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異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 6(最終回)

ようやくこの鉄砲伝来シリーズも最終話を迎えます。長い道のりでした┏○)) オツカレシタ
激多忙の中、久々に論文を読みまくったなぁwww
最終回は、鉄砲伝来に関連した日本人の技術力のポテンシャルなどです。


種子島の鉄砲館の説明板に次のような記述がある。

新兵器の出現で、これまでの戦闘方式が一変したことを知った戦国武将達は、急いで鉄砲の調達に努め、国内の鉄砲鍛冶が急速に発達した。鉄砲が種子島に伝わってから僅か三十年、驚くべき速度で普及した。これは日本の伝統的な刀鍛冶の鉄鋼技術が極めて優れ鉄砲製作に生かされたからで、こんな例は外国にみることは出来ない。

最後の「こんな例は外国にみることは出来ない」とは、「完成品の」鉄砲の販売で大儲けを出来ると考えていたポルトガル人らは、まさか日本がこんなに早く鉄砲を作れるようになるとは予想もつかなかった、ということを意味する。

何と、日本人はいわゆる「鉄砲伝来」と伝わる、1543年の翌年である天文十三(1544)年に鉄砲の国産化に成功しているのだ。
鉄砲を作るには化学と物理の高度な融合が必要だ。製鉄技術とその加工技術。弾道の計算など、テクニカルな考慮やトライアル&エラーがあって初めて製品化が可能だからである。

ただ、ポルトガル人はさすがにこの時代に世界を制していた民族で、鉄砲に必要となるが日本に存在しない物質があることを見抜いていた。それが「硝酸カリウム」。

「硝酸カリウム」
硝酸カリウム構造式
無色の結晶。斜方晶系。化学式 KNO3 天然に硝石として,チリの砂漠地帯やアメリカ西部などの乾燥地帯に産出する。潮解性がなく,酸化性が高いことから,黒色火薬に用いられた。マッチ・釉(うわぐすり)・医薬,食肉の保存料など用途が広い。硝石。硝酸カリ。

(「三省堂 大辞林」による)

これがないと鉄砲は単なる「鉄棒」であり、これをポルトガル人は見抜いていたからこそ種子島時堯(ときたか)へ鉄砲を譲ったのではないか?今「譲ったのではないか」と言ったが、「鉄炮記」には「時堯、其の価の高くして及び難きを言わずして而(すなわ)ち蛮種の二鉄砲を求め」となっている。島の伝承では永楽銭二千疋を支払ったというのだ。一方で、「無料」で譲ったという説も存在する。今回はあえてこの後者の説を採って、仮説を立ててみると次のようになる。

軍事的にも当時の日本にとって革命的に有効なこの武器は完成品としての価値はもちろんのこと、ハードに当たる鉄砲は、ソフトに当たるこの「硝酸カリウム」=火薬がないと使い物にならない。だから、これも付帯的に必ず売れる見込みしかないので、ハードをお試し無料であげたのではないか?

例えば現代に即して言うとこういうことだ、電話会社が新作のスマートフォンを街中でほぼ無料で配っていたとする。そして、契約を交わした人は、スマホがあるだけでは全く意味がないので、それを使い倒すために電話もするし、様々なアプリをダウンロードする。また、このアプリが無料のままでは全ての機能が果たせないとなれば、使用者がこれに価値を見出して、更に便利に使おうとすればどんどん課金してアップグレードしていくだろう。こうしてお試しでスマホを配っていた電話会社が後にアプリの普及と通話料で間接的に利益を生むシステムが確立していく。そして機械は壊れるものであるから、使い勝手の良い慣れたメーカーのものを次も使う可能性が生じ、同じ電話会社から次の機材を買う、という固定客になりうる。顧客を固定するには、この「無料」という導入は現代至る所で見られる現象だ。この鉄砲が「無料」で当主に贈られたとしても次のビジネスチャンスをつかむためにも十分考えても良い手段ではないかと思われる。

その是非はともかく、この場合のスマートフォンが「鉄砲」でハードに当たる。ソフトに当たるアプリが「硝酸カリウム=硝石(火薬)」である。ポルトガル人はこの両方の貿易で儲けを見込んでいたが、日本は独自のスマホを速攻で開発してしまった(ある意味これも「ガラパゴス化」だ)。ただし、ハードたる鉄砲はコピーされてしまったが、火薬の原料となる「硝酸カリウム」はどうにもならないのだ。世界史的には南米チリの「チリ硝石」の発見が、世界の鉄砲の普及を促進していた事実をポルトガルは当然熟知していたのである。

ということは、硝石の流通と確保こそが日本の戦国史を理解する上でも、とても重要なファクターになったと言えるだろう。
なぜなら、織田信長以降は鉄砲が日本の戦術を一変し、戦乱の世を決定づけたからである。

種子島時堯に命じられて初めて鉄砲を製作したのは刀鍛冶:八板金兵衛(やいたきんべえ)である。天文十二(1543)年の九月に命じられたが、驚くべきことに4か月後にはこれをコピーしているのだ。ただ、鉄砲の製作過程では、火薬を使用する以上大変危険を伴うもので、「暴発」の恐れがあるものだったのも確かだ。その内実と経過はここでは省くが、とにかく日本のモノづくり技術は今に始まったことではないというのはこれでわかる。まさに後の世、鍋島直正はその典型である。(※「肥前の妖怪」 鍋島直正 1参照)

種子島鉄砲
「鉄砲伝来 日本の歴史」より

これらと関連して、少し織田信長についても触れておきたい。

なぜ信長は「本能寺の変」で討たれたのだろうか?
もっと言えば、なぜ「本能寺で」なのだろうか?ということ。

これは次のように考えていく。

1:種子島時堯は、鉄砲の製造技術を独占しなかった。ここでもやはり「硝酸カリウム(※当時は『煙硝』と言っていた)」のルート確保のため、紀州に巨大な経済勢力を持つ根来寺と、当時海外貿易拠点の堺の商人にこの権利を与えていた。

2:種子島は鉄砲伝来の約100年前に法華宗に改宗されて、慈遠寺も法華宗に改宗されて、多くの学僧が本山へ修行に出ていた。その「本山」が「本能寺」なのである。

3:戦国大名の中で、最も早く堺を直轄地としたのが信長である。


これら1・2・3より推測されることを述べると次のようになる。

堺を直轄地としたのは鉄砲に必要な「煙硝」ルートを確保するためであることは明白で、これで堺には安定的に「煙硝」が供給される。また、信長には延暦寺焼き討ちや安土宗論、一向一揆弾圧など宗教弾圧者のイメージがあるのに、「本能寺」という「寺」に泊まっていたのか?そしてなぜキリスト教宣教師に好意的だったのか?これらの疑問は全て天下統一のための軍事物資の確保にあったのではないかということ。堺さえ押さえてしまえば、当時の日本の地政学的にも貿易船が西や南からやって来ると国際港となっている東端は堺である。それを独占的に供給するのがキリスト教を信仰するポルトガル人だ。信仰の自由を認めることで、ポルトガル人との商業が円滑にいく。

確かに、以西にある九州や中国地方では山口・平戸などいくつかの国際港があり、いち早く煙硝ルートを取り込んで実用化していたのは大友宗麟であり、日本最初の焼夷弾(焙烙火矢)を用いたのは毛利家の支配下にあったあの村上水軍であった。

しかし、東の武田氏や上杉氏、北条氏などの有力武家の鉄砲武装に歯止めをかける、直接的な貿易港は確実に堺である。これを信長は抑えたのである。つまり、彼らがいかに鉄砲を独自に開発しようが、その起爆剤となる「煙硝」がなければ前述の通りただの「鉄棒」であって無用の長物となることを信長は知っていたのである。

こうして、天才の情報戦と柔軟な発想によって戦国時代の覇者が決定していったのである。

そして、本能寺は2で述べたように種子島の慈遠寺の本山であり、ここは2007年からの発掘によって大量の煙硝を始めとする巨大な武器弾薬庫であったことがわかった。こうした煙硝つながりのある寺だから、信長はあの日この寺にいたのだ。明智光秀に完全包囲された信長は火を放って自害したと言われているが、首を渡すまいとして爆薬に引火させて大爆発を起こしたために、光秀が信長の遺体をどんなに探しても発見できなかったという。跡からは焼け焦げた瓦などが多数出土した。

本能寺跡
<本能寺跡>
出土した本能寺の瓦
<出土した本能寺の瓦>

視点を世界史と比較することによって日本の歴史もその真相が深く理解が出来る。このブログでは、長崎の通史を科学的な視点から再検証することを目的としており、様々な学問を導入して今後も妥当な真相をつかんでいきたいと考えている。既存の説に固執せず、新発見や多くの論文などを吸収することによって、多分自らの論が修正されていく箇所も出てくるだろう。しかし、それは有益な修正であり、過去に誤った解釈をしていたとしても何ら恥じる必要もないものである。本来、科学とは「反証可能性」を備えているものであるからだ。柔軟で偏りのない思考を持ち続けていきたい。



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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5

前回の続きで、「地政学」を用いて推論を進めていきます。

ところで、この「地政学」とは?

地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもので、やや古い学問であるけど、ボクは現代においても十分に通用する学問であると思っています。コレなくしては近隣諸国の思惑は測れないからで、特に尖閣諸島や南沙諸島など、まさに現代の動向もここで読み取れるんですよ。その話はいずれ・・・として、ココではその軍事と経済的な影響に着目していきます。


まずは、次の古地図を見ておこう。
アジア図 1645年 W. J. Blaew 作
<アジア図 1645年 W. J. Blaew作 日本二十六聖人記念館所蔵 ※特別な許可を得て撮影しました>
これを拡大すると、
アジア図 拡大
青で囲ったところに、「Timaxuma(?)」、赤で囲ったところには「Leqeo grande」とある。

これは1645年の地図であるが、その音と位置関係からして、前者が種子島、後者がレキオ(琉球)であることがわかる。
そして、以下の地図と比較してみる。
黒潮
引用:黒潮圏の考古学

地質時代区分でいうと、もちろん完新世以来絶え間なく流れているのがこの黒潮のルートである。当然、16世紀も同様な流れだったであろう。もともと黒潮は、ドイツの医師・地理学者:ベルンハルドゥス・ヴァレニウス(Bernhardus Varenius/Bernhard Varen 1622~1650年)によって、その著書で初めて記載されたとされている。

しかし、彼が生きた17世紀以前から、この黒潮のルートは経験的に知られていたと思われる。朱印船貿易もその一つである。

<朱印船貿易のアジア寄港地>
「安南」 当時のベトナムの正統な王朝・黎朝を擁立していたハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
「交趾」 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権(広南国)のこと。その主な交易港はホイアン(會安)及びダナンであった。
「占城」 ベトナム人勢力によって、現在のベトナム南部の一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
「暹羅」 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
「柬埔寨」 メコン河流域のウドンを首府とするカンボジア王国である。
「太泥」 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
「呂宋」 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
「高砂」 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった

以上の渡航先はWikiからの引用であるが、これらの寄港地を地図にプロットしていくと、フィリピンのルソン島(呂宋)から台湾の(高砂)を経由した季節風と黒潮ルートが、日本と他国の交易には使用されていた。蒸気船の発明以降でもこの黒潮ルートは有効で、特に台湾海峡から日本へのルートでは現在でも重要なシーレーンの一つである。

豊臣秀吉による「朱印状」の発行が1592年であるとされているが、これは「倭寇」との区別を行うための許可状なのであるから、「倭寇」は既にこのルートを知り尽くして東南アジアへの交易を行っていたはずである。
交易ルートとして確立していたこの黒潮ルートをどう見ても、ポルトガル人らが乗ったジャンク船が嵐に遭遇して漂着した先が、たまたま種子島であったとは考えにくいのである。東南アジア辺りからやって来て、この黒潮ルートならば、長々と種子島まで進まずに、まず近くの琉球のどこかへ到達したはずだからである。

そして、琉球を越えて種子島南端へやって来たのは、この地理的条件上、やはり意図して到達したものではないか?これならば、前回考察した「エスカランテ報告」にある1542年に琉球へ漂着し、翌年またやって来たが清国との事情で上陸出来なかったために引き返そうとした、しかし種子島が戦時中で武器を必要としていたという情報をここ琉球で得た王直が、より利益の出そうな種子島へと交易先を変更した、と考えられないだろうか?

もちろん、やはり種子島まで漂着した、と考えられないこともない。
しかしこの事件を参考にすべく、1600年という、ここから約50年後、ある出来事が起こっている。それがデ・リーフデ号の「漂着」である。

関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、オランダ船:デ・リーフデ号は豊後臼杵(現大分)の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだとされている。太田一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報し、ウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らを拘束、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求した、という。
アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)
<アダムスが長崎平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け。(大英図書館蔵)>

私にはこの種子島と類似する事件が、とても波の穏やかな瀬戸内海で起こった、偶然漂着した出来事とは思えないのである。大英図書館にはアダムス自身の手紙に「我々は日本を目指した」と明記されているからである。ここでは趣旨からズレるので詳細を省くが、世界史的な観点からすると、この出来事はイングランドとオランダ、スペイン・ポルトガルの市場拡大に向けた勢力争いの一環であり、後に徳川家康から異国の人としてはあまりに破格すぎる重用をされることになる、このウイリアム・アダムスもエリザベス1世からの密命を帯びていた可能性もあるからだ。

ちなみに、三浦半島と八重洲といった地名は何とこのイギリスの「三浦按針」からつけられたものである。ここでこの話の詳細を述べるには長すぎることになってしまうので、この辺りで終わるが、ここで言いたいのは、当時の「漂着」といった言葉の位置づけなのである。
ウイリアム・アダムス
<ウイリアム・アダムス(三浦按針像)>

この点は資料がないのでどうしても推論にしかならないのであるが、「漂着」とすることによって、「単に他国から武器を売りにやって来た」とするより、後世に残る歴史の記述においては「たまたま漂着した」とする方が劇的さを帯びることになるので、このデ・リーフデ事件は種子島への鉄砲伝来を踏襲して記述されたのではないか、と思っている。事実、このリーフデ号の事件では、現在もこの出来事が「漂着」か否か、という議論が絶えない。

この種子島への鉄砲伝来も、西洋人による初の出来事であることからしても、デ・リーフデ号と同様に、倭寇の手引きによる商売とするより、「漂着」と記述する方がドラマチックだからではないのだろうか?

また、「倭寇」といえば、その大頭目の「五峯:王直」の話をこれまでずいぶん書いてきた。
「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」と、あった。

最終的な結論としては次のことが言える、
この王直は1540年頃から広東を拠点として、東南アジアと日本を結ぶ密貿易を行っており、この文献の中にある「西洋」の中心港がマラッカなどであって、ここで既にポルトガル人らと接触していた。そして、これまで見てきた資料などからも、交易ルートと1543年の琉球と清国の関係、種子島の軍事的事情などを考慮すると、鉄砲の伝来は漂着という偶発的な出来事ではなく、やはり王直を軸にした明確な意思をもって行われたものではないだろうか。そして、ガルバンの「新旧発見記」などで食い違いがあったような、2人でやって来たのか、3人でやって来たのか、ということも、別の人々が違った意思をもってやって来たとすれば良いのではないだろうか。

こう考えると、ポルトガル人による鉄砲伝来は、通説にあるような漂着による偶然なものではなく、

まずは、ポルトガル人らは1542年に琉球へ交易にやって来た。
その琉球で、近隣であった種子島の事情を知る。
そして、翌年1543年、軍事物資を欲していた種子島に鉄砲を売りに来た。

・・・ということになる。

このチャプターも次回が最終回です。鉄砲伝来以後と技術国日本について書きます。




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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 4

1543年に2度目の渡航で交易試みたポルトガル人が、なぜ許可されなかったのか?

これを知る手がかりは「明史:世宗実録」にある。

この文献によると、現在の福建:漳州の陳貴が密貿易のため琉球に渡航した。その際、広東の潮州の船と争いがあって殺傷事件が発生した。これにより明朝は陳貴らを厳罰に処したとある。しかしこの密貿易を許可した上に商品を没収、監禁、殺害した琉球も処分された。世宗嘉靖帝もこれを裁可し、1542年5月、琉球が今後も密貿易を放任すればただちにその朝貢を絶つ、という勅旨が下される。

明世宗嘉靖帝
姓・諱:朱厚熜
諡号:欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝
廟号:世宗
正徳2年8月10日 (1507年9月16日) ~嘉靖45年12月14日 (1567年1月23日)
在位期間:1521年5月27日 - 1567年1月23日

ここで前回の「エスカランテ報告」の、
③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

ここが重要な意味を持つ。「チナのジャンク」なのであるから、琉球からすると前年の1542年に明朝より「密入国を放任すればただちにその朝貢を絶つ」とまで言われていた直後だったのだ。1543年というこの年に明のジャンクを入港させて交易をするとなれば嘉靖帝の勅旨に逆らうことになってしまう。だから、入港はさせずに海上に停泊したままの交易は黙認という形にしたものの、琉球への入港は許可されることなく退去を命じられた、と考えれば合理性がある。

次の疑問は、なぜ「チナのジャンク」に乗っていたのがポルトガル人なのか?という点である。

1回目に紹介した、
「王直は天文十一年(1542年)には長崎の平戸に移り、後の印山寺屋敷付近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。王直が平戸を拠点とした裏には、当時の平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)の保護があったことは疑いない。松浦氏が王直と結んで中国との密貿易をおこなっていたのである。」
(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社刊)

そして「籌海図編」 には、
「嘉靖十九 (1540)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・絲綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来しして互市すること五・六年、富を致すこと測る貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」・・・とある。

この五峯(王直)が当時東南アジアまでの広範囲での密貿易で財をなしていたとするならば、現代においても必要なのは「情報」である。地理的な要因や商品力だけではビジネスを行うことは出来ないし、むしろ「情報」を活用できたがゆえに五峯は倭寇の大商人となりえていたと思われる。様々な資料を通じて歴史に名が残っているのがこの「五峯(王直)」である。だから、1543年に交易を試みたポルトガル人らが乗っていたジャンクは、やはりこの大商人五峯のジャンク船であろうと、当時の情勢を考えても誤りではないはずだ。

これらを総合すると、一般にイメージとして定着しているポルトガル人による鉄砲伝来の船は、このキャラック船 ↓
650px-NanbanCarrack.jpg

・・・ではなく、

まるでイメージの異なる、こうしたチャイナのジャンク船 ↓
18世紀のジャンク船

だとなる。

記事の1回目に1542年の状況として次の資料も出した。

「南蛮船と伝えられる明国船が島の南端、門倉岬の「前之浜」に漂着した。この年の三月、種子島も戦国動乱の埒外ではなく、突如、大隈半島の雄、祢寝(ねじめ)氏の来襲を受け敗北、屋久島を割譲することによって動乱を収終した。南蛮船が漂着したときは、まさに失った屋久島奪回のため、緊迫した臨戦体制化にあった時である。」
「鉄砲伝来 種子島鉄砲」鉄砲館編集発行

この資料で不思議な言葉は、「南蛮船と伝えられる明国船」である。これほどまでに形状が異なる船が、なぜ明国船であるジャンクが「南蛮船」なのだろうか。これは交易の主体が、明国の物品ではなくて、ポルトガルのものであったからではないだろうか。そうでないと、単によくある「明国船」としか書かないはずだからである。

そして、ポルトガル人が持っていた「鉄砲」がこれまでのアジアにはない良質で、画期的な武器であることを、予めポルトガル人らとの交流で理解できていたはずだ。つまり、五峯という商人の目にはこのポルトガルの鉄砲が「商品力」として優れていることが理解できていたということである。

また、1542年に種子島の戦時体制下でのビッグビジネス・チャンス情報を、漂着した時に得たか、あるいは五峯が独自のルートで入手していたか、ということになる。残念ながらこの件に関しての資料がないので、ここも推測の域を出ない。

ただ、当時のアジア交易とルートに精通している大商人五峯(王直)が水先案内人として仲介料を得るために同乗していたのであれば、この「武器ビジネス」の商業交易をまず意図していると考えられるわけである。いずれにしても1543年という、漂着の翌年の出来事は明確な意図をもって行われたことであると考えられるのだ。

しかし、ガルバンの「新旧大陸記」よりも信頼性の高い「エスカランテ報告」では1542年に漂着したのは琉球であって、種子島ではない。これをどう説明するのか?

次回はこの疑問点を地政学的な観点から考えます。




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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 3

予め、一連の記事を書くにあたって、参考にした主な文献を列挙しておこう。

「鉄炮記」 文之玄昌
「鉄砲伝来考」 坪井九馬三
「種子島譜」 1677年
「種子島家譜」 1805年
「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽二十二年)~1867年(同治六年)
「新旧発見記」 アントニオ・ガルバン
「日本教会史」 ジョアン・ロドリゲス
「東洋遍歴記」 フェルナン・メンデス・ピント
「エスカランテ報告」 ガルシア・デ・エスカランテ・アルイヴァラード


いずれも、これまでに様々な研究が行われている文献である。
これらの内容を比較対照することが求められるわけであるが、信頼のおけるものとしては、やはり「エスカランテ報告」ではないかと思われる。

この「エスカランテ報告」はガルバンの「新旧発見記」と比べて、その目的が異なるのである。つまり、前者がメキシコ副王に宛てて書かれた内部報告書であるのに対し、、後者は公開を目的としたものであるということ。したがって、「エスカランテ報告」はあえて誇張や虚構を書く必要がないということ。ガルバンの「新旧発見記」はポルトガル帰国後編さんしたものを、彼の死後、友人によってまとめられて1563年に出版されたものである。だから、帰国後に伝聞情報によって書かれているので、一級資料とは呼べず、内容自体に確からしさを求めることができないのである。

これに対し、そもそも、この「エスカランテ報告」とは?

1542年、メキシコ副王がルイ・ロペス・デ・ヴィリャロボス率いる艦隊を派遣。これは新大陸とアジアへの航路開拓を目指すものであった。エスカランテはこの艦隊の商人頭だった。この途上、ポルトガル勢力圏にあったモルッカ諸島のティドレ島に至った際、ポルトガル人でティドレ島の隣の島であるテルテナ島守備隊長(※「カピタン」という):ジョルダン・デ・フレイタスより停泊が認められた。このカピタンの兄がディオゴ・デ・フレイタスというが、その時にこの兄であるディエゴから得たと思われる情報がここで重要なのである。

その内容を以下にまとめると次のようになる。

① ディエゴ・デ・フレイタスがシャム(現在のタイの古名)に停泊していた時に、レキオ人たちのジャンクが一隻やってきた。この「レキオ人」とは「琉球人」のことだとされている。ポルトガル人たちは彼らとここで良い交流を持った。

② ある時には、フレイタスと一緒にシャムにいたポルトガル人二人がチナ(China)沿岸で商売をしようとして、一隻のジャンク船で向かったのであるが、彼らは暴風雨に遭遇し、レキオス(琉球)の、ある島へ漂着した。そこで彼らは国王などから手厚いもてなしを受けたが、それはシャムで交流したあのレキオ人らのとりなしによるものであった。そして、食料を提供されてここから去った。

③ レキオ人たちの礼儀正しさや富を知った他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びレキオスの島へ行ったが、なぜか上陸を許されず、海上で商品を銀で受け取って、食料を提供されて退去を命じられた。

この「エスカランテ報告」にはこの二度のレキオス渡航の年代が記載されていないが、フレイタスが1544年にシャムを去ってマラッカを経てテルテナ島に到達しているため、レキオス渡航の1度目は1542年、二度目が1543年だとシュールハンマー氏など、様々な研究では考えられている。

この二度のレキオス渡航が、ガルバンの「新旧発見記」と類似するのであるが、最も異なる点は「新旧発見記」では「種子島」へやってきたという。しかし「エスカランテ報告」では「レキオス(琉球)」にやってきた、という点である。
更に考えなければならないポイントは、ポルトガル人らの友人となったあの「レキオ人」たちのことである。つまり、果たして彼らは種子島からやってきたのか、それともレキオス(琉球)からやってきたか、ということである。

ここで、次の資料の出番となる。

「歴代宝案」 収録期間:1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る443年間
「歴代宝案」 
収録期間は1424年(永楽22年)~1867年(同治6年)に至る444年間 であり、、琉球王国の外交文書を記録した漢文史料。1集49巻、2集200巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の全270巻からなるが、現存するのは1集42巻、2集187巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の計250巻である。大変資料的な価値が高い文書である。

この時代に琉球国王であったのは、尚清王(しょうせいおう)1497年(弘治10年) - 1555年7月13日(嘉靖34年6月25日)で、琉球王国第二尚氏王統の第4代国王である。
この信頼のおける文書において、1541(嘉靖十九)年と1541(嘉靖二十)年に一艘の貿易船をシャムに派遣しているという記述がある。
そこで、先ほどのフレイタスらが交流を持ったというのが、この琉球王国から派遣され、貿易船に乗ってやってきた琉球(レキオ)人であろう。そして、1542年にポルトガル船が漂着した際に歓待したのが、種子島ではなく、やはり琉球ではないか?

次回は、なぜこのポルトガル人らの二度目の来航を拒否したのか、という点について考察してみたい。


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鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 2

前回の文献:「鉄砲伝来をめぐって」『鉄砲伝来前後』種子島開発総合センター編 有斐閣刊所載 の中での推論で気になるのは次の3点。

1 一五四二年(天文一一年)に三人のポルトガル人、アントニオ=ダモッタ、アントニオ=ベイショット、フランシスコ=ゼイモトがシナのジャンクにのってリャンポウに向かおうとしたところ台風に襲われて種子島についた。そして貿易上ひじょうに有利な国を発見したという情報を、マラッカへ帰ったか、あるいはチモールへ帰ったかは知りませんが、南の方へ帰ってそれを報告した。それではまた早速行こう、そんなに貿易上有望な土地なら行こうということで、その翌年、一五四三年(天文一二年)にふたたびジャンクに乗ってやってきた

2 『鉄炮記』のどこを見ても台風で漂着したとは書いておりません。ただ大きな船がやってきたと書いてあるだけで、台風に襲われて難破したとは、どこにも書いてないんです

3 一五四二年は自分たちの意思でなく日本へたどりついた。一五四三年は自分たちの意思で日本についた。その時に鉄砲を日本人に伝えたのだということです


このポルトガルの資料であるアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563)では、1542年に、3人のポルトガル人が、中国船(ジャンク)に乗って雙嶼(リャンポー)に向かって出航したが、台風に襲われて日本の種子島へ漂着した、と書かれている。

「新旧大陸発見記」には3人のポルトガル人の名を、アントニオ・ダモッタ、アントニオ・ベイショット、フランシスコ・ゼイモトの3人だと書いてあるが、「鉄炮記」には「牟良叔舎(ムラシュクシャ)、喜利志多陀孟太(キリシタダモウタ)」の2人。「牟良叔舎」は当時の明の発音で読むと「フランシスコ」になるという・・・。「陀孟太」が「ダモッタ」であることは音からして間違いはないだろう。

ただ、私にはこの「牟良叔舎」がフランシスコに当たるかどうか、かなり疑わしいのである。日本の資料に書かれてあるのだから、日本風に音読みしても「フランシスコ」に聞こえないからである。カタカナ表記すれば、「ムラシュクシャ」。「フランシスコ」と比較すれば、母音箇所において「ラ」のみが共通するだけである。更にこのアントニオ・ガルバン「新旧大陸発見記」(1563年)の記載は、いくつか矛盾点も指摘されていて、「新旧大陸発見記」と「鉄炮記」の記述を比較すると、一致しない部分がかなり多い。いくつか列挙してみると次の通りとなる。

1:「新旧大陸発見記」では3人のポルトガル人が日本に漂着したとするが、「鉄炮記」では百余人の南蛮人が来航したとあって「頁胡の長」 2人の名しかない。

2:「新旧発見記」では暴風雨により日本に漂着したと記しているが、「鉄炮記」では実は暴風雨によって漂着という記述がない。

3:「新旧大陸発見記」ではポルトガル人の漂着地を北緯32度としているが、「鉄炮記」が来航地とする種子島南端は、北緯30度20分である。当時の航海技術が2度近く誤るほどの不確実性しかなかったのか?その誤差は260km程となってしまい、長崎から山口まで行ける距離である。

4:「鉄炮記」 に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が「新旧発見記」 には全くない。

以上を加味すると、「鉄炮記」と「新旧大陸発見記」における共通点が本当にあるのか?という疑問すら最終的に残るのである。果たして、どちらを信頼すべき資料とすべきか?

・・・ただし、鉄砲伝来についての資料はこれだけではない。



次回は、その他の資料も比較検討してみましょう。








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