CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1

久々大量の本を読めた日曜でした。で、さっぱり眠れないのでこの時間に(;・∀・)
どーせ眠れないから、記事を追加しておこう、ということで今回より、

「三菱がくしゃみすれば、長崎は風邪をひく」 とまで言われた(※正しくは、ウチのばあちゃんが言ってました^_^;)、NEW カテゴリーの三菱関連といきましょう!

長崎では2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」として以下の8つの構成資産が難産の末、世界遺産に登録されました。

1:小菅修船場跡
2:三菱長崎造船所第三船渠
3:三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン
4:三菱長崎造船所旧木型場
5:三菱長崎造船所占勝閣
6:高島炭鉱
7:端島炭鉱
8:旧グラバー住宅

ボクが直接関連しているのは、かつての大学院の研究で8、今の軍艦島ツアーガイドの仕事で7と6、となります。

これを見ると、ほとんどが三菱造船所と関連していることがわかります。
と、いうか、実態は全てが三菱との関連です。だから、これらはバラバラに存在しているのではなくて、明治の日本が近代化していく上で必要となった、現代に連なるコンプレクスなのです。そこで、

一体、三菱って何? という、疑問がわきますよね?

このカテゴリーである「三菱関連」の初めとして今回より、その創始者:岩崎弥太郎からスポットを当てます。彼の出自などはWiki など、ネットにも数多く書かれてあるので割愛し、まずはやはり坂本龍馬との出会いから始めたいと思います。


岩崎弥太郎といえば、恰幅の良い下の写真が最も有名であろう。

岩崎弥太郎
天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年2月7日)(51歳で病没)

この岩崎弥太郎が三菱の初代総帥となって、今に至る三菱グループの基礎を作ったわけである。
土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮 に生まれた。

ところで、土佐といえば、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気で、この時代は坂本龍馬を想起する人が多いだろうが、他にも明治日本の主役級の人材を輩出した地である。

この「龍馬伝」では坂本龍馬とは幼馴染の関係として描かれており、弥太郎は心理学で言うトリックスター的な役であったが、実際には土佐でこの二人が出会っていたということはないようである。

土佐藩の長崎での経済活動の拠点となったのが、「長崎土佐商会」(※正式名称:土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)である。弥太郎は土佐藩士:後藤象二郎に次ぐ二代目の主任として、ここでらつ腕を振ったと言われている。

土佐商会あと


坂本龍馬との出会いはこの長崎であり、それも大政奉還の年(1867年)だった。この年、弥太郎は再度の来崎であり、土佐藩のために金策に走り、蒸気船や武器弾薬を買い付ける仕事を行っていた。そして、後藤象二郎の仲介で、海援隊の給金のことで坂本龍馬が金の計算が得意な岩崎弥太郎の許へやって来たことが始まりだった。その内容は坂本龍馬ら海援隊の給金のことであった。
具体的には、亀山社中の時には隊士一人につき、月に土佐藩から3両2分もらっていたが、5両にすべしと弥太郎が申し出ることで折り合いをつけた。加えて彼らの脱藩赦免も申し出ることとなった。

しかし、後に海援隊隊士:長岡兼吉がやってきて、総額100両では足りないと言うのである。龍馬の分が入っていなかったからであった。弥太郎としては、龍馬らは丸山で毎晩遊び呆けているが、薩摩と長州に顔が利く龍馬に強く当たれない。そこで、弥太郎の裁量でしぶしぶ+50両を用意する。

その後すぐ、龍馬は弥太郎の所を訪れた。
「海援隊約規」を見せるためであった。それは今で言う「社則」のようなものである。後にも重要なので以下に示しておこう。

<海援隊約規> 

一. 凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及 佗藩ヲ脱スル者 海外ノ志アル者此隊ニ入ル 運輸、射利、開柘、投機 本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス 今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之 
二. 凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス 敢テ或ハ違背スル勿レ 若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ 隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス
三. 凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ 義気相責メ条理相糺シ 若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ 若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス 是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ 
四. 凡隊中修業分課ハ 政法、火技、航海、汽機 語学等の如キ其志ニ随テ執之 互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ 
五. 凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル

亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ 若挙事用度不足、或ハ学科欠乏を致ストキハ 隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ 右五則 右五則ノ海援隊約規 交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス 豈樊中ノ物ナランヤ 今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン 亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ 皇慶応三丁卯四月

これを現代語訳してみる。

一. およそ、かつて本藩(※土佐藩)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志ある者は皆この隊に入る資格がある。運輸、営利活動、開拓、投機、本藩の応援をもって主業務とする。今後、異論がないなら方針に叶う業務はこれに加わる。 
二. およそ隊中のことの一切は隊長の処分に任せる。隊員は、隊長の指示方針などに違背してはならない。もし暴乱や違反行為、隊に対する迷惑行為などがあれば、隊長がその死活を制することを許す。 
三. 隊中にあっては、互いの困難を助け合い、守り合い、互いの気分が緩んでいるときには責め合い、道理や筋道の通らないことは正し合い、独断で過激な行為に走るのを制し合うこと。仲間の邪魔をしたり、集団で他人の行為の邪魔をしたりするなどの行為は最も慎むべき事で決してこれを犯してはならない。
四. 隊中の修業分課は 政法、火技、航海、汽機、語学等で、その志に従ってこれを学ぶ。互いに勉励し、怠ってはならない。
五. 隊中の活動は独立採算とする。

活動に必要な経費などは、隊の活動で得た利益で賄うこと。収益は互いに分配し、私腹を肥やしてはならない。万一、資金が足りず、修業に支障が出るような場合には、隊長が建議し、出崎官役(※後藤象二郎)の支給を待つように。右五則、以上五則の海援隊の約規は実に簡素なものである。事細かな規則など必要ない。我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所にまかす、鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸をも合わせて「翔天隊」と言おう。この理想と精神を忘れてはならない。 
皇慶応三丁卯四月


海援隊約規
「海援隊約規」

この第1条は、身分出自に関係なく海外への志ある者なら誰でも登用するという。しかも、運輸・開拓・投機などを行い、利益を追究する。ただ、これは明らかに金儲けの追究は儒教道徳に侵された当時の日本の武士道に反するものである。しかし、龍馬としては金儲けをして社会のために使うというのが良いことであると言う。弥太郎は銭金を日々扱っているがそのように考えたことがなく、この龍馬の発想が今後の経営への考えに大きく影響を与えられることとなったのである。

以来、弥太郎の日記(「岩崎弥太郎日記」)には、しばしば龍馬が登場している。例えば、6月3日、共に酒を酌み交わし、その心中を打ち分ける。そして刀が時代遅れとなり、銃を売る連中が暴利をむさぼる時代となることを龍馬は弥太郎に語った。つまり、西洋から日本が市場化されてしまうことの懸念である。だから、日本が外国との対等の貿易が出来るように、国を富ませ、自らが先駆けとなって七つの海を駆け巡り、大きな仕事をすると言うのである。
また、同日記に「天気快。午後坂本龍馬来たりて酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」というように、弥太郎が龍馬と意気投合していく様子が目に浮かぶようである。

このような話を聞いて、自己の出世ばかりを考えて行動していた弥太郎は龍馬のスケールの大きさに感激した。出世のために学問に励み、武士が嫌う金のことも頑張ったにもかかわらず、このような話に大いに心を動かされた。
しかし、その自分の才能が土佐の宝であるとまで龍馬に言われた弥太郎は、龍馬の「一緒に世界の海に繰り出そう」という提案に、世界の海援隊を夢見るのである。「世界の海援隊」、この構想こそが、後の「三菱」へとつながっていくのであった。

慶應三(1867)年6月、龍馬は大政奉還のために長崎を土佐藩船「夕顔」に乗って、後藤象二郎と共に京都へ旅立つ。出会ってわずか3カ月足らずなのに、この龍馬の存在が弥太郎の胸には深く刻み込まれた。

そして、この日の日記には「余不覚にも数行の涙を流す」と記されてある(「岩崎弥太郎日記」)。

つづきます。たぶん次回は「船中八策」から!!




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