CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 2

前回の文献:「鉄砲伝来をめぐって」『鉄砲伝来前後』種子島開発総合センター編 有斐閣刊所載 の中での推論で気になるのは次の3点。

1 一五四二年(天文一一年)に三人のポルトガル人、アントニオ=ダモッタ、アントニオ=ベイショット、フランシスコ=ゼイモトがシナのジャンクにのってリャンポウに向かおうとしたところ台風に襲われて種子島についた。そして貿易上ひじょうに有利な国を発見したという情報を、マラッカへ帰ったか、あるいはチモールへ帰ったかは知りませんが、南の方へ帰ってそれを報告した。それではまた早速行こう、そんなに貿易上有望な土地なら行こうということで、その翌年、一五四三年(天文一二年)にふたたびジャンクに乗ってやってきた

2 『鉄炮記』のどこを見ても台風で漂着したとは書いておりません。ただ大きな船がやってきたと書いてあるだけで、台風に襲われて難破したとは、どこにも書いてないんです

3 一五四二年は自分たちの意思でなく日本へたどりついた。一五四三年は自分たちの意思で日本についた。その時に鉄砲を日本人に伝えたのだということです


このポルトガルの資料であるアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563)では、1542年に、3人のポルトガル人が、中国船(ジャンク)に乗って雙嶼(リャンポー)に向かって出航したが、台風に襲われて日本の種子島へ漂着した、と書かれている。

「新旧大陸発見記」には3人のポルトガル人の名を、アントニオ・ダモッタ、アントニオ・ベイショット、フランシスコ・ゼイモトの3人だと書いてあるが、「鉄炮記」には「牟良叔舎(ムラシュクシャ)、喜利志多陀孟太(キリシタダモウタ)」の2人。「牟良叔舎」は当時の明の発音で読むと「フランシスコ」になるという・・・。「陀孟太」が「ダモッタ」であることは音からして間違いはないだろう。

ただ、私にはこの「牟良叔舎」がフランシスコに当たるかどうか、かなり疑わしいのである。日本の資料に書かれてあるのだから、日本風に音読みしても「フランシスコ」に聞こえないからである。カタカナ表記すれば、「ムラシュクシャ」。「フランシスコ」と比較すれば、母音箇所において「ラ」のみが共通するだけである。更にこのアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563年)の記載は、いくつか矛盾点も指摘されていて、「新旧大陸発見記」と「鉄炮記」の記述を比較すると、一致しない部分がかなり多い。いくつか列挙してみると次の通りとなる。

1:「新旧大陸発見記」では3人のポルトガル人が日本に漂着したとするが、「鉄炮記」では百余人の南蛮人が来航したとあって「頁胡の長」 2人の名しかない。

2:「新旧発見記」では暴風雨により日本に漂着したと記しているが、「鉄炮記」では実は暴風雨によって漂着という記述がない。

3:「新旧大陸発見記」ではポルトガル人の漂着地を北緯32度としているが、「鉄炮記」が来航地とする種子島南端は、北緯30度20分である。当時の航海技術が2度近く誤るほどの不確実性しかなかったのか?その誤差は260km程となってしまい、長崎から山口まで行ける距離である。

4:「鉄炮記」 に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が「新旧発見記」 には全くない。

以上を加味すると、「鉄炮記」と「新旧大陸発見記」における共通点が本当にあるのか?という疑問すら最終的に残るのである。果たして、どちらを信頼すべき資料とすべきか?

・・・ただし、鉄砲伝来についての資料はこれだけではない。



次回は、その他の資料も比較検討してみましょう。








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