CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

日露戦争(2) -100年の機密-

シンガポールでの米朝首脳会談予定が破局に終わり、トランプ大統領から金正恩チェアマンへの手紙が公開されていたので読みましたが、なかなかの面白さでした。
後半をごく一部超訳すると、「いやあ、今回残念だったけど、君とはいつか会えるのを楽しみにしてるよ。で、君らが拉致ってたアメリカ人を解放してくれて、ほんとサンキュー。気が変わったらオレに電話か手紙くれよな」でした。
英語読める人はどうぞ↓
トランプ大統領書簡

トランプ大統領のことをさんざんディスりまくっている日本のオールド・メディアやテレビの言論人などが、「どうせノーベル平和賞をトランプはもらいたいんだろ?」と言っておりましたが、ハイ残念、お疲れ様でした。一方で、トランプ大統領の当選前から科学分析的にトランプ大統領の正当性をおっしゃっている藤井厳喜先生や青山繁晴参議院議員などは、北朝鮮は絶対に核を放棄するはずがないと明言されていていました。どこぞの大統領と違って、トランプ大統領はノーベル平和賞などに目がくらんでいないこともよくわかりましたね。

ただ、年老いていく拉致被害者のご家族にとっての落胆は激しいものであることも推察されます。本当に今回は安倍首相との事前の十分な用意があったのに、と思えば・・・次の機会は果たして本当に訪れるのだろうかと暗澹たる気持ちになってしまいます。

この北の独裁者は、自分の実の兄を毒殺し、義理の叔父さんを対空機関銃(飛行機を打ち落とすやつ)で粉々にして、その肉片を火炎放射器で炭化させている人間です。これまでに100名以上の側近などが粛清されています。

そんな人間を、「血の通った人間なんだっていう、すごく好印象」と言い放ったフ●テレビのアナウンサー、安藤●子のことをぜひご記憶下さい。拉致被害者のご家族の方々はどのような思いでこれを聞かれたことでしょうか…

さて、本題に入りましょう。

前回書きましたが、バルチック艦隊は7カ月もの極東へ向けての地球をほぼ一周するよう航海してくるので、それだけでも海兵隊員らはかなり疲弊していました。更に、1902年に締結された日英同盟がうまく機能しました。バルチック艦隊の第2太平洋艦隊が、バルト海のリバウ軍港を出航し、10月21日深夜、北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまうという、「ドッガーバンク事件」が発生し、イギリスの世論は一斉に反ロ親日になっていきます。これでイギリスは自国の植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否したり、スエズ運河通行を邪魔したり、蒸気船の燃料となるまともな石炭を売らなかったりと、至る所で邪魔をしまくりました。

こうした理由もあって、極東に到達した時にはバルチック艦隊の第2、第3太平洋艦隊はかなり疲弊していたのです。しかし、この艦隊が朝鮮半島から北東方面にあるウラジオへ行って、そこに駐留している味方艦隊と合流して態勢を立て直されてしまうと、やはり物量にかなりの劣りがある日本は苦境に立たされます。

果たしてバルチック艦隊は対馬海峡を通ってウラジオまでダイレクトで行くルートをとるのか、日本列島の東側を回って太平洋を北上して回り道をして行くルートをとるのか、この情報を得ることが日本の命運を握っていました。


バルチック艦隊ルート
バルチック艦隊の予想された3つのルート

もちろん、現在のようにレーダーがない時代、敵艦発見は容易でなく、蒸気船の煙や光を広大な海の中で、目視で確認するしか方法がないのです。

日本海海戦の前日である5月26日深夜0時過ぎ、バルチック艦隊に随行し、その燃料を運んでいる石炭運搬船6隻が、上海に25日の夕方に入港したという情報をようやく得ます。ロシアがこの運搬船を艦隊から離脱させたのは、航行距離が長くなる太平洋ルートを通らないことを意味するので、この情報は日本にとって大変重要な情報でした。そして艦隊を発見したのは「信濃丸」でした。午前4時50分に「203地点で敵艦発見」と打電します。


信濃丸
偽装巡洋艦「信濃丸」

次いで、5時35分、聯合艦隊には「直ちに出港用意」が 通達され、6時6分、ついに東郷平八郎提督の旗艦「三笠」をはじめとする聯合艦隊が出撃します。

呉に入港した三笠、1905年2月
呉に入港した戦艦「三笠」1905年2月
<DATA>
■建造所:ヴィッカース社(イギリス) バロー=イン=ファーネス造船所
■級名:敷島型(四番艦)
■発注:1898年9月26日 起工:1899年1月24日
 進水:1900年11月8日 就役:1902年3月1日
■除籍:1923年9月20日
■排水量:15,140トン(常備) 全長:31.7m 最大幅:23.2m 吃水:8.3m
■機関:15,000馬力 最大速力:18ノット 
■乗員:860名
■主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門 副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
 対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門 47ミリ単装砲16基
 魚雷発射管 45センチ発射管4門
■装甲 KC装甲鋼板(クルップ鋼) 舷側:9インチ(229mm) 甲板:3インチ(76mm)

そして、6時21分。この時大本営に向けた、あの有名な打電がなされます。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

いよいよ最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊との激戦が幕を開けるのです。


と、ここで、日本海海戦へと入って行く前に、10年ほど前新事実が判明しました。実はこの海戦のさ中、日本の艦隊には、ヨーロッパなどからの「観戦武官」派遣の申し入れがあり、イギリス、アメリカ、ドイツ、ブラジル、アルゼンチン、オスマン帝国など13の国々から70人以上の武官が各艦に乗船していました。

そして、100年もの間、アルゼンチン国外へは機密資料だったアルゼンチンの観戦武官による文書が公開されたのです。その武官の名はマヌエル・ドメック・ガルシア。この後にアルゼンチンの海軍トップになる、いわばエリート軍人による記録です。

マヌエル・ドメック・ガルシア
マヌエル・ドメック・ガルシア

彼は、砲弾を受けた際の炎と血まみれの軍艦上にあって、客観的、かつ詳細に日本海海戦を分析しました。この文書によって、戦闘の全貌がより明らかとなってきました。「日露戦争観戦武官の記録」 全五巻 約1400ページにもわたる詳細な記録です。戦闘現場からの報告、作戦の分析、日本海軍の戦略、当時の日本国民がロシア帝国のことをどう思っていたか、また、どのようにしてロシアとのこの戦争に挑んでいったのかが記録されています。


アルゼンチン観戦武官の記録―日本海海戦
アルゼンチン観戦武官の記録―日本海海戦

世界最強の艦隊と呼ばれていたバルチック艦隊に対し、物量で劣る日本聯合艦隊が綿密な知略と情熱によって圧倒的に撃破した戦いの様子が克明に分かります。

この時、マヌエル・ドメック・ガルシアは1904年に来日し、観戦武官として装甲巡洋艦「日進」に乗船しました。

装甲巡洋艦「日進」 マルタ島
装甲巡洋艦「日進」 マルタ島にて

なぜアルゼンチンの軍事であるガルシアが日本の軍艦にいたのか?それには理由がありました。当時、イタリアのジェノヴァにアルゼンチンは軍艦を2隻発注していました。1904年1月7日、ジェノヴァの造船所でこの2隻を日本が買い取る交渉が行われていました。アルゼンチンが隣国のチリとの国境紛争に備えていたにもかかわらず、この軍艦の完成前にチリとの紛争が解決したのです。そこで、この2隻がもはや不要になってしまったので、日本海軍への導入を働き掛けることになったのでした。

この時、日本聯合艦隊は戦艦6隻など(軍艦23.3万t)、ロシアの極東における太平洋艦隊は戦艦7隻など(軍艦19.1万t)で、ロシアは極東の艦隊だけで、日本とほぼ互角の戦力を持っていました。ここにロシアはヨーロッパ側の戦艦が加わると戦艦26隻など(軍艦51万t)となって、圧倒的な差が生じてしまうので、日本は是が非でもこのアルゼンチンが発注していた2隻を手に入れようとしていたということです。これらの名が「日進」「春日」で、当時の最新技術を導入して作られていた速力のある装甲巡洋艦です。この譲渡契約にアルゼンチン側から派遣されていた建造指揮官がガルシアで、自らが建造に立ち会ったことから日本への観戦武官として行くことになったのです。

この2隻の引き渡しが行われた頃には、日本はロシアとの外交交渉は破局寸前だったので、日本の海軍本部から、一刻も早くこの2隻を日本へ向わせるようにとの催促の電報が入って来ていました。その進展をけん制するかのように、ジェノヴァの造船所の沖で「日進」「春日」の動向を見ていた船がいました。ロシアの戦艦「オスラービア」です。

1903年にビゼルトで撮影されたオスリャービャ
1903年にビゼルトで撮影された戦艦「オスリャービャ」

日進と春日が日本へ向けて出港する際に、このオスラービアが日進と春日の前を遮るように横切る、という一触即発の挑発行動をとったのです。

日本海海戦で重要な役割を演じるので、次回のためにもこの2隻の姉妹館の名「日進」「春日」と、ロシアの戦艦オスリャービャ」をぜひ覚えておいてください。

日本海海戦記念日である次の日曜日は、東郷平八郎提督が司令長官を務めた鎮守府があり、戦艦「三笠」が出陣した佐世保へ行ってきます!

では、次回もお楽しみにー!

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日露戦争(1) -必ず知っておきたい日本の誇り-

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日露戦争(1) -必ず知っておきたい日本の誇り-

みなさんは、これまでに何かを深く「誇り」に感じた経験はあるでしょうか?現代では価値が多様化している上に、平穏な毎日を過ごすことが当たり前となっているので、何かにそう感じる機会は少ないかもしれません。

ところで、このイケメンをご存じですか?
東郷平八郎 1877年

明治時代、最強の海軍を率いたロシアからの侵略に少ない兵力で立ち向かい、知恵と科学力を駆使して、日本が大勝利を収めた戦いがあります。

それが日露戦争です。

この戦争は西洋列強に植民地化されていたアジア諸国に勇気を与えた戦いで、特に「日本海海戦」は世界史史上、世界中の歴史家によってこれに勝る戦いはないと言われています。また、未だに世界中の海軍軍人が世界史最高の海軍提督は東郷平八郎と答えます。上の写真は、その東郷平八郎の若かりし頃のもので、彼がイギリスのポーツマスに留学した時の写真です。

そして、次の日曜日である5月27日は「日本海海戦」の開戦日です。

今回は、まもなくやって来る日曜日の記念日に際し、現代を生きる我々が享受している平和の意味を少し考えてみたいと思っています。日露戦争については多くのことがネットでも語られているので、今シリーズは出来る限り簡潔に、分かりやすさを求めて、列伝形式で人物に主眼を置いて書きます。では、行ってみましょう!


日露戦争の十年ほど前、ロシアはドイツとフランスを誘って日本に対し「三国干渉」を行いました。これは日清戦争後に国際法に基づいて獲得した朝鮮半島にあるリャオトン半島の放棄を強要するもので、撤退後、あろうことかロシアがここに居座ったのです。ヨーロッパでの南下政策を度々イギリスなど封じ込められていたので、ロシアは軍事力を背景に彼らのいないアジア方面に進出してきました。

そもそもなぜロシアが南下したいのか?というと、隣接するバルト海などは冬に港自体が凍ってしまい、ロシアは交易が出来ず金儲けが出来ないからです。ということは、しのぎを削っている他の西洋諸国と闘うための資金や外資を冬になると獲得できないことを意味します。だから、通商を行うためにロシアはとにかく凍らない港を獲得したかったので、「南下」政策を進めていたのです。しかし、ヨーロッパ・ラウンドでは大英帝国らに勝てないのです。黒海近辺で行われたクリミア戦争などがそれに当たります。イギリスの看護婦であったナイチンゲールが活躍した時の戦争ですね。

こうした事情でアジアに目を向けて、フランスから資金を借り入れて建造していたのがユーラシア大陸横断の「シベリア鉄道」です。だからアレは決して旅行目的で作ったのではありません。この鉄道の敷設目的はロシアによるアジア支配の円滑化だったのです。鉄道だと楽に軍需品や軍人を運べますからね。難航した建設でしたが、ようやく日露戦争の最中の1904年9月に全線開通しました。

このロシアに対し、日本は外交交渉によって何とか戦争を避けようとしましたが、ざっくり言うと、ロシアは強気の姿勢で聞く耳を持ちませんでした。当時、西欧の列強諸国から見ても、弱小な日本などロシアの相手になるはずがないと思われていました。いくつかその情勢を表す風刺画が残っています。

日露戦争風刺画1

日露戦争風刺画2

いずれも日本とロシアの国力を人物の大きさで表現したもので、教科書などでもお馴染みなので詳しい説明は必要ないでしょう。

この日露戦争は、陸と海とで行われたすさまじい戦いでした。

特に日本が警戒したのは、世界最強の艦隊と言われるロシアのバルチック艦隊がバルト海からアジアへやってくることでした。
ポートサイドでのバルチック艦隊−エジプトの巡視船に監視されている
ポートサイドでのバルチック艦隊 日文研データベースより

これがやって来るともう日本に勝ち目はない、と考えられていたからです。この戦いでロシアに負ける、ということは東京まで侵略される恐れがあり、この艦隊が到着して朝鮮の旅順港にいるロシア艦と合流する前に、まずは旅順港のロシア艦を陸から壊滅させることが急務でした。

この時、まさに日本の存亡の危機だったのです。

しかし、旅順のロシア艦を攻撃するには陸上での戦いは避けられません。時の司令官は乃木希典(のぎまれすけ)。

乃木希典
乃木希典将軍

陸上では、想像を超えていた難攻不落のロシアの要塞を攻略できず、映画にもなりましたが二百三高地での激戦など、最終的には実に84,435名の戦死者を出しながらもギリギリの所で旅順攻略を果たします。
日露戦争 朝鮮半島での戦闘マップ


この1年ほどの戦闘で、8万名以上の日本人が、祖国を守るために犠牲となりました…。

命を賭して祖国のために勇敢に戦った兵士らは、戊辰戦争の犠牲者を祀るために造られた靖国神社に、新たに「英霊」と称されて祀られることになったのです。

多大な犠牲を強いながらも陸での戦いに勝利した乃木将軍はその後、、明治天皇の大葬が行われた日の午後8時頃、妻・静子さんとともに明治天皇を追うかのように自刃して亡くなります。享年64(満62歳)でした。実は、あの戦闘で自分の息子二人を失っていたのです。司令官の地位にあるゆえ、大きな悲しみを抑えて公のために戦い、明治の終わりと共に人生も自らの手で終焉させたのです。

何という壮絶な死でしょう。

乃木将軍は次のような辞世の句を遺しました。あえて意訳はしません。

神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる

うつ志世を 神去りましゝ大君乃 みあと志たひて 我はゆくなり



余談ですが、日本各地にある「乃木神社」はこの乃木将軍の功績を称えて建立された神社です。
また、東京には「乃木坂」というのがありますが、これも乃木将軍の功績によってつけられた地名です。
・・・乃木坂46、でしたっけ?彼女らやファンの人たちはこのこと、知っているんでしょうか??

こうした陸での多大過ぎる犠牲の上に、バルチック艦隊と日本国聯合艦隊との決戦が準備されました。その間には、圧倒的な物量と軍事力で日本を徹底的に叩くため、バルチック艦隊はバルト海にあるリバウ港を出発し、ほぼ地球を一周する形で7カ月もの航海を経て日本を目指しました。

バルチック艦隊航路
バルチック艦隊航路


迫りくるこの世界最強のバルチック艦隊にどう立ち向かうのか?

次回は、いよいよ伝説の日本海海戦へと突入します!

東京青山霊園:乃木希典将軍の墓


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鍋島直正(2) -誕生-

今回より、鍋島直正公の具体的な足跡を追っていきます。ボクがこれほどまで直正公のことを尊敬する理由を、存分に分かっていただけたらイイなと思っています。
出来るだけ分かりやすい表現で、ここから学び取れることをこの大事な伝記を書き進めて行きますので、ヨロシクお付き合いください!

文化十一(1814)年十二月七日、斉直の子として江戸の桜田屋敷で誕生しました。
山下御門之内 歌川広重
佐賀藩鍋島家上屋敷「山下御門之内」 歌川広重筆

幼名は、貞丸(さだまる)から、文政二年には直謀(なおかず)、同五年に直正、文政十年には第十一代将軍の徳川家斉の「斉」を拝領し、斉正(なりまさ)と称しました。文久元(1861)年に隠居して閑叟(かんそう)となり、明治元年三月十四日には再び直正に戻りました。いやぁ~すごい変遷ですよね?:(;゙゚'ω゚'):

直正が誕生した年である1814年は、ヨーロッパでちょうど皇帝ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島へ流される前年です。

そして、直正が第十代藩主になったのが1830年のことで、まだ17歳でした。佐賀入国のために江戸の佐賀藩邸を出立し、江戸品川宿で休憩をしていましたが、直正は食事中にも関わらず、藩主となる佐賀の実情を表した資料を読んでいたと言います。

というのも、これから藩主となる佐賀藩は超財政難に苦しんでいたからです。確かにこの時期は全国的に財政が苦しくなっていたのですが、佐賀藩は中でも大坂(おおざか)の商人らなどへ莫大な借金を抱えていました。具体的には、1807年の時点で、大坂への負債額が銀千貫と米筈(こめはず:藩札の一種)八千石であったのが、七年後の負債額は銀三万一千貫、米筈三十万石となり、実に三十倍以上に増加しました。

また不運なことに、1828年には台風の被害によって、米がとれずに更に経済が逼迫(ひっぱく)していました。

ちなみに、銀の価値は江戸時代も時期によって変動しますので正確には言えないのですが、銀1貫は現代で約1,250,000円ほどです。したがって、直正公が生まれた頃の負債額は、銀三万一千貫なので、387億5千万円。加えて、一石がおよそ今の10万円ほどでしたから、300億円。これらを足すと、687億5千万円の借金(※額にはレートが絡みますので諸説あります)、ということになってしまいます。これに台風の被害が加わったのです。

こうした状況を詳細に把握し、若い直正公は一刻も早く良い国づくりに励まねばならないと考えていたのでした。

ただ、佐賀へ出立前の品川宿での家臣らの様子がおかしいのです。

夕刻になってもまるで佐賀へ向けて宿を出る気配がありません・・・

さすがに隠せなかった家臣が直正公に告げたことに、江戸藩邸には借金返済を迫る商人たちが押しかけており、佐賀へ随行予定だった藩士たちが外へ出られなくなっている、というのです。これは売掛金を支払っていない家臣たちが引き止められているからという理由でしたが、逼迫(ひっぱぅ)した財政下にある状況では金がなく、家臣たちに支給する分もなかったのです。なかなかこの取り立て騒動は収まらなかったものの、夜になってようやく収まったので、直正公の出立は夜に入ってからという、大変屈辱的な出だしとなってしまいました。

直正公の胸には、自分の予想を超えた財政難を抱える佐賀藩の実態を目の当たりにした、この日の出来事が深く刻まれたのです。

直正公は佐賀へ到着するとすぐ、「長崎警備」の実情を知るために出発します。天領である長崎では、幕府から「長崎警備」という役を佐賀藩と福岡藩が一年おきに任せられており、日本で唯一の国際港であって、西洋のオランダ船が行き来する港が長崎だったので、大変重要な役目でした。そして、この長崎訪問も、直正公にとっては一大転機となりました。長崎港へ投錨中のオランダ商船を初めて見て衝撃を受けるのです。

直正公には、自分が生まれる前に起こった出来事として聞かされていた、フェートン号事件(1808年)のことが頭をよぎったと言います。
フェートン号
イギリス船:フェートン号

この事件はイギリスによる、初の日本への侵略と言っても良いでしょう。オランダ船に扮したフェートン号が長崎港へ不法に侵入し、勘違いしたオランダ商館員二名を拉致し、解放と引き換えに薪(まき)と水と食料を強奪して立ち去った出来事でした。この事件の際に、長崎警備の役を担っていたのが佐賀藩だったのですが、直正公の父の斉直(なりなお)公は幕府より逼塞(ひっそく:城門を閉ざし、昼間の出入りを禁じられた)の重い処分を受け、長崎奉行の松平康英(やすひで)図書頭(ずしょのかみ)は責任をとって自ら切腹しました。
康平社 諏訪神社境内
康平社 諏訪神社境内

佐賀藩はただでさえ財政難を抱えていたので、平和なのに金がかかる長崎警備の人数を大幅に減らしていたという不運も重なったのです。佐賀藩は当然のごとく、また警備費を大量に投下しなければならなくなりました。これも佐賀藩の財政悪化の一因となったものです。

余談ですが、このフェートン号事件後、イギリスの研究が始まりますが、言語の理解がそこには必要です。これで、日本で初めての英和辞典が作られました。その辞書は、当時の阿蘭陀通詞であった本木正栄(まさひで)が、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ、ヤン・コック・ブロンホフらの協力によって完成しました。その辞書の名を「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」と言います。1814年に完成したので、ちょうど直正公が生まれた年です。こうして、英語教育は長崎から始まったのです。
諳厄利亜語林大成 dejima
諳厄利亜語林大成  出島展示 複製本

ドゥーフやブロンホフら、オランダの話はまた違った所で詳しく書きます!

さて、オランダ船を初めて直正公ですが、当時の日本の船と比較してオランダ船の大きさとテクノロジーに魅了されます。あろうことか、家臣が止めることも聞かずに、直正公自らオランダ船に乗り込みたいと言うのです。直接見聞することの大事さを直正公は理解していました。初めて間近に見た大砲と日本の防衛のために置かれた大砲との差が歴然としていたことにゾッとし、この時フェートン号事件のことが頭をよぎったのです。

つまりは、初めて西洋のテクノロジーを目の当たりにし、比較して、改めて日本の国家防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを知ったということです。

家康公以来200年もの間、海に囲まれた日本は偶然にもほぼ軍事侵攻を受けることなく、平和を享受(きょうじゅ)していました。だからある意味長崎警備も手薄で良かったし、オランダから世界の情報が入って来ていたので心配していませんでした。この情報を阿蘭陀通詞が翻訳して、まとめたものを「阿蘭陀風説書(おらんだふうせつがき)」と言い、必ず幕府に提出されていました。
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵
阿蘭陀風説書 早稲田大学図書館蔵

しかし、西洋の航海技術の進歩と後の蒸気船の実用化によって、そして、世界は白人たちによる植民地獲得争奪戦、帝国主義時代へと傾いていく危険な流れに対して、日本は一気に弱小さを露呈したのです。

この長崎視察によって、直正公は佐賀藩の財政難克服と同時に、自らがなすべきことを確信しました。それが、オランダから先端テクノロジーを導入して発展させることで、長崎警備のみならず、ひしひしと迫りくる西洋列強へ対抗できる力と知恵をつけることでした。

ここから直正公の偉大な歴史が幕を開けるのです。

「学ぶ」、というのはどういうことか?

次回もお楽しみにー!



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■鍋島直正(1

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鍋島直正(1)

日本の近代化・産業革命はどこから始まったのでしょうか?

今の大河ドラマ「西郷どん」を見ている人は、おそらく「薩摩」と答えるのではないでしょうか?

その大河ドラマ「西郷どん」で渡辺謙さん演じる薩摩の賢公:島津斉彬がついに没しました。日本の将来を憂い、命を賭して藩主自ら近代化を進めている姿には感動すら覚えますよね。なかなかイケメンな殿様として描かれていました。

島津斉彬 1857年撮影、尚古集成館蔵 

島津斉彬 1857年撮影、尚古集成館蔵

ちなみに、斉彬が死ぬ間際に、西郷さんの発案によって薩摩が攻撃をしかけるという設定になっていましたが、もちろんフィクションです。

さて、あのドラマではサッパリ出てきませんが、島津斉彬と非常に密接な結びつきのある殿様がいます。このブログでは要所で少しずつ登場している肥前の賢公と呼ばれる鍋島直正(なべしまなおまさ)です。

どーん
鍋島直正


ほんとこの写真、堂々としてイイですよね。日本の殿様は西洋と違って、折り目正しく正座して写っているのが素晴らしい。

この二人の母親が鳥取藩藩主:池田治道(はるみち)の娘で、直正と斉彬はいとこ同士です。江戸での佐賀藩と薩摩藩邸が近かったので、斉彬が直正を訪ね、二人は直正の娘について縁談の相談をしていたといいます。当時、共に「蘭癖(らんぺき)」と言われてましたが、こうした交流の中で若い彼ら二人が、将来の異国への対応を話し合っていた姿が目に浮かびます。

ただ、歴史には様々な切り口があるとはいえ、その功績や人物像などを客観的に判断すると、島津斉彬より鍋島直正の方が勝っているとボクは考えています。

日本の科学・化学・医学の本質的な発展である産業革命は、まさしく鍋島直正から始まっているからです。

その偉大な例をいくつか挙げてみましょう。

■1849年:日本初の種痘を実施し、全国への種痘普及起点となる。
■1850年6月:日本初の反射炉築造である「築地反射炉(ついじはんしゃろ)」を設置。
■1852年:最先端の理化学研究施設にあたる「精煉方(せいれんかた)」を日本で初めて設置し、天才・佐野常民(さのつねたみ)らと藩外の有能な科学者らで科学を推進させる。
■1852年5月:日本初の鉄製大砲の鋳造に成功。
※ペリーが来航した際に国内で鉄製大砲を製造できたのは佐賀藩のみ。
■1853年:長崎にロシア艦隊が、予め設置していた本格的な砲台である四郎ヶ島砲台に脅威を抱く。
■1855~59年:幕府の発注で品川の台場に鉄製大砲を設置。今の「お台場」はここから始まる。
■1856年:家臣・島義勇(しまよしたけ)に北海道の探索調査し、後の札幌都市計画の基礎を形成した。
■1858年:「御船手稽古所(おふなてけいこしょ)」=現世界遺産「三重津海軍所」設置。
■1865年:「三重津海軍所」において日本初の実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」完成。
■1867年:パリ万国博覧会へ初の日本代表として正式参加。佐野常民らを派遣する。
■1868年5月:上野戦争で幕末最強の軍事力を駆使して犠牲者があまり出ないように戦闘を早期に終了させる。

研究の場に率先して赴き、学習し、時には自ら長崎でオランダ軍艦へ乗船して船長に教えを請う。また、低い身分の家臣たちとも積極的に意見交換を行って、激励しています。

薩摩の島津斉彬は、佐賀のこうした科学技術の発展を目にして、次のようなことを言っています。

「西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズ倍々(ますます)研究スベシ」

同じ人間なのだから、お前たちも出来ないことはない、と家臣を叱咤激励しているのです。ま、結局出来なかったので佐賀に助けてもらっているんですけどね(;・∀・)

次回より、具体的に鍋島直正の魅力を書いていこうと思っています。

お楽しみに~!


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祝☆主催イベント成功!!

無事行われました!

「クイズでめぐろう!in春のグラバー園」!!
180327園内マップ他


我々PEACEBLUEが主催して行う、大きなイベントとしては初開催♪

ありがたいことに事前募集で100名以上が集まり、メンバー一同、気合いたっぷりに臨みました!!

朝8:00、グラバー園の開園と共に、園内へ!
180327園内へ

180327桜
桜も満開でした!(^^)!

当日も準備から入ってくださった、長崎市・世界遺産推進室 栗脇さま(左から2番目)。
今回コラボした「Lovers」の横断幕も準備してくださいました!
もーーーーう!本当に大感謝!!
180327横断幕

準備がひと段落したら子ども達の集合場所へ。
そして一緒にイベント広場へ…
180327イベント広場へ
動く歩道に感激の子ども達でした!

開会式。
PEACEBLUE代表・浜口の 子ども心をつかむ、さすがの挨拶。
180327開会式

また、「Lovers」バッジには、「G」の文字。
参加の子ども達も全員が書き入れ、準備OK!!
180327バッジ
「G」Lovers → GLover(グラバー) s というワケです♪

子ども達4~5名が1チームとなり、浜口先生考案の21のクイズを解きながら
グラバー園をめぐります。
途中、7問目、14問目が解けたら本部に報告☆
180327スコア表

Keiko「問題、絶対難しいって~!!」

と、度々先生に訴えていたのですが…
子ども達、すばらしかった!!
24チーム中、2チームが時間内に全問解けました!
他にも、あと少しというチームも多数!!
園内を駆け回って、元気に真剣に問題を解いていました^^

180327グラバーの絵
中にはグラバーの絵を書く問題も♪

長崎に住んでいながら、グラバーの偉大な功績を知らない子ども達。
教科書に載っていないからではなく、だからこそ学びの機会を設けられたら…!
地元の素晴らしく、特異な歴史を知ってもらえたら…!という思いから始まり結成した「PEACEBLUE」。

この流れが全国で巻き起こるよう、さらに前進していきたいと思います^^

最後は、みんなで記念撮影~!!
180327集合写真

NHKのお昼のニュースにも取り上げて頂きました!
http://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20180327/5030000243.html

最後は今回のイベントに携わったPEACEBLUEメンバーでも1枚♪
180327メンバーで記念撮影
今回のイベントにご参加の皆さま、長崎市世界遺産推進室・長崎創生推進室の皆さま、
グラバー園の皆さま、たくさんのご協力で、無事にイベントを執り行うことができました。
本当にありがとうございました!!



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