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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5

前回の続きで、「地政学」を用いて推論を進めていきます。

ところで、この「地政学」とは?

地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもので、やや古い学問であるけど、ボクは現代においても十分に通用する学問であると思っています。コレなくしては近隣諸国の思惑は測れないからで、特に尖閣諸島や南沙諸島など、まさに現代の動向もここで読み取れるんですよ。その話はいずれ・・・として、ココではその軍事と経済的な影響に着目していきます。


まずは、次の古地図を見ておこう。
アジア図 1645年 W. J. Blaew 作
<アジア図 1645年 W. J. Blaew作 日本二十六聖人記念館所蔵 ※特別な許可を得て撮影しました>
これを拡大すると、
アジア図 拡大
青で囲ったところに、「Timaxuma(?)」、赤で囲ったところには「Leqeo grande」とある。

これは1645年の地図であるが、その音と位置関係からして、前者が種子島、後者がレキオ(琉球)であることがわかる。
そして、以下の地図と比較してみる。
黒潮
引用:黒潮圏の考古学

地質時代区分でいうと、もちろん完新世以来絶え間なく流れているのがこの黒潮のルートである。当然、16世紀も同様な流れだったであろう。もともと黒潮は、ドイツの医師・地理学者:ベルンハルドゥス・ヴァレニウス(Bernhardus Varenius/Bernhard Varen 1622~1650年)によって、その著書で初めて記載されたとされている。

しかし、彼が生きた17世紀以前から、この黒潮のルートは経験的に知られていたと思われる。朱印船貿易もその一つである。

<朱印船貿易のアジア寄港地>
「安南」 当時のベトナムの正統な王朝・黎朝を擁立していたハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
「交趾」 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権(広南国)のこと。その主な交易港はホイアン(會安)及びダナンであった。
「占城」 ベトナム人勢力によって、現在のベトナム南部の一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
「暹羅」 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
「柬埔寨」 メコン河流域のウドンを首府とするカンボジア王国である。
「太泥」 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
「呂宋」 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
「高砂」 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった

以上の渡航先はWikiからの引用であるが、これらの寄港地を地図にプロットしていくと、フィリピンのルソン島(呂宋)から台湾の(高砂)を経由した季節風と黒潮ルートが、日本と他国の交易には使用されていた。蒸気船の発明以降でもこの黒潮ルートは有効で、特に台湾海峡から日本へのルートでは現在でも重要なシーレーンの一つである。

豊臣秀吉による「朱印状」の発行が1592年であるとされているが、これは「倭寇」との区別を行うための許可状なのであるから、「倭寇」は既にこのルートを知り尽くして東南アジアへの交易を行っていたはずである。
交易ルートとして確立していたこの黒潮ルートをどう見ても、ポルトガル人らが乗ったジャンク船が嵐に遭遇して漂着した先が、たまたま種子島であったとは考えにくいのである。東南アジア辺りからやって来て、この黒潮ルートならば、長々と種子島まで進まずに、まず近くの琉球のどこかへ到達したはずだからである。

そして、琉球を越えて種子島南端へやって来たのは、この地理的条件上、やはり意図して到達したものではないか?これならば、前回考察した「エスカランテ報告」にある1542年に琉球へ漂着し、翌年またやって来たが清国との事情で上陸出来なかったために引き返そうとした、しかし種子島が戦時中で武器を必要としていたという情報をここ琉球で得た王直が、より利益の出そうな種子島へと交易先を変更した、と考えられないだろうか?

もちろん、やはり種子島まで漂着した、と考えられないこともない。
しかしこの事件を参考にすべく、1600年という、ここから約50年後、ある出来事が起こっている。それがデ・リーフデ号の「漂着」である。

関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、オランダ船:デ・リーフデ号は豊後臼杵(現大分)の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだとされている。太田一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報し、ウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らを拘束、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求した、という。
アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)
<アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)>

私にはこの種子島と類似する事件が、とても波の穏やかな瀬戸内海で起こった、偶然漂着した出来事とは思えないのである。大英図書館にはアダムス自身の手紙に「我々は日本を目指した」と明記されているからである。ここでは趣旨からズレるので詳細を省くが、世界史的な観点からすると、この出来事はイングランドとオランダ、スペイン・ポルトガルの市場拡大に向けた勢力争いの一環であり、後に徳川家康から異国の人としてはあまりに破格すぎる徴用をされることになる、このウイリアム・アダムスもエリザベス1世からの密命を帯びていた可能性もあるからだ。

ちなみに、三浦半島と八重洲といった地名は何とこのイギリスの「三浦按針」からつけられたものである。ここでこの話の詳細を述べるには長すぎることになってしまうので、この辺りで終わるが、ここで言いたいのは、当時の「漂着」といった言葉の位置づけなのである。
ウイリアム・アダムス
<ウイリアム・アダムス(三浦按針像)>

この点は資料がないのでどうしても推論にしかならないのであるが、「漂着」とすることによって、「単に他国から武器を売りにやって来た」とするより、後世に残る歴史の記述においては「たまたま漂着した」とする方が劇的さを帯びることになるので、このデ・リーフデ事件は種子島への鉄砲伝来を踏襲して記述されたのではないか、と思っている。事実、このリーフデ号の事件では、現在もこの出来事が「漂着」か否か、という議論が絶えない。

この種子島への鉄砲伝来も、西洋人による初の出来事であることからしても、デ・リーフデ号と同様に、倭寇の手引きによる商売とするより、「漂着」と記述する方がドラマチックだからではないのだろうか?

また、「倭寇」といえば、その大頭目の「五峯:王直」の話をこれまでずいぶん書いてきた。
「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」と、あった。

最終的な結論としては次のことが言える、
この王直は1540年頃から広東を拠点として、東南アジアと日本を結ぶ密貿易を行っており、この文献の中にある「西洋」の中心港がマラッカなどであって、ここで既にポルトガル人らと接触していた。そして、これまで見てきた資料などからも、交易ルートと1543年の琉球と清国の関係、種子島の軍事的事情などを考慮すると、鉄砲の伝来は漂着という偶発的な出来事ではなく、やはり王直を軸にした明確な意思をもって行われたものではないだろうか。そして、ガルバンの「新旧発見記」などで食い違いがあったような、2人でやって来たのか、3人でやって来たのか、ということも、別の人々が違った意思をもってやって来たとすれば良いのではないだろうか。

こう考えると、ポルトガル人による鉄砲伝来は、通説にあるような漂着による偶然なものではなく、

まずは、ポルトガル人らは1542年に琉球へ交易にやって来た。
その琉球で、近隣であった種子島の事情を知る。
そして、翌年1543年、軍事物資を欲していた種子島に鉄砲を売りに来た。

・・・ということになる。

このチャプターも次回が最終回です。鉄砲伝来以後と技術国日本について書きます。




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