CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

10:黒崎教会 1

ここ1か月、長崎の教会巡りをし、関連書物を読んで、初めてこんなに深く学ぶうちに、ふと気づいたことがあります。

キリスト教の布教は、単にその思想内容の伝道だけでなく、「科学技術」と必ずセットであるということです。教会の建設も含まれるので、もちろん数学と物理学が投入されるのは当然ですが、医学・生物学・農学など、人を科学的に救おうという神父さまたちと信者さんたちの並々ならぬ意志と努力が感じられるからで、そこには間違いなく人種を越えて積み重ねてきた人間の英知が惜しみなく投入されています。これは筆者にとってはかなり印象深いものでした。これまで抱いてきたキリスト教観念が良い意味で破壊され、長崎って本当に素晴らしい学びの地だなぁ~とつくづく思います。

現代と違って、なにせ少なくとも100年以上も前の時代だから教科書となるものも少なく、西洋の母国から簡単に情報が入手できる環境にないという不便さ、江戸幕府による禁教という恐るべき思想弾圧なども加味しなければならないでしょう。

今回の黒崎教会は、外海地区にあるレンガ造りの大変美しい教会です。軽々しく「美しい」という言葉を使ってますが、この美に至る苦難の歴史は元亀二(1571)年より始まります。では、黒崎での歴史をまず振り返ります。

教会内リブ・ヴォールトの天井(「こうもり天井」とも言う)も大変素晴らしい教会です。
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煉瓦の色も夕陽を浴びてとてもキレイです。
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1571年1月末、カブラル神父らが初めて外海への布教を行った。外海は長崎の中心部からも大村からも外れにあり、管理の目が行き届きにくいということからも、「潜伏キリシタン」の信仰が続いた。この要因として、日本人伝道師バスチャンの功績が大きいと言われている。バスチャンは元々長崎の深堀町平山郷布巻の出身で、深堀の菩提寺の下男をしていたらしく、治兵衛という名であった。そして、宣教師サン・ジワンの弟子になって伝道活動を行うようになった。

サン・ジワン師は、1609年6月26日アンドレア・ベソア率いるポルトガル貿易船ノッサ・セニョウラ・ダ・グラサ号に乗船して、長崎港へ入港したが、長崎奉行長谷川左兵衛藤広、代官村山等安はこの船を冷遇した。貿易品の取引も船の接岸も禁じられ、乗組員の上陸も認められず、べソアは上陸許可を願ったものの受け付けられなかった。奉行の悪計と徳川家康との連絡外交上の駆け引きやオランダとイギリスの中傷もあった。長崎への入港後6ヶ月経過した1609年12月29日有馬軍勢の攻撃へと発展し、遂に1610年11月3日神の島の沖で爆沈した事件に巻き込まれるのである。
ジワン師は海に飛び込み泳いで深堀の教会に難をのがれ、ここで初めてバスチャンと知り合いになり、しばらくここにいたという。そして、福田、手熊を経て外海への伝道を行った。サン・ジワン師は亡くなる前に「私が死んだら海の見える高いところに葬ってください。私の見える範囲で守る」と言われたため、遠くまで見える山の高い所に葬ったのが、このサン・ジワン枯松神社であるとされている。
枯松神社
<枯松神社>

このサン・ジワン師が弟子バスチャンを育て、バスチャンはサン・ジワン師の指導により1634年の教会暦をもとに、日本語による初めての教会祝日表を編纂した。これが後に「バスチャン暦」と呼ばれ、キリシタン迫害のもとで潜伏を余儀なくされたキリシタンたちの信仰生活の規範となったものである。

バスチャンこと、トマス次兵衛は別名:金鍔(きんつば)次兵衛と呼ばれる。「金鍔」という名は、長崎奉行所で役人に成りすましていた際に、腰にさしていた刀の鍔に由来する。禁教令による迫害を逃れマニラに渡ったが、後に密かに帰国し、厳しい取り締まりの中変装し次々と居場所を変えて各地を宣教したが、捕らえられ長崎で殉教したと伝えられる。

彼は1627年にマニラで司祭叙階、31年に帰国して宣教に励んだものの、禁教が激しくなっていた1634年にその正体が奉行所に発覚した。バスチャンは追手から逃れるため隠れ家を転々とした。

バスチャン屋敷
<バスチャン屋敷> うっそうとした山深く、細い清流の横にこのバスチャン屋敷はある。

明暦三(1657)年、「郡崩れ」が起こった大村では、603名のキリシタンが捕えられた。この「郡崩れ」によって、あまりに多くの首はねた役人が疲れ、信徒を生きたままムシロに包んで大村湾に投げ捨てた。それが内海の海岸に打ち寄せられ、いち早くその始末に走ったのがバスチャンだった。こうして、バスチャンは数々の善業に身を費やし、信仰を絶やさなかった。しかし、出津の浜の住人、黒星次右衛門がバスチャンを密告。立ち昇る夕餉の煙で谷間の隠れ家が役人の目にとまり、捕縛され長崎桜町の監獄へ護送。ここで度重なる拷問を受けて、1636年11月6日、あの西坂の丘で二度の逆さ吊りの刑を受けて殉教した。

「郡崩れ」とは、

明暦3年(1657年)のある日、長崎に住んでいた池尻理左衛門は、大村から遊びに来ていた知人から次のようなことを聞きました。
「郡村の矢次という所に、天草四郎の生まれ変わりという神童が現れてのう。その神童は萱瀬村の山奥に不思議な絵を隠し持って、実に奇妙な術を説くんだそうじゃ。もしおまえさんがこの術を見たければ、そこにつれていってもよいが、どうじゃな。」
こう語ったのは大村の郡村に住む兵作という男でした。話を聞いた理左衛門は、すぐにキリシタンだとわかりました。そこで、聞き流しておいては大変と思い、すぐに町役人に知らせました。そして、その話を受けた長崎奉行は早速、兵作を取り押さえました。
長崎奉行からただちに使いが大村へ飛び、藩内にキリシタンがいるらしいという知らせに、大村城内は大騒ぎになりました。そして連日、兵作の妻子や近親者、萱瀬の山中の隠れ家に集まっていた者たちが次々と捕らえられました。天草四郎の再来と呼ばれた少年は、名を六左衛門といい、その家族が中心となって、ひそかにキリスト教の信仰を続けていたのです。それは、長年の間に日本の習俗などと交じりあって、まじないのようになり、その力で多くの信者を引きつけていました。信者たちが集まった場所は、萱瀬の仏の谷にある十畳敷きほどの岩陰でした。
事件は日を追うごとに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村へと広がり、ついに逮捕者は603名にものぼりました。取り調べの結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、取り調べ中病死した者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。打ち首になる者はあまりにもその数が多かったため、各地に分けて処刑することとなりました。大村では131名、長崎118名、佐賀37名、平戸64名、島原56名とそれぞれの地で処刑されました。
大村で処刑されることとなった131名は、刑場となった放虎原に引き立てられました。途中、妻子、縁者との最後の別れが許されました。その場所となった西小路には、今も「妻子別れの石」が残っています。刑場に着いたキリシタンたちは、四列に並べられ、次々に首を打たれていきました。切られた首は、処刑されたのち約20日間も、見せしめのため大曲の獄門所で、さらし首にされました。その後さらされた首は、原口にあった榎の根元に、胴体は処刑後まもなく桜馬場の道路脇に、それぞれ埋められました。現在その地は首塚跡、胴塚跡として伝えられています。
この事件を「郡崩れ」といい、これをきっかけとして、事件のあった一帯からは、キリシタンの姿はまったく消えてしまいました。

「大村の歴史」より抜粋


次回は、この黒崎の地での「カクレキリシタン」と「潜伏キリシタン」について。




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