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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 22 - アジアへ(2) アンボイナの虐殺 -

関ヶ原の戦い後、江戸幕府が開かれて以来、平戸にはオランダとイギリスが次々に設置されます。

慶長十四(1609)年にオランダが平戸に商館を設置し、慶長十八(1613)年にイギリスが商館を設置します。
オランダ商館
2011年に復元された、平戸 阿蘭陀商館

しかし、香料モルッカ)諸島は以前にも書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)、香辛料の丁子(ちょうじ)とナツメグの唯一の産地として、肉食のヨーロッパ人にとっては、相変わらず非常に重要な場所です。

オランダはこのアジアへやって来てから、相当な利益をゲットしています。

ちょい後の統計ですが、下に載せておきましょう。

オランダのアジア交易
オランダのアジア交易統計 1694年

日本との交易は断トツで儲かっています
オランダ人が、幅200mちょいしかない「国立の監獄」(=出島)に押し込められながらも、日本から出ていかなかった理由は、これを見てもよく理解できます

出島1
出島 川原慶賀筆

もう一度、東南アジアに目を向けてみましょう。

1511年、ポルトガルがまずマラッカを占領して、次にスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してきて以来、この両国が香料諸島で争うようになります。

香料諸島
香料諸島(モルッカ諸島)図

初めはポルトガルが香辛料を独占していましたが、17世紀にはオランダ東インド会社が進出して、この地にいたポルトガル勢力を追っ払います。そして、オランダがここアンボイナ島に要塞を築いたのです。

アンボイナ島
引用:4.インド・東南アジア史(II.東南アジア史) アンボイナ島

しばらくして、イギリス東インド会社が、この地の香料貿易に参入してきます

これでオランダとイギリスの東インド会社が香辛料の利権をめぐる交易で激しく争うことになってしまったので、同じプロテスタント国で友好国であるため、「まあ、ヨーロッパではあれほどカトリックにいじめられて、戦った仲じゃないすか、ここは仲良く」と、この二国は、ここでの対立を避けようとして、1619年に両社を合同、香料諸島を共同で経営することを決定します。

こうして、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にもイギリスも商館が設けられることになりました。

けれど、本国では両東インド会社の、香料諸島での合同は合意されましたが、現地ではオランダ人が合意をシカトして独占を続けて好き放題やるわ、バタヴィアではやられたイギリス人もオランダ人を追っ払うわ、など、交易を巡る対立はずっと続いている、という状況でした。

こんな中で大事件が発生します。

1623年にアンボイナのオランダ商館では、イギリス商人が日本人傭兵(武士)らをここへ連れ出して、ここのオランダ商館を襲撃しようとしているという疑念(妄想だったのですが…)を抱きます。

こうしてアンボイナのオランダ人は、イギリス人・日本人・ここに残存していたポルトガル人を捕らえて、ヒドイ拷問にかけます。
そして、あらぬ罪を自白させ、イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名の計20人を処刑してしまいます。

これを「アンボイナの虐殺(通称アンボイナ事件)」と言います

事件当時オランダの東インド総督はヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
Jan_Pieterszoon_Coen.jpg
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)
■オランダの軍人で、第4代オランダ東インド会社総督
(在任1619年 ~ 1623年、1627年 ~ 1629年)

なぜ「虐殺」なのかと言えば、オランダ人の行った拷問は、火責め、水責め、四肢の切断など、あのお馴染みヨーロッパ式(※「ヨーロッパの拷問方法・処刑方法【古代/中世/近代/異端審問/魔女狩り】」いちお参照・・・・しない方が良いですけど、いちおです、いちお)のバラエティ豊かな(もち、皮肉です)自白が強要されたからです。そりゃ、やってなくても自白しますよね、普通…。
ハイ、コレ
アンボイナの虐殺
アンボイナの虐殺

この虐殺の目的は当然、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占です

 この事件を契機に、イギリスは東南アジアでの香辛料貿易あきらめ、ある場所へ進出するのです。

それが、インド

…なぜインドなのかは、のちほどイギリス編にて。

ただ、
「出島でオランダ人だけが交易を許された」

という、これまで習ってきた常識は正確ではありません。
前回まで見てきたように、イギリス人だって徳川家康に許されていたからです

同じプロテスタントで、命がけで交易を開いたウィリアム・アダムス以来、イギリスとも交易を続けていました。

しかし、この1623年に、イギリスは銀の獲得のために日本までやって来たものの、平戸での貿易は採算がとれず、イギリス商館を閉鎖して、完全に日本から撤退しているのです

撤退の要因として、オランダほどの日本でのシステマティックな交易方法と、当時のヨーロッパにおける市場の規模とコネクションの差ではないかと推測されます。新規参入のイギリスが、商業の手練れ、当時のオランダにかなうわけがありません。

このように考えると、出島には、カトリックのように布教を目的とせず、交易だけをしようとしているオランダ人とイギリス人が同時に住む可能性だって十分にあったのです

しかし、1623年の「アンボイナの虐殺」+「平戸の不採算」の二点で、イギリスはごく短期間のうちに日本からも撤退していくのです。
つまり、「オランダ人だけが」ではなく、「イギリス人たちも認められてたけど、勝手に撤退していなくなったから、残ったオランダ人が出島で交易を行った」というのが正しい歴史観です。こう言わないとちゃんと理解できません。

この撤退は、ウィリアム・アダムスが平戸で亡くなった3年後のことでした。
あの世でアダムスは、ずどーん・・・・・・・・orzと、落ち込んだことでしょうね。

この「アンボイナの虐殺」はイギリス国内でオランダに対する憎悪の世論を喚起してしまいます

これが後の、4次に渡る「英蘭戦争」の一因ともなりました

事件をきっかけに、東南アジアでのイギリスの影響力は縮小します。
そして、覇権を手にしたオランダだけが支配権を強めていきました。

しかし、かつて無限の需要があり、同量の金と交換されたこともあったほどの香辛料の価格は、次第に下落していきます。
そして、オランダの経済的な世界の地位も…。

一方で、アンボイナから追い出されたイギリスですが、拠点をインドに定めたのには、現代の我々にとっても極めて重要な理由があるからです。

それが何か?・・・は、次回のお楽しみです!


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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
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<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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シーボルト主要事項年表 <未完版>

※のちに随時書き加えていきますので、まだ完成版ではありません。
とりあえず、「江戸参府」終了まで。

1796年2月16日: 
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生 ドイツ ヴュルツブルク

1809年: 
間宮林蔵が二度目の樺太探検にて、カラフトが島であることを確認し、「間宮海峡」発見する。

1815年: 
シーボルト、ヴュルツブルク大学に入学。医学・科学・植物学・地理学・民族学を学ぶ。

1822年: 
オランダ外科軍医少佐に任命され、ロッテルダムからジャワへと向かう。

1823年: 
・オランダ領東インド・バタヴィアに到着し、 長崎の出島商館医師に任命される。
・バイテンゾルフにある総督ファン・デン・カペルレンの山荘で3週間滞在する。
・伊王島北端で、日本人の役人と通詞が来船し、オランダ人でないことがバレそうになる。
・其扇(タキ)が出島に通うようになる。

1824年: 
・鳴滝塾を開く。
・総督ファン・デン・カペルレンへ、長崎へ画家と医師を派遣してくれるよう依頼する。

1825年: 
・「薬品応手録」を執筆する。
・鳴滝塾弟子筆頭の美馬順三が江戸参府を前にして死去。

1826年: 
・念願の「江戸参府」へ、商館長スチュルレルに随行し出発。(2月15日)
・この時、弟子:湊長安・高野長英は情報収集のため1か月前に長崎を発っていた。 
・弟子:二宮敬作に島原の雲仙岳の火山調査を命じる。のち小倉で合流する。
・川原慶賀に太宰府天満宮を描かせに遣る。
・川原慶賀を石炭の産地木屋瀬に派遣し、絵に描かせる。この絵が「コークス作りの図」でのち発見。      
・下関の阿弥陀寺(現赤間神宮)に参詣し、関門海峡をファン・デン・カペルレン海峡と勝手に名づける。
・下関で先発していた湊長英・高野長英らと情報交換。
・高野長英が連れてきた平戸の捕鯨業者からクジラ漁の話を聞く。
・姫路の名城:白鷺城の美しさに感動する。
・京都で天皇の存在に興味を持つ。
・草津近郊の大野でトキの剥製をゲットする。
・鈴鹿山のオオサンショウウオを二匹ゲットする。(うち1匹はオランダに到着して1mに成長し、その後50年生きる)
・矢矧橋を測量し、図面を作成。川原慶賀にこの様子を描かせる。
・川原慶賀に、江戸に近い川崎から品川に至る港図をご法度ながらも描かせる。

・江戸で、オランダでも著名な薩摩の島津重豪(しまづしげひで)と出会い感動する。
・当時の江戸は130万人でコンスタンティノープルをしのぐ、世界一の都市。
・江戸参府一向の定宿は「日本橋長崎屋」。
・江戸で最上徳内がやって来る。(たぶん間宮林蔵とも会う)
・最上徳内から蝦夷や樺太の地図や資料を借用する。
・天文方兼御書物奉行高橋作左衛門も面会に訪れ、紅葉山の文庫を見たいと依頼。
・土生玄碩ら眼科医が来て、瞳孔を開く実験を見せる。
・作左衛門にクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などと引き換えに、禁制の「日本地図」をくれ、と告げる。
  (ミッテルビベラッハ城文庫、日誌に記載)
・択捉のラッコをゲットする。
・葛飾北斎にオランダ紙を渡し、絵画の依頼ををする。
・江戸城に登城し、目的のモノをゲットする。
・最も期待した長期滞在が出来なくなり、長崎へ向けて出発。
・最上徳内が、なぜかわざわざ小田原まで見送りに来る。  

・京都・大坂を経て、下関に至り海峡の記録をゲットする。
・商館長のスチュルレルとは犬猿の仲が激化する。
・143日に及ぶ長旅を終え、長崎に到着する。

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