CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

2:中町教会

今回は長崎駅のすぐ近く、「中町教会」です。副理事長祐さん&鶴ちゃんと一緒に先日訪れてみましたが、筆者とは幼い頃からの縁のある教会です。
まずは、インプレッションから。

改めて見ると、
あれ、こんなに大きかったっけ? と思うほど天井が高く、解放感があります。キリスト教建築は「天」へいざなうようこのような様式になっている所が多く、信者が中へ一歩印すと、そこから既に心理的に解放感を得られる作用が働くように配慮されているんだなぁと、つくづく感じます。

内部2Fより
<教会内部2Fから>

外観は高い尖塔を持つゴシック様式です。
尖塔
<教会南側尖塔>この日は雲一つない冬空の碧さと教会のコントラストが良かったです。

西側
<教会西側入口>

また、聖堂内部は「主の誕生」から「聖母の戴冠」までのストーリーとして、イエス様とマリア様に関連する、1982年ミラノ・グラッシ作の10種のステンドグラスが壁面に表現されています。
内部東側壁面ステンドグラス
10種の詳細は、中町教会公式ページ:聖堂内のステンドグラスよりドウゾ。
西からの陽光が射して、柱にステンドグラスの色彩が映っている姿がイイ感じでした。

中町教会の歴史
< DATA >
■ 明治二十二(1889年) 教会設立を開始。 創立者:島内要助神父
■ 明治二十四(1891年8月) 教会建設着工。
■ 明治三十(1897年9月8日) 献堂式を挙行。
■ 昭和二十(1945年8月9日11:02)アメリカによる 原爆投下。教会は外壁と尖塔を残して焼失。
■ 昭和二十六(1951年10月) 教会再建。

元々ここはキリシタン大名:大村純忠(※日本ではなかった!?「小ローマ」:異国の長崎 参照)の大村藩蔵屋敷があった所で、あの26聖人殉教の歴史をもつこの地に、島内神父が日本人のための教会を建てようと志し、苦労の末、明治22(1889)年の暮に教会設立の仕事に取りかかったとされています。1889年といえば、大日本帝国憲法が創られた年ですね。

大村藩蔵屋敷跡2
<大村藩蔵屋敷跡>

中町教会は、フランスのパピノー神父の設計で、明治二十四(1891)年8月より建設に着手され、三十(1897)年9月8日聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行されました。この教会建設にあたっては、フランスのある婦人の当時の金額で8万フランにものぼる寄付や、多数の恩人の協力があった、という記述が紹介されています。ここでも、大浦天主堂(※「1:大浦天主堂」 参照)と同じくフランスの人たちが大きく関わっています。長崎といえば、オランダ、という印象が強いですが、こと、キリスト教の歴史においてはフランスの影響が大変強いことがわかります。

しかし、この教会も昭和二十(1945年)8月9日午前11時02分、アメリカによる原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失しました。しかし、昭和二十六(1951)年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。
そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けています。(教会の門の側に銘版が設置されています↓)
米国戦略爆撃調査団撮影プレート
<米国戦略爆撃調査団撮影画像のあるプレート>

また、「26聖人殉教者」がバチカンで1862年に列福(れっぷく)されて以来、実に125年ぶりの1987年10月18日、バチカンの聖ペトロ大聖堂前で、長崎にも訪問されたことのある時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって、トマス西と15瀬殉教者たちが荘厳に列聖(れっせい)されました。
彼らの内訳は次の通り。

<日本人>
1:聖トマス西(司祭) 平戸 1643年11月17日殉教 
2:聖ヤコボ朝長(司祭) 杭出津 1633年8月17日殉教
3:聖ビセンテ塩原(司祭) 長崎 1637年9月29日殉教
4:聖マテオ小兵衛(修道士) 1633年10月19日殉教
5:聖フランシスコ正右衛門(修道士) 1633年8月14日殉教
6:長崎の聖マグダレナ(修道女) 長崎 1634年10月15日殉教 
7:大村の聖マリナ(修道女) 肥前大村 1634年11月11日殉教 
8:聖ミゲル九郎兵衛(信徒) 1633年8月17日殉教
9:京都の聖ラザロ(信徒) 京都 1637年9月29日殉教


<異国人>
11:聖ロレンソ・ルイス(信徒) フィリピン・ビノンド島 1637年9月29日殉教
12:聖ドミンゴ・エルキシア(神父) スペイン 1633年8月14日殉教
13:聖ルカ・スピリト・サント(司祭) スペイン 1633年10月19日殉教
14:聖メゲル・アオザラザ(司祭) スペイン 1637年9月29日殉教
15:聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭) イタリア 1634年11月17日殉教
16:聖ギョーム・クルテ(司祭) フランス 1637年9月29日殉教


16聖人-1
16聖人-2

彼らはキリシタン弾圧が激しかった17世紀初期(1633~1637年)に長崎で殉教しました。彼らは激しい迫害に耐えながらも、信仰のために強い信念をもって命をかけた人たちです。


教会のリーフレットによれば、キリスト教では「殉教者の血は信者の種」 と言うそうです。つまり、日本のカトリック教会は、日本26聖人殉教者・日本205福者殉教者・聖トマス西と15殉教者らによって、その存在の証となしているというのです。

こうした世界史と日本史上、苛烈なキリシタン迫害があったから、その存在意義と信仰が強化されていったという事実の因果関係を考察すると、人間とはなんて皮肉な存在なのかという思いに駆られます。誰もが心の安寧や自由を求めているはずなのに、この歴史で証明された事実として、それを達成するためには「迫害」が必要であるという結論に帰着するからです。

確かに、「十字軍」などの、むしろキリスト教徒による暴虐などの側面も忘れてはならないことです。しかし、この根本的な人間存在の矛盾こそが現代における大小様々な諍(いさかい)いごとを、特定のバイアスなしに理解しうる「核」となるものだと思います。
長崎の教会訪問によって、いきなりこのような大きな命題に直面して自分なりにもちょい驚きですが、これまであまり考えてこなかった「信仰」とは何なのか?ということに関して深く考察する必要があるようです。何も、この近世におけるキリスト教信仰だけではなく、人類は数万年前の原初から人々を埋葬したり、死者のために花を捧げたりという何らかの信仰を基盤にしているという事実があるからです。

最後に、中町教会にあるイエス様像について触れておきます。
聖堂内部にあるこのイエス様の像は平成十六(2004)年に奉献されたまだ新しい像です。その由来は、フウランシスコ・ザビエルにあります。
内部イエス像
<聖堂内部にあるイエス様像>

この像は、スペイン・バスク地方にあるザビエル城にもともと安置されている「ほほえみの十字架」と言われている像を元に制作されたそうです。

スペインバスク地方ザビエル城イエス像
<スペインバスク地方ザビエル城イエス像:ほほえみの十字架>
「ドイツ再発見」より

フランシスコ・ザビエルについては、カテゴリーを新たに作って必ず特記しなければならない、我々日本人にとってきわめて重要な人物です。
いずれこのブログにて書きます。

中町教会入口壁
中町教会公式ページ




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