的に確立した制度や体制。または、それを代表する支配階級・組織。既成勢力)と結びついて新興の勢力を潰しにかかる。この辺りが理解できると、なぜアメリカ大統領にトランプが当選したか、ということもわかるが、それはいずれ。

とにかく、こうした僧たちが、異教でもあるキリスト教拡大に伴った信者減少によって、大幅に収入が減じるばかりか、先ほど述べたように、ザビエルなどから教義の矛盾を指摘されて信者からの信頼も失っていた頃であったのだ。

ザビエルの書簡には、次のような僧たちとの生々しい論争もある。

 日本には仏教の宗派が九つあって、教理は一つ一つ異なっています。各宗派の考えがわかるようになると、私たちは相手方をやりこめるためにあらためて反論を開始し、毎日のように質問したり討論したりして魔法使いの僧やキリスト教のおきてにはむかう敵を困らせました。私たちはそれをとても効果的にやりましたので、私たちが彼らを批判し、反駁(はんばく)すると、彼らはぐうの音も出ませんでした。
 キリシタンたちは、僧がその非を悟って口をつぐめばうれしくなってますます主を信じるようになります。それと同時に討論の場に居合わせた異教徒たちは自分たちの祖先が徐々に衰えていくのを見て動揺しました。僧は少なからず不服でした。彼らは説教に出て聴衆が大勢キリシタンになるのを見ると、新しい信仰が気に入って祖先伝来の宗教に見切りとつける者を厳しく批判します。しかしほかの者は、キリストのおきてが自分たちの法より理にかなうものであり、僧の場合と違って自分たちの疑いを解いてくれるものなので、キリスト教に帰依すると答えました。
同「ザビエルの見た日本」(二十三)


聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
ピーテル・パウル・ルーベンス
(The Miracles of St. Francis Xavier) 1617-1618年
535×395cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館蔵

このような例からして、いかに仏教勢力が利権をむさぼって堕落していたかも理解できるし、既得権益を守ろうとしてキリシタンの排除へと彼らが向かわせたということもわかる。

以前のブログ、「※日本ではなかった!? 『小ローマ』:異国の長崎」に、この事件後の貿易港変遷については書いているので参照していただきたいが、平戸を出たイエズス会は大村純忠の要請で西海市の横瀬浦へ行ったが、ここでも血なまぐさい事件があり港が廃港、そして福田浦、元亀二(1571)年に、より利便性の高い長崎港へと移り変わるのである。

次回は、開港後の「長崎の六ヵ町誕生」の詳細を書こうと思います。

松浦隆信像 松浦史料博物館
松浦隆信像 松浦史料博物館
< DATA >
■ 享禄2年(1529年)~慶長4年閏3月6日(1599年4月30日)
■ 改名:隆信→道可(法名)
■ 別名:印山(号)、一渓斎、通称:源三郎
■ 諡号:尊勝院
■ 官位:肥前守
■ 主君:大内義隆→大友宗麟→豊臣秀吉

筆者一押し!!「松浦史料博物館」のアクセスはこちら↓



長崎の発展 | コメント:0 |

お母さんが預かったお年玉の行方 長崎の観光を楽しむ方法編

長崎と言えば!

色々ありますね。
住んでると当たり前の景色になりますから
あんまり意識しなくなります・・・



長崎歴史文化観光検定の試験勉強のために
市内の観光名所や史跡について調べてみると

ぼくはこんな場所に立っていたのか・・・

と、驚きや感動の連続でした!


これから長崎のことを勉強したり
長崎市内の観光を楽しむコツとして
ぼくが考えるのは

整理して、知ること

です。

長崎と言えば!
何がありますか?

ちゃんぽん カステラ 皿うどん 福山雅治 さだまさし 坂本竜馬 岩崎弥太郎 出島 グラバー園 中華街 軍艦島 眼鏡橋 トルコライス ミルクセーキ オランダ坂 稲佐山 夜景 港 

などなど・・・

街についてもっと知りたいなって時は

平和 港 キリシタン文化 幕末 お寺 中国の文化 出島 グラバー 三菱 伝統芸能 お祭り 

など

カテゴリーをいくつかピックアップして
整理します。
それを調べるだけ。
漠然と、「長崎のおすすめスポット」とか検索しても
情報が多すぎると思うんですよ。
興味ない部分も説明されてたり。

有名なグラバー園。
確かに建物自体も綺麗で珍しいです。
じゃあそもそも、グラバーって誰?
何でそんな地元で有名なん?
そんな疑問を解決してから向かうと
観光も勉強もさらに楽しくなります。

そしてぜひこのブログを
参考にして
頂きたいものですな!
ちゃんとカテゴリー分けして
リンクも貼ってありますよ!


温泉が好きで
休みの度に「デトックスだ」と
1時間半くらいお風呂に入り
リラックスするんだけど
デトックスのために汗をかきすぎて
体重がいつまでも標準値にとどかない
青年がいたら
それはわたしです。



今日の一曲 ダイアナキング シャイガイ





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

オリオン

明日から雪の舞い散る冬空だということもあり、今回はちょっと趣旨を変更しました。
日頃長崎関連の歴史科学ばかりUPしているんですが、ここでボクの最も興味ある学問:物理学と天体について触れてみようかなと企んでます。

と、いう訳で、冬の星空といえば、やっぱオリオン座。
だけど、オリオンはいろんな意味で深い・・・
orion1.jpg
wallpeperlink.com

上の画像範囲を広げ、オリオンをなじみ深い星座にすると次のようになります。
orion3.jpg

オリオンのベルトと呼ばれる中央の3連星は、左から「アルニタク」→「アルニラム」→「ミンタカ」。
そのやや上には、ウルトラマンの故郷「M78星雲」があります。初めの画像では一番右の角にある星雲がそれです。

orion5.jpg

これを拡大すると、巨大で美しい色彩のガスの立ち込めている様子がわかります。

オリオンの腰の剣に当たる所には幻想的なイオタもあります。
orion4.jpg

3連星の東端の星:「アルニタク」のすぐ近くには、「馬頭星雲」も見えます。
馬頭星雲

これら全体に広がっている赤いガスは、バーナードループと呼ばれる円弧状の超新星残骸です。あまりに薄いので通常は肉眼で見えませんが、実はオリオン座全体を取り巻いています。

そして、オリオンと言えば、左上に位置する超巨星:ベテルギウス。ボクが高校時代に、その規模から最も興味を惹かれた星です。
その大きさは、人間が夜空で見えている天体で太陽に次いで大きく、この星を太陽あたりに置くと、その直径は遥か火星を越えて木星辺りまで到達するほどの大きさ。つまり、地球から太陽までの距離を「1天文単位」という1億5000万kmとすると、相対性理論に基づいて、最速となっている「光」の速さが秒速299,792 km。よく言われるように、1秒で地球を7周半出来るほどのすさまじい速さです。核融合によって放たれる光が太陽から放射されて地球に到達するまでに、8分19秒かかってしまうので、地球で眺める太陽は約8分前の姿となります。その太陽から木星までの 距離が約778,500,000 km。ベテルギウスは現在これより少し小さい直径を持つという巨大な星です。

また、このベテルギウスは、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンともに、冬の大三角を形成しています。

orion2.jpg

誰でも簡単に冬空では確認できますが、「超新星爆発」を起こして、もうないのではないか?とも言われる星なのです。しかし、地球までの距離が640光年離れており、今冬空を眺めて見える姿は太陽より遥か遠く、640年前の星の姿なのです。まさに宇宙はリアル・タイムマシーンです。この超新星爆発が、地球にどのような影響があるかということに関しては、今回は詳細には書きませんが、もし爆発すると地球でも肉眼で見えるほどだと推定されています。

そして、角度を変えて歴史的にはこんな話もあります。
中央の3連星がシンメトリーを旨とするエジプト文明において、直線上にギザのピラミッドが並ばないのは、このオリオンのベルトを元に配置されたのではないか、という説もあり、各星の光の強さと各ピラミッドの面積とが比例している、ということを計算した人もいるほどです。

pyramid.jpg
中日新聞+プラスより

これには当然のごとく、単なる偶然ではないか、と言う人たちがいます。もちろんそれも妥当な話だとは思います。しかし、建築学的にも、精密工学的にも、超高度な数学と物理を用いないと作れないのが、特に「クフ王」のピラミッドだと言われています。その他、アブシンベル宮殿のラムセス2世像、メムノンの巨像など、重機や現代の精密工具を駆使しないと作れないのではないかというのがエジプト文明です。この論争も決着がつく時が、いつの日か訪れるんでしょうか?

いずれにしても、冬のオリオン座は、いにしえから人間の想像力を駆り立ててやまない姿です。










宇宙物理&天体 | コメント:0 |

「肥前の妖怪」 鍋島直正 1

今回から、筆者:浜口改めメカ口(※注「めかぐち」、「めかろ」ではありません)が、幕末に坂本龍馬や数々の志士達を差し置いて、ダントツで尊敬する「鍋島直正(なべしまなおまさ)」です。

鍋島直正なくしては、今の日本はない!

まず、この写真です。
鍋島直正

・・・どうでしょうか?背後に妖気さえ漂う、このただならぬ風貌。まさに「肥前の妖怪」と呼ばれるにふさわしい… 
懐に手を突っ込みブーツに立ちポーズで遠くを見るなどのポーズでなく、折り目正しく正座でカメラをガン見。

この直正の先見性とメカへの情熱は狂気に満ちたモノがあります。今でいう「理化学研究所」創設、初の反射炉完成、国産アームストロング砲初開発に成功、2015年に世界遺産ともなった三重津海軍所創設、日本初の実用蒸気船「凌風丸」完成、部下への寛大な御心、などなど、とても1回では終わりそうにありません。

< DATA >
■ 時代:江戸時代末期(幕末)
■ 生涯:文化11年12月7日(1815年1月16日)~明治4年1月18日(1871年3月8日)
■ 改名:貞丸 → 斉正 → 直正
■ 別名:閑叟(かんそう)
■ 戒名:綱聖院殿閑叟尭仁大居士
■ 官位:従四位下・侍従、肥前守、議定、北海道開拓使長官、大納言



では、1回目は鍋島直正を語る上で、とても重要な事件。それが、

「フェートン号事件」

江戸時代、唯一西洋との窓が開かれていた長崎。佐賀藩は幕府の命令により、福岡藩と1年おきに、長崎の警護を任されていた。

しかし、ペリー来航の45年前、佐賀藩に強烈な危機感を持たせる出来事:フェートン号事件が発生する。この年1808年は佐賀藩が警護担当の年であったが、オランダ船の来航もなく平穏であったため、莫大な経費のかかる警護の手を緩め、兵を通常の1/10の100名を残し、残りは藩に戻していたのである。
そもそも佐賀藩藩主:鍋島斉直が就任した時、すでに藩の借金が1万5000貫あったとされ、財政破たん寸前であったという事情がある。したがって斉直の財政再建の一環として、不要な経費削減の政策を行わねばならなかったのである。しかし、天領:長崎の警備には莫大な予算を投入しなければならず、内密で熊本藩に引き継いでもらおうとまで画策していたが、その密約が露見して、年寄役の有田権之允は切腹したという経緯もあった。

鍋島斉直 高伝寺所蔵
<鍋島斉直 高伝寺所蔵>

そのような中、文化五(1808)年8月15日、突如、オランダの国旗を掲げてオランダ船に偽装したイギリスの船が出現する。イギリスのフリゲート艦フェートン号であった。てっきりオランダ船だと思ったオランダ商館では、商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)を派遣したが、彼らは武装ボートに拉致される。船にはイギリス国旗もただちに掲げられた。

フェートン号
<フェートン号> 長崎歴史文化博物館所蔵

< DATA >
■ クラス: ミネルヴァ級フリゲート
■ 全長: 砲列甲板:141ft(43.0m)
■ 全幅: 39ft(11.9m)
■ 喫水: 13ft 10in(4.2m)
■ 機関: 帆走(3本マストシップ)
■ 乗員: 280名
■ 兵装: 38門(公称値。カロネードは含まれていない)
■ 上砲列:18ポンド(8kg)砲28門、後甲板:9ポンド(4kg)砲8門、18ポンド(8kg)カロネード6門、艦首楼:9ポンド(4kg)砲2門、
18ポンド(8kg)カロネード4門


そもそも、このフェートン号がやってきた目的は、世界史的に見ると当時ナポレオン戦争でオランダはイギリスと交戦状況にあったので、このアジア方面での敵国オランダ船の捕獲であった。しかしオランダ商館員二人を捕らえたものの、長崎港内にはオランダ船が長崎におらず、代わりにこの商館員を人質に捕らえたのである。そして、艦長フリートウッド・ペリューは人質解放の条件として長崎奉行所に食料と水を要求、この要求を飲まなければ長崎を砲撃すると威嚇した。

これに激怒した八十一代長崎奉行:図書頭(ずしょのかみ)松平康平は、警護に当たっている佐賀藩に出撃を命じるが、佐賀藩は警護の兵を松平図書頭に無断で帰藩させており、四国の各藩も対処に消極的であったので、この事件に対応できなかった。

そして、オランダ商館長:ヘンドリック・ドゥーフの説得により、やむなく松平図書頭がこの要求を飲んで、食料と水を与えたことによって人質二人は解放。17日の朝にはフェートン号は長崎を離れた。

ただ、この人質解放の条件となったことは、幕府に禁じられていた内容だったので、この責任をとって松平図書頭は、始末を書いた遺書を残して享年41歳にて切腹し、佐賀藩家老らも5人が切腹した。この事件の処遇として、幕府は佐賀藩の責任を追及し、11月に100日の閉門を鍋島斉直に命じた。

・・・しかし、この幕府の対応はあまりに理不尽であろう。

そもそも佐賀藩のような外様には、幕府に武装して反抗させないよう、参勤交代など財政的にもきつい政策を課しておいて、このような突発的な事件が発生して、いざ武力が必要となった時には、なぜちゃんと武装して防衛しないのか、ということを強いていることになるからである。
江戸幕府のこうした理不尽さにはいずれ詳しく触れることもあるだろうが、このような理不尽極まりない処遇を行うからいずれ滅びの道を進むのである。

それはさておき、事件後には歌舞音曲すら禁じられ、城下は正月にもかかわらず静まり返っていて、髭を剃ることすらも禁じられていたという。更に不幸なことには、文政二(1819)年には藩の江戸藩邸が焼失。文政十一(1828)年には台風が直撃し、藩内では死者1万人の大被害となった。この台風は通称「シーボルト台風」と呼ばれるが、この台風襲来で財政は極度に悪化し、借金は十三万両に上ったと推計される。坂本龍馬の時代には5両で今の約50万円と言われているので、それより50年前の出来事であるから、多少のインフレ率は無視しても、十三万両は今の価値で130,000×100,000=13,000,000,000円。13×10の9乗だから、130億円の借金となる。
こうして、かねてよりの借金などと相まって、佐賀藩の財政は本当に破たん寸前であった。

そうした藩の逼迫(ひっぱく)する状況下で、父:斉直のあとを継いで、天保元(1830)年、17歳で第10代藩主となったのが、この直正であった。


次回は、直正の財政再建策などからです。

松平図書頭墓地大音寺
<図書頭松平康平墓地 大音寺>

康平社 諏訪神社境内
<図書頭松平康平 康平社 諏訪神社境内>




mecha.jpg
メカ口のメカ:その1

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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