CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

1:大浦天主堂 2

大浦天主堂を物語る上で最も大切な人物は、やはりプティジャン神父です。
今回は彼にスポットを当てていきます。

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ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)

フランス出身のカトリック宣教師で、日本では1859年にパリ外国宣教会会員となり、長崎には1863年にやってきた。
以来、その半生を日本の布教に捧げた長崎偉人の一人である。

琉球で日本語とその文化を学んだ彼は、1862年(文久2年)横浜に上陸する。翌年、長崎の大浦居留地に住むフランス人の司牧を目的としてやってきたのである。この「司牧」とは、ローマ・カトリック教会や聖公会で、司祭が教会を管理し信徒を指導することである。プティジャンは安政の五カ国条約の一環の「日仏通商条約」基づき、日本二十六聖人の殉教地である西坂見ることができる丘の上に、居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得たのである。
こうして創建されたのが大浦天主堂であった。

この大浦天主堂の献堂である2月19日より1か月と満たないある日。
宗教史上の奇跡と呼ばれた「信徒発見」が起こるのである。

1865年3月17日(旧暦2月20日)の昼下がり、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず困っていた。そんな様子を見たプティジャン神父が扉を開いて教会の中に招き入れると、彼らは内部を不思議そうに見て回っていた。そして、プティジャンが祭壇の前で祈っていた時、杉本ゆりと名乗る女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのである。

イザベリナ杉本ゆり
イザベリナ杉本ゆり 片岡弥吉「長崎のキリシタン」巻頭写真によるもの
当時53歳だったと言われている。
引用:聖女に出会った少女、ベルナデッタの歌HP

浦上から来た彼らこそ禁教以来約250年もの長い間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた、いわゆる「隠れキリシタン」といわれる人々であった。この歴史的瞬間に立ち会ったのがプティジャン神父だった。

翌日、プティジャン神父はこの信徒発見を知らせる手紙を、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父宛に書いた。そこにはこう書かれてあった。

昨日の12時半ごろ、男女子供を合わせた12-15名の一団が天主堂の門にいました。私が至聖所で少しだけ祈ったあと、40歳ないし50歳くらいの夫人が胸に手をあてて申しました。「ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では、ほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております」。
それからこの夫人は私に聞きました。「サンタ・マリアの御像はどこ?」
私は聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。
「そうだ、本当にサンタ・マリア様だ!ごらんなさい、御子イエス様を御腕に抱いていらっしゃる」

信徒発見の手紙「プティジャン司教書簡集」
引用:大浦天主堂物語 P22 信徒発見の手紙 「プティジャン司教書簡集」
囲みの部分には「santa maria gozo wa doko : サンタ マリア ゴゾウハドコ」とローマ字で書かれているのがわかる。
この手紙は、プティジャン神父から、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父に宛てて信徒発見を喜び、報告するものであるが、直筆ではない。ジラール没後にイエズス会の幼き修道女:スール・エリアが原本から書き写したものである。
だが内容的には、1865年3月18日付けというから、翌日まさに興奮冷めやらぬ思いでプティジャン神父が書いた手紙だと言える。

この「信徒発見」に関して言えば、実はプティジャン神父にはある思惑があったとされている。

創建した大浦天主堂は日本人にとっては当時珍しい洋風建築だったので、すぐに評判になった。近所の日本人は「ふらんす寺」、あるいは「南蛮寺」と呼んで見物に訪れた。プティジャン神父はこうして訪れる日本人たちにも教会を開放し、自由に見学することを許していた。

それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないか?というわずかながらの期待からの行動なのであった。

・・・だが、この「信徒発見」の喜びも束の間、皮肉にも後の「浦上四番崩れ」というキリシタン迫害へと歴史はつながっていくのである。その話は、「3:浦上天主堂」の回で詳細に伝えようと思う。

プティジャン神父は1868(明治元)年には日本代牧区司教に任命され、1873(明治六)年にキリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点として、キリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などにも力を注ぎ、1884(明治十七)年、この大浦の地で死去され、大浦天主堂内に亡骸が埋葬された。

信徒発見碑3

信徒発見碑文3

信徒発見碑文

マリア様後ろから
西坂の丘を望むマリア様のお姿はどことなく悲しげです。




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