CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1

どうも、お久しぶりです。
副業1&2が激多忙過ぎて、すっかりこのブログもなおざりにしてました:(;゙゚'ω゚'):
ようやく副業奴隷解放宣言も出されたってことで、いろいろ溜めてたモノを開放していこうかと思われます。
いかに一般の通念が誤っているか・・・
では、副業1で世界史講師をも務める浜口改めメカ口が、今回は長崎とは何かとゆかりの深い国:ポルトガルについて書きます!!


そもそも、なぜポルトガルやスペイン、オランダが遥か彼方のアジアへ来たのか? これを考えたことがあるだろうか。

ます考えなくてはならないのが、ヨーロッパ人たちが住んでいた地理的条件と特有の食文化である。

中世のヨーロッパは国土や気候条件によって極めて貧しい食生活を強いられており、ほとんどが痩せた土地であるヨーロッパでは、食の中心が限られた野菜や穀物、塩漬け肉・野鳥・塩漬けの干し魚などであった。アメリカという、ヨーロッパ人たちにすると「新大陸」からもたらされたトマト・じゃがいも・とうもろこしがしだいに普及するのは16世紀以降のことなのである。
もちろんヨーロッパでも牧畜は行われていたが、豚や牛といった家畜のエサとなる干し草の保存が出来ないため、こうした家畜はほとんど秋に屠殺し、その肉を塩漬けにして冬を乗り切るために保存していた。ただ、当然これも日が経つにつれて腐敗臭が酷くなり、味も劣化していく。しかし、他に方法がないので人々はこの腐った肉をどうにかして食べて、冬をしのぐしかなかったのである。

ここで、この問題を解決したのがアジア特産の「香辛料」の再発見であった。

山川の世界史B用語集には次のような記述がある。

<香辛料>
胡椒(こしょう)・肉桂(にくけい)・丁香(ちょうこう)丁子(丁字:ちょうじ)など、おもにインド・東南アジア産の刺激性嗜好(しこう)品。肉を多食するヨーロッパでは、味覚と腐敗防止を兼ねて求められ、東方貿易最大の輸入品であった。

これを見ても、香辛料がどれほどヨーロッパ人の食生活に潤いをもたらしたのかがよく理解できるし、これが需要と供給量のバランスを考えても高額な商品になったということもうなずける。
香辛料は塩漬け肉の臭いを消して、肉を食べやすくする。必然的にヨーロッパの香辛料の需要が増大したのである。

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この山川の資料では、ナツメグは何と4000%以上の利益率となっていて、いかに香辛料が当時高額取引されていたかが具体的にわかる。

香辛料は以前にもヨーロッパへ多少なりとも流通したことがある。歴史を遡ると、アジア原産の香辛料は、地理的にヨーロッパへの香辛料の供給量は極めて少なかったものの、アジアでは既にこの交易が盛んであった。シルクロードと同様、海の道である、いわゆる「スパイスロード」を通じて中東辺りまでの交易は行われていた。古代ローマ時代には既に流通していたが、東ローマが滅んだことによってこのスパイスロードが断絶する。

次に、11世紀末からの十字軍によって、ヨーロッパ人が再び香辛料を知る契機が生まれる。

十字軍は神聖ローマ帝国のキリスト教軍が今のドイツ辺りから、中東のセルジューク・トルコによって奪われた聖地エルサレムを奪回に行った、イスラム教徒への虐殺である。その時、肉食のヨーロッパ人たちがここ中東に素晴らしいものを発見した、それが香辛料だった。そして、これがイスラムやイタリア商人たちによってイタリアのヴェネツィアなどへ運ばれて行ったのであるが、13世紀末に中東からヨーロッパ、アフリカにまたがる強大なイスラム国家:オスマン・トルコが建国され、ヨーロッパ人たちへの香辛料の交易が中断してしまったのである。何とかして香辛料を手に入れたいヴェネツィア商人たちは、このイスラム商人たちとの香辛料取引をしたかったために、香辛料は大変希少価値が発生し、胡椒の粒と黄金の粒が等しい価値になるほどであった。

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上の図で示されているのは、当時経済的に重要なシルクロード(赤)香辛料貿易のルート(青)である。これがオスマン・トルコ時代に遮断されてしまう。オスマン・トルコが1453年に東ローマ(ビザンツ)帝国を崩壊させたからある。この強大な帝国の存在によって、ヨーロッパ勢力は東方への交易ルートが遮断されてしまった。

香辛料を忘れられないヨーロッパ人は、実はこうした動機によってアフリカ航路開拓のための探検を促し、「大航海時代」を引き起こしたのである。クリストファー・コロンブスが1492年スペイン女王:イサベルの命によってアメリカ大陸へ到達したのも、根っこはこうした事情である。この当時、西ヨーロッパでは、東アジア・東南アジア・南アジアを含むアジア大陸東半分の地域を漠然と「インド(※スペイン語ではインディアス)」と呼んでいた。だから、香辛料を求めてアジアへ向ったコロンブスが、到達したアメリカを「インド」だと勘違いしたので、現地のアメリカ人を「インディアン」と呼んだのである

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クリストファー・コロンブス(伊: Cristoforo Colombo)
<DATA>
■1451年頃 - 1506年5月20日
■探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人
■定説ではイタリアのジェノヴァ出身

コロンブスはこの少し前に仕事の拠点であったポルトガルのリスボンで、地球球体説を唱えていたトスカネリと知り合って手紙の交換をしている。トスカネリは13世紀ヴェネツィアの商人だった、あのマルコ・ポーロの考えを取り入れていた。コロンブス自身もマルコ・ポーロの「東方見聞録」に記述がある黄金の国:ジパングに惹かれていたという。この書物によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」という。この富への野望が掻き立てられたのである。

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<DATA>
マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo)
■1254年 - 1324年1月9日
■ヴェネツィア共和国の商人
■「東方見聞録」(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家
■訪れた元で、色目人(しきもくじん)としてフビライ・ハンに重用される

また、地球が平面だと思われていた時代に、最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もあるほどだ。確かに、コロンブスにはこうした地理上の発見への野望があったことは事実であろう。しかし、彼を援助したスペイン女王や貴族にとってみれば、そうした功績に加えて、香辛料によって食の改善がなされることも現実的には重要なファクターであった。事実、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)でスペインからイスラム教徒を駆逐した後、ポルトガルやスペインの君主たちは直接香辛料貿易の恩恵にあずかろうと、大西洋に着目したのだ。つまり、先ほど書いたように、東方には強大な国家:オスマン・トルコがいて交易が遮断されている。ならば、危険のない西廻りや西アフリカ沿岸を遠回りする、東廻りの交易ルート以外を開発すれば良いのではないか、という発想になったのだ。これがスペインとポルトガルによる「大航海時代」への動機づけである。

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マルティン・ベハイムの地球儀(ドイツ・ニュルンベルク)

ポルトガルは「航海王子:エンリケ」の奨励でアフリカ西岸への探検に乗り出していた。これは司祭王:聖プレスタージョンの国を発見するためという目的と、現実的にはイスラム教を挟撃するためという目的があった。いずにしても、大西洋航路よりもアジアに近く、オスマン・トルコの息のかからない航路を開くことによって、香辛料貿易を進める目的があった。エンリケの後継者ジョアン2世の時代になると、この探検航海はかなり進み、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の「喜望峰」に到達する。喜望峰は「嵐の岬」と呼ばれていたが、そんな危なそうな名前では冒険が進まないということで「喜望峰」というポジティブな名前がつけられたという経緯がある。

このアフリカの下を廻る航路が発見されると、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがこの岬を迂回してインド洋を横切り、ヴィジャヤナガル王国の港であったインド西岸のカリカットへ到達する。ガマはアフリカ東岸のマリンディに寄港して、イスラム教徒の水先案内人であったイブン・マージドを雇い、その指示によってカリカットへは到達したのである。

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<DATA>
ヴァスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama)
■誕生:1469年頃~1524年12月24日 ポルトガル・シーネス
■探検家、航海者

このポルトガルによるこのインド航路開拓はある種の国営事業として行われた。したがって、これに伴う香辛料の直接取引は、当時わずか150万人の人口でしかなかったポルトガルの王室に莫大な利益がもたらされる結果を生んだ。このインド航路開拓によって、ポルトガルの首都リスボンが世界商業の中心となって、ポルトガルが16世紀の世界を支配したのである。

つづく

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