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「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 4

さて、「胡椒」の支払いには当時何が使われていたのだろうか?
紙幣はまだ流通しているはずがないし、このいわゆる「大航海時代」における共通の通貨もない。

そこで当時世界中が信用できるモノ、それは今も変わらず金と銀なのである。
ヨーロッパ絶対王政時代初期の重商主義政策において、「重金主義」というのがある。これは16世紀のスペインで典型的に行われたもので、海外植民地の金銀鉱山の開発や貴金属の輸出制限などの手段を通じて、貨幣獲得を重視する立場のことを言う。簡単に言うと、金の保有量の多さが国力を決めると考えることである。しかし、スペインにはこうした金山や銀山がないのである。

また、当時の世界で、食生活など様々な面で豊かだったのはヨーロッパではなく、アジア(日本を除く)と中東だった。つまり、経済学的な観点からすると、この辺りは物やサービスの生産力が高いので、その意味において当時はアジアの方が先進国だと言える訳である。物を輸出して儲かるという交易システムがアジアこそ盛んだったのだ。

しかも、8世紀の奈良時代に、あの正倉院の宝物にも胡椒が残っていて、日本でも既にこの時代には胡椒の交易があったことの証拠である。そのリストを示したものを「種々薬帳」(しゅじゅやくちょう)という。これは良い話なので、少し詳しく書いておこう。

種々薬帳1
<引用:「種々薬帳」前部 正倉院の『種々薬帳』 『漢方の臨床』42巻12号 1450-1452頁、1995年12月

聖武天皇が崩御された765(天平勝宝八)年5月2日から四十九日が経過した6月21日に、光明皇后は聖武天皇遺愛の品々であった、調度品・楽器・遊戯具・武具・装身具など約650点を東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ:いわゆる「奈良の大仏」)に献納した。この時に光明皇后は、天皇の遺愛品とは別に薬物も納めた。これが「東大寺献物帳」のなかの一巻である、上図「種々薬帳」で、ここに献納した60種類の薬物名と、その数量および質量などが列記されているのである。この巻末には、「病に苦しんでいる人のために必要に応じて薬物を用い、服せば万病ことごとく除かれ、千苦すべてが救われ、夭折(ようせつ)することがないように願う」といった願文が記載されていて、実際に、願いどおり薬物は持ち出されて病人を救うために役立てられた。光明皇后は貧しい病人に施薬や施療をするための「施薬院(せやくいん)」や、貧窮者や病人、孤児などを救うために「悲田院(ひでんいん)」も創設した、大変自愛の深い方であった。仏教に深く帰依(きえ)し、東大寺大仏造立を成し遂げた聖武天皇が大仏開眼(かいげん)からわずか4年で崩御されたため、光明皇后はとてもお悲しみになったのだという。
このような皇后だからこそ、体が丈夫でなかった聖武天皇を心配して、様々なまな薬物を揃えていたのだ。植物をはじめ、珍しい動物や鉱物などを、唐や新羅、東南アジアなどからも取り寄せていたことをうかがい知ることができる。その胡椒の一部がこの正倉院の宝物の中でに今でも残っている。


ここで話を戻そう。

16世紀には既に日本は金山と銀山の開発が進んでいた。ということは、生産物は他のアジア諸国と違って少ないが、支払いとして、金・銀が払えるのである。江戸時代末にとてつもない分量の金が流出したことは以前のブログで書いたとおりであるが(※歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題)、交易はいつの時代も需要と供給のバランスによって成り立っている。需要量が多いのに物が少なければ当然価格は上がる。

ここで前回までのヨーロッパ事情を振り返ってみると、次の流れだった。

ヨーロッパ人は肉食である。

肉は腐るし不味くなるが食べるしかない。

ずっと肉を美味しく食べるためには「胡椒」が必要であることがわかっている。

しかし、ヨーロッパには胡椒はない。

アジアから輸入したいが、オスマン・トルコ帝国が幅を利かせているので交易ルートの障害となっている。

ならば回避ルートを見つけよう。

いわゆる「大航海時代」が始まる。


こうして、胡椒にはプレミアがついていたことも以前示した。
需要量が半端なく多いのに、供給量が半端なく少ないからである。でも、肉を美味しく食べたいから胡椒はのどから手が出るほど欲しい。したがって、むしろヨーロッパ人の胡椒に対する需要量は、無限に近いくらいあったのではないか?

ただ、スペインやポルトガルには金や銀がない。では、どうするのか?大量にあるところから獲ってくるしかない・・・となるはずだ。

これが、マヤやアステカ、インカなのから略奪した金や銀などの宝物なのである。しかし、この宝物は略奪後に溶かされて通貨として使用された。つまり、スペイン人らにとってはインディオの宝物の歴史的な価値やデザイン性などまるで関心がなく、ただ香辛料貿易のための媒体として金・銀には唯物論的な価値があったのだ

西インド諸島やメキシコなどのスペイン植民地では、1503年から、「エンコミエンダ」という制度によって現地のインディオを労働力とすることが認められていたが、人道的観点から一時スペイン王室によって制度廃止が叫ばれてはいた。しかし、ポトシ銀山の発見により、銀の増産可能性が高まったせいで、ここでの労働力不足を補うために「エンコミエンダ制」の導入が加速していくのである。このボリビアにあるポトシ銀山はアンデス山中にある山で、ここでの銀は1545年にインディオがリャマを追って山に入った時、銀鉱を発見したことに始まる。その発見がスペイン人に知れて、この銀鉱をスペイン人が採掘権取得したのである。そして、この銀山の採掘強化のために再開されたのが、「エンコミエンダ制」というシステムだ。これは、スペイン人入植者に対して、現地のインディオをキリスト教化(きょうげ)を預託する代償として、インディオを労役に従事させることのできる制度である。
つまりは、キリスト教を軸にした強制的労働制度である
これによってヨーロッパでは、「価格革命」というまた別の負の側面が出てきたしまったことはブログにも述べた。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題」

ここで「彼が」登場する訳である。

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バルトロメ・デ・ラス・カサス
<DATA>
■Bartolomé de las Casas
■1484年8月24日 - 1566年7月17日
■スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。

ラス・カサスには、1552年に出版され、日本では染田秀藤訳で1976年に岩波文庫から出版された「インディアスの破壊についての簡潔な報告」という本がある。ここには次のような記述がある。

「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。」

この内容に触れる前に、「インディアス」という聞き慣れない単語があるが、これについては次の記述に詳しい。

「コロンブスは、現在いうインドに行こうとしたのではなかった。現在のインドは「ガンジス川内のインディア」というインディアスの一部でしかない。彼が目指したのは「インディアス」陸塊の東にあるインディアス大半島であった。その東端にはシパンゴ、つまり日本があると考えていた。彼が大洋横断の基点をカナリア諸島におき、そこから北緯28°にそってほぼ真西に進んだのは、当時、マルコ=ポーロのいう黄金のシパンゴ島は北緯5°から35°の間に伸びていると考えられていたからであった。」
<「コロンブス」増田義郎 岩波新書>
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ラス・カサスはこの他にも有名な「インディアス史」など、複数の書物を書いているが、そのほとんどは彼がアメリカ大陸で経験したスペン人の蛮行についてである。1502年にラス・カサスはインディアスに渡り、はじめ彼自身もインディアンを奴隷として所有使役しながら、農場を経営していた
しかし、コルテスらの軍の、あまりの蛮行に心を痛め、1514年8月15日には熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らの「エンコミエンダ」を放棄した。そして、サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中で、この「エンコミエンダ」の矛盾を厳しく糾弾したのである。

ラス・カサスの資料に客観性がある、という理由はここなのだ。自らもインディアンを所有していたのに、自分たちの国の人間の蛮行に気づいて改心したという点から、ラス・カサスの資料はスペイン人たちの当時の常識を知る一次資料となっているのである。

実はこうした過去のスペイン・ポルトガルから、現代のある現象をも読み解くことが可能である。
次回はいよいよそれに迫ってみよう。

つづく

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 2
「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 3

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