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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「PEACEBLUE」 の2017年を振り返る…

こんにちは!
「PEACEBLUE」広報部長・Keikoです!!

2017年がもうすぐ終わろうとしています。
皆さんにとって、どんな1年でしたか?
LOGO

我々「PEACEBLUE」にとっては、今後に繋がる1年だったのではと☆
年末にふさわしく、この1年の主な活動を振り返ってみたいと思います。


2017年
1月 ブログ「CROSSROADS × Nagasaki」スタート!


最初の投稿は、もちろん代表・浜口先生。

「沈黙」遠藤周作と碧き海
http://crossroadsnagasaki.jp/blog-entry-9.html


1月21日に公開されたばかりの映画「沈黙-サイレンス-」にちなみ書かれました。
今の雰囲気からするとかなりあっさりとした仕上がり(笑)。

この投稿から積み重ねること、およそ1年。
今日のこのブログがなんと!100投稿目になります!!
(8割方書いている浜口先生を差し置いての記念投稿、ごめんなさい(^^; )



4月 「PEACEBLUE」ミーティング

ミーティング201704

写真は、ミーティング後の懇親会♪
私が一番楽しそうなのことはご覧のとおりです(笑)。

このミーティングで、今後の活動についての大枠が見えてきました。
まずは企画から!!と、イベントを立ち上げることに…



7月 長崎市立戸町小学校 訪問

戸町小① 戸町小②

戸町小学校3年生、約90人に長崎のこと、世界遺産のことを
お伝えする機会を頂きました。

我々の今後の活動におけるヒントもたくさんあった有意義な訪問でした。
何より、参加してくれた子ども達、とても熱心にメモを取ってくれたり、
元気に応えてくれたり…嬉しかったです^^

「PEACEBLUE」看板も設置されました!
看板① 看板②



8月 まさかの台風により企画延期(涙)

170924告知

【世界遺産公式ツアーガイド・浜口剛先生とさるく!グラバー園~学校では学べない長崎学☆】
を企画するも…
延期案内

からの!

リベンジ決定

ということで…



9月 【世界遺産公式ツアーガイド・
浜口剛先生とさるく!グラバー園
~学校では学べない長崎学☆】


170924グラバー園
やっとの実現となりました!!

ご参加の皆さまからも「えー!」「そうなんですか!?」と、
浜口先生のご案内に驚きの声が!
とっても好評で、企画して良かった!と心から思いました。



12月 2018年の企画に向け、始動!!

たくさんの子ども達に 長崎の歴史や魅力を 楽しみながら学んでもらうべく、
公的機関にも協力を頂けることになり、日々ミーティングを重ねています。
お知らせの日を楽しみにお待ちくださいね(^_-)-☆

シースケーキ
写真は、長崎オリジナルのショートケーキ・梅月堂の「シースクリーム」。
ワタクシ、広報部長として 様々な活動を展開しつつ、
ブログ【CROSSROADS×Nagasaki】では 軽いい記事担当として、
今後もおいしい長崎情報、たくさんアップできたらと思います♪

今年スタートした当ブログをご覧くださった皆さま、大変、大変、ありがとうございました!
来年は、浜口代表、いよいよあの人物をクローズアップします!!
(ヒント:佐賀に行かなきゃ――――!!行きたい――――― !!)
どうぞお楽しみにっ♡

2018年も、「PEACEBLUE」を
どうぞよろしくお願いいたします☆






副管理人:Keikoの らぶらぶ長崎 | コメント:0 |

歴史をちゃんと理解するための経済学 4 国立の監獄に、なぜわざわざいた?

江戸時代。イギリスが撤退した後、日本との交易をしたヨーロッパの国は、いよいよ出島に押し込められてたオランダだけです。
出島1
出島 川原慶賀筆 

「そんなんみんな知っているし」、と思われるでしょう。中学2年生までにはほとんどの日本人が義務教育で習う話ですから。

しかし、この特殊性を17世紀初頭における、ごく簡単な経済学の観点から考えてみると、かなり違った見方、というか深い観方が出来ます

<条件>
1:日本は、掘ればまだ山ほど金・銀を持っている。
2:カトリック国(スペイン・ポルトガル)を徹底的に排除する(ていうか、してもらう)。
3:オランダはまだ独立戦争中だから武器を買う金がかなり必要。
4:日本との交易を行うのに、最近やって来た同じプロテスタントのイギリスが邪魔。
5:カトリックに嫌気がさした、時の江戸幕府にどうにか気に入られるようにする。


これら単純化した5つの条件さえクリアすれば、オランダの(清と朝鮮はいますが、おおむねヨーロッパ勢としては)独り勝ち確定です。

例えば代替物が金・銀でなくとも、今の日本で「石油」が大量に国内から産出されたら、(一概には言えませんが)今よりとてつもなく豊かな生活が出来ます。

ボクが子供の頃、産油国(たぶん記憶では)クウェートの小学生は学校帰りに、先生を通じて国王からのお小遣いもらえるということを知って、相当驚いたものです。でも、石油が大量に出たからといって、それをどうやって使うかわからずじまいで、買う人がさっぱりいなければこの小遣いを出す余裕ないでしょう

現代では石油をエネルギーや原料としてメインに使うという、ほぼ世界共通の、しかも世界という巨大な「需要」があるからこそ、石油が高価な金に換えられて、豊かになったアラブ諸国では子供らに小遣いを渡せるほどであった、ということを覚えておきましょう。

経済的に豊かになるには、まず「イイもの出来たから、売るよ」という「供給」より、「わ!ソレ、めっちゃ欲しい」ていう「需要」が必須です

こうして生じる、豊かな社会になっていくための構造を「インフレ・ギャップ」と言います。下に図で示しておきます。

インフレギャップとデフレギャップ

図の左の方ですが、赤いバーが先行しているのがわかりますよね?青いバーである本来の供給能力(潜在GDP)が赤いバー:総需要(名目GDP)より低いけど、機械化や効率の良い方法が開発されることで、総需要とのギャップが埋まっていきます。そうすると、また欲しい人(需要)が増えるからギャップが出来て、また企業は技術革新が必要になり、新たな商品が開発されていってギャップが埋まっていく。物価は当然上がるけど、給与もUPして、人々の購買意欲が盛んになって国民の生活の質がどんどん向上していく。

これを「高度経済成長」と言います。

「作る人を増やせば供給量もかなり増えるのではないですか?」と思われた人、スルドいです!!

ただし、それでは本質的な経済成長は出来ません。例えば今、かなりコンビニに行くと外国人留学生が働いていますよね?コンビニのバイトに人が足りないからです。けれど、彼らの得た収入は日本国内に全て残るわけでなく、必ず国外へ流出します。外国人労働者は違法だけど、彼ら学生は合法というのが法の抜け道になっているのですが、原則として経済成長には国内で人材を賄うことが必要なのです。

逆が「デフレ・ギャップ」と言いますが、日本では2009年からの民○党政権に移行して顕著に起こったものです。労働不足を補うのに、「外国人移民を1000万人受け入れるぞ」とほざいていましたが、経済学のセオリーに反する暴論です。

というのも、内需を拡大せずに安易な他国に頼るやり方では、世の中がデフレの寒風が吹き荒れます。100均がここまで流行った背景を考えてみましょう。給与が上がらず、労働賃金と原材料費がめっちゃ安い隣国で生産を行うことで、バブルが崩壊した不景気の中、通常よりも粗悪な品物だけど、安いからまぁイイか、と妥協して使用していたことでしょう。

デフレ下においては、このような粗悪な輸入品が広まり、当然ですが、およそ芸術が発達することはありません。また、若者が自動車の購入に興味を持たなくなったことと、デフレ不況とは密接にかかわっているのです。

この表の右にあるように、「デフレ・ギャップ」を埋めるようにして社会が豊かになることはまずありません。先進国の給与が平均で1.5倍ほどUPしている中、日本は0.88。京都議定書とかいうイカサマにひっかかり、温暖化防止とかいう名目で数十兆円も血税を無駄にしたばかりか、モノづくりを海外に依存し、失業者続出。自殺者も増加して、と、こうしたデフレ状況がバブル崩壊後、日本はずいぶん続いてしまいました。
メディアもさんざん煽った「子ども手当」に騙されて政権交代を選択した挙句、詐欺でやらずじまい。少しは義務教育で学ぶ政治・経済のことを理解しないと、と実感したハズです。

こんな基本的な経済原理さえ理解せずに、むしろ悪化させる方向に舵を思っ切りきるという、一体あの民●党政権て何をしたかったんでしょうか?日本を利するやり方をあえてやらなかった(てことは、裏を返すと特定の他国を利することになった)のは、わざと?とはあえて言いませんが…。

好景気になるためには緩やかな(約2%程度のインフレ)上昇が必要です。今のアベノミクスがちょうどこのラインに乗っているところなのです。あと1週間もしたら、2018年を迎えますが、嘉悦大学教授の天才:高橋洋一先生によれば、未だになかなか民間では実感のない経済効果は、来年からだんだん表れてくるという予測です。
アベノミクスの成果
データがちゃんと出てますから。

実測データが信頼できないなら、どこかの都知事が言ってましたが、「科学的に安全でも、安心できない」ということになります。なら、何を基準にすればイイんですかね?
ちなみに、こんな話をすると、すぐ「お前、自○党が好きなんだろう?」などと言われますが、残念ですが全く違います

政権与党がどんな党になろうと、経済政策さえ間違っていなかったら、ボクは問題ないと思っているくらいで、むしろ、今の与党が「消費税を10%に上げる」と、のたまわっていることは、またデフレの悪夢に戻すつもりかっ!と批判しているくらいですのであしからず。アクセル踏みっぱなしでいけば豊かになるのに、なぜ消費税UPというブレーキを・・・。

日本の高度経済成長期には、この「インフレ・ギャップ」を技術革新でどんどん埋めていくことで、日本は物質的に大変豊かな社会へと変貌を遂げました。あまり強調はできませんが、あえて言うと、物質的な豊かさがあって、人心もゆとりが出てくると思います


かなりズレましたんで、そろそろ話を元に戻します(;・∀・)

生産者にとっては、複数の他国が購買競争するから、当然販売値段は高くなります。これが、一国しか買わなかったらだったらそうはいかなくなるでしょう。前にもオランダ東インド会社の独占の際に同様のことを書きました。(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -」参照)

グローバル経済において、どこかから産出された金・銀、レアメタルなどを独占して大量にゲット出来ることなど、現代ではまずありえないでしょう。これが成功すると、どれほどの豊かさを享受できるようになるか…。

そして、先に示した5つの条件をクリアにすれば、オランダだけが日本にある豊かな金・銀の独占がまさに達成されようとしていることの利点を考えてみて下さい。

ケンペルが言った「出島は国立の監獄」という状況でも、その莫大な儲けを考えたら楽勝でガマンできるレベルだったのです

だから、「日本はオランダ人たちをあんな狭い所に閉じ込めて、なんて酷い!」ていうことを言う人もいますが、経済学の論理とまともな歴史の知識を総合すると、それがいかに短絡的な意見かがわかるでしょう

したがって、「国立の監獄の出島って、あんたらが莫大な利益を独り占めするために好きで入ってたんでしょ?」で終了です

ついでに言うと、「白人のための遊女は、吉原と違って、自由に出入りしてたし」です。

ここで上記の5つの<条件>を、これもごく簡単に検証してみます。

1:日本は、掘ればまだ山ほど金・銀を持っている。
→ のちも金山や銀山の開発が進んで、銅山も開発される。で、オランダに大量に持ってかれる(;´Д`)

2:カトリック国(スペイン・ポルトガル)を排除する(ていうか、してもらう)。
→ 幕府が、1624年にスペイン船来航禁止令、1639年にポルトガル船来航禁止令を出して正式に排除決定。代わりに「君ら、出島ね」となった

3:オランダはまだ独立戦争中だから武器を買う金がかなり必要。
 ヨーロッパでもいろいろあって、カトリック勢力から商業覇権を奪うことに成功。稼いだ金で武装できて勝利し、三十年戦争後に公式に独立

4:日本との交易を行うのに、最近やって来た同じプロテスタントのイギリスが邪魔。
→ アンボイナの虐殺と平戸での自滅でイギリスは勝手に撤退

5:カトリックに嫌気がさした、時の江戸幕府にどうにか気に入られるようにする。
→ 1637年に日本のカトリック信者が起こした「島原の乱」の際に、オランダは船から幕府を援助する艦砲射撃を行う。ここでも幕府の信用を得る

「オランダが独立出来たって、三十年戦争で勝ったからとか、スペインが衰退したからとかでなく、・・・ひょっとして根本は日本との貿易による利益が大きかったからじゃないの?」 ということも、実は真理の一面なのです。

こうやって、丹念にいろんな観点から捉えていくと、複雑な要因が一つひとつクリアになり、オランダの日本貿易独占の真相が明らかになっていくのです。

オランダ人が、なぜわざわざ出島にいたのか、だんだん理解が深まっていきますね!!

江戸時代が世界でも未曾有の平和を享受し、後の世界に衝撃を与えた精密な文化が発達したのは、この「技術革新」と無縁ではないのです。今の日本が、歴史上こんなに豊かだったという事実と要因を詳しく知って、未来の指針にしたいと、常々ボクは思っています。

では、次回もお楽しみに~!

dejima_agin_rogo-3.png

■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 1
■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題 
■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題


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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 22 - アジアへ(2) アンボイナの虐殺 -

関ヶ原の戦い後、江戸幕府が開かれて以来、平戸にはオランダとイギリスが次々に設置されます。

慶長十四(1609)年にオランダが平戸に商館を設置し、慶長十八(1613)年にイギリスが商館を設置します。
オランダ商館
2011年に復元された、平戸 阿蘭陀商館

しかし、香料モルッカ)諸島は以前にも書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)、香辛料の丁子(ちょうじ)とナツメグの唯一の産地として、肉食のヨーロッパ人にとっては、相変わらず非常に重要な場所です。

オランダはこのアジアへやって来てから、相当な利益をゲットしています。

ちょい後の統計ですが、下に載せておきましょう。

オランダのアジア交易
オランダのアジア交易統計 1694年

日本との交易は断トツで儲かっています
オランダ人が、幅200mちょいしかない「国立の監獄」(=出島)に押し込められながらも、日本から出ていかなかった理由は、これを見てもよく理解できます

出島1
出島 川原慶賀筆

もう一度、東南アジアに目を向けてみましょう。

1511年、ポルトガルがまずマラッカを占領して、次にスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してきて以来、この両国が香料諸島で争うようになります。

香料諸島
香料諸島(モルッカ諸島)図

初めはポルトガルが香辛料を独占していましたが、17世紀にはオランダ東インド会社が進出して、この地にいたポルトガル勢力を追っ払います。そして、オランダがここアンボイナ島に要塞を築いたのです。

アンボイナ島
引用:4.インド・東南アジア史(II.東南アジア史) アンボイナ島

しばらくして、イギリス東インド会社が、この地の香料貿易に参入してきます

これでオランダとイギリスの東インド会社が香辛料の利権をめぐる交易で激しく争うことになってしまったので、同じプロテスタント国で友好国であるため、「まあ、ヨーロッパではあれほどカトリックにいじめられて、戦った仲じゃないすか、ここは仲良く」と、この二国は、ここでの対立を避けようとして、1619年に両社を合同、香料諸島を共同で経営することを決定します。

こうして、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にもイギリスも商館が設けられることになりました。

けれど、本国では両東インド会社の、香料諸島での合同は合意されましたが、現地ではオランダ人が合意をシカトして独占を続けて好き放題やるわ、バタヴィアではやられたイギリス人もオランダ人を追っ払うわ、など、交易を巡る対立はずっと続いている、という状況でした。

こんな中で大事件が発生します。

1623年にアンボイナのオランダ商館では、イギリス商人が日本人傭兵(武士)らをここへ連れ出して、ここのオランダ商館を襲撃しようとしているという疑念(妄想だったのですが…)を抱きます。

こうしてアンボイナのオランダ人は、イギリス人・日本人・ここに残存していたポルトガル人を捕らえて、ヒドイ拷問にかけます。
そして、あらぬ罪を自白させ、イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名の計20人を処刑してしまいます。

これを「アンボイナの虐殺(通称アンボイナ事件)」と言います

事件当時オランダの東インド総督はヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
Jan_Pieterszoon_Coen.jpg
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)
■オランダの軍人で、第4代オランダ東インド会社総督
(在任1619年 ~ 1623年、1627年 ~ 1629年)

なぜ「虐殺」なのかと言えば、オランダ人の行った拷問は、火責め、水責め、四肢の切断など、あのお馴染みヨーロッパ式(※「ヨーロッパの拷問方法・処刑方法【古代/中世/近代/異端審問/魔女狩り】」いちお参照・・・・しない方が良いですけど、いちおです、いちお)のバラエティ豊かな(もち、皮肉です)自白が強要されたからです。そりゃ、やってなくても自白しますよね、普通…。
ハイ、コレ
アンボイナの虐殺
アンボイナの虐殺

この虐殺の目的は当然、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占です

 この事件を契機に、イギリスは東南アジアでの香辛料貿易あきらめ、ある場所へ進出するのです。

それが、インド

…なぜインドなのかは、のちほどイギリス編にて。

ただ、
「出島でオランダ人だけが交易を許された」

という、これまで習ってきた常識は正確ではありません。
前回まで見てきたように、イギリス人だって徳川家康に許されていたからです

同じプロテスタントで、命がけで交易を開いたウィリアム・アダムス以来、イギリスとも交易を続けていました。

しかし、この1623年に、イギリスは銀の獲得のために日本までやって来たものの、平戸での貿易は採算がとれず、イギリス商館を閉鎖して、完全に日本から撤退しているのです

撤退の要因として、オランダほどの日本でのシステマティックな交易方法と、当時のヨーロッパにおける市場の規模とコネクションの差ではないかと推測されます。新規参入のイギリスが、商業の手練れ、当時のオランダにかなうわけがありません。

このように考えると、出島には、カトリックのように布教を目的とせず、交易だけをしようとしているオランダ人とイギリス人が同時に住む可能性だって十分にあったのです

しかし、1623年の「アンボイナの虐殺」+「平戸の不採算」の二点で、イギリスはごく短期間のうちに日本からも撤退していくのです。
つまり、「オランダ人だけが」ではなく、「イギリス人たちも認められてたけど、勝手に撤退していなくなったから、残ったオランダ人が出島で交易を行った」というのが正しい歴史観です。こう言わないとちゃんと理解できません。

この撤退は、ウィリアム・アダムスが平戸で亡くなった3年後のことでした。
あの世でアダムスは、ずどーん・・・・・・・・orzと、落ち込んだことでしょうね。

この「アンボイナの虐殺」はイギリス国内でオランダに対する憎悪の世論を喚起してしまいます

これが後の、4次に渡る「英蘭戦争」の一因ともなりました

事件をきっかけに、東南アジアでのイギリスの影響力は縮小します。
そして、覇権を手にしたオランダだけが支配権を強めていきました。

しかし、かつて無限の需要があり、同量の金と交換されたこともあったほどの香辛料の価格は、次第に下落していきます。
そして、オランダの経済的な世界の地位も…。

一方で、アンボイナから追い出されたイギリスですが、拠点をインドに定めたのには、現代の我々にとっても極めて重要な理由があるからです。

それが何か?・・・は、次回のお楽しみです!


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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -
「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 19 - 寄り道イギリス編(5) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 21 - 特別企画展 出島の青い薔薇 -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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シーボルト主要事項年表 <未完版>

※のちに随時書き加えていきますので、まだ完成版ではありません。
とりあえず、「江戸参府」終了まで。

1796年2月16日: 
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生 ドイツ ヴュルツブルク

1809年: 
間宮林蔵が二度目の樺太探検にて、カラフトが島であることを確認し、「間宮海峡」発見する。

1815年: 
シーボルト、ヴュルツブルク大学に入学。医学・科学・植物学・地理学・民族学を学ぶ。

1822年: 
オランダ外科軍医少佐に任命され、ロッテルダムからジャワへと向かう。

1823年: 
・オランダ領東インド・バタヴィアに到着し、 長崎の出島商館医師に任命される。
・バイテンゾルフにある総督ファン・デン・カペルレンの山荘で3週間滞在する。
・伊王島北端で、日本人の役人と通詞が来船し、オランダ人でないことがバレそうになる。
・其扇(タキ)が出島に通うようになる。

1824年: 
・鳴滝塾を開く。
・総督ファン・デン・カペルレンへ、長崎へ画家と医師を派遣してくれるよう依頼する。

1825年: 
・「薬品応手録」を執筆する。
・鳴滝塾弟子筆頭の美馬順三が江戸参府を前にして死去。

1826年: 
・念願の「江戸参府」へ、商館長スチュルレルに随行し出発。(2月15日)
・この時、弟子:湊長安・高野長英は情報収集のため1か月前に長崎を発っていた。 
・弟子:二宮敬作に島原の雲仙岳の火山調査を命じる。のち小倉で合流する。
・川原慶賀に太宰府天満宮を描かせに遣る。
・川原慶賀を石炭の産地木屋瀬に派遣し、絵に描かせる。この絵が「コークス作りの図」でのち発見。      
・下関の阿弥陀寺(現赤間神宮)に参詣し、関門海峡をファン・デン・カペルレン海峡と勝手に名づける。
・下関で先発していた湊長英・高野長英らと情報交換。
・高野長英が連れてきた平戸の捕鯨業者からクジラ漁の話を聞く。
・姫路の名城:白鷺城の美しさに感動する。
・京都で天皇の存在に興味を持つ。
・草津近郊の大野でトキの剥製をゲットする。
・鈴鹿山のオオサンショウウオを二匹ゲットする。(うち1匹はオランダに到着して1mに成長し、その後50年生きる)
・矢矧橋を測量し、図面を作成。川原慶賀にこの様子を描かせる。
・川原慶賀に、江戸に近い川崎から品川に至る港図をご法度ながらも描かせる。

・江戸で、オランダでも著名な薩摩の島津重豪(しまづしげひで)と出会い感動する。
・当時の江戸は130万人でコンスタンティノープルをしのぐ、世界一の都市。
・江戸参府一向の定宿は「日本橋長崎屋」。
・江戸で最上徳内がやって来る。(たぶん間宮林蔵とも会う)
・最上徳内から蝦夷や樺太の地図や資料を借用する。
・天文方兼御書物奉行高橋作左衛門も面会に訪れ、紅葉山の文庫を見たいと依頼。
・土生玄碩ら眼科医が来て、瞳孔を開く実験を見せる。
・作左衛門にクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などと引き換えに、禁制の「日本地図」をくれ、と告げる。
  (ミッテルビベラッハ城文庫、日誌に記載)
・択捉のラッコをゲットする。
・葛飾北斎にオランダ紙を渡し、絵画の依頼ををする。
・江戸城に登城し、目的のモノをゲットする。
・最も期待した長期滞在が出来なくなり、長崎へ向けて出発。
・最上徳内が、なぜかわざわざ小田原まで見送りに来る。  

・京都・大坂を経て、下関に至り海峡の記録をゲットする。
・商館長のスチュルレルとは犬猿の仲が激化する。
・143日に及ぶ長旅を終え、長崎に到着する。

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シーボルト先生 | コメント:0 |

お母さんが預かったお年玉の行方 インスタ映え長崎編

師走です。
早いもので、また一年が終わろうとしています。
2017年はどんな一年だったでしょうか?




わたしの中で、長崎と言えば「海」です。海と、船や港ですね。
思えば、小さい頃に あぶない刑事 というドラマに影響され、自分はいつか必ずコンテナのある港で働くんだと思い込んでいました。
そして、コンテナに隠された密輸品を発見したり、隠れながら銃撃戦を繰り広げバイクで去る、とかに憧れていましたね。
実際は全然違う職業に就いたわけですが 挫折して長崎に戻ってからはやはり海を選び、現在に至ります。





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歴史にロマンを感じやすいのは、やはり幕末の1800年代でしょうか。
国内外問わずある程度文明もすすんで、たくさんのヒーローも生まれていますし。

しかし長崎ではもっともっと昔から、海、船、港を通じて様々なドラマが生まれています。


わたしはそんな長崎の海が大好きです。
大好きでたまりません。





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そして、その長崎の海、船、港が日本にもたらしたモノ、コト、を考えると、とんでもなくロマンチックで格好よくて魅力的な街なんですよね長崎って・・・・・・
わたしもこの年齢になるまで色んな仕事をして色んな場所で暮らしましたが、長崎ほど興味をそそる街はなかったです。


2017年は、そんな長崎の魅力と歴史を、科学をもって正しく伝えるという活動をするための準備期間でした。



全国こども歴史科学伝習所 PEACEBLUE

2018年、前進の年にしたいと思います。




当ブログはその活動のひとつでもあります。この文章中にリンクは貼りませんが、長崎のどの分野を知りたいかをカテゴリーから選んでいただくと、歴史の裏まで研究したウチの理事長がたくさんの記事を書いています。


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教科書には載らない伝説が、この街にはたくさんあります。
このブログを訪問して記事を読んでくださっている長崎好きのそこのアナタ。

来年はぜひ、我々の活動にご注目ください。



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長崎っていいなと思いながら
足が痺れて動けない
そんな32歳がいたら、それはわたしです。




今日の一曲  時をかける少女 - 原田知世






管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 21 - 特別企画展 出島の青い薔薇 -

いろいろ調べることもあって、3連続で出島に行ってきました。ボクは出島商館員なんで(て言っても、800円の年間パスですが)、入り放題で楽しめます。

ちなみに、ウチの管理人と副管理人は長崎検定ホルダーの知識人で、その強力な権威があって、背後には後光が差しているのでたぶん死ぬまで無料入り放題す。

今、ちょうど「特別企画展 出島の青い薔薇」をやっています。
(※期間は来年3月18日(日)まで)

出島の青い薔薇

いわゆる「大航海時代」に乗っかかる形で、スペイン・ポルトガルの後、イギリス・オランダから17世紀以来、文物や情報と一緒に西洋の陶器が出島にもたらされました。

マヨリカ陶器が起源ですね。

西洋では、東洋の「染付」をパクってオランダ・デルフト製のファイアンス陶器が作られて、これが日本へ輸入されます。

そうした西洋のデザインに感化され、日本中にその後西洋の陶器が食器として、この出島を起点に広がっていきます。

出島をその扇型の形状やオランダ人の「国立の監獄(コレ、本人らが言ってますから…)」、表門橋開通やらとはしゃぐのみならず、せっかくの良い企画展なので、このような工芸品へのシブい「通(つう)」な見方をしてみてはいかがでしょう?

表門橋・内から

染付芙蓉手花鳥文voc大皿
17世紀:染付芙蓉手花鳥文VOC大皿

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -
「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 19 - 寄り道イギリス編(5) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -

寄り道イギリス編。最後の舞台となるのは長崎の平戸です。

平戸
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

「三浦按針」の「三浦」姓は、現在の横須賀市逸見(三浦半島)に、250石(220石という説もあります)の土地を与えられ、外国人としては唯一の、農民を抱える領主となったことにちなんでいて、「按針」の名は航海士(=水先案内人)という意味であるといいます。もともとイギリスの貧しい平民だった三浦按針は、ここの領民たちを大切にして、公平に接したので、領民たちからも大変慕われたといいます。

三浦按針の足跡
昭和24年〈1949年〉7月15日に建立除幕されたE・ブランデン碑と按針の胸像(昭和62年〈1987年〉8月10日除幕)と帆船建造400周年に建てられた標柱(平成16年〈2004年〉12月23日除幕)
引用:三浦按針の足跡

この三浦按針ことウィリアム・アダムスは、家康の命を受けて日本で初めて洋式帆船:80トンを建造しています。この船は日本の沿岸測量に活躍しました。更にいろいろあって、120トンの「サン・ヴェナ・ベンツーラ」とい大型外洋帆船を建造しました。船は難破したマニラ総督に貸して、日本で初めて太平洋を渡り、メキシコのアカプルコへ行っています。

ところで、このメキシコのアカプルコは以前「肥前の妖怪」 鍋島直正 3」で書いた、伊達政宗からヨーロッパ行き命じられた支倉常長(はせくらつねなが)が立ち寄った所でもあります。
支倉航路図
引用:サン・ファン・バウティスタの航海と支倉常長の辿った足跡

支倉常長を大使とする慶長遣欧使節団は、1613年10月に乗組員約180名で仙台領月ノ浦港から、まずメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)に向け出港しました。


最近の研究によれば、この直前に甚大な津波被害を受けた仙台では、経済復興が急務だったので、仙台とメキシコ間の直接の通商関係を樹立することにあったといいます。併せて、被害を受けた仙台藩領内で領民を救うための秘密裡でのスペインとの交易であり、そのためのキリスト教の布教を行うための宣教師の派遣であり、そして、最も必要としていたと考えられるのが、当時世界有数の銀生産国であったメキシコの銀生産技術を獲得することです

経済とは「経世済民」であり、人を救うことが本義です

この伊達政宗の意向と同様に、家康が直接イエズス会を派遣しているカトリック国スペインへ、ではなく、アメリカ大陸でスペイン領メキシコに行ったのも、イエズス会の影響力が弱いが、非常に効率良い銀の加工技術の習得出来るからなのです

この加工技術を習得した日本は、その後、金と銀による豊かな貨幣経済を享受できるようになっているのです。のちにこの豊かさがアダとなってしまいますが…。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題」 参照)

三浦按針は日本で妻子を持ちました。イギリスへ帰る機会もありましたが、結局はその生涯を日本で終えています。
その最期の地が長崎の平戸でした

慶長十四(1609)年7月には、徳川家康がオランダ人に日本通商免許を与え、9月にはオランダ商館が平戸に建てられます。更に、慶長十八(1613)年にはイギリス人も通商特許を与え、平戸にはイギリス商館も建てられます。けれども、のちに幕府のキリスト教排斥で、この平戸の商館とともに外国人墓地も破壊されたので、その際に三浦按針の埋葬地が分からなくなっていました。当時のヨーロッパで、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントの戦いのことなど、当時の日本人に、ましてや平戸の領民に知る由もありません。これは致し方ない処遇だったのかもしれません。

しかし、1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」という伝承のあった墓から、遺骨と遺品の一部が発掘されます。また、三浦家は通詞(つうじ)の末裔(まつえい)で、按針の墓を守りたい人によって、密かに遺骨の一部をもらいうけて、そこに埋葬したという口伝があったのです。

今年の夏に次のような記事が出ました。

平戸市 按針の子孫調査方針 英故郷に協力求め /長崎
毎日新聞2017年8月3日 地方版

 平戸市の黒田成彦市長は2日の定例記者会見で、徳川家康の外交顧問を務めた英国人航海士、ウィリアム・アダムス(三浦按針(あんじん))の没後400年の2020年を目標に、按針の子孫を捜す方針を明らかにした。市内の「伝三浦按針墓」から7月に見つかった人骨について、抽出するDNAを子孫と照合して按針の骨か確かめる。
市は来年度以降、関連予算を計上。按針が生まれた英国メドウェイ市や、按針が洗礼を受けた記録が残る教会に協力を求めるなどして子孫を捜す方針。黒田市長は「按針の骨か追究したい」と話した。
 按針は1564年、ジリンガム(現メドウェイ市)に生まれた。オランダ船で1600年に日本に漂着し、オランダ、英国商館の平戸設置に尽力。平戸滞在中の1620年に死亡したことは分かっているが、埋葬地は不明となっている。
 市は6月27日~7月24日、1931年に発掘された記録に基づき伝按針墓を再発掘。西洋系の特徴である長方形の墓坑(縦2メートル、横80センチ)と骨片約100個を見つけた。
 
【峰下喜之】〔長崎版〕
.
 
 のち、三浦按針は慶長十四(1609)年、この長崎の平戸「イギリス商館」の開設に関りました。
イギリスは、あのヨーロッパでの苛烈な宗教戦争とアジア貿易を巡る混乱を抜け出すために画策した日本への派遣が、ようやくこれでウィリアム・アダムス(三浦按針)によって、その国家の命(めい)が成就されたのではなかったかと思います。しかし、もうエリザベスは6年前に亡くなっていました。それは江戸幕府が成立した年、1603年のことでした。

ウィリアム・アダムスにとっては、その達成のため、ヨーロッパに残した妻と子2人との別れもありました。途中で弟もインディオに殺されています…

もちろん、イギリスはウィリアム・アダムスだけに日本とのアジア独占交易の命(めい)を託した訳ではないと思いますが、結果的に彼らの5隻の船団は、命からがらリーフデ号しか目的地の日本に辿りつけませんでした。
江戸の方へ回航後にリーフデ号も国へ帰ることが出来ずに沈んだと言われています。

そして、高速の通信手段がない17世紀では、アダムスの消息も完全に本国とは絶たれたのです

日本で家康に引見した時のアダムスの心理を推し量るに、もしもこの過酷な航海が国家を背負ったものであったなら、途中で多くの命が失われ、日本へ辿りつけなかった仲間たちのためにも必ず成果を残したい、そう思ったのではないでしょうか

これは裏返すと、一歩間違えば家康に思いが伝わらず、カトリックの宣教師が進言したように処刑される危険だって十分にあったのです。

結果として、将軍:家康からの破格の栄達を賜り、その後日本で家族を持ち、母国への思いを馳せながら日本人になっていったアダムスが、最後にやって来た地:長崎の平戸で何を思い、何を考えて生涯を閉じたのか…。

果たして、これほど将軍から絶大な信頼を得るに足るものとは一体何だったのか?


ボクはこの平戸を何度訪れたかわかりません。その度に、400年という果てしなく長い時を隔てて、アダムスがこの変ることのない美しい海から同じ夕日を眺めたんだと想像します。
平戸夕日
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

アダムスは落ちる夕陽の方角で、遥か西方にある故国イギリスに思いをはせていたかもしれません。

そうしてボクは、これからも年変わることのない平戸の海のほとりに立って、このどこかに今でも眠っているハズの彼の冥福を祈ります。

定説通りに偶然漂着しただけかもしれないウィリアム・アダムスであったとしても、彼が日本とイギリスの歴史的転換点の大きなファクターであることには誰もが、何の疑いもないでしょう。

たとえ計らずとも、日本はデ・リーフデ号の来航によって確実に歴史の潮流が変化したのです。大量の武器をもたらしたことで「関ヶ原の戦い」では徳川家康を天下人にしました。逆説的な言い方ですが、戦争によって戦乱の世が終わり、のちに265年続く太平の世が創出されたのです。それが日本にとって正しかったのか、悪だったのかは今のボクの価値観からはよくわかりません。

また、およそ40年後には、商業圏の覇権を巡りプロテスタントの友好国であった、このイギリスとオランダは4次に渡る大規模な戦争へと駆り立てられていきます。更に19世紀初頭には、ナポレオン・ボナパルトによってオランダがヨーロッパから無くなってしまう時も到来するのです。

見知らぬ遥か異国:日本へのウィリアム・アダムスの派遣がなければ、そしてその功績がなければ、のちに江戸の大繁栄を築いた貨幣経済の発展する契機すら失われたままだったかもしれません。

ウィリアム・アダムスがイギリスに残してきた二度と会うことのない妻子、そして我々日本人に遺したもの…

奇しくも彼が乗ってきた船名「Liefde(リーフデ)」は、オランダ語で「愛」というのです

william adams2

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
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「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
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<宗教改革編>
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「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
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「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 19 - 寄り道イギリス編(5) -

「関ヶ原の戦い」で徳川家康が石田三成を下し、天下を獲った年
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)
手が滑って変な画像が。気にしないで下さい。

西暦に換算すると、1600年10月21日。

つまり、この天下分け目の戦い半年ほど前、1600年4月29日にリーフデ号は「漂着」しているのです

ところで、関ヶ原の合戦は、武士が平原に出て大勢で切り合いをしているイメージですね。
関ヶ原の戦い1620頃狩野派

「関ヶ原合戦屏風」 狩野貞信 

しかし、実際の戦いは大規模な銃撃戦です
この天下分け目の関ヶ原の決戦は、東軍である徳川家康軍で、あのリーフデ号の大量の武器が使用されているのです。
 
戦いの経緯をざっと述べると・・・
徳川家康率いる東軍:75,000人 VS  石田三成率いる西軍82,000人
家康と三成

しかも東軍は(遅刻してきたので)良い陣形を敷くことが出来ませんでした _(:□ 」∠)_

しかし、そういった逆境をはねのけて、ただ後ろで陣取って動かないのではなく、果敢にも家康が自ら中央へ攻め込みます

これを見た、(予め黒田長政から説得されていたけど松尾山の上でヒヨっていた)西軍の小早川秀秋がよーやく三成を裏切る覚悟を決めて、味方に右サイドから襲い掛かります(「吉川家文書(きっかわけもんじょ)」にそう書かれてます)。家康様が自ら攻めてキター.゚+.(・∀・)゚+.てことで、東軍の士気もうなぎ上りです。(ホントは自分だけ弾をはじくアレ、着てるんですけどね)

これで総崩れとなった西軍は、当初3カ月くらいかかるだろと予想されてた戦闘が、わずか7時間であっという間に東軍に敗れ去りました。
(※かなり長期戦になると見越して、九州から漁夫の利を狙って、自ら天下人になろうと登って来てた黒田官兵衛は「ウソ―!orz」とコケましたが…息子:長政の余計な小早川への説得工作でジ・エンドです)

これが大戦になる事を見越して、家康は予め、元々敵方で豊臣方の子飼いであった、黒田長政、加藤義明(よしあきら)などをある方法を使って自軍に抱き込んでいました。

家康:「日頃頑張ってる君に良いものをやろう。ほらコレ。めっちゃイイでしょ。試したけど鉄砲に当たっても死なずにすむよ」

長政:「おおっ!!家康様、コレめっっっちゃイイすね!賢いウチの親父(官兵衛)と違ってオレ、猪突猛進(笑)とみんなに言われてるから、当たっても死なないのあればイイなぁて、こういうの探してたんすよ」

それが「南蛮胴具足・改」でした
南蛮胴具足 家康用

しかし、ウィリアム・アダムスからもらった西洋式甲冑を超・短期間でアップグレードし、来るべき三成との大決戦に備えて、家康はこの最新型甲冑(かっちゅう)をエサに根回しを徹底していったのです。(前回からの近未来への伏線2、帰結しました)

家康恐るべし…。

関ヶ原の戦いの勝利には、まだ様々な要因もありますが、オランダの話の中のイギリス編なんで(-_-;)
いずれ詳しく。

家康のことを褒めてばかりではつまらない科学でないから、ちょっとディスり、いや、相対化しときましょう。

1573年、徳川家康&織田信長軍と武田信玄軍が戦ったのが、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦いと言います。これに大惨敗を喫し、家康は浜松城に向かって命からがら逃げまくります。で…馬上で、恐怖過ぎて、「う○こ」もらしてしまいます。

大久保彦左衛門という家臣が、異臭、違った、異変に気付き、「…殿、まさか、ソレ?(-_-;)」とダイレクトで指摘すると、「ち、違うぞ。こ、こ、これはだな、焼き味噌だ!」と、言い訳をしたという記録があり、この時の臭態、違った(;・∀・)、醜態を今後の自分の教訓にしようという、わけわからない理由で、その時の自分の困った感と恐怖感の入り混じった情けない絵を描かせました。
それが↓
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)
着物の色が茶なのはカモフラージュです(推)

誰もネットに書き込んでないのでひとこと言わせてもらうと、乗ってた馬が一番の被害者でしょう。一応、動物愛護の観点から指摘しておきます。

余談ですが、この「う○こ」事件の前に、とある茶店であずき餅を食べてたところ、恐怖の武田方の追っ手が直前まで迫ってきました。ビビりまくった家康は金を支払わずに、慌てて逃げようとしたところ、店の主人に「ゴルァ!」と追いかけられて捕らえられ、金を払わされたという、殿にあるまじき失態もしでかしてます。
なかなか御茶目な生き様ですこと。

ところで。

「あれ?オランダ船が持って来たのに、なぜ『紅毛』胴具足でなく、『南蛮』胴具足なの??」と思った人もいることでしょう。
一般にはイギリス・オランダ人が「紅毛人」、スペイン・ポルトガル人が「南蛮人」でしたからね。

初めてこれがもたらされたのは、ちょっとだけ時間を遡(さかのぼ)ります。史料上では、ということになりますが、1588年にポルトガル領ゴアのインド総督より、豊臣秀吉への外交文書(妙法院所蔵)と一緒に贈呈されたとかいう、目録上の甲冑が初めだと言われています。しかし、あくまで目録上なんで実物は不明です。

その12年後に、ヨーロッパでスペイン(南蛮人)と宗教&独立戦争をガンガンやっている紅毛人のオランダ船がいわゆる「漂着」して持ち込まれたのです。
だから、先に南蛮人が似たような甲冑は既に持ってきてたんで、「南蛮」胴具足だということになってます。

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北海道未発見の時代の地図とウィリアム・アダムスが将軍に謁見するの図

アダムスの功績は間違いなく、この日本史の最も起点となった戦いで最大化されています

このアダムスが、ふらっと超険しいマゼラン海峡を通って太平洋を散歩してたら、嵐で遭難し、たまたま遥か日本に漂着していまいました(;´∀`)いやあ失敗失敗(照)。・・・って、誰が信じますかそんな話!

第一、南アメリカの最南端:マゼラン海峡はフィヨルドが発達していて、多島海が形成されてて複雑怪奇な海峡です。しかも、気候が寒過ぎで霧もよく出るから、航行には常に難破の危険が伴うという恐ろしい場所です。
magellan-course.jpg

①何らかの重要な使命を帯びているか、
②オレが初めてココ通ったるわ!という野心がないと命がけで行く意味がない海峡です。
昔マゼランが通ったんで、もう誰にとっても初めてではないですが。

リーフデ号ルート
リーフデ号のルートと目的(?)
引用:三浦按針の話《4》日本到着までの苦難の航海

ロンドンの大英図書館には、アダムスが本国へ送った11通の書簡が残されています。
そこに、アダムスが、あのイギリス東インド会社に送った書簡に次のようなものがあるのです

「20ポンドの金をイギリス東インド会社が、イギリスに残されたアダムスの妻:メアリに渡した」と。

これは今の価値に換算すると、およそ500万円に相当し、他にも計5000万円ほどが妻に渡っているのです
まさに東インド会社はエリザベスが設立した貿易会社です。だからこそ、この会社にはアフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る、全域での貿易独占権が付与されており、国家プロジェクトとして莫大な資金が投入されているのです。

一個人に支払うことが可能な金額としては、私的には結構な額ですが、国家が絡んでいるなら楽勝だと思われます。しかもウィリアム本人でなく、妻に渡っているし、この額ですからちゃんとした契約がなされたものであると推測されます
単なる私的な口約束であったなら、妻にまでこれほどの金が渡ることはないのでは?

また、ウィリアム・アダムス自身、王の使命を帯びた重要な任務だと認識していたからこそ、妻子も顧みず、栄達や名誉のためにも命がけで航海へ出かけたのではないでしょうか
こうした状況から推測すると、この金は、妻と二人の子供たちを抱えたアダムスが、イギリスの国家の威信をかけた、初めてで、かつ危険なアジア貿易開発プロジェクトに対する報酬であると同時に、万一自分が帰国できない際に支払われる、ある種の「遺族年金」もしくは「生命保険」に近いものだったのではないでしょうか?

もちろんこの時代には、まだちゃんとした保険制度が確立していなかったので、推測の域を出ませんが…。

妻が国の東インド会社を通じてこの大金を得た理由、ボクはこう推測してます。(伏線1帰結しました)

・・・・しかし、彼はこの書簡の中で、ハッキリとこう書いています。

「我々は日本を目指した」と。

次回、この寄り道イギリス編は最終回です。

お楽しみに~!


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<オランダ編>
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<宗教改革編>
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -

ウィリアム・アダムスはオランダのロッテルダムから東アジアへ向けての航海士として(誰かから)雇われています
そして、弟トマスと共に、5隻の船団でアジアへ向けて出港しました。

リーフデ号2
デ・リーフデ号と仲間たち
ちなみに、リーフデ号はこの船団の右下です。
ホープ号を旗艦として、リーフデ号・ヘローフ号・トラウ号・フライデ・ボートスハップ号の5隻です。しかし、この中でロッテルダムに帰還できたのは、太平洋にも到達できなかったヘローフ号だけでした。

この時、アダムスには妻とまだ小さな二人の子供がいましたが、この遠くてとても危険なアジア行を、なぜか優先させています(伏線1)。

詳細は以前書いたので避けますが、日本でのいわゆる「リーフデ号事件」で、あれほどイエズス会士が、「こいつらは我々の敵:プロテスタント国の船だから、乗組員をぶっ殺せ!」と家康に進言したにもかかわらず、逆にこの得体のしれないプロテスタントの紅毛人を重用したというのは、やはり不可思議です。

アダムスの技術供与などもあったでしょうが、のちに250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許し、更には相模国逸見に采地も与えています。
どう考えても家康の気持ちが測りかねるというか・・・
定説に縛られず、より論理性の強い理由が必要であろうと思います

一体、リーフデ号1隻に何が積まれていたのでしょうか?

その時調べられた「積荷目録」をざっと見ておきましょう。

◆毛織物
◆ガラス玉少々
◆青銅の大型大砲19門
◆小型大砲数門
◆銃500挺
◆鉄製砲弾5000発
◆鏈弾300発
◆火薬2500㎏

◆鋼鉄製の胴と胸当て…などなど。

コレ、国立国会図書館にある、リーフデ号を調べた、オランダやイギリスの敵国のカトリック宣教師が書いた記録です。

「こいつら…日本を征服して、ここに住み着くつもりかっ?」とも。

これが、予め戦乱の世:日本の情報を得ていたエリザベス1世からの交易品、もしくは今後イギリスが貿易独占をするためのお試しプレゼントだったとすれば、そして、アダムスがこれらを無償で提供して大喜びされたとすれば、ある重要な意味を持ってきます

家康は大坂城にいたのですが、情報を得た後すぐに行って積荷を調べてくるよう命じます。
この時の積荷で、特に家康の目を惹いたのが、この「鋼鉄製の胴と胸当て」だったのです

ここでデ・リーフデ号がいわゆる「漂着」した日を西暦で確認しましょう。

1600年4月29日

ん? 1600年?・・・・・・・・・







まぁ、この頃までには殺傷能力の高い様々な種類の銃が使われていたのです。だから、銃弾に対する防備は生死に関わるので常に重要です。ただ、従来の日本の甲冑は機動力は高いですが、防弾を防ぐことがあまりできませんでした

直江兼続の甲冑
直江兼続 愛の甲冑

これに対し、西洋の騎士が身に着けている甲冑はどうでしょう。

全身を覆うプレートアーマー 1540年
プレートアーマー 1540年

日本の地形は複雑なので戦場では、より機能性の高さが求められますが、西洋の甲冑は丈夫だけど逆に重すぎて動けません。重量は高度な軽量化技術を使ったものでも最低20kg、重いものでは40kg以上あったらしいです。しかも超ムレますΣ(゚д゚|||)

日本人はここでもアイデアを炸裂させてます

この二つの利点を兼ね備えた甲冑を即座に開発しているのです。

それが、家康専用「南蛮胴具足」↓
南蛮胴具足 家康用
引用:和歌山市の文化財・遺跡 南蛮胴具足(徳川家康所用)

この合戦の様子を記した「関ヶ原御一戦記」という書物があります。
ここに、家康が「南蛮甲冑を着けて出陣した」という文が出てきます。この時の甲冑が和歌山県立博物館に残されているものです。

しかも、よく見ると分かりますが、弾痕が10か所あります。これは強度を測るための試し撃ちの跡だと言われています。家康の慎重な性格がよくわかりますね。鳴くまで待とう、なんとやら。
更に、鉄製の特殊なヘルメットで頭も守る。

つまりコレ、日本にかつてなかった「防弾チョッキ」の役割を果たすものなのです。そして、胴の中央とヘルメットは「しのぎ」と呼ばれる凸構造になっていて、これが物理的に弾丸を外方向へそらすように工夫が施されています

この甲冑の存在は一部の人間を除いて、そのすぐ後の戦いまで秘蔵されていますけどね…一部を除いては(近未来への伏線2.)。

つくづくと、日本人の高度なモノづくりへの飽くなき魂は、このような所でも感じられます

これがウィリアム・アダムスの重用とどうかかわってゆくのか。

そして、イギリスとは?オランダとは?

それは次回、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -
「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -

実は、オランダ東インド会社より2年前の1600年、イギリスが先に東インド会社を設立しています。
これもインドネシアにある香辛料を求めて設立されたものです。ジャワ島やインドに拠点を置いて、香辛料の獲得に乗り出しました。
エリザベス1世の時代です。

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1588年頃のエリザベス1世 無敵艦隊を倒してご満悦のご様子の図

しかし、この時期を考えてみると、このインドネシア辺りにはポルトガルを併合したスペインとオランダがいて、行けばこいつらと競合することになります

オランダは前回書いたように、毛織物の販売でスペインが大陸から持ってきた金・銀がしこたまあるので、交易に有利なのですが、イギリスはまだ大国ではなく、基本、民間交易を行うには毛織物以外の交換財があまり見当たりません。
当然、金・銀がなければアジアとの交易が出来ません。

アメリカ大陸にはスペインが幅を利かせていて、イギリスがアルマダの海戦で勝利したとはいえ、まだまだ世界では太刀打ちできません。また、航海術やコネクションの洗練度がスペインにはかなう訳がありません。

さて。

これまでの、この一連のブログを読んできていただいたみなさんが、もし当時のイギリス国王ならどう考えますか?

ボクなら必ず日本へ行きます。倫理観を抜きにすればですが…。

まず、日本には当時は銀が山ほどあるからです。日本との交易さえ成功すれば、つまり、日本の情勢を見ると日本製の武器より良質な武器を輸出できれば銀がゲット出来ることは分かっているからです。ヨーロッパは戦争ばっかりやってますから、ある意味武器の質は良いに決まってます。

日本の情報は南蛮貿易で交易を行っていたスペイン・ポルトガルなどから、確実にヨーロッパへもたらされていて、航海のリスクか富かを秤にかけて一攫千金を狙う、という当時はハイリスク&ハイリターンのビジネスだったでしょう。
ポルトガルは種子島に鉄砲売ってますし(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 1」シリーズ参照)、日本は戦国時代真っ最中です…。つまり、良い武器に対する需要はかなりある、と考えられます

以前、「ヴェニスの商人」の話、少し書きました。(※「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」参照)
ま、いちお簡単にあらすじを書くと、
主人公のアントニオは、友人バサーニオから富豪の娘ポーシャと結婚する資金を融通してくれるようお願いされますが、彼の財産は航海中の船に積まれているため貸すことができません。そこで、期日までに返済されなければ彼の肉1ポンド(約450g)を与えるという無茶な条件を飲んで、大嫌いなユダヤ人の金貸し:シャイロックから金を借ります。ところが、船は難破し全財産を失います。
結局返せなくて、裁判官に化けたポーシャに命を助けてもらいましたけどね。
ただ、そうしてでもハイリスクの船の貿易というのは儲かるビジネスではあります。

これはイタリアの話ですが、全く同時期のストーリーです。

だからこそ、およそこの時代の交易はリスクヘッジ(危険を避けること)のために「船団」を組んで出かけていました
こんな感じで↓
LiefdeShip.jpg

というのは、複数の船と航海士で船団を構成することで、一度により多くの交易品を積載して航海を進めることが出来るし、もし海戦になったとしても、戦いをより有利に進めるなど多くの利点があります。また、仮に何隻かが沈没して、一隻しか戻れなくも、アジアの香辛料貿易はリスクを上回る利益が発生するのです

とにかく、アジアに行きさえすれば莫大な利益が発生する可能性があり、そこから日本に行って売買が成立する良い商品さえあれば、当時は銀が交換で得られます。

けれど、アジア貿易に関しては、イギリスは他の国からはずっと遅れた参入なのです orz

エリザベス1世はこうした状況を打破するために、スペインが幅を利かせている新大陸アメリカを避け、銀が獲得できる可能性の高い日本との交易が最重要だと考えたのではないか?・・・

ここで、エリザベスの視点で、ボクの勝手な推論をストーリー仕立てで書いてみました。
お題は「泪橋を逆に渡る」です。

◆エリザベス:「どうやらスペイン・ポルトガルのカトリックの連中が、日本人を奴隷として売りとばしたおかげで、「伴天連追放令」とやらで追い出されようとしてるみたいね。でも、私たちはキリスト教でもプロテスタントだし、こっちでカトリックとケンカしているしね。敵の敵は味方よ。きっと日本人もそう思うわ。でも、さすがに手ぶらじゃ無理よね~。あちらの王様にお土産が必要ね。何がイイかしら…日本人が今一番欲しそうなモノ」

●家臣1:「陛下、日本はいま戦国の世らしいですが・・・」

◆エリザベス:「あら、それならウチで作っている良い武器があるじゃない!『この武器で、あなたたち日本人が嫌いなスペインの無敵艦隊てやつを、この前ウチがこれでやっつけましたのよ、ホホホ』みたいな宣伝が出来そうよ。アレなら結構な利益が出るわね。武器って今ウチの在庫に何がある?」

●家臣2:「鉄砲と大砲はかなり。それに鉄砲の弾をはじく甲冑なんかどうでしょうか?」

◆エリザベス:「いい考えだわ。じゃあ決まりね。それにどうやらプロテスタントの国はまだ日本とは交易していないみたいね。出来ればウチが一番乗りで独占契約しておきたいわ。…でも、どうやって日本まで行けばいいの?誰か行き方知っている人、いないの?」

●家臣3:「陛下、それなら私めに良い案があります。水先案内人として慣れているとはいえ、さすがに敵のカトリック国の連中は無理です。けれど、同じプロテスタントでスペインから独立宣言したばかりですが、案内人はオランダから探すのはどうでしょうか?あいつら、まだ日本までではないですが、最近インドネシアまで香辛料を取りに行っているようです。奴らなら金次第できっと引き受けてくれるハズです。ドーバー海峡を挟んでウチとも結構近いし、すぐに連絡が取れますので、以前あなた様が袖になさり続けてたフェリペ様に気付かれないよう、密偵を放ちます。フェリペ様はもう70を超えられて耄碌されているとか噂です。そして、オランダから出航したとすれば、誰もイングランドの交易のためだとは気付きますまい。さすれば日本と交易独占交渉も秘密裏に行えます。そうそう、アルマダの海戦の時に見つけた、ウチの若いので、腕利きの航海士がおります。オランダ人とも仲がいいと聞いてます。たしか、名はアダムスだったかと…こいつを探しにすぐに誰か遣わしましょう」

●家臣1:「これで女王様がヨーロッパとアジアを、奴ら(スペイン)に代わって手中に収める日も近いですな」

◆エリザベス:「よく言ったわ!ではすぐに支度を」

◎一同:「ははーっ」

・・・・と。

でもコレ、あながち推論ではないかもしれないことを示す資料が、国立国会図書館に残ってました。ロンドンの大英図書館にも。と、日光東照宮にも。

次回、お楽しみに~!

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<宗教改革編>
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