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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 5 最終回

岩崎弥太郎の話も今回が最終話。書いてて胸が熱くなりました…。
では、いきましょう!

弥太郎が目指した日本の海運業の海外からの自立。
しかし、当時上海航路はアメリカの「パシフィック・メイル社(Pacific Mail Steamship Company 1848年創業で、アメリカ政府の助成金を手太平洋定期航路を開設していた)」が独占していた。ここでいう上海航路とは横浜、神戸、下関、長崎、上海を結ぶルートである。この巨大な外資に勝つ見込みなど未知数であり、相当な覚悟とバックグラウンド、資本を要するものであった。

この上海航路を巡って、パシフィック・メイル社と三菱との戦いの幕が上がったのである。

戦いの手段は「値下げ競争」である。これは双方にとって大変苦しい戦いとなった。明治八年2月から10月にかけての三菱の運賃は、横浜―上海間30円から8円へ下がった。今の物価に引き直すと、30万円から8万円への値下げである。実に73%減。そのため三菱の負債は増加の一歩を辿る。このまま値下げを続けていては会社の存亡に関わる。

しかし、弥太郎は勝つまで止めないという信念の下、値下げ競争が継続していた。ここでパシフィック・メイル社がついにこの値下げ競争に音を上げた。彼らの上海航路からの撤退を条件に、彼らの設備と船を三菱に購入して欲しいという要求を飲み、弥太郎は交換条件として今後30年間パシフィック・メイル社が日本航路へ復帰しないことを約束させたのであった。

だが、外資との戦いはこれで終わりではなかった。

パシフィック・メイル社の撤退を期に、イギリス最大の海運業者であるP&O社が参入してきたのである。この世界最大の海運業者との戦いを三菱は再び行わねばならなくなった。

やはりこの戦いでも値下げ競争が始まった。パシフィック・メイル社との戦いの直後で満身創痍の三菱は、やむを得ず会社経費を徹底的に削減するという策に出ることとなった。

しかし、三菱の役員連中から、自分たちの給与を半分にしてほしいという懇願も出た。経営者に人徳があると、このような苦境の中でも社員はついていく、という正に典型的な社員たちの振る舞いである。このような会社にいることが誇りに思える社員は苦境の中でも幸せだっただろう。ただ、弥太郎を初めとして、社員もこのまま値下げ競争をしては負けることがわかっていたが、なかなか妙案は浮かばなかった。

そこに、以前坂本龍馬が言っていたことを思い出した、という。それは次のようなものであった。

資本金がなかった海援隊は、ある藩に武器の購入を持ちかけて輸入を代行する。そしてその藩からの金を運用し、別の藩にその金を貸して武器を買わせる。このようにして、船荷をダシにして金を貸して儲けていく、というものであった。こうしたキャッシュフローの円滑化によって、流通が拡大していくのである。

これをヒントに、弥太郎は「荷為替金融(にがわせきんゆう)」という起死回生の秘策を思いつくこととなる。これは、荷主が船荷を担保にして融資を受けられるサービスのことであり、顧客の流出を防ぐことも出来る優れた案であった。

海運業者である三菱の顧客の荷主には問屋が多かった。この問屋とは、江戸時代に荷主から委託された貨物を販売したり、または、商品を仕入れて販売したりした卸売商人のことで、室町時代の問丸(といまる)が分化・発達したものである。

弥太郎が商品である荷を担保にして資金を荷主に貸し付けるという、この「荷為替金融」を始めたところ、顧客の定着と融資先からの金利獲得が可能になった。これも一石二鳥の策で、これ以降P&O社との戦いは有利に運んでいったのである。

そして、この「荷為替金融」のシステムが発展し、「三菱銀行」が設立した。

こうして9ヶ月に及ぶ値引き競争に敗れたP&O社は日本から撤退し、外国資本との戦いに勝利したのであった。

・・・しかし、世界の海運業へと乗り出し、サンフランシスコに日の丸の国旗を掲げる夢が実現することはなかった。

胃がんを患い、志半ばでついに倒れたのだ。最後の力を振り絞って遺した言葉は、「まだ志半ば、十のうち一つか二つしか達成しとらん。けんど、もはや仕方ない。みな、わが志を継ぎ、事業を落とすことなかれ」というものだ。

その日は明治十八(1885)年2月7日、家族・社員、あわせて40名に見送られて岩崎弥太郎はこの世を去った。享年50歳であった。

その後、郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併し、「日本郵船会社」が設立された。三菱出身の日本郵船社長、近藤廉平は、明治二十九(1896)年、日本発のアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパの定期航路を開発した。

ここに岩崎弥太郎の悲願がついに達成されたのである。

その最初の船の名は「土佐丸」。日本最初の5千トン級の大型貨客船であった。マストに掲げられた旗は、共同運輸と三菱を象徴する、白地に赤二本線の二引きの旗。それは奇しくもあの「海援隊」の旗に良く似ていた。これが、以前この<シリーズ2>で、覚えておいてほしい、と言っていたものである。

日本郵政社の旗
日本郵政社の旗

海援隊旗
海援隊旗

この二つの旗を見比べるにつけ、ボクには岩崎弥太郎や弥之助らの、坂本龍馬への尊敬の念を感じとってしまう。本当はこの旗に込められた当初の意味は全然違ったものかもしれない。しかし、度重なる困難に知恵と努力で立ち向かい、諸外国から日本を自立させようとする精神が脈々と130年以上も続く今の「日本郵船」に引き継がれているとしたら、この重厚な歴史が美しい結晶となって過去から学ぼうとする人を魅了すると思う。

そして、三菱は弥之助以来の多角経営により、造船業をはじめとして、世界の大企業へと成長していった。

最後に、次のエピソードをぜひ知ってほしい。

大正11(1922)年11月17日、アルベルト・アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

 私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の
海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の
島々を見た時でした。
 [1,p140]

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組
員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せた
ことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を
見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはい
そいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私は
そうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛
しています。
・・・[1,p140]

これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

日本郵船とアインシュタイン 
※<アインシュタインの見た日本


弥太郎の精神を受け継ぐ三菱の社訓:三綱領は次の通りだ。

所期奉公 :期するところは社会貢献である。
処事光明 :フェアープレイに徹しなければならない。
立業貿易 :グローバルな視野で考えて行動せよ。

この社訓を読むと、弥太郎の理念が良く理解できる。大変素晴らしい社訓である。しかし、多角化し、巨大化した今の三菱の社員達全員がこの社訓を暗記し、その歴史の重みを十分理解して行動していると言えないはずだ。

なぜなら・・・特に昨今の度重なる三菱自動車の不正のニュース:パジェロ事件・リコール隠し・燃費改竄(かいざん)などを聞くにつけ、この初期理念はどこへ行ったのか?と思うからである。これまで書いてきた岩崎弥太郎らのすさまじい努力の歴史を知って、そのような三菱の社員であることに誇りを持てるような教育がなされていないことに由来する、一連の事件なのだろう。三菱の復活のために、全員がこの素晴らしい理念にもう一度立ち返ってみる必要があるだろう。

高島 岩崎弥太郎像
長崎市高島町 岩崎彌太郎之像

最終話を書き終えて、岩崎弥太郎のこうした生きざまを整理して考え直すと、この立像をまた訪れたくなります。全部読んでくれた人も、弥太郎のことを知ってこの像の前に立つと、また違ったまなざしで対峙することが出来るのではないでしょうか。
ボクらにかかわる一人でも多くの子供たちが歴史からの有機的な学びを得て、その後の人生に活かされるよう、ボクら自身も襟を正される思いがします。



■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4


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岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4

もう飲んでも、筋トレしても、ギター練習しても、飲みながら映画観ても、にゃんと戯れてもさっぱり眠れないので、前回の続きを書こうと思い立ちました。結局、紫がかった東雲の空の頃寝落ちしました(;・∀・)

弥太郎4、いきまーす!!


明治七(1874)年4月、三菱商会はすさまじい経営努力の甲斐あって、業界2位へと躍進し、東京へ進出した。
船も10隻に増やし、社名を「三菱蒸気船会社」に変更。

この前年である明治六(1873)年11月に父の弥次郎が急逝。弥太郎の懇願もあって1年で留学を中断してアメリカ留学から戻った弟:弥之助も経営に参加していた。

岩崎弥之助
<DATA>
岩崎弥之介
■1851年2月8日~1908年3月25日(満57歳没)
■出生地:土佐国安芸郡井ノ口村


現在のように三菱が造船・金融・地所・倉庫など多角化したのは、この弥之介の功績である。1890年には、当時の価格10万円で、端島(軍艦島)炭鉱を購入している。また、後藤象二郎の長女:早苗子と結婚している。いずれグラバーの関連でまた登場することになるだろう。

そして、明治七(1873)年5月、三菱躍進の転機となる事件:台湾出兵が起こる。

台湾出兵
<台湾出兵>
この事件は、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害されたという事件があった。この犯罪捜査などについて、清朝政府が「台湾人は化外(けがい)の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避した。明治七(1874)年に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵である。54人が殺害されたという大規模な殺戮事件であるから、警察ではなく軍を派遣したのである。これは日本軍が行った最初の海外派兵であった。


話はそれるが、時の清朝政府が台湾の事を「化外」の地と考えていたということが公に語られている点である。・・・いずれこの話も詳細にすることがあるだろう。今の中華人民共和国の主張する台湾への考えと真逆だからである。

台湾出兵に際し、国には軍需物資を送る船と乗組員が不足していた。時の大蔵卿:大隈重信は、当然のように運輸業界トップの日本国郵便蒸気船会社頭取:岩橋万蔵を呼び、船を出させる提案をするが、外国への輸送は未経験という理由から、この提案を拒否する。

大隈重信
<DATA>
大隈重信
■1838年 3月11日~1922年1月10日 (満83歳没)
■出生地:肥前国佐賀
■内閣総臣(第8・17代)を歴任。早稲田大学の創設者であり、初代総長。
■身長:180cm (歴代内閣総理大臣の中で最も背が高い)


ただ、この岩橋万蔵がこの提案を拒否した裏には、自分らが断ればこの話が業界2位の三菱に行き、三菱がこの仕事を請け負えばその隙に日本の海運業の市場を独占し、主導権を更に盤石に出来るという考えがあったのである

しかし、弥太郎にはこれに対抗する策があった。それは政府が戦争のために購入していた10隻の船の借用を、この台湾出兵という政府の急場に付け込んで、申し出ることによって、これらの船を今後自由に使えるようにすることであった

そして弥太郎の目論見通り、台湾出兵後も政府の大久保利通より、この10隻の船の無償で使用許可を取ることが可能になる。大久保にとっては、海運に新参者の弥太郎への不信があった。しかし、海のプロフェッショナルを備えているという自負が弥太郎にはあった。なぜなら・・・・三菱にはあの解散した「海援隊」のメンバーを揃えているのであるからだ

大久保利通

<DATA>
大久保利通
■1830年9月26日~1878年5月14日(満47歳没)
■出生地: 薩摩国 鹿児島城下高麗町
西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。台湾出兵の戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡り、交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。ちなみに「義挙」とは正義のために行動を起こすという意味である。


これで、当初ライバルであった日本国郵便蒸気船会社を抜いて船舶所有数は21隻となって国内1位となり、台湾出兵で失った市場を瞬時に取り戻すことが出来たのである

更には、このようにして弥太郎は政府との大きなパイプを作った「政商」となり、政府からの支援金を年に25万円、台湾出兵後も船12隻を無償で借用することも出来たのであった。

 一方、この台湾出兵を契機として政府から見放された日本国郵便蒸気船会社は解散、三菱はこれを吸収し、「郵便汽船三菱会社」となった

ビジネスの業界において、このような一石二鳥のプランはそう易々と訪れるものではないだろうが、岩崎弥太郎がちゃんとしたビジネスの「機」を見ることに長けていたことを示す例の一つだと思われるし、リスクを背負い、認識し行動することの信頼度の高さがしっかりと政府側にも伝わったと思われる。

ボクも経営の立場にいるので人を見る時、この点は大変重要なポイントとなっている。リスクを背負わずに、外野からあーだこーだと指南するのは誰だって出来ることで、これがパートナーとして信頼できない人の典型と考えている。

自らの身の丈を認識せず、有能な部下のおかげで成り立っていることを忘れ、いわゆる数学的なリスクヘッジも行わず、感情の赴くまま拡大再生産をする経営者に誰もついていくはずがない。

この点において、岩崎弥太郎はやはり素晴らしい経営者である。自らリスクを背負い、権力者の顔を立てつつ自分の優位な条件を獲得する。もちろんここにはしっかりとした将来への予見も含まれていたのかもしれない。このような段階を踏まえているからこそ、次に訪れる最大の危機にあたって、後に紹介することになるが、社員達も一丸となって身を粉にし、三菱の危機を回避しようというモチベーションが生じたのである。


これで日本最大手となった弥太郎の次の目標は、外国船との闘争に勝つことであり、海運自主権を回復することにあった。ここに弥太郎の公民としての意識の高さもうかがい知ることが出来る。

当時は外国への航路が外国資本に独占されていた。そこへ大久保利通より、上海航路開設に向けた取り組みをしてもらいたいという依頼が舞い込む。

これで坂本龍馬との夢の実現へ向けて、世界の海運業へと乗り出すことになるのである。
世界の「海援隊」へと向けた、最初の船出であった。

■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3

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