CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

日本ではなかった!? 「小ローマ」:異国の長崎

長崎の開港は元亀(げんき)二(1571)年。

日本を離れて、何と勝手に異国の地となってしまった長崎について。世界が知る貿易港として開かれるまでの、その数奇な運命をたどった歴史的経緯を、キリシタンとの関わりと共に軽~くたどってみましょう!


ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」参照のこと)、天文十九(1550)年に長崎で初めてポルトガル船のために貿易港として開かれたのが「平戸」であった。阿蘭陀はまだまだ主役ではない。

そして、あのイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京へ上る途上、1550年8月に訪れたのがここ平戸である。

しかし、松浦(まつら)氏の領土であったこの平戸で、14名のポルトガル人殺傷事件が発生する。これを永禄四(1561)年の「宮ノ前事件」という。この事件以来、ポルトガル人は新しい港を探していたのであった。

翌年、当時長崎の有力な支配者となっていた大村純忠(おおむらすみただ)は、この事件を知ったのち、ポルトガル人に大村領であった横瀬浦(西海市)の提供を申し出て、今度はこの横瀬浦がポルトガル貿易港へと変貌する。ここには、ポルトガルとの貿易に際し、イエズス会宣教師はポルトガル人に対して大きな影響力を持っていたから、というのが純忠の思惑であったとされている。

また、イエズス会士には住居の提供なども行い、教会も建設。純忠の思惑通り、大村領横瀬浦は貿易港として大変賑わった。この横瀬浦では、貿易目的の商人に10年間税金を免除する等の優遇措置をとっている。ただし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊したり、先祖の墓所も打ち壊したりした。横瀬浦の領民にもキリスト教の信仰を強いて、仏教の僧侶や神道の神官を殺害し、改宗しない領民が殺害され、土地を追われるなどの事件も相次いだことから、次第に家臣や領民の反発を招くことになっていく。こうした純忠に恨みを持つ後藤貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し、クーデタを起こして横瀬浦を焼き払ったのである。これが永禄六(1563)年に起きた、純忠暗殺未遂事件である。

このクーデタは失敗に終わったものの、横瀬浦は廃港になってしまう。そこで、同年ポルトガル船は、純忠の重臣:福田兼次(ふくだかねつぐ 洗礼名は「ジョーチン」)の支配地・長崎の福田浦に入港するようになるが、地形上あまり良好とは言えなかったので、新たな貿易港として浮上してきたのが「長崎港」だったのである。

こうして、長崎港は元亀二(1571)年に大村純忠の慎重な決断を経て、ポルトガルとの貿易港として開港した。
(※この開港に伴う町の建設などは、いつか詳細に触れる機会が訪れると思うので、今回は割愛しますm(__)m)


・・・ここで話は少し時間をさかのぼり、横瀬浦の1563年へ。

純忠自身も横瀬浦の教会でコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、「ドン・バルトロメウ」という洗礼名も授かっていた。同時に、大村氏に属していた長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)ら25名も洗礼を受けたという。

ちなみに、この長崎甚左衛門が、永禄十(1567)年に長崎へやって来た日本最初の南蛮外科医でありホスピタルの創始者であるルイス・デ・アルメイダに布教を許可。永禄十二(1569)年には、ガスパル・ヴィレラ神父に館の一角を小堂として与え、神父が教会に改築した。これが長崎初の教会で「小さいながらも美しい教会」と言われた「トードス・オス・サントス教会」である。

ルイス・アルメイダ布教記念碑
「ルイス・デ・アルメイダ布教記念碑」長崎市夫婦川町 現・春徳寺

この当時、長崎には1,500人ものキリシタンがいたと推計されている。このトードス・オス・サントス教会の後、教会の建設が進んでいく。
現在の長崎の市街地にあった主な教会は次の通りで、年代順に列挙すると、

■ 岬の教会(1571年 江戸町)
■ サン・パウロ教会(1581年 江戸町)
■ ミゼリコルディア本部教会(1583年 万才町)
■ サン・ジョアン・バプティスタ教会(1591年 筑後町)
■ 山のサンタ・マリア教会(1594年 立山町)
■ サン・ミゲル教会(1601年 立山町)
■ 被昇天のサンタ・マリア教会(1601年 江戸町)
■ サン・チアゴ教会(1603年 場所不明)
■ サンタ・クララ教会(1603年 大橋町)
■ サン・アントニオ教会(1606年 場所不明)
■ サン・ペトロ教会(1606年 場所不明)
■ サント・ドミンゴ教会(1610年 勝山町)
■ サン・ロレンソ教会(1610年 伊勢町)
■ サン・フランシスコ教会(1611年 桜町)
■ サン・アウグスティン教会(1612年 古川町)

・・・などである。

おおよそ縦横で1.5kmの範囲内に、これほど多くの教会が建設された。
この中で、サン・パウロ教会の跡地に建てられた「被昇天のサンタ・マリア教会」にはイエズス会の本部が置かれた教会であり、1603年には大きな時計がついた櫓(やぐら)も増設され、三つの鐘で人々に時を知らせたという。
マカオに没したイエズス会:ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」には、ユーラシア大陸のリムにあたるこの島国日本において、これほど多くの教会が建設され、街中にチャペルが鳴り響く様子を

さながら「小ローマ」のようだ、と形容している。

そして、この教会建設ラッシュの途上である、天正七(1579)年。キリシタンの洗礼を受けていた大村純忠は、イエズス会にこの長崎と茂木(もぎ)の地を寄進したのである。

巡察師であった、かの有名なヴァリニャーノ神父は純忠のこの申し出を慎重に検討した結果、翌1580年にこの寄進の申し出を承諾し、長崎と茂木の地は日本ではなく、遥か遠い異国の地の領土になった。

更に、天正十二(1584)年、肥前日野江藩初代藩主:有馬義貞の次男のキリシタン大名、有馬晴信(ありまはるのぶ ※大村純忠の甥)は、浦上をイエズス会に寄進した。

イエズス会への茂木・長崎の寄進状
「イエズス会への茂木・長崎の寄進状」

これら寄進の背景には、勢力を拡大する肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の長崎攻撃を回避するという目的と関税収入の確保、また、その後の竜造寺氏との「沖田畷(おきたなわて 島原市)の戦い」で勝利を収めた感謝の印だったという。

しかし、この異国だった長崎も、慶長十九(1614)年の禁教令以降にほとんどの教会が破壊され、日本へと回帰していったのであった・・・。


・・・と、いうことでコレが、長崎が今も変わらず、筋金入りで異国情緒薫る街であるゆえんでした。







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