CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

1:大浦天主堂 1

大浦天主堂。副理事長と、この冬一番の極寒の寒風吹きすさぶ中、物好きも程々にしろと方々で揶揄されつつ行ってきました。
今回はその創建にあたって、どのような経緯があったがに焦点を当てます。

大浦天主堂正面
正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」といい、日本にある天主堂の中で最古である。「ふらんす寺」とも呼ばれた。
長崎は事始めが大変多いことに改めて気づく。

<DATA>
■着工:1863(文久三)年12月
■竣工:1864(元治元)年12月
■完成:1865(元治二)年 2月19日(旧暦1月24日)
■設計者:フランス人宣教師 ルイ・テオドル・フューレ(Louis-Theodore Furet, 1816年 - 1900年)神父&ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)
■建築者:小山秀之進
■建築様式:ゴシック様式・リブ・ヴォールト天井(別名 コウモリ天井・柳梁天井)。空間を天上へ導くゴシック様式の教会に多い。
Oura_Church_Nagasaki.jpgquatation:Chris_73※天主堂内部は撮影不可。
■国宝指定:1933(昭和8)年1月23日
■国宝再指定:1953(昭和28)年3月31日

「日本二十六聖殉教者天主堂」の名の通り、日本二十六聖人に捧げられた教会堂であり、彼らの殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。
ちなみに筆者の実家は西坂町で、この二十六聖人のすぐ近くに住んでいて遊び場にしていたのであるが、このような事実があるとはつゆ知らず子供時代を過ごしてきた。長崎の、いや日本の重要な歴史が身近にあるのに、長崎の子供が何も知らずに成長してしまう…。これがこのブログを始める契機の一つともなっている。

この天主堂は創建されたいきさつは、まずアヘン戦争(1840~42年)にまでさかのぼる。
戦後1844年にフランスにも開港したチャイナだったが、パリ外国宣教会は既に東アジアへの布教を行っていた。日本の開国も近いとローマ教皇庁は、琉球で日本語を学んだフォルカード司教を長崎に上陸させようとするが拒絶されて彼の来日は果たせないままだった。このフォルカード司祭は、あのルルドの奇跡、ベルナデッタ・スビルーの愛徳女子修道会の入会を斡旋した人物である。
フォルカード司教
引用HP:聖母に出会った少女、ベルナデッタの歌

琉球ではその後も多くの神父が日本語を学んでいる。日仏条約締結の翌年、1859年にはジラール神父がフランス総領事通訳として来日し、1862年に横浜の外国人居留地に天主堂を創建。
ジラール神父
ジラール神父
このジラール神父が日本布教総責任者となり、今度は長崎に天主堂を建てるために琉球で学んでいたフューレ神父を1863年に派遣する。元々この天主堂創建には、1597年に殉教した二十六聖人を保護者と仰ぐためという目的があり、西坂の地に建てたかったのであるが、御触れにより居留地以外での建設が許可されなかった。だからこの天主堂は西坂に向けて建てられたのである。二十六聖人はこの年、ローマ教皇ピオ9世により列聖されている

フューレ神父
フューレ神父
1863年8月、司祭館が完成する頃にはプティジャン神父も加わったが、フューレ神父は禁教化での信者獲得が困難であることを悲観して翌年10月に帰国してしまう。
あとを継いだプティジャン神父だったが、棟梁の小山秀之進らが工事中止の態度に出たことで苦境に立たされる。しかし、長崎奉行(※当時は服部常純:はっとり つねずみか?)が工事人夫を3倍に増やしてくれたおかげで、予定通り師走までに工事が終了。
翌1865年2月19日には献堂式が行われ、居留地に住む多くの異国人が参列した。

大浦天主堂はパリ外国宣教会本部を模して造られたことが2007年1月に判明した。私も少しお世話になった、長崎総合科学大学・林一馬教授が発見した、以下の設計図からである。
大浦天主堂パリ外国宣教会本部
完成後の画像と比較すれば酷似していることが見て取れる。
大浦天主堂上野彦馬江崎べっ甲店所蔵
創建時大浦天主堂:上野彦馬撮影 江崎べっ甲店所蔵

天主堂が創建された3年後である1868年(明治元年)、星取山から大浦居留地越しに長崎港を俯瞰した写真。矢印の先端に天主堂の尖塔が小さく見えている。
大浦天主堂1868年ごろ星取山から長大図書館
大浦天主堂(1868年頃)星取山から 長崎大学附属図書館所蔵

別角度からの画像で、1872年(明治5年)に上野彦馬がドンの山中腹から撮影した居留地の風景。大浦天主堂は左端に写っているが、創建時の尖塔の両サイドは取り払われていることがわかる。
外国人居留地1872年上野彦馬長大図書館
外国人居留地(1872年) 上野彦馬撮影 長崎大学付属図書館所蔵

洋館が多く立ち並ぶ居留地の繁栄がよくわかる一枚であろう。海上にも多国籍の船が停泊していて、長崎はまさに異国情緒あふれた景色が展開した街であった。

こうしてたった一つの教会の創建を知悉するだけで、キリスト教布教というのは大変な使命感をもって行われた事業であることが理解できる。

2017年1月21日、明日より「沈黙―サイレンス―」(マーティン・スコセッシ監督)が公開される。
もちろん、原作は遠藤周作の「沈黙」。もうずいぶん前に読んだ小説だけど、この作品以来、遠藤周作の作品はエッセイまで含めて数多く読みました。「沈黙」の内容に関しては様々な異論はあるにしても、遠藤周作は人物的にもとても大らかで素晴らしい人です。



また外海の遠藤周作文学館に行きたくなりました。

遠藤周作文学館


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