CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)

ガリヴァー旅行記。
ガリヴァ旅行記

日本人なら誰しも小学生までに読んだことのある絵本であり、最もよく知られた物語のひとつでしょう。

ただ、この文芸作品は、全部を読んだ人でないと気づかないことがたくさん出てきます。

実在の国をガリヴァーは訪れています。それが「日本」。

で、何と、「ナガサキ」が登場するのです!


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によれば、ガリヴァー旅行記はこうなっています。

ガリバー旅行記
Travels into Several Remote Nations of the World..., by Lemuel Gulliver; Gulliver's Travels

イギリスの作家ジョナサン・スウィフトの風刺物語。 1726年刊。4部に分れ、第1部ではガリバーが漂着した小人国リリパットについて語り、小さいくせにいばりくさっている皇帝や国内の騒動を通してイギリスの政党対立を風刺する。第2部は巨人国ブロブディンナグ、第3部は空飛ぶ島ラピュータの物語。後者では、当時盛んであった自然科学研究の行過ぎや思弁にふける学者への風刺がある。作者の感情がいちばん激しく表わされていると思われる第4部では、理性的生物の馬フィナムに対比して、不潔で悪臭を放つ最下等の獣ヤフーが人間を表わし、作者の徹底的な人間嫌悪を示している。しかし、フィナムは理性万能の精神を表わすものとして、ヤフーと同様に風刺の対象になっているとも思われる。深刻な人間風刺として、また楽しい冒険的旅行記として、子供にもおとなにも愛読される、近代小説史の発端を飾る特異な作品である。



絵本で読んだ人は、小人の国:リリッパットの話だけしか知らないのではないでしょうか?

小人とは真逆の巨人の国に行って「お前、めっちゃ肌キレイやん!」と、ガリヴァーは可愛がられたりもします。
また、馬が人間(ここでは「ヤフー」と呼ばれてます)を家畜にしている国もあります。ある意味「猿の惑星」を彷彿とさせますね。

そして、第3部の「空飛ぶ鳥ラピュータ」から着想を得て、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」が創られました。
ラピュタ

ナガサキ」が登場するのは次のようなくだりです。少し長めですが引用してみましょう。

「私は遠い遠い世界の果で難船したオランダの商人ですが、それからとにかく、どうにかラグナグ国までやって来ました。それからさらに船に乗って、今この日本にやって来たところです。つまり,日本とオランダとは貿易をしていることを知っていたので、その便をかりて私はヨーロッパへ帰りたいと思っているのです。そんな次第ですから、どうか、ナンガサク(長崎)まで無事に送りとどけていただきたいのです。」
 と答えてやりました。それから私はつけ加えて、
「それから、もう一つお願いがございます。どうか、あの十字架踏みの儀式だけは、私にはかんべんしていただきたいのです。私は貿易のため日本へ来たのではなく、ただ、たまたま災難からこの国へたどりついたのですから。」
 と、お願いしました。
 ところが、これを陛下に通訳が申し上げると、陛下はちょっと驚いた様子でした。それから、こう言われました。
「オランダ人で踏絵をしたがらないのは、その方がはじめてなのだ。してみると、その方はほんとうにオランダ人かどうか怪しくなってくる。これはどうもほんとうのクリスト信者ではないかと思えるのだがなあ。」
 しかし、とにかく、私の願いは許されることになりました。役人たちは、私が踏絵をしなくても、黙って知らない顔をしているように命令されました。
 ちょうどそのとき、ナンガサクまで行く一隊があったので、その指揮官に、私を無事にナンガサクまでつれて行くよう、命令されました。
 一七〇九年六月九日、長い旅のあげく、ようやくナンガサクに着きました。私はすぐそこで、『アンポニア号』という船の、オランダ人の水夫たちと知り合いになりました。前に私はオランダに長らくいたことがあるので、オランダ語はらくに話せます。私は船長に、船賃はいくらでも出すから、オランダまで乗せて行ってほしいと頼みました。船長は、私が医者の心得があるのを知ると、では途中、船医の仕事をしてくれるなら、船賃は半分でいいと言いました。
 船に乗る前には、踏絵の儀式をしなければならないのでしたが、役人たちは、私だけ見のがしてくれました。
 さて、今度の航海では別に変ったことも起りませんでした。四月十日に船は無事アムステルダムに着きました。私はここから、さらに小さい船に乗って、イギリスに向いました」



…と、こんな感じです。

1709年という年に長崎へ、あの「ガリヴァー」がやって来ていたのです。みなさん、知ってました?

18世紀前半の設定で「踏絵」も話が出てきます

実際には筆者のスウィフトの生涯は、1667年11月30~1745年10月19日なんで、77歳まで生きましたから、当時としては結構な長生きでしょう。
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ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)■イングランド系アイルランド人の諷刺作家・随筆家

この「ガリヴァー旅行記」からは、当時の強烈な政治風刺が読み取れます

文芸作品だから、歴史的な価値はない、とする意見もありますが、そんなことはありません。
実はコレ、かなり貴重な資料となっているのです。

「フィクション(いわゆる小説)は事実を描くものではない。真実を描くものである」

これが世界文芸の常識です。文筆の力でこの世に現れていない真実を炙り出すという。

これに対して、日本の小説事情は特殊でした。

いつかこのブログでも明治にさかのぼって話をすることがあるとは思いますが、純文学が広まった日本では、「小説は事実を描くものである」という観念が広がっていきます。
尾崎紅葉が没したことを契機に、自然主義文学が隆盛していき、世界の小説にはない「私小説」という、自然主義文学から派生した流れが押し寄せてくるのです。田山花袋の「蒲団」がその始まりでした。

このような意外なところに、ひっそりと歴史の真実が転がっているのかもしれませんね

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -

オランダからイギリスへの寄り道の続きです。

ブラッディ・メアリのあとを継いだエリザベス1世ですが、ソッコーで「国王至上法」を施行します。
これは、「イングランド国内では、私こそが政治と宗教では至高の存在よ」、という趣旨の法律です

こうやって先王メアリのカトリック政策をちゃぶ台返ししてしまいました
ちゃぶ台返しがわからない方のために、イメージ図を載せておきましょう
    ↓
ちゃぶ台返し
※繰り返しますが、画像は単なるイメージです。
ちなみに、コレは、映画「自虐の詩」(尊敬する業田良家 原作)より、パンチパーマの阿部寛のちゃぶ台返しの図。

しかし、前回書いたように、あのメアリの後ですから、反動がMAXで、国民はそれでも大賛成です。

ということで、逆にバチカンの教皇庁からは「お前もか、エリザベス?なら破門じゃー!!」と、あっさり破門されてしまいます

また、ブリテン島の上にいるスコットランドのメアリ・スチュアート女王も黙ってはいません
Mary_Queen_of_Scots_from_Hermitage.jpg
メアリー・ステュアート(Mary Stuart)
■1542年12月8日~1587年2月8日(グレゴリオ暦2月18日)

※同じメアリという名前がですが、血の雨を降らせたメアリ1世 ↓とは別の人物ですから注意しましょう。
ブラッディ

このスコットランド王メアリは、新女王エリザベスに対し「私こそイングランド王位継承権者だわよ」と、事あるごとに主張し、エリザベス廃位の陰謀を企てます

これも、すったもんだを繰り返した末に、メアリは捕えられてゆるい軟禁状態となります。
そして、「バビントン事件」というエリザベス暗殺の陰謀の企てに関与した証拠が出てきたので、裁判で有罪となって死刑が宣告されます。

エリザベスは初め、メアリの死刑執行の署名をしぶっていたのですが、結局メアリは処刑されました。

このスコットランド王処刑を知った、(エリザベスにしつこく言い寄っていて、フラれ続けた)スペイン王フェリペ2世は、(その腹いせに)、「イングランドを乗っ取ったるわ!」と、あの最強のオスマン・トルコを(ラッキーで)破った、例の「無敵艦隊」を派遣します。

これでイングランドとスペインが激突する、アルマダの海戦~、となったのです。
スペインは負けて「無敵」ではなくなりましたが…。これがイングランドとスペインが戦った顛末です。
(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11- オランダ独立(2)」参照)

それにしても、「太陽の沈まない帝国」を作ったスペイン・ハプスブルクは侮(あなど)れない存在です
アルマダ海戦では勝利したものの、フェリペ2世↓の脅威は去りませんでした。
フェリペ2

何とかしてこの状況を打破したいと考えたエリザベス1世は、次にどのような手に打って出たでしょうか?

この当時のヨーロッパ各国の、カトリックとプロテスタント勢力図を見比べるとよく分かります。
キリスト教_教派分布

引用:【キリスト教】16世紀のキリスト教

ちょうどこの頃、散々これまで書いてきたように、ヨーロッパではルター&カルヴァンなどの宗教改革が進んでいて、カトリック勢力との争いが頻発していました。
カトリック勢力の敵はプロテスタントです。「プロテスタント」という言葉自体が「(カトリックに)抵抗する」の意でした。しかもフランスやスイスなどにも、プロテスタントは勢力が広がりを見せています。

彼らプロテスタントの人たちとなら、この強大なスペイン・ハプスブルク家に対する共闘が出来る」、エリザベスはそう考えたのです。

同じプロテスタント国ならばカトリック国のスペインの敵で、教皇庁から「破門」されたエリザベスの同志になるはずです。
そこで、当時プロテスタントが広がりを見せていたフランスを支援します。(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -」 参照)

フランスの時の王は名君アンリ4世です。
ちなみに、フランスには彼の名前がついた超名門高等学校があります。
King_Henry_IV_of_France.jpg
アンリ4世(Henri IV)
■1553年12月13日~1610年5月14日
■ブルボン朝初代フランス国王(在位:1589年8月2日~1610年5月14日)

まさにこの頃、フェリペの圧政からの独立を目指していた国がありました。エリザベスは当然その国を支援することになります

それが・・・・ネーデルラント。つまりオランダなのです

オランダを通じて俯瞰(ふかん)してきたヨーロッパの歴史が、平面からだんだん立体的になっていくのが感じられます

どうしてイギリス人であるウィリアム・アダムスが、ポルトガルやスペインの船でなく、オランダの船に乗っていたか、こうして考えるとよく理解出来ます

さて、そのウィリアム・アダムスですが、彼はオランダ船「デ・リーフデ号」に乗って、南アメリカの下、あの険しいマゼラン海峡を渡り、太平洋を航行して日本まで辿りつきました。
この航海は過酷を極めました。もとは5隻からなる船団でやって来ていたのですが、途中で仲間の船がスペインやポルトガルに拿捕されたり、寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃でも次々と船員を失っていきます。ウィリアムの弟:トマスもこの時インディオに殺害されてしまいました。

こうして、オランダのロッテルダムから出航時には110人だった乗組員が、過酷な航海を経て日本に到着した時には24人になっていました…。

しかし、そうまでして彼らオランダ人が日本に来なくてはならなかった事情というのは一体何だったんでしょうか?

実はボク、この展開を見越して、以前のブログで既に書いています。

長きにわたる伏線を経て、よーやくここに因果関係が明らかになり、その答え(?)が完結しようとしています( ;∀;)

みなさん、このシリーズ↓ を読んで、ぜひその答えを推理してみてください!
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 5 最終回 ‐グローバリズムの落とし穴‐

次回も、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -


<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -

現在イギリスと一括りに言いますが、もう少し複雑です。

そもそも、いわゆる「イギリス」の正式国名、覚えていらっしゃいますか?

「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」

長っ!とボクも小学校の頃に思いましたし、誰しも幼心にも思うことでしょう。なにせ、我が国は漢字で書くと二文字の「日本」ですから。

ちなみに、左隣の島「南部アイルランド」は「アイルランド共和国」で、カトリックが主流の国です

まず地図で位置関係をおさらいしておきましょう。

ukmap1013.jpg

ラグビーやらサッカーの大会にはイングランド代表、スコットランド代表など、グレートブリテン島から2チーム出てきます。

つい2014年のことですが、スコットランドはイギリスから独立する、と言ってきました。
「イングランドのやつらが、北海油田の利権独占したり、南部のロンドンに一極集中し過ぎだろ!」と不満を叩きつけ、この話が出てきたのです。
時のイギリス首相はトニ・ブレア。彼もまたスコットランド出身です。

住民投票は、単独での行政や防衛などリアルな線で考えていくと、「まだ無理だろ」という反対派が55.3%の票を獲得し、独立だという賛成票は44.7%となりました。途中までは案外競ったんですが、結局は独立しませんでした

しかし、この対立は今に始まったことではありません

対岸のフランスとハプスブルク家(神聖ローマ帝国とスペイン王国)が争っていた15世紀後半から16世紀初頭には、イングランドのヘンリ7世という王様が、背後にいるスコットランドの奴らをけん制しながら、「あいつらウチに攻めてこないだろうな」、とヒヤヒヤしながらイタリア戦争を見守っているというような状況であったくらいです。

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ヘンリ7世(Henry VII)
■1457年1月28日~1509年4月21日

この王が即位したのは、薔薇(ばら)戦争による国内の混乱を解決したからでした。
赤ばらのバッジを目印にしたランカスター家、白バラのバッジを目印にしたヨーク家、という内乱だったのでそう呼ばれました。結果、赤ばらが勝って、ランカスター家の女系のテューダー家からの王が即位します。それがこのヘンリ7世です。

いずれ大英帝国を築いていくテューダー朝の成立です

ここでヘンリ7世は24年間もの長きにわたって王位につきました。
主の権力も回復、政治を安定させ、優れた統治と積極的な外交政策と経済運営を行ったので名君と言われています。

この段階ではまだイングランドはカトリックです

このヘンリ7世の継いだのが、ヘンリ8世です↓
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似ているからまたビッグバン・ベイダーと間違えました。ヘンリ8世です↓
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ヘンリ8世(Henry VIII)
■1491年6月28日~1547年1月28日

ドーバー海峡を隔てた島国であり、あまりイタリア戦争の際には戦火を交えなかったのですが、それでも例のカール5世とフランソワ1世のイタリアを巡る争いに振り回されます。
つまり、都合の良い時だけ「平和の調停者」みたいに本人もしゃしゃり出てくるものですから、その時々で都合よく彼ら手練れからコキ使われるんです

また、敬虔なカトリック教徒でもあったヘンリ8世は、1521年にルターをボロカス批判します

これで、バチカンの教皇庁から、「君、何かイイね。カトリックの鏡だよ。今後君のことを『信仰擁護者』と呼ぼう」と、称号をもらうのです。

称号…こんな名誉なものを、それも当時のキリスト教のトップの権威からいただけるという。ヘンリはどれほど嬉しかったことか。

ボクなどは日頃「バカじゃない?」、「物忘れ王」、「無謀」という称号しかもらってません
それは称号ではなく、ただの罵りじゃね?と聞こえたような気がしますが、まあいいでしょう。
いつの日か見返してやろうと企んでいます(*`皿´*)

さて、こんな称号までくれたバチカンでしたが、のちにヘンリ8世はヘーキでそんなバチカンを裏切ってしまいます

まず、ヘンリ8世の遍歴なんですが、

1509年に10歳で結婚します。キャサリン・オブ・アラゴンという姉さん女房。
  ↓
で、ソッコーで多数の愛人を持ちます。
  ↓
王位に慣れてくると、兄のヘンリ7世の代以前からの重臣を逮捕、処刑を繰り返す。


側近を逮捕・処刑しまくるとは…まるで、どっかの隣国の黒電話を見ているかのような粛清ぶりです。
black telephone2
※画像は単なるイメージです。

こんなヘンリ8世が「平和の調停者」というのもタチの悪いブラック・ジョークです

このようにして、国王の権威を利用して女性に手当たり次第手を付けまわるものですから、どっかから梅毒をもらってきてまき散らしまくります

しかし、カトリックは一夫一婦制の宗派なので、ヘンリの無謀な振る舞いを耳にした教皇庁としては、さすがに黙っていられません。
なにせこれほどカトリックの信仰を踏みにじっているのに、「信仰擁護者(笑)」じゃねえか、と


「あいつのどこが信仰擁護者だー!」と、突っ込まれるたら、ただでさえ宗教改革で信者が減っているというのに、カトリックの敬虔な信者達に対してもメンツが丸つぶれです。

一応、1527年にヘンリは離婚を申請しますが、姉さん女房であった王妃キャサリン・オブ・アラゴンの甥が、カトリック最強国で神聖ローマ帝国&スペイン王、あのカール5世 ↓ なのです。
1024px-Emperor_charles_v.png

さすがにこれでは怖くて離婚もままなりません・・・とはならず、ヘンリは執念の果てに1533年、王妃キャサリンと婚約無効を宣言して、愛人で可愛いアン・ブーリンと秘密結婚をしてしまいます。

いちよ、キャサリン(左)とアン・ブーリン(右)を比較しておきましょう・・・。
catherine ann

・・・まさか、ですが、みなさんは「ヘンリの気持ちがわかるわwww」なんて一瞬たりとも、かつ微塵にも思ってませんよね?

ところで、「婚約無効」て、何かおかしいと思いませんか?なぜ、「結婚無効」でないのかと
これは離婚となれば問題なので、過去の婚約した時点にさかのぼって、「そこ無効ね」と詭弁(屁理屈)を弄(ろう)したのです

こうして(未だに『紳士の国』と言い張っている)イングランドはカトリックの国から、一人の王の性癖の悪さによって、瞬く間にプロテスタント国になっていくのです。ヨーロッパ本土の、ある意味真面目な宗教騒動とは大違いです。

これでもし神聖ローマ帝国などから攻められてたら、当時弱小国だったイングランドは間違いなくタコ殴りにされていたハズです。まあ、国内のカトリックの人達は大混乱でしょうけどね。

もう一度出しておきましょう。こいつです↓
427px-Hans_Holbein,_the_Younger,_Around_1497-1543_-_Portrait_of_Henry_VIII_of_England_-_Google_Art_Project
ふう。今度は画像間違えませんでした。

こうした一人の王の、極めて不純な動機でカトリックを裏切り、イングランドはプロテスタントになっていきます。
このようにして出来たのが、ザックリ言えば今に至るプロテスタントの「イングランド国教会」です
ただ、この段階でまだ儀礼はカトリックのままだった、というのがガチで入試に出る情報です。

オランダ編なんで詳しいことは避けますが、このヘンリのしばらくあと、国王となったのがヘンリの梅毒を産まれる前から感染(うつ)されて、15歳で夭逝(ようせい)したイケメン王子エドワード6世です。
311px-Edward_VI_Scrots_c1550.jpg

母親はヘンリの3番目の妃であるジェーン・シーモアです。

エドワードがあまりに可哀そう過ぎて、「トム・ソーヤの冒険」でおなじみアメリカの作家:マーク・トウェインの小説「王子と乞食」の主人公となります

この小説を読んだ方はお分かりでしょうが、王子と乞食少年が服を交換して立場を入れ替わり、異なる視点で世情を見るという体裁ですが、つまりは、この16世紀のイングランドをディスりまくった小説でした

そして、様々な策謀渦巻く後継者争いの末に即位したのが、・・・・(血まみれの)メアリ1世(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル ↓
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メアリー1世 アントニス・モル画  1554年
メアリー1世(Mary I of England)
■1516年2月18日~1558年11月17日

手に持ってる赤いバラの花の、元の色は白だったんじゃないかな…。更に特殊能力者のボクがこの絵を見ると、心なしか牙が2本口から出ているのが見えるような・・・。

メアリはイングランド初の女王です。
彼女はガチガチのカトリックでスペイン王フェリペ2世と結婚し、イングランドにまたカトリックが復活します

メアリは徹底的にプロテスタントを弾圧し、異端禁止法を作って異端者を火であぶりまくります
この残虐な振る舞いから、彼女は「ブラッディ・メアリ」とあだ名がつきました。
ウォッカベースのトマトカクテルの名前になっていますね。ボクも家でたまに作って飲みます。
そして、この「血のメアリ」。多くの無辜(むこ)の民が火あぶりの刑にされている様を思い浮かべながらだと、このカクテルの味わいもまた格別増します

そして、この後に登場するのが、ヘンリ8世の離婚問題のきっかけとなった、愛人アン・ブーリンの娘、エリザベス1世です。

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エリザベス1世( Elizabeth I)
■ユリウス暦1533年9月7日~グレゴリオ暦1603年4月3日(ユリウス暦1602/3年3月24日)

今のイギリス女王はエリザベス2世ですが、まるで関係ありません。
エリザベスの代でテューダー朝は断絶し、今のウインザー朝の系譜はドイツ系だからです。昔は「ハノーヴァー朝」とドイツっぽい名前だったんですけどね。
第1次世界大戦の時に「敵国の奴らの血を、ウチの王様が引いているってコレ、よそにバレたら、ヤヴァす:(;゙゚'ω゚'):」。ってことで、イギリスっぽい名前にこっそりしてしまいましたが、もちろんバレバレです。

エリザベスが愛人アン・ブーリンの娘で、前王メアリは元の妃であるバリバリのカトリック信者キャサリンの娘です。

当然の如く、母親を無下にされた(強引に離婚させられた)恨みをメアリは、まるで無関係のエリザベスに向けます。処刑にはされなかった(奇跡的にも)ですが、エリザベスはロンドン塔に幽閉されるなどの仕打ちを受けるのです

この性根悪女のあとに王位についたのがエリザベス1世です。国民はきっと万歳三唱で迎えたことでしょう!あのク〇女がやっと逝きやがったぜ、と。

エリザベスだけでブログが4本くらい書けるのですが、止めておきます。(-_-;)
でも面白いのでいつか必ず書きます。

このエリザベスの時代に、あのカトリック信仰の憎き残虐女・血まみれのメアリ1世が戻したカトリックを再度放棄します

そして、教義がカトリック的であった部分も排除し、イングランド国教が確立します。

この中にはカルヴァン派の純粋なプロテスタントを目指した改革派も現れます。
「純粋」を英語で何と言うでしょう?pure(ピュア) です
つまり、これがイングランドのカルヴァン派の呼び名:「ピューリタン(ピュアな人)」なのです。もっとも、「ピュア」ですから、「バカ正直」の意味でディスり的に使われていましたが、いつしか自分たちからも「ピューリタン」というようになりました(「歴史に名を残す法則1」発動です。詳細は、「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4」 へドウゾ)。

のちにアメリカに渡った人たちのピューリタンの一団が「ピルグリム・ファーザーズ」。
この人たちの末裔が今のアメリカ人の基礎をなしています。だからアメリカは基本的にプロテスタントの国です。隣のメキシコはスペインが支配したので、今でもカトリックが主流です。

1600年、このエリザベス1世の時代にやって来たイギリス人が、(同じプロテスタント国)オランダ船:デ・リーフデ号事件で登場する、ウィリアム・アダムスです
william adams2
ウィリアム・アダムス(三浦按針)

この時の顛末は「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5」 で詳しく書いたのでここでは省きますが、一般的に言われてるような「漂着」ではなく、ボクはエリザベス1世の何らかの意図を持って交易に来ているのではないかと考えています。

リーフデ号のいわゆる漂着後に幕府から相談を受けたカトリックのイエズス会士が、こいつら(プロテスタントのやつら)を「ぶっ殺せ!」と家康に進言したのに、逆に得体のしれないプロテスタントのやつらを重用しました。

何らかの意図が働かないとこの厚遇はありえないハズなのです

それは一体何なのか・・・?

次回、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -

いよいよ苛烈すぎる「三十年戦争」の幕開けです。

The_Hanging_by_Jacques_Callot.jpg
また間違えて変な画像を入れてしまいました。忘れて下さい。


と、その前に。阿蘭陀のお隣、おふらんすの事情を少し書いておきましょう

さて、カルヴァンはスイスのジュネーブで宗教改革を行った人間なのですが、スイス人ではなくフランス人です
John_Calvin_by_Holbein.png
ジャン・カルヴァン、ポーズをとるの図

この時代、既にフランスでもルター派のプロテスタントが広がっていました。で、フランス王は教会とか~な~り~仲が悪いのです。
お前ら坊主どもの使うラテン語は分かりにくい。教会ではフランス語でやれ」という命令をシカトし続けたのがカトリック教会だからでした。自分たちにしか使えない文字を持つ、というのは特権であることも以前書きました。(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8 - 聖書と活版印刷の相関 -」 参照)
つまり、国が従来のカトリックである以上、国民にとっては王様の言う事より教会の言う事の方が権威なのです。

こうした事情もあり、フランス王にとって何かとムカつく存在がこのカトリック教会だったので、フランスにプロテスタントが広がって来ても、王様は「カトリック、ざまぁ~(*` 艸 ´)」ということでプロテスタントを甘く見ていました

ところが、パリで1534年10月18日、檄文(げきぶん)事件というのがおきます。これは、プロテスタントでツヴィングリ派の過激な連中が教皇やカトリック行事をディスりまくる檄文を飛ばし、それを至る所に貼りまくった事件です。しかも、アンボワーズの宮殿内にある国王フランソワ1世の寝室の扉までやって来て貼ってます。
これで、「ツヴィングリ派の過激なやつら、既に王宮内にもいやがるのか(-_-;)ぶっ潰す」となって、フランソワ1世は激怒し、脅威となるプロテスタントの連中を追放します

この命令でフランスから脱出した中に、別に直接関与はしてなかったんですがカルヴァンもいました。フランスから逃れたカルヴァンは、1536年にスイスとフランス国境付近の、ドイツの町バーゼルで「キリスト教綱要」をラテン語で書きます。のちこれがフランス語訳されていきます。

キリスト教綱要表紙 1597
キリスト教綱要表ページ 1597年

…と、ここまでこのブログでは、カトリックばかりディスってきたように見えたかもしれませんが、ご安心ください。もちろん気のせいです。前に歴史の科学的な見方というのを書きましたので、詳細はそちらをご覧ください。
「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー」

実はカルヴァン派やツヴィングリ派も相当なものです

当時のカルヴァンはかなり禁欲的で過激な思想です。ただ、スイスではこの思想がウケたらしく、彼はジュネーブに招かれます。ちなみにスイスも神聖ローマ帝国ハプスブルク家に支配されている国です。なにせイタリアへの通り道ですから…(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4」 参照)。

そして、ここスイスで、カルヴァンは例の「禁欲主義」で超過激な圧政をしきます
「禁欲、禁欲」って言われても、どんなものかよく分かりませんよね?

例えば、こんなです。

「あれ君、いま音楽聴いてた?なら死刑ね」という感じで、あらゆる娯楽は禁止です。コレ、文献に登場する本当の話です

禁欲過ぎるだろ!」と思うかもしれませんが、カルヴァンの「圧政は「疑わしきは罰せず」、というような甘っちょろいものではありません

「夜回り隊」という市民生活監視パトロール隊がガッツリ市民が禁欲的な生活をやっているかを見回っていて、彼らの目に留まった、不真面目な行為は御法度で処刑されます疑わしいやつは、死刑以外なら、「水攻めと鞭打ち、どっちにする?」という拷問の度合いを比較するといった類です
綱吉の「(みなさんが「超悪法」だと誤解しているかもしれない可能性がある)生類憐みの令」など、子供のままごとにしか見えません。これがジュネーブで行われたカルヴァンによる政治です。

なぜそうなるのか、我々日本人にはさっぱり理解できませんが…(多神教の神道&仏教徒が多いんで)。

その後、フランスでもルター派ではなく、カルヴァン派が広まっていきます。このカルヴァン派をフランスでは「ユグノー」と言いました。フランスでもなぜかウケたのでしょう。て、いうか、逆によほどこれまでのカトリック教会の強欲な縛りにうんざりしていたのかもしれません。

そうして、この「ユグノー」が、フランスに未曾有の混乱を巻き起こしていく一因ともなっていくのです

「なぜオランダとスペインが争っている中間に位置するカトリック教国、フランスがオランダを責めないのか?」

これが前回の疑問でした。と、前々回でしたね(=∀=)

フランスは神聖ローマ帝国を牛耳っているハプスブルク家と、コレマタ非常~に仲が悪いのです。ハプスブルク家と言えば、13世紀以来オーストリア・ドイツとスペインを牛耳っている一族です。フランスは、イタリアの支配を巡って、200年くらいこのハプスブルク家とケンカをやっています

そのハプスブルク家がスペインにいるし、けれどオランダとはもともと同じフランク王国だった仲だったし、毛織物産業なんかの物流もそこそこ進んで経済的にもつながりがあるしで、フランスがオランダを責める理由がありません

また、ルターが「95か条の論題」を発表した2年後の、1519年にはフランス国王なのに、フランソワ1世が教皇の支持を得て、何と(無謀にも)!神聖ローマ帝国の皇帝選挙に出馬します
しかし、あのカール5世(スペイン王カルロス1世)に滅多打ちに完敗します。
皇帝を選ぶのは有力諸侯であることを以前にも書きました。(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4」 参照)  カール5世は、いわゆる新大陸からせしめてきた黄金を選帝侯らにバラまき、「選挙は私にヨロシク」と、入念な根回しをしていたので、フランソワ1世は1票も獲得できなかったのです。「こんな不正な選挙、認められるかー!」てことで、神聖ローマに戦争を仕掛けるのですがこれも完敗し、逆に捕虜となって賠償金を支払って土下座し、解放してもらうハメになってしまいました
ハイ、こちらです↓

フランソワ1世
フランソワ1世(仏:François Ier)
■1494年9月12日~1547年3月31日
■ヴァロワ朝第9代フランス王(在位:1515年~1547年)

また、フランソワ1世はカール5世に対抗するためになりふり構ってはいません。

ドイツ国内のプロテスタントを支援したり、イングランド王ヘンリ8世とつるんだり、果ては異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1世と秘かに結託し、「第一次ウィーン包囲」をけしかけたり・・・・

「非常~に仲が悪い」、という意味が分かっていただけたでしょうか?ヨーロッパ中をかき回すくらいの規模です。いえ、アメリカ大陸でも、と言っていいでしょう。

余談ですが、このフランソワ1世は「アメリカ」の名前の由来となった、あのアメリゴ・ヴェスプッチに金を出して、その航海を援助しました。(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 5 最終回 ‐グローバリズムの落とし穴‐」 参照)

もちろんこれも、中南米を押さえたカール5世に対抗して、彼らがまだ開拓していない北アメリカを領有しようという魂胆からです。更には、ジャック・カルティエをカナダ植民に送り出して、ヌーベル・フランスの基礎を築きます。これをフランス領カナダと言いますが、今の「ケベック州」の基礎を築いています。

「ヌーベル・フランスの父」といえば、フランス人サミュエル・ド・シャンプランですが、彼がケベックを整備したのはそのしばらく後の17世紀前半の話になります。今でもケベック州ではフランス語が話されているのは、その時代からの名残なのです。

カナダ

いずれ「フランス編」にてこの辺りの事情は書くことにしましょう。

でもそんな仲悪いのに、「ベルばら」でフランス王のルイ16世の嫁のマリー・アントワネットって、ハプスブルク家じゃなかったっけ?
ベルばら
敬愛する池田理代子先生画です。みなさん、ベルサイユのばら、読みましょう!

…ま、それはさておきΣ(゚□゚、

おフランスの事情も軽く書いたことだし、オランダへ目を移そうかと思いましたが、次の展開のためのもう一つ重要なプロテスタント国をすっかり忘れていました。それが、日本にもやって来たあのウィリアム・アダムスの国、イングランドです

イングランドにもカルヴァン派プロテスタントが広まるのですが、イングランドはカトリックを捨てた理由が、よそと違って、ある男による大変ふざけた理由なのです。それが今に続いてますが・・・。

その不埒な奴は、この男です↓
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間違えました、この男です↓
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次回、お楽しみに~!

dejima_agin_rogo-3.png

<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3)-

なぜカトリックが日本にやって来たのか?

もったいぶらずに早く書け、と急かされているので、しょうがないから予定変更で書きましょう。

ここまで全ての話を読んでこられた人にとってはもう楽勝で、ズバリ2点の理由からです。

1つ目が、プロテスタントの広がりで、カトリック教会は信者獲得(=金儲け)が出来なくなってきたからです

2点目が、ちょうどこの16世紀には、いわゆる「大航海時代」が幕を開けていて、オスマン・トルコ帝国を回避しながらアジアまで到達できる、アジアっていうか世界中に到達できる技術があったからです

ハイ、終了です。お疲れしたー!

真面目にやりますとも。

そもそも「カトリック」の意味を以前にも書きましたが「普遍」でした。
例によって、辞書の力を借ります。

大辞林 第三版の解説

ふへん【普遍】 ( 名 ) スル
① 広く行き渡ること。 「火山の到る処に-するを/日本風景論 重昂」
② すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。 ↔ 特殊 「 -の原理」
③〘哲・論〙 〔universal〕 
  ㋐ 宇宙や存在の全体にかかわっていること。
  ㋑ 複数の個物について共通に述べられ得る事柄。普通名詞に対応する項辞ないし概念。


つまり、自分たちの神の教義はいつでもどこでも全てに通用するハズなので、世界中に出て行って正しく布教すれば信者が獲得できるに決まっていると、と思っているからです。裏を返すと、自分たちの教義が絶対に「正しい」のであり、これまでさんざん書いてきたように、異教徒と異派はソッコー地獄行だということになっていました。(※「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革 -」 参照)

アメリカ大陸に出かけて行って、いわゆる「インディオ」を奴隷化したり、皆殺しにしたりしても、カトリックの教義を理解しない連中の方が悪だというのが「正しさ」であるなら、自己を正当化できる訳です。(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3」 参照)

日本人はよく奴隷化されなかったなーと思った方。奴隷化されましたよ、九州の人たちが一説には50万人くらい。世界中に売られました、という記録が世界中に残っています。これに対して豊臣秀吉から出されたのが「伴天連追放令」でした。(※「「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2」 参照)

イエズス会とフランシスコ会
イエズス会士(黒服)とフランシスコ会士(グレー服)
引用:歴史人マガジン【 戦国時代のキリスト教 】秀吉によるバテレン追放令とは より

つまり、「伴天連」とは、これも「カトリック」のことを指す言葉であり、「プロテスタント」ではありません

当時のカトリックは危険なことをやっているということで禁止されたのは分かりますが、ではなぜ同じ「キリスト教」の一派である「プロテスタント」は交易が許されたのでしょうか?

それには、プロテスタントの「予定説」を知っておく必要があるのです

そして、これを知ってもらうために、この「オランダ」編を中断してまで伏線として張っていたのが、「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」なのです。 
…やっと伏線が帰結しました。

カトリックでは救済のために信者はいろいろやれるんですが(多額のお布施とか「贖宥状(免罪符)を買うとかのダークサイドなども)、プロテスタントのこの「予定説」では、神が救う人間を予め決めていました。だから、ある意味、何をやっても救われないやつに布教するのは「それって、無駄な努力じゃん」、となります

すなわち、プロテスタントにとっては、日本は「八百万(やおよろず)の神」とかいう多神教で、かつ助っ人で仏教といった宗教まで入れててごちゃまぜです。その辺の石にも神が宿るといったことまで言うのです。だから、彼ら「紅毛人」にとって得体のしれないものを信仰している「日本人」など、元から救われるはずがないと思っているのです

こうして、「日本のやつらに布教しても無駄だし、あいつら(ヨーロッパではあまり採れない)金・銀たくさん持ってるし、商売で儲かればいいや」ということで布教をしなかった、これが歴史科学的にはオランダが布教しなかった理由です

紅毛人 神戸市立博物館
長崎に上陸した象と紅毛人の図 作者不明 神戸市立博物館象、間違えた、蔵

もっと言えばですが、以前書いた、あの「デ・リーフデ号事件」を覚えていらっしゃいますか?(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5」参照

ウィリアム・アダムス(のち三浦按針)というイギリス(紅毛)人がやってきて徳川家康にも重用されたというのも、イギリスがプロテスタントの国に当時もうなっていて、カトリック布教の危険性がないからです。

ちなみに、プロテスタントが広まっていったのは、ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スコットランドなどでしたね。
16世紀 プロテスタントの広がり
引用:世界の歴史まっぷ より

後に詳しく書くことになりますが、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトというドイツ(紅毛)人医師がオランダ(紅毛)人に扮して日本にやって来たこともこれで理解できます。ドイツ(紅毛)人がスペイン(南蛮)人に扮して来れる訳がないですから。
シーボルト 川原慶賀筆
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

そして、彼ら(オランダ人やイギリス人など)紅毛人が、ヨーロッパでは「カトリック」vs「プロテスタント」の最終宗教戦争(これを「三十年戦争」と言います。次回よりこのブログで入ります!)をやっていた時代が、まさに日本では織田信長から、徳川家康などが活躍した時代なのです

・・・だからたぶん、紅毛人らは日本人に、自分たちの仇敵であるカトリックの南蛮人のことをしこたまディスりまくったハズです。
「家康さん、あいつらマジ残虐な奴らっすよ、クズっすよ。いずれ日本に乗り込んで家康さんぶっ殺すってウワサ聞きましたですぜ。ボクらがその情報流しますんで、代わりボクらの商品も買って下さい」と(筆者想像)。

日本の戦国時代から江戸時代を知るには、同時代の世界史にも目を向けろ!! これが重要です。

幕末も同様で、日本の勢力図をどっかの公共放送とか自称しているN○K「大河ドラマ」で知ったふうに思うのは、非常に浅い歴史解釈なのです(どっかの公共放送とか自称しているN○K「大河ドラマ」が制作した山ほどある中のどれ、とは言いませんが…)。

…どうでしょうか?

この一連のヨーロッパ史を知らないと、長崎の教養は語れません!(断)

・・・なら、なんで同じ紅毛人のイギリスと交易しなかったの?家康のとこにもいたのに。

次回も、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -

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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11- オランダ独立(2)

さて、オランダはどうやって神聖ローマ帝国、いや、スペイン・ハプスブルク家から独立を果たしたのでしょうか?

それは、三十年戦争で神聖ローマ帝国が解体され、カルヴァン派が勝ったからです!

と、具体的事例や論理性をすっ飛ばして結論から入るとまた訳が分からなくなり、批判の嵐が吹き荒れますので、順を追って書きますとも!

ちなみに、なぜ「三十年戦争」なのかというと、1618年から1648年の31年間の長きに渡って(途中断絶したり、また開戦したりしましたが)、行われたから…に決まってますよね、普通(;・∀・)

The_Hanging_by_Jacques_Callot.jpg

おっと、画像の挿入間違えました:(;゙゚'ω゚'): この画像、風のように忘れて下さい。

まず、当時の情勢を地図で見ておきましょう。

16世紀 プロテスタントの広がり
引用:世界の歴史まっぷより

アレ?この時、スペインとネーデルラントってフランスを挟んで戦ってるけど、フランスは何してたの?

こういう疑問が生じるのが普通です。

それに、海を隔てたイングランド王国とスコットランド王国やデンマーク、ノルウェー、スウェーデン王国などもこの戦争には関わってきます。
三十年戦争は世界史上「最後の宗教戦争」と呼ばれていて、カルヴァン派の積年の恨みが爆発する大戦争へと発展したのです

なぜルター派じゃないの?と思った人、スルドイです!

話は前回のブログで書いた、カール5世が開いたトリエントの公会議にさかのぼります。

公会議とは、バチカンの教皇庁に全世界からの代表者が集まり、教義などの重要事項を決定する最高会議のことを言います。

公会議は325年のニケーアで開催されたものが初めでした。ニケーアではイエスはいったい何者なんだという話し合いがなされました。この時、アリウス派とアタナシウス派の二者が争い、アリウス派が「人間だろ」と言ったのに対し、アタナシウス派は、「いや、イエスは父(創造主)であり、子(その息子で人間)であり、聖霊(…詳細は抽象的すぎて不明です。今度どっかの教会に礼拝行って神父様に聞いておきます。でも、理解できるかどうかの保証はありませんが…)だ」と主張しました。

この論争で結局アタナシウス派が勝ち、今に至る「三位一体(さんみいったい)説」が正当だとなったのです

話を戻しましょう。

元の木阿弥:トリエントの会議は、長いこと時間を費やしたのに、結局は妥協どころかこれまでのカトリックの伝統で行こうと決定したものでした。

ただ、会議途中の1558年、発起人のスペイン王:カール5世が亡くなりました・・・。

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伝ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年(アルテ・ピナコテーク蔵)

神聖ローマ皇帝として、彼はどのような人生だったのでしょうか・・・。

イタリアを巡って、隣国のフランスのフランソワ1世&アンリ2世父子との戦争に明け暮れ、ドイツから広がった宗教改革後のプロテスタントとの戦い、スレイマン1世が率いる強大なオスマン帝国との戦いにも阻まれて、あと一歩のところで神聖ローマ帝国の覇権樹立という目的は果たせませんでした。

また、晩年には痛風による激痛との戦いと相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、息子フェリペにスペイン王の座を譲位。オーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は、フェリペの弟のフェルディナント1世に継承させます。

これをもって、神聖ローマ帝国:ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系とスペイン・ハプスブルク系に分裂していくことになりました。

引退する前年の1555年、カール5世のスピーチが残っています。

余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回ずつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれてしまったそうです。

フェリペだけでなく、弟フェルディナンド、姉エレオノーレ、妹マリアという、彼の子供たちも出席し、1517年まで生まれ育った、ネーデルラントの一部ブリュッセルでの退位式でした。

そして、自らはスペインのユステ修道院に隠棲して、日常的な痛風の激痛に苦しみながら人生の幕を下ろすのです。享年58歳でした。

カール5世ほど、いろんな戦いに人生の大半を捧げねばならなかった宿命、ボクら現代に生きる人間には到底想像もつきません・・・


1556年からトリエントの公会議であとを継いでいたのが、バリバリのカトリック推進派フェリペ2世です。

フェリペ2世2

しかし、実はこの前年の1555年9月25日、ドイツ近辺の地域では公会議でない、神聖ローマ帝国のアウグスブルクで別の会議が開かれていたのです。だからここに教皇はほとんど関わっていません。皇帝と諸侯の間の取り決めです。

ここで何と、カトリック側は「ルター派は仕方ないから認めよう」という決定がなされるのです。主な決定内容は次のようなものでした。

1:ルター派は認める(カルヴァン派とツヴィングリ派は、あいつら噂によれば過激だからダメだけどね)
2:カトリックかルター派かは、その地域にいる領主が決めてね(個人が勝手に選ぶなよ)
もう少し細かいのもありますが、ま、これだけでイイでしょう。

このうち、「カルヴァン派はダメだけどね」、というのが後のために重要なポイントです

そうこうしているうちに、1581年、オランダはスペインからの独立を宣言してしまいました!

といっても、1555年のアウグスブルクでの和議以来、カルヴァン派が認められない中で、ネーデルラントは17州ある領邦のうち、北部7州(今のオランダ辺り)、南部10州(今のベルギー辺り)というように分かれてました。この南部にカトリックの連中には元々多かったことから、南部10州はスペインのカトリックの圧政に屈してしまいました。

しかし、北部は「カルヴァン派の信教の自由を勝ち取るまで負けぬ!」とばかりに抵抗し、ユトレヒトで同盟を結んで団結を誓います

この北部7州の中での一番有力だったのが「ホラント州」で、これがポルトガル語で「オランダ」に近い発音となって、先に日本にポルトガル経由で入ってきてたから、のちにネーデルラント人が日本に来た際、「ああ、南蛮人から聞いてたあんたらがオランダの人ね、この前来てたエゲレスの人と同じ『紅毛人』の 」となっていく訳です。(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5」 参照)

お判りですか?南蛮人と紅毛人の違い

実はコレ、それぞれ「カトリック」か「プロテスタント」かの違いなんです

ちなみにですが、1584年に日本からの「天正遣欧少年使節」を歓待したのが、フェリペ2世です

JapaneseEmbassy.jpg

そして、このネーデルラント北部の連中が高らかに宣言したのが、「ネーデルラント連邦共和国」独立!」です。
・・・まだ、承認されてませんよ。単に、国だと言い張っているとヨーロッパの他国はみてますから。

なぜでしょう?それは国の名前に表れてます。

「ネーデルラント連邦共和国」

「共和国」は、「皇帝や王様がいない、貴族のパラダイス」という意味だからです
後でイギリス編の時にも使用する語義だと思うので、ここ暗記必須です。

初代総督(当然共和政だから「王」ではないですね)が、オラニエ公ウイレムと言います。アルファベットで書くと、Willem van Orange 英語ではオレンジ公ウィリアムになります。

WilliamOfOrange1580.jpg
オラニエ公ウィレム1世(Willem I)
■1533年4月24日~1584年7月10日

王がいないので当然ですが、話し合いを貴族みんなで進めていくというのは、歴史上なかなか経験したことがないので難しいことなのです。

しかし、この人は就任してわずか6年目でカトリック教徒に暗殺されてしまいます。

再びダークサイドのとばりが…。

しかし、ダークサイドの脅威は、ラッキーにもオランダに訪れませんでした。

要因の一つが、フェリペ2世のスペインの誇る「無敵艦隊」が1588年、アルマダ海戦でイギリス海軍に潰滅されてしまったことです
不運にも暴風雨もあって、「無敵」のハズが木端微塵です。

そもそもなぜ「無敵」という名前なのかというと、少しさかのぼること1571年、フェリペ2世はあの強大なオスマン・トルコ帝国と無謀にも戦います。教皇やヴェネツィアとの連合軍で挑みます。フェリペは、アメリカ大陸や日本の下のフィリピンまで支配領域に置いた力を過信していたのでしょう。ギリシア西岸の地、レパントでの海戦が火ぶたを切ったのですが、わざわざ地中海を横断してギリシアの方まで行ったのは、この地中海を支配しているオスマン帝国を叩き潰そうとしたからでした

無謀にしかけた戦争でしたが、勝ってしましました(ラッキーで)。

この時に「オスマンに勝ったオレには恐れる者はない、無敵だ!」ということでつけられたあだ名が「無敵艦隊」

ただ、ラッキーで勝っただけだったんで、のちに一緒に戦った奴らとの内ゲバもあって、また地中海の覇権はソッコー、オスマンに戻っただけに終わりましたが・・・。

しかし、オスマン帝国強いです

どうしても日本人は西洋の歴史と東洋の歴史を分断して教科書で学び、あとは「その他ね」で済ますことが多いと思われます。しかし、間違いなくこの16世紀に最先端の国は西洋ではありません。中央アジアから東アジアです。軍事にしろ文化にしろ、ホントに洗練されて素晴らしいのです。数学もアラビアの学問で、我々が使用する数字もアラビア数字です(ゼロの観念はインドですね)。

スペインやポルトガルといった、いわゆる「大航海時代」を担った奴らが、あれほど欲しがった「香辛料」が入ってこない理由が分かったでしょうか?

オスマン帝国が強すぎて支配領域を通れないのです。だから、東南アジアへ行くのにわざわざ遠回りして、アフリカの下を通って行かねばならなかった、ということでしたね。(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)

小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスがこのレパントの海戦時にスペインの連合軍で参戦してます。それで左手に銃撃を受けて片腕となってしまいましたが、右腕が残ったために「ドン・キホーテ」が書かれた、と、いろいろ言われてますが、定かではありません。

その後もフェリペ2世は1580年には隣のポルトガルも併合し、いよいよもって「太陽の沈まぬ国」を絶賛建造中でした(オスマンのやつらがいないとこ限定)。オランダが独立宣言をする前年です。

しかし、この「無敵艦隊」が1588年にイギリス艦隊に負け、スペインの覇権は次第に衰退していくのです

そして、ついに1609年にはスペインとの休戦条約が締結され、オランダはスペインから独立を果たしました

ただ、ヨーロッパ内での国際的な承認は得ないまま時間は過ぎていきます。そして、国のカルヴァン派もまだ認められていないままなのです。「アウグスブルクの和議で、何でルター派認めたくせして、オレたち認めなかったんだよ」と恨み節全開でした。

こうして、八十年戦争の後半へとつながっていきます。いよいよ真の独立を果たした戦争へと。
ここにフランスも色んな国も関わってきます。ただし、それは血で血を洗う、人類史上でも過酷なものでした。

今回の最後に、カール5世の晩年について補足しておこうと思います。

カール5世は、1548年にネーデルラントの全州である17州を、スペイン王国およびフランスからの分離独立を認めました。
更には1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られている、アメリカ先住民:インディオの地位とインディアス問題に関する審議会を開きました。
これは、アメリカ大陸でインディオを無差別に虐殺しまくったことを告発してきた、あのラス・カサス神父らの長年の活動が実ったともいえる決議でした。また、最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、アメリカ先住民:インディオへの不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では人権という概念を意識した、非常に画期的な審議会となったのです。これをリードしたのがカール5世だったのです。

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ラス・カサス神父

「人間にはどうしても変えられないものと、変えられるものがある」、ということをカール5世を通じて、もう遥か前でしたが、ボクは学びました

歴史の研究というのは、未来をより良く生きるため、正しい判断をするために必要な、人類の知恵の集積を知ることです。こうした知恵をわかりやすく、子どもたちの心に響くように伝えられたらイイなと本当に心から思います。

次回、フランスとオランダの周辺国の事情です。お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

オランダ関連 | コメント:0 |

みんなで知ろう☆PEACEBLUE代表・浜口剛の魅力(1)

ご無沙汰しております。

PEACEBLUE 広報部長のKeikoです!!

今回は広報部長らしく、PEACEBLUE代表・浜口剛について語らせて頂こうかと。

というのも、浜口先生(…といつも呼んでいる)、長崎に繋がる様々な国の歴史、魅力について
大量にブログで発信しておきながら、自分のことになると全ー然なんです!!

(Keiko)「浜口先生のプロフィール写真撮りましょうよ~!」
(浜口先生)「断る」

(Keiko)「誰がブログ書いているかもうちょっと自分自身を前に出したほうがいいですよ!」
(浜口先生)「いや、いい」

こんなやりとりを何度くりかえしたことでしょう。。。
いい歳してシャイボーイか(笑)!!なので、しびれを切らして私が書きます( ̄▽ ̄)♪

前置きが長くなりましたが、まずはプロフィールから!!


【「PEACEBLUE」代表:浜口 剛(はまぐち つよし)】
先生PF写真

1969年長崎市生まれ。

長崎学の泰斗・グラバー園名誉園長:ブライアン=バークガフニ教授に師事し、
日本の近代化の父:トーマス=ブレイク=グラバーの研究を行う過程で、
16世紀以来の長崎と異国との特異な関わりと、その文化の素晴らしさを認識した。

大学時代から塾講師をつとめ、1997年、自ら進学塾「ラディアン」を創立。
「ブレない目的意識と常にグレードアップする努力」をモットーに、
今年で創立21年目をむかえる。
圧倒的知識と科学的合理性をベースとした、既存の型にはまらないユニークな指導は
長崎内外の塾生・保護者からの信頼も厚く、毎年多くの塾生を難関校へと送り出している。

全国こども歴史科学研究所「PEACEBLUE」代表。
軍艦島コンシェルジュ公式ガイド。

↑↑↑
…とまぁ、ノーマルプロフィールはこのような感じです。
ウェブサイト 「PEACEBLUE-全国こども歴史科学研究所-」
にも記載している内容&写真です。
(大体このプロフィール写真も、本当はもっと違う感じのが!いいのにと
何度言ったかわかりません。)

ここからはKeiko的、浜口先生プロフィール!

①音楽を本業と言い張る
塾、21年も経営しているのに副業扱い(笑)。
どう考えても無理があります。

②どこまでもストイック
主食は〇ィダー〇ンゼリー。スタイル維持に努力を惜しまない。
夏の熱い最中に何時間も走り込む。
仕事に関してもとても自分に厳しい。

③周りの人にはめちゃくちゃ優しい。
かと思えば優しいだけでなく、その人の為を思い厳しいことを言うことも。
アメとムチを巧みに使い分ける、抜群の面倒見の良さ。
だからこそ塾にも多くの生徒が口コミで集まってくる。

グラバー園にて
写真は、今年9月24日(日)に行われた
【世界遺産公式ツアーガイド・浜口剛先生とさるく!グラバー園~学校では学べない長崎学☆】
(Facebook記事はコチラ→ https://www.facebook.com/keiko.takahashi.52/posts/1329242943868464

での1枚。

参加者に…というか、こちら通りすがりの熱心な観光客の方なのですが、
浜口先生、とても親切に質問に答えていました。
ブログでは、結構難しいことを書くことも多い浜口先生ですが(←私だけ⁉)
このグラバー園の企画、ものすごくわかりやすく、説明にも驚きの連続で
ご参加頂いた皆さんからはとても喜ばれたのですよ(*´▽`*)
ぜひまた企画したいです♪

また、歴史科学と言いながら、実は芸術家肌なところも!
(というか、元々の専門は芸術らしい…)
浜口画伯の作品もぜひこのブログで紹介したいところですね。
「いやだ」と言われそうですが(笑)。

ブログに日々綴られている歴史科学の様々なシリーズもいいですが、
まずは、自分達を知って頂くところから…と考えた今回の記事。
私としては、今後も、全然自分から前に出ようとしない(笑) 浜口先生自身のこと、
時には書いていきたいですね( ̄▽ ̄)
広報部長ですから!!!

「ブログにこんなこと書いてほしい!」
「こんな企画をやってほしい!」

今後のリクエストなどありましたら、
ワタクシまでどうぞっ(*^^)v



副管理人:Keikoの らぶらぶ長崎 | コメント:0 |

島原の子守り唄

島原の子守り唄

おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ん久助どんの
連れんこらるバイ

帰りにゃ寄っちょくれんか 
帰りにゃ寄っりょくれんか
あばらやじゃけんど
唐芋飯(といもめし)ゃ栗ん飯
唐芋飯ゃ栗ん飯 黄金飯(こがねめし)ばよ
ショウカイナ
嫁ごん紅(べん)な 誰がくれた
唾つけたならあったかろ

沖の不知火 沖の不知火
消えては燃える
バテレン祭りの バテレン祭りの
笛や太鼓も鳴りやんだ
早う寝ろ泣かんでおろろんバイ
早う寝ろ泣かんでおろろんバイ


これを書くにあたって、倍賞千恵子さん、吉幾三さん、藤圭子さん、塩田美奈子さん、森昌子さん、小柳ルミ子さんなど、可能な限り聴き比べました。

心に響くのは、ホントにボクの主観なのですが、間違いなく倍賞千恵子さんでした

倍賞千恵子



なぜなら、この唄は「歌」でなく、子守「唄」だからです。子どもが眠りにつく時、誰のが一番心地良いのか、これを基準に聴き比べました。
他の人は普通に上手な「歌」に聞えました。しかし、倍賞千恵子さんのはちゃんと「子守唄」なのです。

ボクは「男はつらいよ」が邦画のバイブルなので、確かに主演を務める倍賞千恵子さんにはかなりバイアスがかかった見方をしているのかもしれませんが…。

この唄を作ったのは宮崎康平ですが、彼は南旺土木をやりながら島原鉄道専務になっています。
父:徳市が心血注いだ島鉄だったので、ここへ入ることが念願でした。
そして、オンボロの客車を修理して走らせて、昭和天皇のお召列車まで迎えています。

観光ブームの折から、宮崎は家庭を顧みることなく働きます。そうして、過労で倒れ、失明しました。
そうして、妻に去られた宮崎の人生は大きく変わりました。

「私は戦後女房に逃げられました。母親を慕って泣く赤ん坊をあやしながら、私はいつしかオロロンバイと唄っていました。それが島原の子守唄になったのです」と、彼はこのようなことを婦人会の講演などで話していたそうです。

しかし、彼がこの唄を創作した背景には、もっと哀しい根っこがありました。

当時の島原半島や天草の人たちは貧しかった。

「唐(から)ゆきさん」

貧しさゆえに人買いに買われていった、娘たち。
シンガポールやジャワ、スマトラ方面まで出掛けていったそうです。
この唄の底流には、宮崎がここで見聞きした、闇の事情があるのです。

島原に残っていた「唐ゆきさん」は、悲惨な渡航の状況をこう語っています。

「まっ黒か石炭船ん底ですたい。そるこそ腰巻一枚で、ピロウな話ですばってん、クソも小便もたれっぱなし、おそろしかっとひもじかっとでふるうちょる私たちば、ふとか外国の船乗りたいが、うつりかわり抱きくっとですたい」

目的地に着いてからも彼女らの地獄絵図は続きます。
夜に紛れて荷物同様に荷揚げされた娘たちは、密室に閉じ込められるのです。

ここではじめて食べ物が与えられます。
初めはパン、カレーライス、ビフテキといった具合に、だんだん上等なものになっていく仕組みです。
それは、この娘たちの食いつく様子を見ている西洋人たちのテストでした。

つまり、最後まで食い意地をはらず、食べ物に手を出さない娘に高値が付けるためです。
日本と違って、強情な娘ほど粘り強く働くと見ていた楼主たちの合理主義的な経営哲学なのです

歌詞の中にあらわれる「鬼池の久助どん」も人買いのひとりなのです。

作家の創作した意図の根底に、当時の島原の貧困と自分の悲哀とが交錯した、こうした視点も加えてこの唄を聴くといたたまれません。

「ながさきの民謡」 長崎新聞社編 を参考に書きました。


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長崎のうた | コメント:0 |

原爆を開発した、あるアメリカの物理学者のインタヴュー

こんばんわ。

明日12月8日は、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦の契機となった、真珠湾攻撃の日です。

この日を明日に控えて、みなさんには問題提起をさせていただこうと思います

次の動画は、ハロルド・メルビン・アグニュー博士が広島を訪れて、インタヴューに答えたものです。
(Harold Melvin Agnew, 1921年3月28日 - 2013年9月29日)
彼はアメリカの物理学者で、広島に原爆を投下した際に、計装航空機として「エノラ・ゲイ(広島に原爆を投下した機)」を尾行した「グレート・アーティスト」に科学観測員として同乗しています。



この動画をご覧になり、現代を生きる日本のみなさんはどのように思われたでしょうか?

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核爆弾 | コメント:0 |

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -

このシリーズでの前回、「出島表門開通記念! みんなで学ぼう、オランダ9」の最後に問いました答えは以下の記事によって書きましたので、解答にたどり着くまでせっかく書いたのでぜひとも全てお読みになられて下さい

■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -

途中、いきなりこの「みんで学ぼう、世界史としてのキリスト教 宗教改革」シリ~ズ、などもぶっ込んでしまい、もうやってられんわwwwとなった方もいらっしゃるかとは重々拝察申し上げます。しかし、お読みになられた方はお分かりかと思いますが、アレは必要悪(必要善)の脱線だと自負しております(断)。

答えを確認されたでしょうか?

これでようやく神聖ローマ帝国&スペイン・ハプスブルク家からのオランダの独立へと進めるわけです(´;ω;`)

16世紀。
この16世紀は世界史の中でも、大きなターニングポイントとなる世紀ではないかとボクは考えています。追って話すことになります。

では、さっそく「オランダ独立」までの道、いってみましょう!

日本は大陸からは海で隔絶された島国であるという地理的条件もあって、はじめっから独立というか孤立しているので、なかなか他国の独立問題の深刻さに気付くことがないでしょう。平和ボケと揶揄されるゆえんはこの辺りにも要因があります。

オランダもある意味、低地で水浸しであったという地理的条件から、まともな国家が成立していたわけではありません(後に、この「低地」であるという条件が「江戸」と同様、経済的には幸いしてきます)。

そこに、
①ゲルマンの強力な国家であるフランクが出来て支配領域に入り
   ↓
②その後、9世紀末の分裂を経て
   ↓
③神聖ローマ帝国の中に組み込まれる
、という流れをこれまでに書いてきました。

そうして、ルター、カルヴァン派と続き、プロテスタントは広がりを見せるようになります。さすがに聖書をみんなが自国語(はじめはドイツ語です)で読めるようになると、そして、活版印刷によって大量に書物が造られるようになると、聖書にまるで書いていない「贖宥状(免罪符)」や「魔女狩り」といった、これまでのローマ・カトリック教会の悪事が露呈していくわけです

「信者」なのですから、教会が「信じられない」行動をとれば、人が離れていくのは当たり前の話です

こうしてカルヴァン派プロテスタントは、ドイツの周辺である国々、オランダだけでなく、フランス、イングランド、スコットランドへと広がっていきます。

16世紀 プロテスタントの広がり
引用:「世界の歴史まっぷ:カルヴァンの改革」より

このプロテスタントの広がりに教皇庁もさすがに黙ってはいられません

時の教皇:パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世の協力の申し出もあり、途中開催地を巡ってフランスとのいざこざもありましたが、結局は帝国内の自由市で北イタリアのトリエントでの公会議の開催を決断します

そもそもルターはカトリックの解体を望んでいませんでした。「聖書に戻れ」という教会自らの改革を呼びかけていたのです

1545年から63年という長きに渡って、3会期の討議がなされ、ようやく終了します。
ここで、プロテスタントとの妥協点と非妥協点が確認されますが、贖宥状(免罪符)の販売や金による取引を禁止しつつも、依然「贖宥」の意義は保たれることなど、結局はその他もルターが主張した「聖書に戻れ」というより、むしろこれまでの教会の伝統に由来する教義が有効であることを認め、終了~となります

一体、この費やした時間は何だったんでしょうか…。

しかも、この会議の期間中、妥協点を見い出そうとした神聖ローマ皇帝(痛風王)カール5世は亡くなり、1556年から後を継いだのが、あの息子のフェリペ2世でした。
フェリペ2世2

以前にも書いた通り、フェリペは強硬なカトリック推進派です
当時のオランダは、フランスという当時の大国を挟んで、スペイン・ハプスブルク家との領土ですが、ルター&カルヴァンによる宗教改革以降、世間は上記のような事情であるにもかかわらず、トリエントの公会議の内容を徹底すべく、このスペイン王フェリペ2世はカトリック思想による圧政をしくのです

まず、具体的な政策ですが、スペイン統治下のネーデルラント(オランダの正式名でした。一応、お忘れないよう確認で書きましたが、以後また「オランダ」にしときます)では異端審問が行われ、プロテスタントを弾圧します。また、都市の自治権を剥奪し、市民には重税を課すなど、やりたい放題の圧政を展開していきます。

この圧政に対抗した貴族が、ナッサウ伯ルートヴィヒ、ブレーデローデ伯ヘンドリックでした。
彼らが中心となって同盟を結成し、下級貴族ら約400名が集結しましたこの中にはプロテスタントだけでなく、何とカトリックもいたのです。よほどの重税だったんでしょう。

1566年4月5日、彼らはブリュッセルの宮廷に赴き、総督パルマ公妃マルゲリータに、フェリペによる、トリエント公会議の決定事項の強制を取りやめるよう求める請願書を提出しました。
この請願の動きに、公妃マルゲリータは慌てふためきます。もし、これが広がって、請願を受け取ってしまうとフェリペが黙っていないからです。
これ対し、マルゲリータの廷臣ベルレーモンが、「公妃様、あのような下っ端貴族など、ご心配ありません。公妃様の権威を利用して『おねげえしますだ~』と物乞いに来ているに過ぎません。今度またやってきたら、あいつらのこと「乞食」と呼んで、踏みつけてやりましょう」と語ったとか。

その後、下ッパ貴族がやってくるごとに、「また『乞食』が来たぞ」、と呼ばれるようになります。そのうち下ッパ貴族たちも、「いいよ、別にそれで」ということで自分達でも「乞食」党と名乗るようになります

この「乞食」のことをドイツ語で「ゴイセン(オランダ語ではフーゼン)」と言います

この「ゴイセン」という言葉は、後にネーデルラントの愛国者を意味するようになるのですが、その意味はこの下級貴族らの「乞食」党に由来するのです(なにやら今この言葉は差別用語に指定されてるようですが、歴史上の事実として使用されていたのでそのまま使ってます。「乞食」はアウトで「物乞い」「ホームレス(といった横文字)」ならセーフ、てのは不明ですが…。以後のブログ記事でも、同様です)。

この下ッパ貴族のユーモアのセンス、あのユリウス・カエサル(あだ名「モエクス・カルウス」=ハゲの女ったらしと自認)に通じますよね?(笑)

さて、こうした下級貴族らの圧政に対する請願行動は、カルヴァン派の連中を中心に行われたので、オランダではカルヴァン派のことを「ゴイセン」の通称にもなっていきました。「ゴイセン」らは、オランダ各地で野外説法を行い、フェリペ2世の暴政を非難しまくります。過激派の連中は、教会を襲撃して聖像を破壊したりと、こっちもやりたい放題です

このようなオランダにおける治安の乱れをさすがに懸念したフェリペは、1567年にアルバ公をネーデルラント総督として派遣し、治安を平定させようと目論見ます。

いよいよ、「八十年戦争」の幕が上がります
ダークサイドのとばりが降りてきた・・・みたいな。逆か、この場合(;´∀`)

フェリペ子飼いのアルバ公は以前にも増して、ここぞとばかりの苛烈な圧政とプロテスタント迫害を展開します。この迫害によって多数のカルヴァン派が処刑されますが、この時の裁判所を通称「血の裁判所」というのです

こうした迫害の強化によって、しだいにゴイセンらの抗議行動は鎮圧されてゆくのです。

Fernando_Álvarez_de_Toledo,_III_Duque_de_Alba,_por_Antonio_Moro
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba)

しかし、ネーデルラントはスペインへの抵抗を止めませんでした。

ネーデルラント諸州は1568年、オラニエ公ウィレム1世を先頭に、再びスペインに対する反乱を起こすのです。

そして、人類の起点となった、「三十年戦争」へ突入~!!! となります。

・・・あれ?そういうや、カトリックて、何で日本へ布教に来たんだっけ??

盛り上がってきました!!

次回も、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -


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