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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鍋島直正(4) - 最強の Fe -

日曜日、佐世保へ行こうと思いきや、高速道路の途中でスッキリさっぱりと気が変わり再び佐賀へ。

佐賀は明治維新150年記念「肥前さが幕末維新博覧会」
デジタルとアナログを駆使して絶賛開催中で盛り上がってます!
日本の明治維新は佐賀から始まったことがよくわかるコンテンツぞろいです。
ぜひ一度は足をお運びください!!

肥前さが幕末維新博覧会
肥前さが幕末維新博覧会 会場内 大画面デジタルコンテンツ


さて本題ですが、みなさんは明治日本が発展していく契機となった物質は何だと思いますか?
人ではなくて物質です。今回はこの観点から話を進めていきます。

いきなり答えを言えば、それは確実に「鉄(Fe)」です。

歴史の話なのにアレですが、鉄がどのように作られていくのかをご存知でしょうか?
今では身の回りにあり過ぎるほどあるのに、自分ではまず作れない。でもまるで関心を寄せない、そのようなモノの代表格でしょう。

Fe(鉄)がどのように取り出されていくのかを、簡単に化学式で表すと次の3つの工程になります。下の図の溶鉱炉の中では、1~3の化学反応が進行して、一番下から鉄が取り出される仕組みです。
製鉄法

1:3Fe2O3(鉄鉱石) + CO(一酸化炭素) → 2Fe3O4(四酸化三鉄) + CO2(二酸化炭素)

2:Fe3O4(四酸化三鉄) + CO(一酸化炭素) → 3FeO(酸化鉄)+ CO2(二酸化炭素)

3:FeO(酸化鉄)+ CO(一酸化炭素) → Fe(鉄) + CO2(二酸化炭素)

ハイ、出来ました。

…とは、なかなか簡単にならないんです:(;゙゚'ω゚'):

なにせ、鉄が溶ける温度が1,538℃。このような高温に達するために、今でも相当な技術が要求されています。幕末の日本人が鉄をどのようにして大量に使用することが出来たのでしょうか?これには工学の知識と技術に加え、高度な化学の知識も同時に必要になります。

ただ、当時、「鉄を自由に使える能力がある」ということが意味するのは、いろんな意味で「最強」だということです。

2015年に明治日本の産業革命遺産群が世界遺産に登録されました。そのほとんどが「鉄」との関連にあります。鉄を使ってインフラが整備され、船が建造されて交易も豊かになっていきました。日本の産業革命遺産は日本の近代化に大きな役割を演じたことは言うまでもないでしょう。

幕末の日本がこの製鉄業を、いかにして主要産業へと成長させたのか。その答えが長崎港にあり、ここを統括していた佐賀鍋島藩の科学技術の発展と「肥前の賢公」第十代藩主:鍋島直正公やその家臣たちの血のにじむような尽力にあるのです。きっかけとなったのは、前回(※「鍋島直正(2) -誕生-」)書いたように、大英帝国の侵略行為でした。直正公は長崎からオランダ人を通じてもたらされる情報によって、アヘン戦争などもいち早く情報を得ています。その情報書を「別段風説書」と言います。
別段風説書
「別段風説書」早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

そもそも「風説書」はカピタン(オランダ商館長)が口述したものを、阿蘭陀通詞がまとめたものを言います。以前は、これも前回紹介しましたが、「オランダ風説書」というものがありました。しかし、別段風説書の方はこれとは別にインドネシアを植民地にしていたオランダがバタヴィアの植民地政庁で作成したものです。この提供はアヘン戦争勃発直後から始まります。その理由として、バタヴィアの植民地政庁にいるオランダ人が、チャイナにおけるアヘン戦争とその影響を、これはいち早く江戸幕府に知らせた方が良いと判断したためでした。

直正公はこれを読み、すぐに長崎警備を強化すべく奔走します。

まず、佐賀藩内での演習で、優れた砲術演習を行った武雄領主:鍋島茂義を砲術師範に命じて、家臣らに西洋砲術の修得を行わせました。1842年3月には佐賀城下に「蘭方稽古場」を設置して、蘭伝石火矢製造所を設け、大小の銃製造に着手します。そして、翌年モルチール砲、三ポンド野戦砲などの青銅大砲を完成させました。これは薩摩藩より3年も早く達成しています。
モルチール砲
モルチール砲 佐賀城本丸

1844年には、家臣の制止を振り切って、直正公自らが長崎港に来航していたオランダ船パレンバン号を視察します。危険をかえりみず、直接自分の目で見て確かめ、学ぶという姿勢を家臣らに示したのです。オランダのコープス大佐は、この直正公の真剣に学ぶ姿勢に中途半端な対応はできないと感じ取り、後に海軍創設を勧める忠告書を贈っているほどです。直正公は島津斉彬公と同様、「蘭癖(らんぺき)大名」と呼ばれていましたが、コープス大佐は直正公の真剣な眼差しに、この人は単なる蘭癖ではないと感じ取ったのでした。更に、佐賀藩はこの時既に「佐賀藩火術方(かじゅつかた)」を設置し、モルチール砲だけでなく、オランダ火打銃百挺の製造も開始しています。

つまり、この時点で既に日本で最強で最新の軍事力を持っていたことになるのです。

ちなみに、直正公と薩摩の島津斉彬公は母が姉妹のいとこ同士の関係で仲もよく、若い頃に様々な話をし合っていた仲でした。斉彬公の次の言葉をこの「鍋島直正公」シリーズのはじめ(※鍋島直正公(1))に書きました。ここで、その意味がよく理解できると思います。

「西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズ倍々(ますます)研究スベシ」

これは、佐賀の科学技術が薩摩をはるかに凌駕していたので、薩摩の家臣たちを鼓舞するために発せられた言葉です。いかに佐賀藩が日本の科学技術の最先端を走っていたかが間接的によく分かる言葉です。結局薩摩では出来ずに佐賀藩に頼ってはいますが・・・。

次回は佐賀が日本で初めて建造した反射炉の話からいきます!

では、お楽しみにー!

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鍋島直正(1)
鍋島直正(2) -誕生-
鍋島直正(3) -経済の真義-

肥前さが幕末維新博覧会
みんなで行こう!「肥前さが幕末維新博覧会」
2019年1月14日まで!

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鍋島直正公 | コメント:0 |

「長崎事件」 -国際化についてちょい考える-

大嫌いな梅雨に入ってしまい、精神を病んでるこの頃ですが、今回は「国際化」ということについて少し考えてみます。

「長崎事件」って知ってますか?と、地元の人に聞いてもほとんどが知りません。長崎ですらそうなのですから、今の日本では?と想像出来ます。また、「なぜ英語をそんなに一生懸命に勉強するの?」と聞くと、英語を学ぶのは国際化に必要だから、と、ほとんどの学生は何の疑いもなく答えます。現代ではもう大人だってそうでしょう。この二つの問いには国際化を日本人が知る上で、大変重要な意味が含まれています。

明治十九(1886)年8月1日、清国の巨大な北洋艦隊が長崎に来航します。それは、船の修理をしたい、ということで長崎港へ入って来たのです。各船の名は「定遠」、「鎮遠」、「済遠」、「威遠」。定遠、鎮遠は7,000t以上の巨大な戦艦で、日本にはこのような大きな戦艦はまだありませんでした。

長崎の人達は北洋艦隊の目的が「修理」だと信じていたので、部品を提供しようなどと考えていた折、8月13日、500人の水兵が周りの制止を振り切り、勝手に上陸をして、丸山遊廓へ繰り出します。ここで、大人しく並んで遊んで帰れば事なきをえたかもしれませんが、登楼の順番をめぐって大声を張り上げていざこざを起こし、備品を壊して暴力をふるいだします。血気にはやった彼らは更に、長崎市内を徘徊して店に押し入り金品物品を強奪しまくります。また、泥酔していた連中は長崎の市中で女子を追いかけまわし、乱暴狼藉の限りを尽くしました。当然の如く、長崎の警察官が鎮圧に向かいます。その警察官らは元武士で、剣術の達人ですから、清国水兵らをビシバシ打ち伏せていき、特に暴れていた2名を捕らえて警察に連行します。ところがその交番の前に10名の清国水兵らがやって来て、2人を返せと暴れますが、この時、清国水兵らは骨董屋で仕入れてきた日本刀なども武器にして再び斬り合いとなりました。双方ともに死傷者を出して、ようやくその水兵らも逮捕されますが、2人の巡査はケガをしたものの事なきをえています。

そこで、翌日、長崎県知事であった日下義雄と、清国領事館の蔡軒が会談し、清国側は今回のように集団で水兵が上陸することを禁止し、上陸の許可が出た時にはちゃんと監督士官を付き添わすこと、という協定を結んで自体は終息したかのように思われました。

ところが、この協定を結んだ翌日、今度は300名の武装した水兵が上陸し、清国水兵らが例の交番の前でわざと放尿し、交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにしたのです。さすがの剣の達人も300人には敵いませんでした。これによって、3人の巡査が袋叩きに合って、1人が死亡し、1人が重体で翌日死亡します。この騒ぎを見ていた、人力車車夫ら周りの日本人たちも、日頃世話になっている巡査らが殺されかけていることに激怒して、清国水兵に殴りかかり、大乱闘となった挙句、清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本の一般人も十数名が負傷するという大惨事に発展したのです。
長崎事件
「長崎事件」


明らかに、これは清国の協定違反が原因となっています。

ただ、この事件後、清国の李鴻章が日本の領事を呼び出して、清国の死者が5名いる、…と死者数の水増しをしてますが…、「武器を持たない」「丸山遊郭で単に遊んでいただけ」の清国の水兵を日本人が無残に殺害した、と根も葉もない言いがかりをつけてきたのです。これに対して、日本側の対応はというと、何と、清国に折れて多額の賠償金を支払い、かつ日本側が悪い、という内容の条約を締結されてしまうのです。

この理不尽な譲歩には理由がありました。当時の国力・武力の差を比較して熟考した上で、日本は清国にはまだ勝てないという判断からでした。

ごく簡単に言い切ると、世界は、隣国の同じ東洋人である清国でさえも武力こそがものを言う時代であったということになります。一般に日本人は、これまで正々堂々一騎打ちといった武士の道徳を根源にして国内では戦ってきた歴史がありますが、世界史を学習すれば、まるでこれが通用しない世の中であることに気づきます。むしろ日本こそ特殊な環境にあることが理解できるでしょう。

世界の歴史とは、誤解を恐れずに言うと「殺戮の歴史」なのです。それも他国人にならまだしも、自国民にですらそうです(※みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革 -)。

当時、7,000tクラスの巨大な軍艦など日本は持っておらず、もし理を通せばあっという間に侵略されてしまうという懸念が拭(ぬぐ)えませんでした。ただ、このような世界の常識を日本人が理解出来た事件、それが「長崎事件」です。

けれど、こうした世界の価値観を理解しない外交が展開した結果、あのことやこのことが近年でも隣国との間で1980年代から90年代にかけて起こりました。それは日本人の価値観を捨てられないままに、この残酷とも言える国際社会においても今でも同様に続いているのかもしれません。

学校で世界史を学ぶ、というのは、このような国際社会の常識を知ることが本義でなければならないと、ボクは切に願っています。

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国際社会 | コメント:0 |

西郷隆盛 (5)-斉彬閣下の007 -

さて、先頃の大河ドラマで、月照さんと入水自殺を試みるも救出されて奄美大島へ流される形となった西郷さんでした。「愛加那」さんと結婚し、子どもを二人授かります。
愛加那さんは絵画が残っていますね。
愛加那
愛加那


その時の子で、長子を西郷菊次郎といい、後の京都市長などを歴任します。また、娘の菊草(きくそう)は西郷さんのいとこで、大山巌の弟:大山誠之助の妻となりました。ちなみに、大山巌はこの話でしたね(※西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

この奄美大島編から、やや時間をさかのぼって、殿様の島津斉彬(なりあきら)公の工作活動をしていた時期を見ておきましょう。

ちょうどペリーが浦賀に来航した頃、斉彬に取り立てられて「御庭方」という役目を担います。あまり地位は高くないのですが秘書のような役目で、幕府の八代将軍吉宗が創設した「御庭番」を模倣し、斉彬が新たに作った役職。それが「御庭方」でした。ここで西郷さんは斉彬の近くに控えていて、なかなか自由に動けない藩主である斉彬に代って、幕府の実力者や有力大名、公家の所へ出入りして人脈を作っていくのです。

大河ドラマでもありましたが、一見出世したかに見えて、途方もなく江戸では金がかかるのです。現代でも人脈を作っていくのに、取引外での接待や贈答など、経費で落ちないことも進んで行わないと密な情報は得られないのと同様です。また、ドラマではほぼ語られていなかったようですが、京都や大坂では女遊びもしていたようで、祇園のお気に入りの仲居がいました。あだ名が「豚姫」(笑)。歌舞伎の「西郷と豚姫」として残っていますね。一説には京都祇園の茶屋「奈良富」の仲居をしていた「お虎」という人だということです。ドラマでは芸人の近藤春菜さんが演じていた人がそうでしょう。
西郷と豚姫
西郷と豚姫

そんなあだ名つけるなんて女性に失礼じゃないか、と怒る人もいるでしょうが、本人もそう呼ばれて喜んでいた、という話も残っています。今と違って男女ともふくよかな人が評価されるという側面もあるので。ただ、西郷さんがデブ専だったかどうか、というとそれもよくわかりませんが、勝海舟が「氷川清話」の中で「京都に、西郷隆盛に愛された『豚姫』というふくよかな女性がいた」、「たかが女遊び一つとっても、西郷はたいしたもんだよ。何か見た目じゃないところで惹かれあったんだろうね」とは言っているし、人物本位で人との付き合いをしていたのでは、とボクは思っています。

一方で薩摩では、新婚なのにすぐ単身赴任し、父と母が相次いで亡くなり、新妻のスガとの生活二年で破綻してしまいます。家父長制の下でのスガの生活は苦労が絶えなかったであろうと推測されます。夫が単身赴任で全然家にいないのに、つい先日まで他人だった西郷家という大家族の家事をほぼ一人で切り盛りしなければならない。それなのに、夫は仕事の一環とはいえ派手で奔放な浪費生活をしていることが耐えられなかったのかもしれません。

ただ、この時期の人脈作りとしては後の展開において、大変重要な人物らと知り合いになっていきます。松平春嶽(しゅんがく)の懐刀で優秀な橋本左内、水戸藩の改革派で西郷さんが大変心酔した藤田東湖、そして薩摩の錦江湾へ共に入水した月照さんなどですが、この時の人脈作りの妙が西郷さんの真骨頂とも言えるものでした。先ほどの「豚姫」との付き合いが人物本位であろうと思ったのは、この事例があるからです。

一般に人は自分と気が合って、一緒にいて心地よい人との付き合いを求めるでしょう。その方が楽だし、まるで違う考えの人とはケンカになるに決まってます。しかし、西郷さんは、当時の「尊王攘夷派」とも「開国佐幕派」とも分け隔てなく、その人物の度量を見極めながら交流を深め、これが後の明治に至るまでの財産となっていくのです。

この人脈作りは、もちろん斉彬公の下での情報収集活動を行いやすくするためということが優先していたでしょうが、これが現代で「インンテリジェンス」と呼ばれるものの基礎をなしています。映画の007のように殺しや裏切りや錯綜し、美女が解決のカギを握っている、などいうのはまずありえないでしょう。ま、美女系で言うと、かつて分かりやすいチャイナのハニートラップに楽々引っかかってしまった首相もいましたが、確か、はしも…
はしも・・・
えと、はしも・・・


とにかく、西郷さんらが行っていたのは、異なる身分や立場を巡る水面下での非常に地道な活動です。

果たして、これまでのみなさんの「幕末」イメージはどんなものでしょうか?

尊王攘夷派がとにかく外国人を毛嫌いしていて、至る所で徒党を組んでテロ活動を行っており、それに輪をかけて凶暴な連中らと刀で切り合いをしている、という殺伐としたものではないでしょうか?それってまさに「坂本龍馬」や「新撰組」などのイメージです。

けれども、幕末の実際の政治においては、そのような表に出ている暴力的な手段で下っ端連中が権力を掌握するという所まではいけません。幕末最強の佐賀鍋島藩は、むしろ国内の殺し合いをしないために努力していたので、最後の最後あたりまで佐幕でした。

今の我々民主主義社会と違って身分制社会である上に、権力者は血縁関係者であって、選挙で選ばれるということは皆無です。しかも、その上には天皇がいらっしゃいます。権力を握ろうにも高貴な武家に生まれついていないならそもそも即アウトです。だからといって権力者が常に権力を自由に使えるという訳にはいきません。そこで、諜報活動を盛んにして、様々な人達への根回しを十分に行い、権力を行使しやすくしておく場を予め作っておくことが必要となる訳です。

だからこそ、あまねく権力を行使するには異なる身分や立場、思想をも超えて、有能で話せる人間とのつながりが意味を持ってくるのです。

既存のイメージとは随分かけ離れていますが、若かりし頃の西郷さんはそのような諜報活動のエキスパートでした。

さあ、大河ドラマでも奄美大島編が終了して、薩摩へと戻ってきそうです。そして、いよいよ動乱の世の幕開けです。

では、次回もお楽しみに―!

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-
西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-
西郷隆盛 (3)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 2-
西郷隆盛 (4)-かる~く、グラバーとは -

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