CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「肥前の妖怪」 鍋島直正 1

今回から、筆者:浜口改めメカ口(※注「めかぐち」、「めかろ」ではありません)が、幕末に坂本龍馬や数々の志士達を差し置いて、ダントツで尊敬する「鍋島直正(なべしまなおまさ)」です。

鍋島直正なくしては、今の日本はない!

まず、この写真です。
鍋島直正

・・・どうでしょうか?背後に妖気さえ漂う、このただならぬ風貌。まさに「肥前の妖怪」と呼ばれるにふさわしい… 
懐に手を突っ込みブーツに立ちポーズで遠くを見るなどのポーズでなく、折り目正しく正座でカメラをガン見。

この直正の先見性とメカへの情熱は狂気に満ちたモノがあります。今でいう「理化学研究所」創設、初の反射炉完成、国産アームストロング砲初開発に成功、2015年に世界遺産ともなった三重津海軍所創設、日本初の実用蒸気船「凌風丸」完成、部下への寛大な御心、などなど、とても1回では終わりそうにありません。

< DATA >
■ 時代:江戸時代末期(幕末)
■ 生涯:文化11年12月7日(1815年1月16日)~明治4年1月18日(1871年3月8日)
■ 改名:貞丸 → 斉正 → 直正
■ 別名:閑叟(かんそう)
■ 戒名:綱聖院殿閑叟尭仁大居士
■ 官位:従四位下・侍従、肥前守、議定、北海道開拓使長官、大納言



では、1回目は鍋島直正を語る上で、とても重要な事件。それが、

「フェートン号事件」

江戸時代、唯一西洋との窓が開かれていた長崎。佐賀藩は幕府の命令により、福岡藩と1年おきに、長崎の警護を任されていた。

しかし、ペリー来航の45年前、佐賀藩に強烈な危機感を持たせる出来事:フェートン号事件が発生する。この年1808年は佐賀藩が警護担当の年であったが、オランダ船の来航もなく平穏であったため、莫大な経費のかかる警護の手を緩め、兵を通常の1/10の100名を残し、残りは藩に戻していたのである。
そもそも佐賀藩藩主:鍋島斉直が就任した時、すでに藩の借金が1万5000貫あったとされ、財政破たん寸前であったという事情がある。したがって斉直の財政再建の一環として、不要な経費削減の政策を行わねばならなかったのである。しかし、天領:長崎の警備には莫大な予算を投入しなければならず、内密で熊本藩に引き継いでもらおうとまで画策していたが、その密約が露見して、年寄役の有田権之允は切腹したという経緯もあった。

鍋島斉直 高伝寺所蔵
<鍋島斉直 高伝寺所蔵>

そのような中、文化五(1808)年8月15日、突如、オランダの国旗を掲げてオランダ船に偽装したイギリスの船が出現する。イギリスのフリゲート艦フェートン号であった。てっきりオランダ船だと思ったオランダ商館では、商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)を派遣したが、彼らは武装ボートに拉致される。船にはイギリス国旗もただちに掲げられた。

フェートン号
<フェートン号> 長崎歴史文化博物館所蔵

< DATA >
■ クラス: ミネルヴァ級フリゲート
■ 全長: 砲列甲板:141ft(43.0m)
■ 全幅: 39ft(11.9m)
■ 喫水: 13ft 10in(4.2m)
■ 機関: 帆走(3本マストシップ)
■ 乗員: 280名
■ 兵装: 38門(公称値。カロネードは含まれていない)
■ 上砲列:18ポンド(8kg)砲28門、後甲板:9ポンド(4kg)砲8門、18ポンド(8kg)カロネード6門、艦首楼:9ポンド(4kg)砲2門、
18ポンド(8kg)カロネード4門


そもそも、このフェートン号がやってきた目的は、世界史的に見ると当時ナポレオン戦争でオランダはイギリスと交戦状況にあったので、このアジア方面での敵国オランダ船の捕獲であった。しかしオランダ商館員二人を捕らえたものの、長崎港内にはオランダ船が長崎におらず、代わりにこの商館員を人質に捕らえたのである。そして、艦長フリートウッド・ペリューは人質解放の条件として長崎奉行所に食料と水を要求、この要求を飲まなければ長崎を砲撃すると威嚇した。

これに激怒した八十一代長崎奉行:図書頭(ずしょのかみ)松平康平は、警護に当たっている佐賀藩に出撃を命じるが、佐賀藩は警護の兵を松平図書頭に無断で帰藩させており、四国の各藩も対処に消極的であったので、この事件に対応できなかった。

そして、オランダ商館長:ヘンドリック・ドゥーフの説得により、やむなく松平図書頭がこの要求を飲んで、食料と水を与えたことによって人質二人は解放。17日の朝にはフェートン号は長崎を離れた。

ただ、この人質解放の条件となったことは、幕府に禁じられていた内容だったので、この責任をとって松平図書頭は、始末を書いた遺書を残して享年41歳にて切腹し、佐賀藩家老らも5人が切腹した。この事件の処遇として、幕府は佐賀藩の責任を追及し、11月に100日の閉門を鍋島斉直に命じた。

・・・しかし、この幕府の対応はあまりに理不尽であろう。

そもそも佐賀藩のような外様には、幕府に武装して反抗させないよう、参勤交代など財政的にもきつい政策を課しておいて、このような突発的な事件が発生して、いざ武力が必要となった時には、なぜちゃんと武装して防衛しないのか、ということを強いていることになるからである。
江戸幕府のこうした理不尽さにはいずれ詳しく触れることもあるだろうが、このような理不尽極まりない処遇を行うからいずれ滅びの道を進むのである。

それはさておき、事件後には歌舞音曲すら禁じられ、城下は正月にもかかわらず静まり返っていて、髭を剃ることすらも禁じられていたという。更に不幸なことには、文政二(1819)年には藩の江戸藩邸が焼失。文政十一(1828)年には台風が直撃し、藩内では死者1万人の大被害となった。この台風は通称「シーボルト台風」と呼ばれるが、この台風襲来で財政は極度に悪化し、借金は十三万両に上ったと推計される。坂本龍馬の時代には5両で今の約50万円と言われているので、それより50年前の出来事であるから、多少のインフレ率は無視しても、十三万両は今の価値で130,000×100,000=13,000,000,000円。13×10の9乗だから、130億円の借金となる。
こうして、かねてよりの借金などと相まって、佐賀藩の財政は本当に破たん寸前であった。

そうした藩の逼迫(ひっぱく)する状況下で、父:斉直のあとを継いで、天保元(1830)年、17歳で第10代藩主となったのが、この直正であった。


次回は、直正の財政再建策などからです。

松平図書頭墓地大音寺
<図書頭松平康平墓地 大音寺>

康平社 諏訪神社境内
<図書頭松平康平 康平社 諏訪神社境内>




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メカ口のメカ:その1

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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