CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 3

予め、一連の記事を書くにあたって、参考にした主な文献を列挙しておこう。

「鉄炮記」 文之玄昌
「鉄砲伝来考」 坪井九馬三
「種子島譜」 1677年
「種子島家譜」 1805年
「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽二十二年)~1867年(同治六年)
「新旧発見記」 アントニオ・ガルバン
「日本教会史」 ジョアン・ロドリゲス
「東洋遍歴記」 フェルナン・メンデス・ピント
「エスカランテ報告」 ガルシア・デ・エスカランテ・アルイヴァラード


いずれも、これまでに様々な研究が行われている文献である。
これらの内容を比較対照することが求められるわけであるが、信頼のおけるものとしては、やはり「エスカランテ報告」ではないかと思われる。

この「エスカランテ報告」はガルバンの「新旧発見記」と比べて、その目的が異なるのである。つまり、前者がメキシコ副王に宛てて書かれた内部報告書であるのに対し、、後者は公開を目的としたものであるということ。したがって、「エスカランテ報告」はあえて誇張や虚構を書く必要がないということ。ガルバンの「新旧発見記」はポルトガル帰国後編さんしたものを、彼の死後、友人によってまとめられて1563年に出版されたものである。だから、帰国後に伝聞情報によって書かれているので、一級資料とは呼べず、内容自体に確からしさを求めることができないのである。

これに対し、そもそも、この「エスカランテ報告」とは?

1542年、メキシコ副王がルイ・ロペス・デ・ヴィリャロボス率いる艦隊を派遣。これは新大陸とアジアへの航路開拓を目指すものであった。エスカランテはこの艦隊の商人頭だった。この途上、ポルトガル勢力圏にあったモルッカ諸島のティドレ島に至った際、ポルトガル人でティドレ島の隣の島であるテルテナ島守備隊長(※「カピタン」という):ジョルダン・デ・フレイタスより停泊が認められた。このカピタンの兄がディオゴ・デ・フレイタスというが、その時にこの兄であるディエゴから得たと思われる情報がここで重要なのである。

その内容を以下にまとめると次のようになる。

① ディエゴ・デ・フレイタスがシャム(現在のタイの古名)に停泊していた時に、レキオ人たちのジャンクが一隻やってきた。この「レキオ人」とは「琉球人」のことだとされている。ポルトガル人たちは彼らとここで良い交流を持った。

② ある時には、フレイタスと一緒にシャムにいたポルトガル人二人がチナ(China)沿岸で商売をしようとして、一隻のジャンク船で向かったのであるが、彼らは暴風雨に遭遇し、レキオス(琉球)の、ある島へ漂着した。そこで彼らは国王などから手厚いもてなしを受けたが、それはシャムで交流したあのレキオ人らのとりなしによるものであった。そして、食料を提供されてここから去った。

③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

この「エスカランテ報告」にはこの二度のレキオス渡航の年代が記載されていないが、フレイタスが1544年にシャムを去ってマラッカを経てテルテナ島に到達しているため、レキオス渡航の1度目は1542年、二度目が1543年だとシュールハンマー氏など、様々な研究では考えられている。

この二度のレキオス渡航が、ガルバンの「新旧発見記」と類似するのであるが、最も異なる点は「新旧発見記」では「種子島」へやってきたという。しかし「エスカランテ報告」では「レキオス(琉球)」にやってきた、という点である。
更に考えなければならないポイントは、ポルトガル人らの友人となったあの「レキオ人」たちのことである。つまり、果たして彼らは種子島からやってきたのか、それともレキオス(琉球)からやってきたか、ということである。

ここで、次の資料の出番となる。

「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る443年間
「歴代宝案」 
収録期間は1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る444年間 であり、、琉球王国の外交文書を記録した漢文史料。1集49巻、2集200巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の全270巻からなるが、現存するのは1集42巻、2集187巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の計250巻である。大変資料的な価値が高い文書である。

この時代に琉球国王であったのは、尚清王(しょうせいおう)1497年(弘治10年) - 1555年7月13日(嘉靖34年6月25日)で、琉球王国第二尚氏王統の第4代国王である。
この信頼のおける文書において、1541(嘉靖十九)年と1541(嘉靖二十)年に一艘の貿易船をシャムに派遣しているという記述がある。
そこで、先ほどのフレイタスらが交流を持ったというのが、この琉球王国から派遣され、貿易船に乗ってやってきた琉球(レキオ)人であろう。そして、1542年にポルトガル船が漂着した際に歓待したのが、種子島ではなく、やはり琉球ではないか?

次回は、なぜこのポルトガル人らの二度目の来航を拒否したのか、という点について考察してみたい。


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