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歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題

パダワンらの受験終了後で、うっかり酷い風邪を引くのが毎年この頃。
すっかり、ブログのUPもやってなかったけど、今日よりぼちぼち再開です。

今日は、江戸幕府滅亡へのカウントダウンに関連した事象です!!


南米のボリビアで、インディオらによって1545年に銀が発見された。これがボリビア南部のアメリカ大陸最大のポトシ銀山という。この銀山はペルー副王領に属していた。この銀に目をつけて開発したのが侵略したスペイン人である。このペルー副王領産の銀はスペイン本国に送られる植民地産の貴金属(主に銀)の3分の2以上を占めるようになった。このボリビアからの銀の流入によって、ヨーロッパでは金と銀の比率が逆転。ついには銀の比率を99%にも高めたのである。大量の銀の流入はヨーロッパに1世紀以上にわたる物価の騰貴をもたらした。通貨量が増えるとインフレになるという経済原則通りである。これを「価格革命」という。

ただ、大量の銀が流入したので、ヨーロッパの銀価が下落するが、貨幣量の増加は商工業を盛んにするという側面もある、ということもここでは記憶しておこう。

さて、物と物との現物経済をシュミレートしてみる。

例えば、
Aさん:トマトが欲しい、キャベツは持っている。
Bさん:キャベツが欲しい、トマトは持っている。

これなら交換することが可能である。

Aさん:トマトは欲しいが、キャベツは持っている。
Bさん:トマトは持っているが、ホウレンソウが欲しい。

これでは交換が成り立たない

しかも生産物は腐るので、誰か交換相手が現れるまでずっと待つわけにはいかない。

ここに貨幣が導入されると、物の価値がそれぞれ設定されることによって、わざわざ欲しくない物と物とを交換しなくても、貨幣と交換することで楽に解決してしまう。つまりAさんはトマトの価値分の貨幣を持っていれば、Bさんとの交渉によってトマトを貨幣でゲット出来る。ここに取引が、片方ではあるにしても成立したことになる。そして、Bさんはそのゲットした貨幣で別の人からホウレンソウが買える可能性も生じるということにもなる。

このように一般人レベルにまで貨幣量が適度に増大することによって、商業の活性化につながることは容易に想像つくだろう。

しかし、あまりに貨幣量が急激に増えすぎると、通貨1枚の価値が下がってしまうことにもなる

例えば、南ドイツの銀を独占していた大富豪や南欧港市の商業資本の没落を決定的にし、貨幣地代で生活していた領主にも打撃を与えた。最も没落したのが、ドイツのフッガー家である。フッガー家はアウグスブルクを本拠地としたヨーロッパ最大の金融業者である。15世紀イタリアとの香料・羊毛取引で財をなし、15世紀末には南ドイツで銀山を独占経営した。更には16世紀初め、その莫大な富で皇帝や教皇にも強い影響力を持っていた、強大な一族だ。
しかし、16世紀後半に没落した。理由はあの「価格革命」である。新大陸からの大量の銀がヨーロッパに送られ、銀貨1枚の価値が低下し、あっという間にフッガー家は姿を消して行ったのである。

・・・日本の幕末の話なのに、さっきから一体何の話なのか?と思ったかもしれない。

それは、フッガー家という神聖ローマ帝国皇帝やキリスト教の教皇にも強い影響力を行使していた巨大な一族ですら、貨幣価値の暴落によって瞬く間に没落してしまう、という歴史的な事実が予習的に必要なエピソードだからだ。

通貨の量というのは、バランスを失うとこのように恐ろしい事態を招く、ということを知っておこう。

余談にはなるが、歴史上凄まじい「ハイパーインフレ」と呼ばれた第一次世界大戦後のドイツの話もしておく。一般に「ハイパーインフレ」とは、過度のインフレのことで、物価が短期間に数倍、数十倍に上がることを指す。しかし、戦後のドイツのインフレは最終的に物価が384億倍にまで達した。

ドイツ街中に捨てられた紙幣
この写真はゴミとなって路上に捨てられてる紙幣を掃除する、の図である。

ドイツハイパーインフレグラフ
敗戦したドイツ帝国内で短期間の内に急激なインフレが発生していることがわかるグラフである。

例えば、小学生が100均のボールペンを1本買おうと思っていても、3兆8400億支払わないとボールペンが買えないことになっていた、ということになる。

ドイツ札束で遊ぶ子供


この要因を「詳説 世界史」山川出版の教科書では次のように書いてある。
「国土が戦場になったフランスでは第一次世界大戦後も、ドイツの強国化を恐れた。そのためフランスは、ドイツに課された賠償金不払いを厳しく要求し、支払い不履行を理由に1923年ルール占領を強行した。
これに対しドイツは、ルール占領には不服従運動で抵抗したため生産が低下し、激しいインフレーションが進んだ」


つまり、フランス人らが占領したルール地方での工業製品を造る工場がストップし、物が少なくなったが、ドイツ政府は通貨を発行し続けたことで通貨量が余りすぎる事態となった。逆に考えると、全ての品物が極度のレア物になってしまったということと同じことである。

通貨恐るべし…

国や巨大勢力ですら崩壊させかねないのがこの通貨コントロールなのである。

ちなみに、このルール占領されたドイツ人たちが、機械の前でフランス人への抵抗から意図的に物を作らなかった。つまり、サボっていたのである。この語源がフランス語で「サボタージュ sabotage」という。

さて、日本の幕末。これとは逆のどんどん海外に金が流出していった破壊的な出来事が発生した。

誰もが知っている1854年に締結された日米和親条約。これ以後に交易を始めるに際して、当然日本の通貨と西洋の通貨の交換比率が交渉されることになった。

そもそも江戸時代は、物によって代金を「金貨で払う」、「銀貨で払う」、「銅貨で払う」というように分かれていた。また、高額な取引の場合には、関東では「金」、関西では「銀」を使う独特の風習(これを「関東の金遣い、関西の銀遣い」という)もあった。また、金・銀・銅ではそれぞれ単位も呼び名も違っていて、交換する相場も頻繁に変わっていたので、買い物の時に一般人は計算が大変だったのである。そこで発達したのが、現在の銀行にあたる「両替商」だ。当時の有名な両替商には鴻池(こうのいけ)、三井、住友がある。三井・住友はそれぞれ現在の大手銀行グループへと発展していったので、知っている人もたくさんいるだろう。

中学校の歴史でこの「両替商」という言葉を学ぶが、銀行のような仕事をしていたとは教えてもらう。しかし、テストのためにこの単語を丸暗記するだけでは、中学生もよく分からないだろう。この商売が発達したのは関東では金、関西では銀などのように使っていたお金が違っていたので、国内でのそれぞれの交易の際に交換割合を決めておかないと商売が成り立たなかったからだよ、という解説が抜け落ちているからである。

この両替を他国との交易でレートを定めよう、という交渉が、安政三(1856)年に下田御用所において幕府側と交渉を行ったのが、あのタウンゼント・ハリス。

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<DATA>
■Townsend Harris
■1804年10月3日 - 1878年2月25日
■アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた…らしい:(;゙゚'ω゚'):

この交換比率によって、日本は短期間で壊滅的な打撃を受けるのである。

当時の日本は世界最大の金・銀・銅の産出国であったのに…。

次回はハリスとの交渉の具体的な内容!

歴史をちゃんと理解するための経済学 1

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