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鍋島直正(2) -誕生-

今回より、鍋島直正公の具体的な足跡を追っていきます。ボクがこれほどまで直正公のことを尊敬する理由を、存分に分かっていただけたらイイなと思っています。
出来るだけ分かりやすい表現で、ここから学び取れることをこの大事な伝記を書き進めて行きますので、ヨロシクお付き合いください!

文化十一(1814)年十二月七日、斉直の子として江戸の桜田屋敷で誕生しました。
山下御門之内 歌川広重
佐賀藩鍋島家上屋敷「山下御門之内」 歌川広重筆

幼名は、貞丸(さだまる)から、文政二年には直謀(なおかず)、同五年に直正、文政十年には第十一代将軍の徳川家斉の「斉」を拝領し、斉正(なりまさ)と称しました。文久元(1861)年に隠居して閑叟(かんそう)となり、明治元年三月十四日には再び直正に戻りました。いやぁ~すごい変遷ですよね?:(;゙゚'ω゚'):

直正が誕生した年である1814年は、ヨーロッパでちょうど皇帝ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島へ流される前年です。

そして、直正が第十代藩主になったのが1830年のことで、まだ17歳でした。佐賀入国のために江戸の佐賀藩邸を出立し、江戸品川宿で休憩をしていましたが、直正は食事中にも関わらず、藩主となる佐賀の実情を表した資料を読んでいたと言います。

というのも、これから藩主となる佐賀藩は超財政難に苦しんでいたからです。確かにこの時期は全国的に財政が苦しくなっていたのですが、佐賀藩は中でも大坂(おおざか)の商人らなどへ莫大な借金を抱えていました。具体的には、1807年の時点で、大坂への負債額が銀千貫と米筈(こめはず:藩札の一種)八千石であったのが、七年後の負債額は銀三万一千貫、米筈三十万石となり、実に三十倍以上に増加しました。

また不運なことに、1828年には台風の被害によって、米がとれずに更に経済が逼迫(ひっぱく)していました。

ちなみに、銀の価値は江戸時代も時期によって変動しますので正確には言えないのですが、銀1貫は現代で約1,250,000円ほどです。したがって、直正公が生まれた頃の負債額は、銀三万一千貫なので、387億5千万円。加えて、一石がおよそ今の10万円ほどでしたから、300億円。これらを足すと、687億5千万円の借金(※額にはレートが絡みますので諸説あります)、ということになってしまいます。これに台風の被害が加わったのです。

こうした状況を詳細に把握し、若い直正公は一刻も早く良い国づくりに励まねばならないと考えていたのでした。

ただ、佐賀へ出立前の品川宿での家臣らの様子がおかしいのです。

夕刻になってもまるで佐賀へ向けて宿を出る気配がありません・・・

さすがに隠せなかった家臣が直正公に告げたことに、江戸藩邸には借金返済を迫る商人たちが押しかけており、佐賀へ随行予定だった藩士たちが外へ出られなくなっている、というのです。これは売掛金を支払っていない家臣たちが引き止められているからという理由でしたが、逼迫(ひっぱぅ)した財政下にある状況では金がなく、家臣たちに支給する分もなかったのです。なかなかこの取り立て騒動は収まらなかったものの、夜になってようやく収まったので、直正公の出立は夜に入ってからという、大変屈辱的な出だしとなってしまいました。

直正公の胸には、自分の予想を超えた財政難を抱える佐賀藩の実態を目の当たりにした、この日の出来事が深く刻まれたのです。

直正公は佐賀へ到着するとすぐ、「長崎警備」の実情を知るために出発します。天領である長崎では、幕府から「長崎警備」という役を佐賀藩と福岡藩が一年おきに任せられており、日本で唯一の国際港であって、西洋のオランダ船が行き来する港が長崎だったので、大変重要な役目でした。そして、この長崎訪問も、直正公にとっては一大転機となりました。長崎港へ投錨中のオランダ商船を初めて見て衝撃を受けるのです。

直正公には、自分が生まれる前に起こった出来事として聞かされていた、フェートン号事件(1808年)のことが頭をよぎったと言います。
フェートン号
イギリス船:フェートン号

この事件はイギリスによる、初の日本への侵略と言っても良いでしょう。オランダ船に扮したフェートン号が長崎港へ不法に侵入し、勘違いしたオランダ商館員二名を拉致し、解放と引き換えに薪(まき)と水と食料を強奪して立ち去った出来事でした。この事件の際に、長崎警備の役を担っていたのが佐賀藩だったのですが、直正公の父の斉直(なりなお)公は幕府より逼塞(ひっそく:城門を閉ざし、昼間の出入りを禁じられた)の重い処分を受け、長崎奉行の松平康英(やすひで)図書頭(ずしょのかみ)は責任をとって自ら切腹しました。
康平社 諏訪神社境内
康平社 諏訪神社境内

佐賀藩はただでさえ財政難を抱えていたので、平和なのに金がかかる長崎警備の人数を大幅に減らしていたという不運も重なったのです。佐賀藩は当然のごとく、また警備費を大量に投下しなければならなくなりました。これも佐賀藩の財政悪化の一因となったものです。

余談ですが、このフェートン号事件後、イギリスの研究が始まりますが、言語の理解がそこには必要です。これで、日本で初めての英和辞典が作られました。その辞書は、当時の阿蘭陀通詞であった本木正栄(まさひで)が、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ、ヤン・コック・ブロンホフらの協力によって完成しました。その辞書の名を「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」と言います。1814年に完成したので、ちょうど直正公が生まれた年です。こうして、英語教育は長崎から始まったのです。
諳厄利亜語林大成 dejima
諳厄利亜語林大成  出島展示 複製本

ドゥーフやブロンホフら、オランダの話はまた違った所で詳しく書きます!

さて、オランダ船を初めて直正公ですが、当時の日本の船と比較してオランダ船の大きさとテクノロジーに魅了されます。あろうことか、家臣が止めることも聞かずに、直正公自らオランダ船に乗り込みたいと言うのです。直接見聞することの大事さを直正公は理解していました。初めて間近に見た大砲と日本の防衛のために置かれた大砲との差が歴然としていたことにゾッとし、この時フェートン号事件のことが頭をよぎったのです。

つまりは、初めて西洋のテクノロジーを目の当たりにし、比較して、改めて日本の国家防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを知ったということです。

家康公以来200年もの間、海に囲まれた日本は偶然にもほぼ軍事侵攻を受けることなく、平和を享受(きょうじゅ)していました。だからある意味長崎警備も手薄で良かったし、オランダから世界の情報が入って来ていたので心配していませんでした。この情報を阿蘭陀通詞が翻訳して、まとめたものを「阿蘭陀風説書(おらんだふうせつがき)」と言い、必ず幕府に提出されていました。
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵

しかし、西洋の航海技術の進歩と後の蒸気船の実用化によって、そして、世界は白人たちによる植民地獲得争奪戦、帝国主義時代へと傾いていく危険な流れに対して、日本は一気に弱小さを露呈したのです。

この長崎視察によって、直正公は佐賀藩の財政難克服と同時に、自らがなすべきことを確信しました。それが、オランダから先端テクノロジーを導入して発展させることで、長崎警備のみならず、ひしひしと迫りくる西洋列強へ対抗できる力と知恵をつけることでした。

ここから直正公の偉大な歴史が幕を開けるのです。

「学ぶ」、というのはどういうことか?

次回もお楽しみにー!



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■鍋島直正(1

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