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CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -

寄り道イギリス編。最後の舞台となるのは長崎の平戸です。

平戸
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

「三浦按針」の「三浦」姓は、現在の横須賀市逸見(三浦半島)に、250石(220石という説もあります)の土地を与えられ、外国人としては唯一の、農民を抱える領主となったことにちなんでいて、「按針」の名は航海士(=水先案内人)という意味であるといいます。もともとイギリスの貧しい平民だった三浦按針は、ここの領民たちを大切にして、公平に接したので、領民たちからも大変慕われたといいます。

三浦按針の足跡
昭和24年〈1949年〉7月15日に建立除幕されたE・ブランデン碑と按針の胸像(昭和62年〈1987年〉8月10日除幕)と帆船建造400周年に建てられた標柱(平成16年〈2004年〉12月23日除幕)
引用:三浦按針の足跡

この三浦按針ことウィリアム・アダムスは、家康の命を受けて日本で初めて洋式帆船:80トンを建造しています。この船は日本の沿岸測量に活躍しました。更にいろいろあって、120トンの「サン・ヴェナ・ベンツーラ」とい大型外洋帆船を建造しました。船は難破したマニラ総督に貸して、日本で初めて太平洋を渡り、メキシコのアカプルコへ行っています。

ところで、このメキシコのアカプルコは以前「肥前の妖怪」 鍋島直正 3」で書いた、伊達政宗からヨーロッパ行き命じられた支倉常長(はせくらつねなが)が立ち寄った所でもあります。
支倉航路図
引用:サン・ファン・バウティスタの航海と支倉常長の辿った足跡

支倉常長を大使とする慶長遣欧使節団は、1613年10月に乗組員約180名で仙台領月ノ浦港から、まずメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)に向け出港しました。


最近の研究によれば、この直前に甚大な津波被害を受けた仙台では、経済復興が急務だったので、仙台とメキシコ間の直接の通商関係を樹立することにあったといいます。併せて、被害を受けた仙台藩領内で領民を救うための秘密裡でのスペインとの交易であり、そのためのキリスト教の布教を行うための宣教師の派遣であり、そして、最も必要としていたと考えられるのが、当時世界有数の銀生産国であったメキシコの銀生産技術を獲得することです

経済とは「経世済民」であり、人を救うことが本義です

この伊達政宗の意向と同様に、家康が直接イエズス会を派遣しているカトリック国スペインへ、ではなく、アメリカ大陸でスペイン領メキシコに行ったのも、イエズス会の影響力が弱いが、非常に効率良い銀の加工技術の習得出来るからなのです

この加工技術を習得した日本は、その後、金と銀による豊かな貨幣経済を享受できるようになっているのです。のちにこの豊かさがアダとなってしまいますが…。(※「歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題」 参照)

三浦按針は日本で妻子を持ちました。イギリスへ帰る機会もありましたが、結局はその生涯を日本で終えています。
その最期の地が長崎の平戸でした

慶長十四(1609)年7月には、徳川家康がオランダ人に日本通商免許を与え、9月にはオランダ商館が平戸に建てられます。更に、慶長十八(1613)年にはイギリス人も通商特許を与え、平戸にはイギリス商館も建てられます。けれども、のちに幕府のキリスト教排斥で、この平戸の商館とともに外国人墓地も破壊されたので、その際に三浦按針の埋葬地が分からなくなっていました。当時のヨーロッパで、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントの戦いのことなど、当時の日本人に、ましてや平戸の領民に知る由もありません。これは致し方ない処遇だったのかもしれません。

しかし、1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」という伝承のあった墓から、遺骨と遺品の一部が発掘されます。また、三浦家は通詞(つうじ)の末裔(まつえい)で、按針の墓を守りたい人によって、密かに遺骨の一部をもらいうけて、そこに埋葬したという口伝があったのです。

今年の夏に次のような記事が出ました。

平戸市 按針の子孫調査方針 英故郷に協力求め /長崎
毎日新聞2017年8月3日 地方版

 平戸市の黒田成彦市長は2日の定例記者会見で、徳川家康の外交顧問を務めた英国人航海士、ウィリアム・アダムス(三浦按針(あんじん))の没後400年の2020年を目標に、按針の子孫を捜す方針を明らかにした。市内の「伝三浦按針墓」から7月に見つかった人骨について、抽出するDNAを子孫と照合して按針の骨か確かめる。
市は来年度以降、関連予算を計上。按針が生まれた英国メドウェイ市や、按針が洗礼を受けた記録が残る教会に協力を求めるなどして子孫を捜す方針。黒田市長は「按針の骨か追究したい」と話した。
 按針は1564年、ジリンガム(現メドウェイ市)に生まれた。オランダ船で1600年に日本に漂着し、オランダ、英国商館の平戸設置に尽力。平戸滞在中の1620年に死亡したことは分かっているが、埋葬地は不明となっている。
 市は6月27日~7月24日、1931年に発掘された記録に基づき伝按針墓を再発掘。西洋系の特徴である長方形の墓坑(縦2メートル、横80センチ)と骨片約100個を見つけた。
 
【峰下喜之】〔長崎版〕
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 のち、三浦按針は慶長十四(1609)年、この長崎の平戸「イギリス商館」の開設に関りました。
イギリスは、あのヨーロッパでの苛烈な宗教戦争とアジア貿易を巡る混乱を抜け出すために画策した日本への派遣が、ようやくこれでウィリアム・アダムス(三浦按針)によって、その国家の命(めい)が成就されたのではなかったかと思います。しかし、もうエリザベスは6年前に亡くなっていました。それは江戸幕府が成立した年、1603年のことでした。

ウィリアム・アダムスにとっては、その達成のため、ヨーロッパに残した妻と子2人との別れもありました。途中で弟もインディオに殺されています…

もちろん、イギリスはウィリアム・アダムスだけに日本とのアジア独占交易の命(めい)を託した訳ではないと思いますが、結果的に彼らの5隻の船団は、命からがらリーフデ号しか目的地の日本に辿りつけませんでした。
江戸の方へ回航後にリーフデ号も国へ帰ることが出来ずに沈んだと言われています。

そして、高速の通信手段がない17世紀では、アダムスの消息も完全に本国とは絶たれたのです

日本で家康に引見した時のアダムスの心理を推し量るに、もしもこの過酷な航海が国家を背負ったものであったなら、途中で多くの命が失われ、日本へ辿りつけなかった仲間たちのためにも必ず成果を残したい、そう思ったのではないでしょうか

これは裏返すと、一歩間違えば家康に思いが伝わらず、カトリックの宣教師が進言したように処刑される危険だって十分にあったのです。

結果として、将軍:家康からの破格の栄達を賜り、その後日本で家族を持ち、母国への思いを馳せながら日本人になっていったアダムスが、最後にやって来た地:長崎の平戸で何を思い、何を考えて生涯を閉じたのか…。

果たして、これほど将軍から絶大な信頼を得るに足るものとは一体何だったのか?


ボクはこの平戸を何度訪れたかわかりません。その度に、400年という果てしなく長い時を隔てて、アダムスがこの変ることのない美しい海から同じ夕日を眺めたんだと想像します。
平戸夕日
沖縄の海よりも綺麗!まるで海外のような長崎「人津久」が美しすぎる

アダムスは落ちる夕陽の方角で、遥か西方にある故国イギリスに思いをはせていたかもしれません。

そうしてボクは、これからも年変わることのない平戸の海のほとりに立って、このどこかに今でも眠っているハズの彼の冥福を祈ります。

定説通りに偶然漂着しただけかもしれないウィリアム・アダムスであったとしても、彼が日本とイギリスの歴史的転換点の大きなファクターであることには誰もが、何の疑いもないでしょう。

たとえ計らずとも、日本はデ・リーフデ号の来航によって確実に歴史の潮流が変化したのです。大量の武器をもたらしたことで「関ヶ原の戦い」では徳川家康を天下人にしました。逆説的な言い方ですが、戦争によって戦乱の世が終わり、のちに265年続く太平の世が創出されたのです。それが日本にとって正しかったのか、悪だったのかは今のボクの価値観からはよくわかりません。

また、およそ40年後には、商業圏の覇権を巡りプロテスタントの友好国であった、このイギリスとオランダは4次に渡る大規模な戦争へと駆り立てられていきます。更に19世紀初頭には、ナポレオン・ボナパルトによってオランダがヨーロッパから無くなってしまう時も到来するのです。

見知らぬ遥か異国:日本へのウィリアム・アダムスの派遣がなければ、そしてその功績がなければ、のちに江戸の大繁栄を築いた貨幣経済の発展する契機すら失われたままだったかもしれません。

ウィリアム・アダムスがイギリスに残してきた二度と会うことのない妻子、そして我々日本人に遺したもの…

奇しくも彼が乗ってきた船名「Liefde(リーフデ)」は、オランダ語で「愛」というのです

william adams2

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「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

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