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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 1

「鉄砲伝来」についての説は現在いくつか存在します。
でも、今回は定説や教科書にとらわれず、筆者が合理的に考えてみて最も妥当な結論を導いてみます。

・・・と、ここでいきなり結論を言えば、真の意味で鉄砲を伝えたのは南蛮船(あの有名なサンタマリア号などのキャラック船(※ポルトガル語では「ナウ」という)に乗ってきて、意図して鉄砲を伝えようとしたのはポルトガル人ではない。
また、その初来日は定説の1543年ではなく、1542年である。

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以下はそう考える根拠となるものを示す。確かに、文献に書かれた内容も確かに大事だが、当時の周辺状況や一般的な人間行動学といったものまで含めて考察してみたい。

日本人に鉄砲の現物を供与し、使用法を直接指導したのはポルトガル人であることは間違いないだろう。アジア諸国や日本に銃があったとは思われないからである。しかし、様々な状況や文献を比較してみると、通商としてお膳立てをしたのがチャイナ倭寇:王直(おうちょく)である。
王直
平戸にある王直立像

王直は安徽省歙県(あんきしょうきゅうけん)の生まれで、はじめは塩商人であったが、失敗して貿易商人になったという。日本に初めて来航した時期については不明だが、天文九年(1540年)に五島福江に来航し、領主:宇久盛定(うくもりさだ)に通商を求め、盛定は彼を歓待し、福江に居住させた。現在の福江市唐人町(五島市福江町<通商、唐人町>)に残っている明人堂(みんじんどう)が、当時の王直の屋敷であったとの伝説があるほどだ。
明人堂

ここからいくつか参考文献の一部を列挙してみる。
王直は天文十一年(1542年)には長崎の平戸に移り、後の印山寺屋敷付近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。王直が平戸を拠点とした裏には、当時の平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)の保護があったことは疑いない。松浦氏が王直と結んで中国との密貿易をおこなっていたのである。
(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社刊)
王直邸1
長崎 平戸にある王直屋敷・天門寺(てんもんじ)跡
王直2
天文一二(1543年)八月二十五日、種子島(鹿児島県)に一隻の大船が流れ着いた。船には百余人が乗りこみ、その中の明の儒生である五峰(ごほう:のちの倭寇の首領王直)という者との筆談で、西南蛮種の商人たちであることがわかった。その中の牟良叔舎と喜利志多陀孟太という二人の長が鉄砲をもっていた。かれらが火薬と鉛弾を中につめて発射してみせると、光と雷のようなごう音とを発したので、耳を覆う掩わない者はなかった。
(『日本の歴史⑩ 戦国の群像』池上裕子著 集英社刊)
記録に残る日本に入国した最初の西洋人は、ここでいう「牟良叔舎と喜利志多陀孟太」。下に示した「鉄炮記」の中では「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ)の2人が来日したとなっている。しかし、次回考察するが、アントニオ・ガルバンの「諸国新旧発見記」では「アントニオ・ダ・モッタ」、「フランシスコ・ゼイモト」、「アントニオ・ペイショット」の3人が来日したとなっているのである。
天文葵卯八月二十五丁酉、我が西ノ村小浦に一大船有り、何れの国より来たれるかを知らず、客百余人、其の形、類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪と為す。其の中に大明の儒生一人、五峯と名づくる者あり。今、其の姓字を詳らかにせず。時に西の村の主宰、織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶々五峯に逢ひ、杖を以て沙上に書して云ふ「船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや」と、五峯即ち書して云ふ「此れは是れ西南蛮種の賈胡なり、粗ぼ君臣の儀を知ると雖も、未だ礼貌の其の中に在るを知らず。是の故に其の飲むやゝ抔飲して盃せず、其の食ふや手食して箸せず」(原漢文) 「鉄炮記」
鉄炮記
「鉄炮記は鉄炮伝来の経緯や国内伝播の経緯を詳しく記し,日本における鉄砲の起こりに果たした種子島(たねがしま)氏の功績を讃えた記録。慶長11(1606)年に大龍寺の僧・南浦文之(なんぽぶんし)が種子島当主・久時の依頼によって著したもので『南浦文集』に収められている。鉄砲伝来に関わる史料は国の内外に数多いが,国内で唯一信頼できる史料として高い評価を得ているものである。
南浦文之は,宮崎県南郷町の生まれ。臨済宗の僧侶で桂庵玄樹の学統に連なる義久・義弘・家久に仕え外交・文教の顧問として活躍した学僧であった。元和6(1620)年鹿児島城下大龍寺で病気になり,国分の正興寺に帰る途中,加治木で亡くなり安国寺に葬られた。墓は安国寺境内にある。」
<文引用>鹿児島県HP 鉄炮記

ここでいう、五峯とは、もちろん五つの峰ということだが、ここは峰が山を指すのではなく、海中から突き出た五つの峰の意で、つまり長崎の五島のことを指している。倭寇の本拠地と言われた日本の三島(壱岐、対馬、五島)のうちの五島である。
三つ目に示した資料:「鉄炮記(てっぽうき」)は、1606年(慶長11年)、江戸時代に第16代種子島久時(たねがしまひさとき)が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(なんぽぶんし)に編纂させた鉄砲伝来に関わる歴史書で、鉄砲をポルトガル人から入手した経緯や火縄銃製法確立の過程が克明に記されている。
しかしながら、ポルトガルの資料ではここに「1542年」という記述があるのだ。ただ、、「ザビエル伝」で著名なゲオルグ・シュールハンマーがこの「鉄炮記」を重視して、1543年説を提唱して以来、これが定説となって今に至る。
そうした経緯によって、この「鉄炮記」が、鉄砲を伝来したポルトガル人の初来日が「1543年」という説の基本資料となっているのである。

更に次の資料を見てみよう。
南蛮船と伝えられる明国船が島の南端、門倉岬の「前之浜」に漂着した。この年の三月、種子島も戦国動乱の埒外ではなく、突如、大隈半島の雄、祢寝(ねじめ)氏の来襲を受け敗北、屋久島を割譲することによって動乱を収終した。南蛮船が漂着したときは、まさに失った屋久島奪回のため、緊迫した臨戦体制化にあった時である。

 漂着船は肥前平戸に居を構えた倭寇の大頭目王直の持船で、王直も五峰と名を変えて乗船していた。この船に、たまたま乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持、これを見た十六歳の少年島主時堯(ときたか)は戦局打開の新兵器と看破、これを入手するや直ちに刀鍛冶八板金兵衛(やいたきんべえ)に製作を命じた。金兵衛は刀鍛冶の非凡な技術と努力によって短期間に国産化に成功、これが我が国の国産第一号の鉄砲となった。 
「鉄砲伝来 種子島鉄砲」鉄砲館編集発行
この資料から読み取れる重要情報の一つが、種子島氏が「緊迫した臨戦体制化にあった」、という部分。つまり、種子島氏が屋久島奪回のために今度は勝てる有力な武器があればなぁ~と、一般的に考えててもおかしくないということ。

こうした情報を、商人たちは見逃す訳がない。大きなビジネスチャンスだからである。
同様のことは幕末の長崎でも起こっている。すなわち、「亀山社中」の大きな取引である。この話はいずれ別の項目で伝える予定なので詳細は省くが、ともかくこのビジネスチャンスを大商人:王直が利用した、と考えられないだろうか?
次回は、この続編として、他の資料やポルトガル側の資料と商業などの観点から考察し、そしていかに古(いにしえ)より日本がいかに技術立国であるのかを書く予定です。


テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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