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西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く 1-

薩長同盟を「正しく」理解しよう、ペガサスファンタジーを打ち砕く~、流星拳でーって、逆か(笑)何が逆なのかは、いつもの昭和の教養です。

て、ことで今シリーズは龍馬ファンを落胆させるかもしれませんが、事実なので仕方ありません・・・。

そももそ、明治時代では「坂本龍馬、誰それ?」 でしたが、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく(※『龍』でなく、『竜』であるのがポイントです ま、それは追って)」が「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載され、高校時代にこの本を読んだ武田鉄也さんなど、大変感化されて「海援隊」という意図が分かりやすい名のバンドまで作っていらっしゃいます。

ボクも高校生の時、海援隊の長崎公会堂のライヴに、武田鉄也を大好きなウチのおばに連れられて行ったことあります。あの時は海援隊でなく、ソロコンサートだったかな…。ステージに譜面台を置いて、歌詞を見ながら歌っている姿に驚きました。「え~っ!! あんた、コンサートなのに歌詞覚えてないのか?」(゚Д゚) ポカーンって。

坂本龍馬は、今でも中学校や高校でも教科書に薩長同盟の仲介をした、と必ず出てきます。
手元にある日本史B用語集(山川出版社)の薩長同盟を(例によって、これではさっぱり真意が伝わりませんが)書いておきましょう。

薩長連合(同盟)
第二次長州征討に当たり、結ばれた薩摩・長州両藩の同盟。1866年京都で坂本・中岡らの斡旋により、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛・長州の木戸孝允が会盟、相互援助を約し、討幕の主力を形成した。薩長盟約ともいう。

・・・・ま、いいわ。ではそもそも「同盟」とは何でしょうか?

どう‐めい【同盟】
[名](スル)個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束すること。また、それによって成立した関係。「同盟を結ぶ」「同盟してストライキを打つ」
<デジタル大辞泉>


ハイ、ここで問題です。

Q.1866年に結ばれた薩長同盟において、薩摩と長州は互いの共通の目的を達成するために、各々どのような行動をとることを約束したのでしょうか

・・・と、答える前に、一口に同盟といっても、そこにはいくつか種類があることを知っておきましょう、例えば、

1:今の日米同盟のように、日本国とアメリカ合衆国という国民の総意に基づいてなされているもの。※上記辞書の定義では「国家」となっています。

2:18世紀のヨーロッパなどでよくあった、王様同士で約束するというもの。※上記辞書の定義では「個人」となっています。ちょい重めの口約束みたいなもんです。

3:内容が「秘密」なのか「公然」なのかというもの

薩長同盟の場合、慶應二(1866)年一月。京都の薩摩藩小松帯刀(たてわき)邸にて、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允(たかよし)によってこの盟約が交わされ、証書の裏書を坂本龍馬が行っているものが今でも伝わっていますが、この時点では上記のうち2であり、3で言えば「秘密」に該当します。各藩の人たちは知りません

ここから更に時間が約二年経過し、翌年の慶應三(1867)年十二月になってようやく薩摩の島津久光と長州の毛利広封(ひろあつ)が公式に会見しますので、これで3はようやく「公然」となります。

そもそもなぜ薩長同盟なのか? 言い出したら長くなるので相当端折るのをご理解いただきたいのですが、薩摩と長州は血で血を洗う苛烈な戦いをこの前にやってますから、この当時の両藩は相当な犬猿の仲ぶりです。

まず、ここに至る流れを簡単におさらいしておきましょう。

単純化すれば、この時は幕府方諸藩と薩摩に対し、長州という構図であると思って下さい



1:1863年6月、幕府方:京都守護職の松平容保(かたもり)が「新選組」を使って長州の志士たちの隠れ家「池田屋」を襲撃する。「池田屋事件」
池田屋事件
池田屋の有名な階段のシーン


2この報復で7月に長州は京都へ出兵すると、一橋慶喜によって体よく取り込まれていた会津と桑名の兵がこれを迎撃する。「禁門の変(蛤御門の変)」
禁門の変
禁門の変 図
左が幕府軍で、右が長州軍


3これらの情報を探っていた薩摩の西郷隆盛らも初陣を果たし、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)は狙撃されて、大将を失った長州は混乱。多くの戦死者を出して敗退。町は一面火の海と化す。
久坂玄瑞
久坂玄瑞
■天保十一(1840)年五月~元治元年七月十九日(1864年8月20日 満24歳で没)
■生地:長門国 萩


4:援軍で活躍した薩摩&西郷隆盛の存在感が増す。


5:この「禁門の変」で逆賊認定された長州へ追い打ちをかける「第一次長州討伐」が決定

6:揉めに揉めた長州への討伐軍の総大将がやっと尾張藩の徳川慶勝(よしかつ)に決定し、その大参謀に西郷隆盛が就く
徳川慶勝
徳川慶勝
■文政七年三月十五日(1824年4月14日)~明治十六年(1883年)八月一日
■尾張藩14代藩主


7:9月に幕府の軍艦奉行:勝海舟が西郷隆盛の許をふらりと訪れ、幕閣のくせに幕府がこんな戦争するのが今の日本にとって不利益だということを諭し、長州討伐の強硬派だった西郷隆盛は考えを改める契機となった
勝海舟
勝海舟
■文政六年一月三十日(1823年3月12日)~明治三十二年(1899年)一月十九日
■異国応接掛附蘭書翻訳御用、 海軍伝習重立取扱、講武所砲術師範役、 天守番頭過人、蕃書調所頭取助、 天守番頭格、 二の丸留守居格軍艦操練所頭取、軍艦奉行並、海軍伝習掛、海軍奉行並、陸軍総裁、軍事取扱を歴任。


8:長州に寛大な措置を下し、西郷は吉井友美(のち、友達なのに西郷の名前を間違った人 ※「西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-」参照)と税所篤(さいしょあつし)だけを連れてほぼ単身で、血の雨を降らせた敵の長州へ入る((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル



9:西郷が説得中に、長州内でも改革派の正義派と、西郷に融和したい俗論派がどうするかで更なる内ゲバを起こす。



10正義派の高杉晋作がたった一人で決起し、夜半に伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて合流し、俗論派を追い出す。「功山寺決起」
高杉晋作 功山寺決起像
高杉晋作 功山寺決起 像
■天保十年八月二十日(1839年9月27日)~慶応三年四月十四日(1867年5月17日 満27歳没)
■生地:長門国 萩
ちなみに、「正義派」と「俗論派」は、正義派の高杉晋作が名づけたもの。


11:一橋慶喜の地元水戸で尊皇攘夷を求めた「天狗党の乱」が発生し、慶喜を慕って蜂起して敗れ、降伏してきた者まで斬首するという慶喜のやり方に、薩摩の西郷隆盛と大久保利通は嫌悪感を抱くようになる
一橋慶喜
この頃の一橋慶喜
■天保八年九月二十九日(1837年10月28日)~大正二年(1913年)十一月二十二日
■第十五代征夷大将軍:徳川慶喜
■在任:慶応二(1866)年十二月五日~慶応三(1867)年十二月九日


12:7で勝海舟が言っていたように、アヘン戦争以降、他国からの侵略の脅威が増す中で、今日本がなすべきことは長州との国内問題ではなく、いずれ将軍の座に就いて権力を握ろうとしている卑劣な一橋慶喜を排除することだと考えるようになる

つまり、本来日本の利益のためには薩摩と長州は手を取り合うべきなのではないか、と。


・・・あれほど犬猿の仲であった薩摩と長州が同盟へと至る基礎知識です。

一橋慶喜への不信&日本の将来への明確な意思とビジョン。これが西郷や大久保らが抱いた同盟への根本理由です

そして、ここから日本を大きく変えた、そして誰もが想像さえ出来なかった(正しくは、想定していた人間はちゃんといますが…)薩摩と長州の同盟へと怒涛の展開が待っているのです

あとは、そのやり方です。

さて、みなさんはこの上記1~12までの項目で、この時、日本の未来を決定づけたものとして、どれを選択しますか?

ボクはためらうことなく、10です。高杉晋作の決起こそ、日本の歴史の転換点だと思っています。ただし、これら一連の流れの中には西郷隆盛の緻密な工作活動が随所に含まれていることも知っておいてください。

次回は、いわゆる「薩長同盟」の内容と、後世で誤解の元となっていることについて書きます。
あ、上で書いてる質問にも「忘れずに」答えます(; ・`д・´)

お楽しみに~!

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

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