CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」
このように我々は幼い頃に習ってきたのであるが、最近の教科書では是正されて「大航海時代が始まった」という教え方になっている。

コロンブスが山川の世界史B用語集ではどのように記述されているか。

コロンブス Columbus
1451~1506 ジェノヴァ生まれの航海者。地球球体説を信じ、西航してアジアへの到達を企てた。スペイン女王イサベルの後援を得て、1492年8月、3隻120人でパロスを出航し、72日の航海ののち、10月12日、現在のバハマ諸島に到着、近辺を探検して翌93年3月帰国した。到着地をインドの一部と信じ、第2回(1493~96)、第3回(1498~1500)、第4回(1502~04)と航海をしたが、金銀も胡椒も発見できず植民地経営にも失敗し、失脚して隠退した。

しかし、未だコロンブスに関する本質的な記述を見ることは出来ない。このシリーズ1のコロンブス<DATA>の所に書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1」参照)、コロンブスは「奴隷商人」なのである。前々回の記述でみなさんは気づいていただろうか。

そして、なぜ子供たちに教える歴史では、この面をそんなに隠さねばならないのだろうか?

キリスト教会も、コロンブスがアジア到達(本当はアメリカ大陸)という吉報に沸き立った。時の教皇アレクサンデル6世はこの「発見」の報に触れて、翌1493年に「植民地分界線(教皇子午線)」なるものをでっち上げた。これも用語集にはスペインとポルトガルが「ヴェルデ岬西方の子午線で、西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏にした」としか書かれておらず、これではその真意が全く分からない。

教皇子午線
引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico!

これは、地球を子午線という半分に分割する線で、まんじゅうを半分こするように、勝手に地球を二つに分けたという意味である。自分たちのまんじゅうならまだしも、みんなで分けているまんじゅうをこのような勝手な分界線によってまっ二つに分けられたら、この二国以外の国はたまったものではない。そして、これが「教皇」子午線であるということも見逃せない。つまり、キリスト教会も、他国を侵略して奴隷化することを積極的に推進した、ということである。

更に1494年には「トルデシリャス条約」で、この教皇子午線が両国に都合良いように西方へ移動し、海外の領土分配を決めた。この時にポルトガルがブラジルを領有したのである。

トルデシリャス条約
トルデシリャス条約という縄張り">引用:「教皇子午線」 トルデシリャス条約という縄張り Geographico

トルデシリャス条約条文
<トルデシリャス条約 条文>

1529年に「サラゴサ条約」が締結。スペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却し、勢力圏の範囲も確定。太平洋側にもこの両国の境界を分ける子午線を引かれた。このモルッカ諸島はセレベスとニューギニアの間の島々であるが、ここがヨーロッパ人たちの主目的となった島である。なぜならこの島は「香料諸島」とも言われ、丁子(ちょうじ)やナツメグといった、肉食のヨーロッパ人にとっては貴重な香辛料の主産地だからである。1521年のマゼラン遠征隊の来航以来、各国の争奪の的となったのがこのモルッカ諸島なのである。その意図はあまりに明白だ。

香料諸島

さて、ここで南北アメリカにも目を向けてみよう。

アメリカ文明地図
<引用:ラテンアメリカ文明と文化

15世紀に既にアメリカに存在していた文明は、上の地図にあるように、今のメキシコ近辺にアステカ文明とユカタン半島にマヤ文明、アンデス高原にはインカ文明である。彼らの多くが北のベーリング海峡が地続きであった時期にアジア系の人々が移住し、拡散したとされていたが、近年の研究によって遥か太平洋を横断して定着した可能性も示唆されており、日本人にとっても大変興味深い文明群である。いずれ必ず書く予定だが、赤道直下のエクアドル(そもそもエクアドルはスペイン語で「赤道」という意味)からは縄文土器が発掘されるし、ボリビアのモホス平原に2万個以上点在する「ロマ」(スペイン語で丘の意味)から発掘される人骨は180cm以上の巨人であり、遺伝学的にありえない。今この辺りに住むインディオたちとの連続性が全く感じられないばかりか、日本人の痕跡もあるのだ・・・。

モホス

南北アメリカの文明には高度な灌漑技術と自然との共生への知恵があり、いずれも神秘に満ち溢れていて、地球外生命体の存在でさえ疑っている人がいるほどである。インカ文明から遥かさかのぼると、ボリビアの高原に「モホス文明」という高度な文明が存在していたことも明らかになってきている。文明が無いと思われていた場所から青銅などの金属器も出土し、モース硬度最大がダイヤモンドで10、そのうち6.5から7という硬い鉱石であるヒスイを加工して、装飾品として身に着けた「高貴な人」もドイツ隊によって発掘された。ヒスイはビーズ状に加工されているが、一つの大きさはわずか0.8㎜。とてつもなく小さな断片に穴を空けている。ちなみに、高度7はナイフで傷をつけることができず、刃が傷む硬さである。鋼鉄のやすりが硬度7.5であるため、鉄器が存在しないのにヒスイをどのようにして細かく加工したのかが未だに不明なのである。(※このモホス文明についてはブログで書くので、こうご期待!!)

話を元に戻そう。

いずれにしても15世紀に存在したこの3つの文明全てがスペイン人によって征服され、滅ぼされた。このスペイン人の征服者のことを「コンキスタドール」と言い、代表的な悪名高い人物が、アステカを滅ぼしたコルテス。インカを滅ぼしたのがピサロである。コルテスは1519年に少数の兵を連れてユカタン半島に初めて上陸した。
途中のアステカにおける攻防の経緯は省くが、最終的に1521年の始め、コルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、アステカの若き王:クアウテモックは捕らえられたのである。

Hernan_Fernando_Cortes.jpg
<DATA>
エルナン・コルテス Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
■1485年~1547年12月2日
■メデジン、カスティーリャ王国
■コンキスタドール

また、南米のインカ文明を滅ぼしたのも、スペイン人:ピサロである。

Pizarro.jpg
<DATA>
フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro
■1470年頃 - 1541年6月26日
■スペインの軍人、探検家、コンキスタドール

このピサロは1531年、約180人の部下を連れてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。そして、インカ皇帝:アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。この時、アタワルパの身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、アタワルパが存在する限り先住民が彼をリーダーに担いで反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にして、1533年7月26日処刑を敢行したのである。この3度目の挑戦で、ようやくインカ帝国内部に潜入したのが180名だった。この180名が歴史に残る大虐殺と情け容赦のない略奪をおこない、歴史上、ヨーロッパより遥かに高度な文明を誇っていたにもかインカ帝国を滅亡に追い込んだのである。

これは詳細を述べよう。

当時のインカ帝国の人口は一千万を超えており、最盛期には約1600万人だった。インカ皇帝:アタワルパは、はじめ自ら数万の軍勢を率いてピサロ軍180人と対峙したとき、そのあまりの戦力差に戦後スペイン人達の処遇まで考えるほど余裕があったと言われている。だから、この戦闘に勝った後、スペイン軍の半分を神の生贄、残りの半分は去勢して王宮で使役させるつもりだったという。しかしピサロの軍180人は彼らが想像することができないほどの戦闘のプロであった。武器も強力で、インカ軍とは比較にならなかったのである。大広場での会見でピサロは、数万人の兵士に護られて油断し切っている皇帝:アタワルパにいとも簡単に近づく事に成功し、いきなり拉致を敢行する。それを合図に、スペイン兵が一斉に飛び出し、銃や大砲を撃ちまくった。

インカ帝国軍の石や骨で作った武器は、この戦いでは全く役に立たず、戦闘が始まって30分もしないうちに2,000人を超える死者を出し大パニックに陥ってしまった。皇帝のアタワルパは、これで捕虜となってしまい、この一戦で完全に戦意を喪失した。スペイン人が探している金銀を与えさえすれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロにエル・クアルト・デル・レスカテという部屋1杯の金と、銀を2杯提供することに同意した。ピサロはアタワルパの身代金として、この莫大な金銀財宝を受け取ったが、この約束は反故にされた上に、アタワルパは解放されなかったのである。

こうしてスペイン人達は思うままに財宝を手に入れたが、しだいにインカ軍の反乱を恐れるようになり、アタワルパを処刑した方がよいのではという意見が大勢を占めるようになってくる。アタワルパが存在する限り、インカの先住民が彼を担ぎあげて反乱を起こす可能性があるとして、ピサロはアタワルパを処刑にする決断を下す。まず、模擬裁判を行って皇帝が偶像崇拝を常習としたこと、実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した。ただ、インカでは、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖したという。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに進言した。やむなくアタワルパはこのキリスト教の洗礼を受けることに同意、洗礼名:フランシスコ・アタワルパを与えられ、キリスト教徒となった彼の要求に従い、火刑に代えて絞首刑となったのだ。
The_execution_of_Inca.jpg
<火刑に処されそうになったアタワルパ>

なお、スペインでは1992年から2002年のユーロ導入まで、スペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の裏面には、何とピサロ、表面にはコルテスの肖像が使用されていたのである。
コルテス紙幣

・・・なぜこの侵略の場に「バルベルデ神父」が参列しているのか?そうした疑問がわく。

実は、この当時スペイン人の征服とキリスト教布教とはセットなのである
スペイン人の征服者は自分たちの侵略行為が正当であるとしたのは、スペインが定めた勧告(レケリミエント)を実行したからである、という方便に過ぎなかった。これはアメリカへの武力征服が行われる前に、インディオに対して教皇からこの地の支配を認められたスペイン王(当時はカルロス1世)の支配に服するよう勧告することで、それに従わないインディオに対しては如何なる害を加えても良い、というめちゃくちゃな理屈であった。ただ、この勧告は、インディオの村を襲撃する夜明け前に、村の入口から離れたところで通訳を通して読み上げられただけで、征服者が自己の残虐行為を正当化するための形式でしかなかったのである。

つまり、武力で現地人を思いっきり制圧した後に、キリスト教による思想統一が行われるということだ

これが真実であるかどうが疑わしいという人も多いだろう。

しかし、それを客観的に検証する資料が存在している。それは彼が書いている。
Bartolomedelascasas.jpg

つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2

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