CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

8:大野教会堂

ウチからバイクでおよそ45分、長崎の海で最も美しい景色が見れる「外海(そとめ)」。
海の碧さも、サンセットの美しさも素晴らし過ぎます。

外海の夕日
右手にはかつて炭鉱の島で、2,001年11月29日に閉山した「池島」も見えます。

遠藤周作「沈黙」のトモギ村から少し離れた大野地区。
もう、何度ここを訪れたかわかりません。その景色だけでなくて、何かこう空気がDNAに作用する気がするんですよね・・・。

こんな奥深い所に、来年世界遺産となるかもしれない「大野教会堂」があります。長崎の教会も様々な姿をしていて、これまで訪れた教会は豪華さ、立派さ、綺麗さが先んじたインプレッションでしたが、外海にあるこの大野教会堂はこれらとは全く異なるものです。
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この教会は角力灘(すもうなだ)や東シナ海を望み、五島列島が遠望できる小高い丘に建っています。
あまりに鄙(ひな)びていて、お世辞にも物理的に豊かさを感じることのないこの教会が、どうして世界遺産の候補なんだろう?という疑問はありました。

この大野地区だけでなく、外海には黒崎や出津(しつ)などがあって、そのほとんどが潜伏キリシタンの部落となっていました。出津教会にいらした、この辺りの「さるくガイド」の方とも詳しく話をしましたが、ここらは佐賀鍋島藩が統括していたのではなく、大村藩の領域だったというのです。だから、キリシタン大名ともなっていた大村藩だから、あまりに町の中心から離れたこの辺りの方がむしろ独自の信仰を守るのに都合が良かったということかもしれません。

そして、やはりこの外海を語る上で、日本のキリスト教の歴史上で、その「愛」という観点からすると最も偉大な人物がいらっしゃいます。それが、フランスからやって来た
マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)神父です。

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< DATA >
1840年3月26日~1914年11月7日
フランス:ノルマンディー地方ヴォスロール出身
長崎の大浦天主堂にて死没


さるくガイドのお話では、外海においてド・ロ神父はもう神様と同じく、誰もが最大級の尊敬をしている人物だそうです。

もちろん、ド・ロ神父については、筆者も尊敬しているので、このブログでも後に「長崎の偉人編」カテゴリーにて詳細に紹介するつもりです!

ド・ロ神父はこの外海の人達を物・心両面で救った、知れば知るほど本当に素晴らしい神父様だというのが分かります。彼は貴族であったために大変裕福な生活を送っていたのに、遠く離れた日本にやって来て、その財産を外海の人達を救済するのに投げ打って、貧困にあえぐこの村人たちを救うことに生涯をかけたのです。

そのド・ロ神父がフランスで学んだ多くの技術を駆使して、この大野地区の人達のために自費を惜しみなく投じて建造したのが、大野教会堂です。

ここは平屋建て、瓦葺きの教会で、一見するととても不思議な建物であることが分かります。北面と東西側面の外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれ、玄武岩の切石を漆喰(しっくい)で固めた、外海の至る所でよく見られる壁の構造をしています。
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内部は板張りで、人が20人も入るといっぱいになるほどの広さで、中央にはイエス様を抱いたマリア様の像もありました。
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こんな狭いところでも、過酷な弾圧下で潜伏していた多くの信者さんたちが心を救われたんだなと想像すると、じわっと涙が出ました。

海を背にして、綺麗なお顔のマリア様も立っていらっしゃいます。
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鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」の堀川兼通公太政大臣の章、こんな一説があります。

人の祈りは、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。ただ心に入りたるが験(げん)あるものなり

「心」がそこに存在するかどうか。

洋の東西を問わず、これが普遍的な真理であるのではないか、そういうことを考える契機となる教会です。

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4: 聖フィリッポ・デ・ヘスス教会

まだ子供の頃、こんなに遊び場にしていた場所はない、というのがこの日本二十六聖人記念堂です。

なのに、この歴史は全く知らない。というか、誰も教えてくれなかった、というのが正しいように思います。
ただ、夕方まで遊んで、この独特なフォルムの教会の横を通って家に帰る時、正直この見慣れない外観がどことなく怖かった印象がありました。

高校で芸術をやって、はじめてこの建築があのアントニオ・ガウディの研究者で建築家:今井兼次氏による特殊なデザインだということを知りました。

聖フィリッポ・デ・ヘスス教会26聖人から
26聖人の広場から

ちなみにガウディは、もちろん「聖家族教会:サグラダ・ファミリア」の設計者。この教会の尖塔もこれに模しているけど、それよりも、ボクにとってはこれら、
カサパトリョ
<カサパトリョ>
コロニア・グエル
<コロニア・グエル>
この二つに、より近い感じを得ていました。

西坂の丘で殉教した26人が列聖されたのが、その殉教から約250年後。この聖堂は、列聖100年を記念し日本二十六聖人記念レリーフが今井兼次氏によって建立されたのが昭和37(1962)年。
「日本二十六聖人記念館」と同時期に日本のカトリック系の人々が中心となって建てられました。

設計は「日本二十六聖人記念館」同様、今井兼次氏によるものです。昭和の初め頃、アントニオ・ガウディを日本に紹介したのがこの今井氏です。彼がカトリック信徒だったので、信仰と建築が一体となった中世カトリックの世界を実践し続けたガウディの創作方法に心底共鳴し、この聖堂にガウディのエッセンスを盛り込んでいる、というのです。

26聖人を象徴するものは教会内部でも垣間見ることができます。

祭壇26聖人

こうした26個の大きさの異なる十字架をあしらった意匠の祭壇があります。

また、こじんまりとした聖堂でしたが、とても幻想的な雰囲気に満ちているのが印象的でした。

背面

そして、ここには聖なる遺骨も安置してあります。

26聖人遺骨室

これは、聖パウロ三木・聖ヤコブ喜斎・聖ヨハネ五島の遺骨の一部が収められてる遺骨室です。
さすがに開けて撮影しようとは、畏れ多くて出来ませんでした。

この聖パウロ三木の殉教に直面した言葉が後世に残るものです。

「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。」

「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王(関白)とこの私の死刑に関わったすべての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」


これは、26聖人の殉教を直接見聞したフランシスコ会員マルセーロ・デ・リバデネイラが、マニラに追放後書き記したパウロ三木の最後の説教だそうです。

・・・果たして、自分がここまで死ぬ間際に、こうした利他的で、一種の悟りを開けるものだろうか?

西坂の丘を1981年2月26日、ボクらが小学6年生の時、雪が舞い散る中をヨハネ・パウロ2世がいらっしゃいました。
今でもその時の事ははっきりと覚えています。学校帰りに友達数人とここまで学校から走ってきて、訳もわからずパウロ2世と間近でお逢いしました。

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<日本二十六聖人記念堂内 ※特別な許可をいただき撮影しました>

隣にある「日本二十六聖人記念堂」も、あまりの資料の充実ぶりに、これで500円か?と疑ってしまうほどでした。
そのインプレッションは副理事長が書いてくれてます↓
お母さんが預かったお年玉の行方 「沈黙」編

次回は、この日本二十六聖人記念堂について触れたいと思っています。





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2:中町教会

今回は長崎駅のすぐ近く、「中町教会」です。副理事長祐さん&鶴ちゃんと一緒に先日訪れてみましたが、筆者とは幼い頃からの縁のある教会です。
まずは、インプレッションから。

改めて見ると、
あれ、こんなに大きかったっけ? と思うほど天井が高く、解放感があります。キリスト教建築は「天」へいざなうようこのような様式になっている所が多く、信者が中へ一歩印すと、そこから既に心理的に解放感を得られる作用が働くように配慮されているんだなぁと、つくづく感じます。

内部2Fより
<教会内部2Fから>

外観は高い尖塔を持つゴシック様式です。
尖塔
<教会南側尖塔>この日は雲一つない冬空の碧さと教会のコントラストが良かったです。

西側
<教会西側入口>

また、聖堂内部は「主の誕生」から「聖母の戴冠」までのストーリーとして、イエス様とマリア様に関連する、1982年ミラノ・グラッシ作の10種のステンドグラスが壁面に表現されています。
内部東側壁面ステンドグラス
10種の詳細は、中町教会公式ページ:聖堂内のステンドグラスよりドウゾ。
西からの陽光が射して、柱にステンドグラスの色彩が映っている姿がイイ感じでした。

中町教会の歴史
< DATA >
■ 明治二十二(1889年) 教会設立を開始。 創立者:島内要助神父
■ 明治二十四(1891年8月) 教会建設着工。
■ 明治三十(1897年9月8日) 献堂式を挙行。
■ 昭和二十(1945年8月9日11:02)アメリカによる 原爆投下。教会は外壁と尖塔を残して焼失。
■ 昭和二十六(1951年10月) 教会再建。

元々ここはキリシタン大名:大村純忠(※日本ではなかった!?「小ローマ」:異国の長崎 参照)の大村藩蔵屋敷があった所で、あの26聖人殉教の歴史をもつこの地に、島内神父が日本人のための教会を建てようと志し、苦労の末、明治22(1889)年の暮に教会設立の仕事に取りかかったとされています。1889年といえば、大日本帝国憲法が創られた年ですね。

大村藩蔵屋敷跡2
<大村藩蔵屋敷跡>

中町教会は、フランスのパピノー神父の設計で、明治二十四(1891)年8月より建設に着手され、三十(1897)年9月8日聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行されました。この教会建設にあたっては、フランスのある婦人の当時の金額で8万フランにものぼる寄付や、多数の恩人の協力があった、という記述が紹介されています。ここでも、大浦天主堂(※「1:大浦天主堂」 参照)と同じくフランスの人たちが大きく関わっています。長崎といえば、オランダ、という印象が強いですが、こと、キリスト教の歴史においてはフランスの影響が大変強いことがわかります。

しかし、この教会も昭和二十(1945年)8月9日午前11時02分、アメリカによる原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失しました。しかし、昭和二十六(1951)年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。
そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けています。(教会の門の側に銘版が設置されています↓)
米国戦略爆撃調査団撮影プレート
<米国戦略爆撃調査団撮影画像のあるプレート>

また、「26聖人殉教者」がバチカンで1862年に列福(れっぷく)されて以来、実に125年ぶりの1987年10月18日、バチカンの聖ペトロ大聖堂前で、長崎にも訪問されたことのある時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって、トマス西と15瀬殉教者たちが荘厳に列聖(れっせい)されました。
彼らの内訳は次の通り。

<日本人>
1:聖トマス西(司祭) 平戸 1643年11月17日殉教 
2:聖ヤコボ朝長(司祭) 杭出津 1633年8月17日殉教
3:聖ビセンテ塩原(司祭) 長崎 1637年9月29日殉教
4:聖マテオ小兵衛(修道士) 1633年10月19日殉教
5:聖フランシスコ正右衛門(修道士) 1633年8月14日殉教
6:長崎の聖マグダレナ(修道女) 長崎 1634年10月15日殉教 
7:大村の聖マリナ(修道女) 肥前大村 1634年11月11日殉教 
8:聖ミゲル九郎兵衛(信徒) 1633年8月17日殉教
9:京都の聖ラザロ(信徒) 京都 1637年9月29日殉教


<異国人>
11:聖ロレンソ・ルイス(信徒) フィリピン・ビノンド島 1637年9月29日殉教
12:聖ドミンゴ・エルキシア(神父) スペイン 1633年8月14日殉教
13:聖ルカ・スピリト・サント(司祭) スペイン 1633年10月19日殉教
14:聖メゲル・アオザラザ(司祭) スペイン 1637年9月29日殉教
15:聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭) イタリア 1634年11月17日殉教
16:聖ギョーム・クルテ(司祭) フランス 1637年9月29日殉教


16聖人-1
16聖人-2

彼らはキリシタン弾圧が激しかった17世紀初期(1633~1637年)に長崎で殉教しました。彼らは激しい迫害に耐えながらも、信仰のために強い信念をもって命をかけた人たちです。


教会のリーフレットによれば、キリスト教では「殉教者の血は信者の種」 と言うそうです。つまり、日本のカトリック教会は、日本26聖人殉教者・日本205福者殉教者・聖トマス西と15殉教者らによって、その存在の証となしているというのです。

こうした世界史と日本史上、苛烈なキリシタン迫害があったから、その存在意義と信仰が強化されていったという事実の因果関係を考察すると、人間とはなんて皮肉な存在なのかという思いに駆られます。誰もが心の安寧や自由を求めているはずなのに、この歴史で証明された事実として、それを達成するためには「迫害」が必要であるという結論に帰着するからです。

確かに、「十字軍」などの、むしろキリスト教徒による暴虐などの側面も忘れてはならないことです。しかし、この根本的な人間存在の矛盾こそが現代における大小様々な諍(いさかい)いごとを、特定のバイアスなしに理解しうる「核」となるものだと思います。
長崎の教会訪問によって、いきなりこのような大きな命題に直面して自分なりにもちょい驚きですが、これまであまり考えてこなかった「信仰」とは何なのか?ということに関して深く考察する必要があるようです。何も、この近世におけるキリスト教信仰だけではなく、人類は数万年前の原初から人々を埋葬したり、死者のために花を捧げたりという何らかの信仰を基盤にしているという事実があるからです。

最後に、中町教会にあるイエス様像について触れておきます。
聖堂内部にあるこのイエス様の像は平成十六(2004)年に奉献されたまだ新しい像です。その由来は、フウランシスコ・ザビエルにあります。
内部イエス像
<聖堂内部にあるイエス様像>

この像は、スペイン・バスク地方にあるザビエル城にもともと安置されている「ほほえみの十字架」と言われている像を元に制作されたそうです。

スペインバスク地方ザビエル城イエス像
<スペインバスク地方ザビエル城イエス像:ほほえみの十字架>
「ドイツ再発見」より

フランシスコ・ザビエルについては、カテゴリーを新たに作って必ず特記しなければならない、我々日本人にとってきわめて重要な人物です。
いずれこのブログにて書きます。

中町教会入口壁
中町教会公式ページ




テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

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日本ではなかった!? 「小ローマ」:異国の長崎

長崎の開港は元亀(げんき)二(1571)年。

日本を離れて、何と勝手に異国の地となってしまった長崎について。世界が知る貿易港として開かれるまでの、その数奇な運命をたどった歴史的経緯を、キリシタンとの関わりと共に軽~くたどってみましょう!


ポルトガル船の来航以来(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!?」参照のこと)、天文十九(1550)年に長崎で初めてポルトガル船のために貿易港として開かれたのが「平戸」であった。阿蘭陀はまだまだ主役ではない。

そして、あのイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルが京へ上る途上、1550年8月に訪れたのがここ平戸である。

しかし、松浦(まつら)氏の領土であったこの平戸で、14名のポルトガル人殺傷事件が発生する。これを永禄四(1561)年の「宮ノ前事件」という。この事件以来、ポルトガル人は新しい港を探していたのであった。

翌年、当時長崎の有力な支配者となっていた大村純忠(おおむらすみただ)は、この事件を知ったのち、ポルトガル人に大村領であった横瀬浦(西海市)の提供を申し出て、今度はこの横瀬浦がポルトガル貿易港へと変貌する。ここには、ポルトガルとの貿易に際し、イエズス会宣教師はポルトガル人に対して大きな影響力を持っていたから、というのが純忠の思惑であったとされている。

また、イエズス会士には住居の提供なども行い、教会も建設。純忠の思惑通り、大村領横瀬浦は貿易港として大変賑わった。この横瀬浦では、貿易目的の商人に10年間税金を免除する等の優遇措置をとっている。ただし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊したり、先祖の墓所も打ち壊したりした。横瀬浦の領民にもキリスト教の信仰を強いて、仏教の僧侶や神道の神官を殺害し、改宗しない領民が殺害され、土地を追われるなどの事件も相次いだことから、次第に家臣や領民の反発を招くことになっていく。こうした純忠に恨みを持つ後藤貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し、クーデタを起こして横瀬浦を焼き払ったのである。これが永禄六(1563)年に起きた、純忠暗殺未遂事件である。

このクーデタは失敗に終わったものの、横瀬浦は廃港になってしまう。そこで、同年ポルトガル船は、純忠の重臣:福田兼次(ふくだかねつぐ 洗礼名は「ジョーチン」)の支配地・長崎の福田浦に入港するようになるが、地形上あまり良好とは言えなかったので、新たな貿易港として浮上してきたのが「長崎港」だったのである。

こうして、長崎港は元亀二(1571)年に大村純忠の慎重な決断を経て、ポルトガルとの貿易港として開港した。
(※この開港に伴う町の建設などは、いつか詳細に触れる機会が訪れると思うので、今回は割愛しますm(__)m)


・・・ここで話は少し時間をさかのぼり、横瀬浦の1563年へ。

純忠自身も横瀬浦の教会でコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、「ドン・バルトロメウ」という洗礼名も授かっていた。同時に、大村氏に属していた長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)ら25名も洗礼を受けたという。

ちなみに、この長崎甚左衛門が、永禄十(1567)年に長崎へやって来た日本最初の南蛮外科医でありホスピタルの創始者であるルイス・デ・アルメイダに布教を許可。永禄十二(1569)年には、ガスパル・ヴィレラ神父に館の一角を小堂として与え、神父が教会に改築した。これが長崎初の教会で「小さいながらも美しい教会」と言われた「トードス・オス・サントス教会」である。

ルイス・アルメイダ布教記念碑
「ルイス・デ・アルメイダ布教記念碑」長崎市夫婦川町 現・春徳寺

この当時、長崎には1,500人ものキリシタンがいたと推計されている。このトードス・オス・サントス教会の後、教会の建設が進んでいく。
現在の長崎の市街地にあった主な教会は次の通りで、年代順に列挙すると、

■ 岬の教会(1571年 江戸町)
■ サン・パウロ教会(1581年 江戸町)
■ ミゼリコルディア本部教会(1583年 万才町)
■ サン・ジョアン・バプティスタ教会(1591年 筑後町)
■ 山のサンタ・マリア教会(1594年 立山町)
■ サン・ミゲル教会(1601年 立山町)
■ 被昇天のサンタ・マリア教会(1601年 江戸町)
■ サン・チアゴ教会(1603年 場所不明)
■ サンタ・クララ教会(1603年 大橋町)
■ サン・アントニオ教会(1606年 場所不明)
■ サン・ペトロ教会(1606年 場所不明)
■ サント・ドミンゴ教会(1610年 勝山町)
■ サン・ロレンソ教会(1610年 伊勢町)
■ サン・フランシスコ教会(1611年 桜町)
■ サン・アウグスティン教会(1612年 古川町)

・・・などである。

おおよそ縦横で1.5kmの範囲内に、これほど多くの教会が建設された。
この中で、サン・パウロ教会の跡地に建てられた「被昇天のサンタ・マリア教会」にはイエズス会の本部が置かれた教会であり、1603年には大きな時計がついた櫓(やぐら)も増設され、三つの鐘で人々に時を知らせたという。
マカオに没したイエズス会:ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」には、ユーラシア大陸のリムにあたるこの島国日本において、これほど多くの教会が建設され、街中にチャペルが鳴り響く様子を

さながら「小ローマ」のようだ、と形容している。

そして、この教会建設ラッシュの途上である、天正七(1579)年。キリシタンの洗礼を受けていた大村純忠は、イエズス会にこの長崎と茂木(もぎ)の地を寄進したのである。

巡察師であった、かの有名なヴァリニャーノ神父は純忠のこの申し出を慎重に検討した結果、翌1580年にこの寄進の申し出を承諾し、長崎と茂木の地は日本ではなく、遥か遠い異国の地の領土になった。

更に、天正十二(1584)年、肥前日野江藩初代藩主:有馬義貞の次男のキリシタン大名、有馬晴信(ありまはるのぶ ※大村純忠の甥)は、浦上をイエズス会に寄進した。

イエズス会への茂木・長崎の寄進状
「イエズス会への茂木・長崎の寄進状」

これら寄進の背景には、勢力を拡大する肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の長崎攻撃を回避するという目的と関税収入の確保、また、その後の竜造寺氏との「沖田畷(おきたなわて 島原市)の戦い」で勝利を収めた感謝の印だったという。

しかし、この異国だった長崎も、慶長十九(1614)年の禁教令以降にほとんどの教会が破壊され、日本へと回帰していったのであった・・・。


・・・と、いうことでコレが、長崎が今も変わらず、筋金入りで異国情緒薫る街であるゆえんでした。







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1:大浦天主堂 2

大浦天主堂を物語る上で最も大切な人物は、やはりプティジャン神父です。
今回は彼にスポットを当てていきます。

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ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)

フランス出身のカトリック宣教師で、日本では1859年にパリ外国宣教会会員となり、長崎には1863年にやってきた。
以来、その半生を日本の布教に捧げた長崎偉人の一人である。

琉球で日本語とその文化を学んだ彼は、1862年(文久2年)横浜に上陸する。翌年、長崎の大浦居留地に住むフランス人の司牧を目的としてやってきたのである。この「司牧」とは、ローマ・カトリック教会や聖公会で、司祭が教会を管理し信徒を指導することである。プティジャンは安政の五カ国条約の一環の「日仏通商条約」基づき、日本二十六聖人の殉教地である西坂見ることができる丘の上に、居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得たのである。
こうして創建されたのが大浦天主堂であった。

この大浦天主堂の献堂である2月19日より1か月と満たないある日。
宗教史上の奇跡と呼ばれた「信徒発見」が起こるのである。

1865年3月17日(旧暦2月20日)の昼下がり、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず困っていた。そんな様子を見たプティジャン神父が扉を開いて教会の中に招き入れると、彼らは内部を不思議そうに見て回っていた。そして、プティジャンが祭壇の前で祈っていた時、杉本ゆりと名乗る女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのである。

イザベリナ杉本ゆり
イザベリナ杉本ゆり 片岡弥吉「長崎のキリシタン」巻頭写真によるもの
当時53歳だったと言われている。
引用:聖女に出会った少女、ベルナデッタの歌HP

浦上から来た彼らこそ禁教以来約250年もの長い間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた、いわゆる「隠れキリシタン」といわれる人々であった。この歴史的瞬間に立ち会ったのがプティジャン神父だった。

翌日、プティジャン神父はこの信徒発見を知らせる手紙を、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父宛に書いた。そこにはこう書かれてあった。

昨日の12時半ごろ、男女子供を合わせた12-15名の一団が天主堂の門にいました。私が至聖所で少しだけ祈ったあと、40歳ないし50歳くらいの夫人が胸に手をあてて申しました。「ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では、ほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております」。
それからこの夫人は私に聞きました。「サンタ・マリアの御像はどこ?」
私は聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。
「そうだ、本当にサンタ・マリア様だ!ごらんなさい、御子イエス様を御腕に抱いていらっしゃる」

信徒発見の手紙「プティジャン司教書簡集」
引用:大浦天主堂物語 P22 信徒発見の手紙 「プティジャン司教書簡集」
囲みの部分には「santa maria gozo wa doko : サンタ マリア ゴゾウハドコ」とローマ字で書かれているのがわかる。
この手紙は、プティジャン神父から、横浜にいた日本布教総責任者:ジラール神父に宛てて信徒発見を喜び、報告するものであるが、直筆ではない。ジラール没後にイエズス会の幼き修道女:スール・エリアが原本から書き写したものである。
だが内容的には、1865年3月18日付けというから、翌日まさに興奮冷めやらぬ思いでプティジャン神父が書いた手紙だと言える。

この「信徒発見」に関して言えば、実はプティジャン神父にはある思惑があったとされている。

創建した大浦天主堂は日本人にとっては当時珍しい洋風建築だったので、すぐに評判になった。近所の日本人は「ふらんす寺」、あるいは「南蛮寺」と呼んで見物に訪れた。プティジャン神父はこうして訪れる日本人たちにも教会を開放し、自由に見学することを許していた。

それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないか?というわずかながらの期待からの行動なのであった。

・・・だが、この「信徒発見」の喜びも束の間、皮肉にも後の「浦上四番崩れ」というキリシタン迫害へと歴史はつながっていくのである。その話は、「3:浦上天主堂」の回で詳細に伝えようと思う。

プティジャン神父は1868(明治元)年には日本代牧区司教に任命され、1873(明治六)年にキリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点として、キリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などにも力を注ぎ、1884(明治十七)年、この大浦の地で死去され、大浦天主堂内に亡骸が埋葬された。

信徒発見碑3

信徒発見碑文3

信徒発見碑文

マリア様後ろから
西坂の丘を望むマリア様のお姿はどことなく悲しげです。




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