CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

長崎貿易 1

日本における長崎の特殊性を物語るキーワード、「異文化の交差点」。
それが、クロスロード

確かに江戸時代の長崎貿易は、オランダとの「出島」を介した、ごく限定的なものだというような印象が強いですが、16世紀末から17世紀当初はポルトガル貿易が主流でした。そして、様々な事由によって明(後に清となる)貿易とオランダ貿易に制限、といような変遷をたどっていきます。

では今回は、この十字路の核とも言うべき「長崎貿易」からスタートします!


長崎の港は、ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」シリーズ参照)、元亀二(1571)年に大村純忠によってポルトガル貿易港となった。

天文十八(1576)年にイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京都へ上る途上で平戸を訪れる。彼は至る所でキリスト教の布教を行ったが、寺社勢力との教義争いも起こるようになった。ザビエルの日記にはこのような記述がある。

「キリスト教は彼らのまちがった教義に真っ向から反対しているので、こちらが福音について説教し、彼らの誤謬(ごびゅう)を証明し始めると、向こうは敵意をあらわにして私たちを総攻撃する機会にします」
「ザビエルの見た日本」(十)ピーター・ミルワード 松本たま訳


来日以来、僧侶との論争が激しかったが、仏教の僧侶の話は矛盾に満ちており、ザビエル自身はむしろ持論が正しいという自信を深めていくのである。

そんな中で、天文十九(1550)年、平戸が長崎で初めてのポルトガル貿易港として開港された。これが長崎における「南蛮貿易」の始まりである。

ところが、永禄四(1561)年、平戸で暴動が発生し、ポルトガル人14名が殺害された。これを「宮ノ前事件」という。その年、ポルトガル船の来航にあわせて、平戸・博多・豊前商人との売買交渉が始まったが、絹製品を巡ってその交渉が決裂したことから、日本商人と南蛮商人の乱闘が起こった。日本人が南蛮人へ商品を投げつけたことに端を発すると言われており、これに南蛮人が殴りかかったという。この乱闘に、見かねた武士が仲裁に入ったものの、この武士の介入を南蛮商人は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装、日本商人や武士団を襲撃した。これに対し武士団も抜刀して応戦した。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14名の死傷者を出し、平戸港を脱出した。

・・・ただ、筆者はこの事件の背後に、確実に既存の仏教勢力の巨大な利権構造が存在したと思っている。キリスト教信者が拡大するということは、仏教信者が減少するということと同義である。事実、隣の生月島と度島では約1400人が改宗している。この改宗したキリシタンが寺社や墓地の破壊を行って、キリスト教への入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていたのである。また、平戸領主:松浦隆信(まつらたかのぶ)もポルトガルとの南蛮貿易の利権を獲得するために布教を受容している

我々現代人が思い浮かべる仏教徒の平和なイメージは、実は織田信長によって武装解除された後の仏教徒像である。信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったのも、ここでは詳細は述べないが、ここが軍事上・地政学上の拠点の一つともなるからである。

平安末、院政を始めた白河上皇も自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として、

「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であり、様々な利権を有していたことがわかる。この比叡山では山法師と称された数千人の僧兵を擁したほどであった。

僧兵のイメージとして、より分かりやすのが、源義経との戦いで有名な武蔵坊弁慶であろう。

武蔵坊弁慶と源義経 歌川国芳
「五条大橋での戦いを描いた浮世絵」(歌川国芳作)

比叡山のみならず、僧兵は軍事力を背景に全国で大きな勢力となっており、多くの荘園を領有、国内の商業活性化の足かせとなっていた。今でもそうであるが、利権を持つ連中がそれを脅かされると、必ず政治やエスタブリッシュメント(社会的に確立した制度や体制。または、それを代表する支配階級・組織。既成勢力)と結びついて新興の勢力を潰しにかかる。この辺りが理解できると、なぜアメリカ大統領にトランプが当選したか、ということもわかるが、それはいずれ。

とにかく、こうした僧たちが、異教でもあるキリスト教拡大に伴った信者減少によって、大幅に収入が減じるばかりか、先ほど述べたように、ザビエルなどから教義の矛盾を指摘されて信者からの信頼も失っていた頃であったのだ。

ザビエルの書簡には、次のような僧たちとの生々しい論争もある。

 日本には仏教の宗派が九つあって、教理は一つ一つ異なっています。各宗派の考えがわかるようになると、私たちは相手方をやりこめるためにあらためて反論を開始し、毎日のように質問したり討論したりして魔法使いの僧やキリスト教のおきてにはむかう敵を困らせました。私たちはそれをとても効果的にやりましたので、私たちが彼らを批判し、反駁(はんばく)すると、彼らはぐうの音も出ませんでした。
 キリシタンたちは、僧がその非を悟って口をつぐめばうれしくなってますます主を信じるようになります。それと同時に討論の場に居合わせた異教徒たちは自分たちの祖先が徐々に衰えていくのを見て動揺しました。僧は少なからず不服でした。彼らは説教に出て聴衆が大勢キリシタンになるのを見ると、新しい信仰が気に入って祖先伝来の宗教に見切りとつける者を厳しく批判します。しかしほかの者は、キリストのおきてが自分たちの法より理にかなうものであり、僧の場合と違って自分たちの疑いを解いてくれるものなので、キリスト教に帰依すると答えました。
同「ザビエルの見た日本」(二十三)


聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
ピーテル・パウル・ルーベンス
(The Miracles of St. Francis Xavier) 1617-1618年
535×395cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館蔵

このような例からして、いかに仏教勢力が利権をむさぼって堕落していたかも理解できるし、既得権益を守ろうとしてキリシタンの排除へと彼らが向かわせたということもわかる。

以前のブログ、「※日本ではなかった!? 『小ローマ』:異国の長崎」に、この事件後の貿易港変遷については書いているので参照していただきたいが、平戸を出たイエズス会は大村純忠の要請で西海市の横瀬浦へ行ったが、ここでも血なまぐさい事件があり港が廃港、そして福田浦、元亀二(1571)年に、より利便性の高い長崎港へと移り変わるのである。

次回は、開港後の「長崎の六ヵ町誕生」の詳細を書こうと思います。

松浦隆信像 松浦史料博物館
松浦隆信像 松浦史料博物館
< DATA >
■ 享禄2年(1529年)~慶長4年閏3月6日(1599年4月30日)
■ 改名:隆信→道可(法名)
■ 別名:印山(号)、一渓斎、通称:源三郎
■ 諡号:尊勝院
■ 官位:肥前守
■ 主君:大内義隆→大友宗麟→豊臣秀吉

筆者一押し!!「松浦史料博物館」のアクセスはこちら↓



長崎の発展 | コメント:0 |
<<お母さんが預かったお年玉の行方 長崎ことはじめ編 | ホーム | お母さんが預かったお年玉の行方 長崎の観光を楽しむ方法編>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |