CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11- オランダ独立(2)

さて、オランダはどうやって神聖ローマ帝国、いや、スペイン・ハプスブルク家から独立を果たしたのでしょうか?

それは、三十年戦争で神聖ローマ帝国が解体され、カルヴァン派が勝ったからです!

と、具体的事例や論理性をすっ飛ばして結論から入るとまた訳が分からなくなり、批判の嵐が吹き荒れますので、順を追って書きますとも!

ちなみに、なぜ「三十年戦争」なのかというと、1618年から1648年の31年間の長きに渡って(途中断絶したり、また開戦したりしましたが)、行われたから…に決まってますよね、普通(;・∀・)

The_Hanging_by_Jacques_Callot.jpg

おっと、画像の挿入間違えました:(;゙゚'ω゚'): この画像、風のように忘れて下さい。

まず、当時の情勢を地図で見ておきましょう。

16世紀 プロテスタントの広がり
引用:世界の歴史まっぷより

アレ?この時、スペインとネーデルラントってフランスを挟んで戦ってるけど、フランスは何してたの?

こういう疑問が生じるのが普通です。

それに、海を隔てたイングランド王国とスコットランド王国やデンマーク、ノルウェー、スウェーデン王国などもこの戦争には関わってきます。
三十年戦争は世界史上「最後の宗教戦争」と呼ばれていて、カルヴァン派の積年の恨みが爆発する大戦争へと発展したのです

なぜルター派じゃないの?と思った人、スルドイです!

話は前回のブログで書いた、カール5世が開いたトリエントの公会議にさかのぼります。

公会議とは、バチカンの教皇庁に全世界からの代表者が集まり、教義などの重要事項を決定する最高会議のことを言います。

公会議は325年のニケーアで開催されたものが初めでした。ニケーアではイエスはいったい何者なんだという話し合いがなされました。この時、アリウス派とアタナシウス派の二者が争い、アリウス派が「人間だろ」と言ったのに対し、アタナシウス派は、「いや、イエスは父(創造主)であり、子(その息子で人間)であり、聖霊(…詳細は抽象的すぎて不明です。今度どっかの教会に礼拝行って神父様に聞いておきます。でも、理解できるかどうかの保証はありませんが…)だ」と主張しました。

この論争で結局アタナシウス派が勝ち、今に至る「三位一体(さんみいったい)説」が正当だとなったのです

話を戻しましょう。

元の木阿弥:トリエントの会議は、長いこと時間を費やしたのに、結局は妥協どころかこれまでのカトリックの伝統で行こうと決定したものでした。

ただ、会議途中の1558年、発起人のスペイン王:カール5世が亡くなりました・・・。

Charles_V,_Holy_Roman_Emperor_by_Tizian
伝ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年(アルテ・ピナコテーク蔵)

神聖ローマ皇帝として、彼はどのような人生だったのでしょうか・・・。

イタリアを巡って、隣国のフランスのフランソワ1世&アンリ2世父子との戦争に明け暮れ、ドイツから広がった宗教改革後のプロテスタントとの戦い、スレイマン1世が率いる強大なオスマン帝国との戦いにも阻まれて、あと一歩のところで神聖ローマ帝国の覇権樹立という目的は果たせませんでした。

また、晩年には痛風による激痛との戦いと相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、息子フェリペにスペイン王の座を譲位。オーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は、フェリペの弟のフェルディナント1世に継承させます。

これをもって、神聖ローマ帝国:ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系とスペイン・ハプスブルク系に分裂していくことになりました。

引退する前年の1555年、カール5世のスピーチが残っています。

余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回ずつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれてしまったそうです。

フェリペだけでなく、弟フェルディナンド、姉エレオノーレ、妹マリアという、彼の子供たちも出席し、1517年まで生まれ育った、ネーデルラントの一部ブリュッセルでの退位式でした。

そして、自らはスペインのユステ修道院に隠棲して、日常的な痛風の激痛に苦しみながら人生の幕を下ろすのです。享年58歳でした。

カール5世ほど、いろんな戦いに人生の大半を捧げねばならなかった宿命、ボクら現代に生きる人間には到底想像もつきません・・・


1556年からトリエントの公会議であとを継いでいたのが、バリバリのカトリック推進派フェリペ2世です。

フェリペ2世2

しかし、実はこの前年の1555年9月25日、ドイツ近辺の地域では公会議でない、神聖ローマ帝国のアウグスブルクで別の会議が開かれていたのです。だからここに教皇はほとんど関わっていません。皇帝と諸侯の間の取り決めです。

ここで何と、カトリック側は「ルター派は仕方ないから認めよう」という決定がなされるのです。主な決定内容は次のようなものでした。

1:ルター派は認める(カルヴァン派とツヴィングリ派は、あいつら噂によれば過激だからダメだけどね)
2:カトリックかルター派かは、その地域にいる領主が決めてね(個人が勝手に選ぶなよ)
もう少し細かいのもありますが、ま、これだけでイイでしょう。

このうち、「カルヴァン派はダメだけどね」、というのが後のために重要なポイントです

そうこうしているうちに、1581年、オランダはスペインからの独立を宣言してしまいました!

といっても、1555年のアウグスブルクでの和議以来、カルヴァン派が認められない中で、ネーデルラントは17州ある領邦のうち、北部7州(今のオランダ辺り)、南部10州(今のベルギー辺り)というように分かれてました。この南部にカトリックの連中には元々多かったことから、南部10州はスペインのカトリックの圧政に屈してしまいました。

しかし、北部は「カルヴァン派の信教の自由を勝ち取るまで負けぬ!」とばかりに抵抗し、ユトレヒトで同盟を結んで団結を誓います

この北部7州の中での一番有力だったのが「ホラント州」で、これがポルトガル語で「オランダ」に近い発音となって、先に日本にポルトガル経由で入ってきてたから、のちにネーデルラント人が日本に来た際、「ああ、南蛮人から聞いてたあんたらがオランダの人ね、この前来てたエゲレスの人と同じ『紅毛人』の 」となっていく訳です。(※「鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではない!? 5」 参照)

お判りですか?南蛮人と紅毛人の違い

実はコレ、それぞれ「カトリック」か「プロテスタント」かの違いなんです

ちなみにですが、1584年に日本からの「天正遣欧少年使節」を歓待したのが、フェリペ2世です

JapaneseEmbassy.jpg

そして、このネーデルラント北部の連中が高らかに宣言したのが、「ネーデルラント連邦共和国」独立!」です。
・・・まだ、承認されてませんよ。単に、国だと言い張っているとヨーロッパの他国はみてますから。

なぜでしょう?それは国の名前に表れてます。

「ネーデルラント連邦共和国」

「共和国」は、「皇帝や王様がいない、貴族のパラダイス」という意味だからです
後でイギリス編の時にも使用する語義だと思うので、ここ暗記必須です。

初代総督(当然共和政だから「王」ではないですね)が、オラニエ公ウイレムと言います。アルファベットで書くと、Willem van Orange 英語ではオレンジ公ウィリアムになります。

WilliamOfOrange1580.jpg
オラニエ公ウィレム1世(Willem I)
■1533年4月24日~1584年7月10日

王がいないので当然ですが、話し合いを貴族みんなで進めていくというのは、歴史上なかなか経験したことがないので難しいことなのです。

しかし、この人は就任してわずか6年目でカトリック教徒に暗殺されてしまいます。

再びダークサイドのとばりが…。

しかし、ダークサイドの脅威は、ラッキーにもオランダに訪れませんでした。

要因の一つが、フェリペ2世のスペインの誇る「無敵艦隊」が1588年、アルマダ海戦でイギリス海軍に潰滅されてしまったことです
不運にも暴風雨もあって、「無敵」のハズが木端微塵です。

そもそもなぜ「無敵」という名前なのかというと、少しさかのぼること1571年、フェリペ2世はあの強大なオスマン・トルコ帝国と無謀にも戦います。教皇やヴェネツィアとの連合軍で挑みます。フェリペは、アメリカ大陸や日本の下のフィリピンまで支配領域に置いた力を過信していたのでしょう。ギリシア西岸の地、レパントでの海戦が火ぶたを切ったのですが、わざわざ地中海を横断してギリシアの方まで行ったのは、この地中海を支配しているオスマン帝国を叩き潰そうとしたからでした

無謀にしかけた戦争でしたが、勝ってしましました(ラッキーで)。

この時に「オスマンに勝ったオレには恐れる者はない、無敵だ!」ということでつけられたあだ名が「無敵艦隊」

ただ、ラッキーで勝っただけだったんで、のちに一緒に戦った奴らとの内ゲバもあって、また地中海の覇権はソッコー、オスマンに戻っただけに終わりましたが・・・。

しかし、オスマン帝国強いです

どうしても日本人は西洋の歴史と東洋の歴史を分断して教科書で学び、あとは「その他ね」で済ますことが多いと思われます。しかし、間違いなくこの16世紀に最先端の国は西洋ではありません。中央アジアから東アジアです。軍事にしろ文化にしろ、ホントに洗練されて素晴らしいのです。数学もアラビアの学問で、我々が使用する数字もアラビア数字です(ゼロの観念はインドですね)。

スペインやポルトガルといった、いわゆる「大航海時代」を担った奴らが、あれほど欲しがった「香辛料」が入ってこない理由が分かったでしょうか?

オスマン帝国が強すぎて支配領域を通れないのです。だから、東南アジアへ行くのにわざわざ遠回りして、アフリカの下を通って行かねばならなかった、ということでしたね。(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)

小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスがこのレパントの海戦時にスペインの連合軍で参戦してます。それで左手に銃撃を受けて片腕となってしまいましたが、右腕が残ったために「ドン・キホーテ」が書かれた、と、いろいろ言われてますが、定かではありません。

その後もフェリペ2世は1580年には隣のポルトガルも併合し、いよいよもって「太陽の沈まぬ国」を絶賛建造中でした(オスマンのやつらがいないとこ限定)。オランダが独立宣言をする前年です。

しかし、この「無敵艦隊」が1588年にイギリス艦隊に負け、スペインの覇権は次第に衰退していくのです

そして、ついに1609年にはスペインとの休戦条約が締結され、オランダはスペインから独立を果たしました

ただ、ヨーロッパ内での国際的な承認は得ないまま時間は過ぎていきます。そして、国のカルヴァン派もまだ認められていないままなのです。「アウグスブルクの和議で、何でルター派認めたくせして、オレたち認めなかったんだよ」と恨み節全開でした。

こうして、八十年戦争の後半へとつながっていきます。いよいよ真の独立を果たした戦争へと。
ここにフランスも色んな国も関わってきます。ただし、それは血で血を洗う、人類史上でも過酷なものでした。

今回の最後に、カール5世の晩年について補足しておこうと思います。

カール5世は、1548年にネーデルラントの全州である17州を、スペイン王国およびフランスからの分離独立を認めました。
更には1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られている、アメリカ先住民:インディオの地位とインディアス問題に関する審議会を開きました。
これは、アメリカ大陸でインディオを無差別に虐殺しまくったことを告発してきた、あのラス・カサス神父らの長年の活動が実ったともいえる決議でした。また、最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、アメリカ先住民:インディオへの不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では人権という概念を意識した、非常に画期的な審議会となったのです。これをリードしたのがカール5世だったのです。

Bartolomedelascasas.jpg
ラス・カサス神父

「人間にはどうしても変えられないものと、変えられるものがある」、ということをカール5世を通じて、もう遥か前でしたが、ボクは学びました

歴史の研究というのは、未来をより良く生きるため、正しい判断をするために必要な、人類の知恵の集積を知ることです。こうした知恵をわかりやすく、子どもたちの心に響くように伝えられたらイイなと本当に心から思います。

次回、フランスとオランダの周辺国の事情です。お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -

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みんなで知ろう☆PEACEBLUE代表・浜口剛の魅力(1)

ご無沙汰しております。

PEACEBLUE 広報部長のKeikoです!!

今回は広報部長らしく、PEACEBLUE代表・浜口剛について語らせて頂こうかと。

というのも、浜口先生(…といつも呼んでいる)、長崎に繋がる様々な国の歴史、魅力について
大量にブログで発信しておきながら、自分のことになると全ー然なんです!!

(Keiko)「浜口先生のプロフィール写真撮りましょうよ~!」
(浜口先生)「断る」

(Keiko)「誰がブログ書いているかもうちょっと自分自身を前に出したほうがいいですよ!」
(浜口先生)「いや、いい」

こんなやりとりを何度くりかえしたことでしょう。。。
いい歳してシャイボーイか(笑)!!なので、しびれを切らして私が書きます( ̄▽ ̄)♪

前置きが長くなりましたが、まずはプロフィールから!!


【「PEACEBLUE」代表:浜口 剛(はまぐち つよし)】
先生PF写真

1969年長崎市生まれ。

長崎学の泰斗・グラバー園名誉園長:ブライアン=バークガフニ教授に師事し、
日本の近代化の父:トーマス=ブレイク=グラバーの研究を行う過程で、
16世紀以来の長崎と異国との特異な関わりと、その文化の素晴らしさを認識した。

大学時代から塾講師をつとめ、1997年、自ら進学塾「ラディアン」を創立。
「ブレない目的意識と常にグレードアップする努力」をモットーに、
今年で創立21年目をむかえる。
圧倒的知識と科学的合理性をベースとした、既存の型にはまらないユニークな指導は
長崎内外の塾生・保護者からの信頼も厚く、毎年多くの塾生を難関校へと送り出している。

全国こども歴史科学研究所「PEACEBLUE」代表。
軍艦島コンシェルジュ公式ガイド。

↑↑↑
…とまぁ、ノーマルプロフィールはこのような感じです。
ウェブサイト 「PEACEBLUE-全国こども歴史科学研究所-」
にも記載している内容&写真です。
(大体このプロフィール写真も、本当はもっと違う感じのが!いいのにと
何度言ったかわかりません。)

ここからはKeiko的、浜口先生プロフィール!

①音楽を本業と言い張る
塾、21年も経営しているのに副業扱い(笑)。
どう考えても無理があります。

②どこまでもストイック
主食は〇ィダー〇ンゼリー。スタイル維持に努力を惜しまない。
夏の熱い最中に何時間も走り込む。
仕事に関してもとても自分に厳しい。

③周りの人にはめちゃくちゃ優しい。
かと思えば優しいだけでなく、その人の為を思い厳しいことを言うことも。
アメとムチを巧みに使い分ける、抜群の面倒見の良さ。
だからこそ塾にも多くの生徒が口コミで集まってくる。

グラバー園にて
写真は、今年9月24日(日)に行われた
【世界遺産公式ツアーガイド・浜口剛先生とさるく!グラバー園~学校では学べない長崎学☆】
(Facebook記事はコチラ→ https://www.facebook.com/keiko.takahashi.52/posts/1329242943868464

での1枚。

参加者に…というか、こちら通りすがりの熱心な観光客の方なのですが、
浜口先生、とても親切に質問に答えていました。
ブログでは、結構難しいことを書くことも多い浜口先生ですが(←私だけ⁉)
このグラバー園の企画、ものすごくわかりやすく、説明にも驚きの連続で
ご参加頂いた皆さんからはとても喜ばれたのですよ(*´▽`*)
ぜひまた企画したいです♪

また、歴史科学と言いながら、実は芸術家肌なところも!
(というか、元々の専門は芸術らしい…)
浜口画伯の作品もぜひこのブログで紹介したいところですね。
「いやだ」と言われそうですが(笑)。

ブログに日々綴られている歴史科学の様々なシリーズもいいですが、
まずは、自分達を知って頂くところから…と考えた今回の記事。
私としては、今後も、全然自分から前に出ようとしない(笑) 浜口先生自身のこと、
時には書いていきたいですね( ̄▽ ̄)
広報部長ですから!!!

「ブログにこんなこと書いてほしい!」
「こんな企画をやってほしい!」

今後のリクエストなどありましたら、
ワタクシまでどうぞっ(*^^)v



副管理人:Keikoの らぶらぶ長崎 | コメント:0 |

島原の子守り唄

島原の子守り唄

おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ん久助どんの
連れんこらるバイ

帰りにゃ寄っちょくれんか 
帰りにゃ寄っりょくれんか
あばらやじゃけんど
唐芋飯(といもめし)ゃ栗ん飯
唐芋飯ゃ栗ん飯 黄金飯(こがねめし)ばよ
ショウカイナ
嫁ごん紅(べん)な 誰がくれた
唾つけたならあったかろ

沖の不知火 沖の不知火
消えては燃える
バテレン祭りの バテレン祭りの
笛や太鼓も鳴りやんだ
早う寝ろ泣かんでおろろんバイ
早う寝ろ泣かんでおろろんバイ


これを書くにあたって、倍賞千恵子さん、吉幾三さん、藤圭子さん、塩田美奈子さん、森昌子さん、小柳ルミ子さんなど、可能な限り聴き比べました。

心に響くのは、ホントにボクの主観なのですが、間違いなく倍賞千恵子さんでした

倍賞千恵子



なぜなら、この唄は「歌」でなく、子守「唄」だからです。子どもが眠りにつく時、誰のが一番心地良いのか、これを基準に聴き比べました。
他の人は普通に上手な「歌」に聞えました。しかし、倍賞千恵子さんのはちゃんと「子守唄」なのです。

ボクは「男はつらいよ」が邦画のバイブルなので、確かに主演を務める倍賞千恵子さんにはかなりバイアスがかかった見方をしているのかもしれませんが…。

この唄を作ったのは宮崎康平ですが、彼は南旺土木をやりながら島原鉄道専務になっています。
父:徳市が心血注いだ島鉄だったので、ここへ入ることが念願でした。
そして、オンボロの客車を修理して走らせて、昭和天皇のお召列車まで迎えています。

観光ブームの折から、宮崎は家庭を顧みることなく働きます。そうして、過労で倒れ、失明しました。
そうして、妻に去られた宮崎の人生は大きく変わりました。

「私は戦後女房に逃げられました。母親を慕って泣く赤ん坊をあやしながら、私はいつしかオロロンバイと唄っていました。それが島原の子守唄になったのです」と、彼はこのようなことを婦人会の講演などで話していたそうです。

しかし、彼がこの唄を創作した背景には、もっと哀しい根っこがありました。

当時の島原半島や天草の人たちは貧しかった。

「唐(から)ゆきさん」

貧しさゆえに人買いに買われていった、娘たち。
シンガポールやジャワ、スマトラ方面まで出掛けていったそうです。
この唄の底流には、宮崎がここで見聞きした、闇の事情があるのです。

島原に残っていた「唐ゆきさん」は、悲惨な渡航の状況をこう語っています。

「まっ黒か石炭船ん底ですたい。そるこそ腰巻一枚で、ピロウな話ですばってん、クソも小便もたれっぱなし、おそろしかっとひもじかっとでふるうちょる私たちば、ふとか外国の船乗りたいが、うつりかわり抱きくっとですたい」

目的地に着いてからも彼女らの地獄絵図は続きます。
夜に紛れて荷物同様に荷揚げされた娘たちは、密室に閉じ込められるのです。

ここではじめて食べ物が与えられます。
初めはパン、カレーライス、ビフテキといった具合に、だんだん上等なものになっていく仕組みです。
それは、この娘たちの食いつく様子を見ている西洋人たちのテストでした。

つまり、最後まで食い意地をはらず、食べ物に手を出さない娘に高値が付けるためです。
日本と違って、強情な娘ほど粘り強く働くと見ていた楼主たちの合理主義的な経営哲学なのです

歌詞の中にあらわれる「鬼池の久助どん」も人買いのひとりなのです。

作家の創作した意図の根底に、当時の島原の貧困と自分の悲哀とが交錯した、こうした視点も加えてこの唄を聴くといたたまれません。

「ながさきの民謡」 長崎新聞社編 を参考に書きました。


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長崎のうた | コメント:0 |

原爆を開発した、あるアメリカの物理学者のインタヴュー

こんばんわ。

明日12月8日は、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦の契機となった、真珠湾攻撃の日です。

この日を明日に控えて、みなさんには問題提起をさせていただこうと思います

次の動画は、ハロルド・メルビン・アグニュー博士が広島を訪れて、インタヴューに答えたものです。
(Harold Melvin Agnew, 1921年3月28日 - 2013年9月29日)
彼はアメリカの物理学者で、広島に原爆を投下した際に、計装航空機として「エノラ・ゲイ(広島に原爆を投下した機)」を尾行した「グレート・アーティスト」に科学観測員として同乗しています。



この動画をご覧になり、現代を生きる日本のみなさんはどのように思われたでしょうか?

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核爆弾 | コメント:0 |

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -

このシリーズでの前回、「出島表門開通記念! みんなで学ぼう、オランダ9」の最後に問いました答えは以下の記事によって書きましたので、解答にたどり着くまでせっかく書いたのでぜひとも全てお読みになられて下さい

■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
■「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -

途中、いきなりこの「みんで学ぼう、世界史としてのキリスト教 宗教改革」シリ~ズ、などもぶっ込んでしまい、もうやってられんわwwwとなった方もいらっしゃるかとは重々拝察申し上げます。しかし、お読みになられた方はお分かりかと思いますが、アレは必要悪(必要善)の脱線だと自負しております(断)。

答えを確認されたでしょうか?

これでようやく神聖ローマ帝国&スペイン・ハプスブルク家からのオランダの独立へと進めるわけです(´;ω;`)

16世紀。
この16世紀は世界史の中でも、大きなターニングポイントとなる世紀ではないかとボクは考えています。追って話すことになります。

では、さっそく「オランダ独立」までの道、いってみましょう!

日本は大陸からは海で隔絶された島国であるという地理的条件もあって、はじめっから独立というか孤立しているので、なかなか他国の独立問題の深刻さに気付くことがないでしょう。平和ボケと揶揄されるゆえんはこの辺りにも要因があります。

オランダもある意味、低地で水浸しであったという地理的条件から、まともな国家が成立していたわけではありません(後に、この「低地」であるという条件が「江戸」と同様、経済的には幸いしてきます)。

そこに、
①ゲルマンの強力な国家であるフランクが出来て支配領域に入り
   ↓
②その後、9世紀末の分裂を経て
   ↓
③神聖ローマ帝国の中に組み込まれる
、という流れをこれまでに書いてきました。

そうして、ルター、カルヴァン派と続き、プロテスタントは広がりを見せるようになります。さすがに聖書をみんなが自国語(はじめはドイツ語です)で読めるようになると、そして、活版印刷によって大量に書物が造られるようになると、聖書にまるで書いていない「贖宥状(免罪符)」や「魔女狩り」といった、これまでのローマ・カトリック教会の悪事が露呈していくわけです

「信者」なのですから、教会が「信じられない」行動をとれば、人が離れていくのは当たり前の話です

こうしてカルヴァン派プロテスタントは、ドイツの周辺である国々、オランダだけでなく、フランス、イングランド、スコットランドへと広がっていきます。

16世紀 プロテスタントの広がり
引用:「世界の歴史まっぷ:カルヴァンの改革」より

このプロテスタントの広がりに教皇庁もさすがに黙ってはいられません

時の教皇:パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世の協力の申し出もあり、途中開催地を巡ってフランスとのいざこざもありましたが、結局は帝国内の自由市で北イタリアのトリエントでの公会議の開催を決断します

そもそもルターはカトリックの解体を望んでいませんでした。「聖書に戻れ」という教会自らの改革を呼びかけていたのです

1545年から63年という長きに渡って、3会期の討議がなされ、ようやく終了します。
ここで、プロテスタントとの妥協点と非妥協点が確認されますが、贖宥状(免罪符)の販売や金による取引を禁止しつつも、依然「贖宥」の意義は保たれることなど、結局はその他もルターが主張した「聖書に戻れ」というより、むしろこれまでの教会の伝統に由来する教義が有効であることを認め、終了~となります

一体、この費やした時間は何だったんでしょうか…。

しかも、この会議の期間中、妥協点を見い出そうとした神聖ローマ皇帝(痛風王)カール5世は亡くなり、1556年から後を継いだのが、あの息子のフェリペ2世でした。
フェリペ2世2

以前にも書いた通り、フェリペは強硬なカトリック推進派です
当時のオランダは、フランスという当時の大国を挟んで、スペイン・ハプスブルク家との領土ですが、ルター&カルヴァンによる宗教改革以降、世間は上記のような事情であるにもかかわらず、トリエントの公会議の内容を徹底すべく、このスペイン王フェリペ2世はカトリック思想による圧政をしくのです

まず、具体的な政策ですが、スペイン統治下のネーデルラント(オランダの正式名でした。一応、お忘れないよう確認で書きましたが、以後また「オランダ」にしときます)では異端審問が行われ、プロテスタントを弾圧します。また、都市の自治権を剥奪し、市民には重税を課すなど、やりたい放題の圧政を展開していきます。

この圧政に対抗した貴族が、ナッサウ伯ルートヴィヒ、ブレーデローデ伯ヘンドリックでした。
彼らが中心となって同盟を結成し、下級貴族ら約400名が集結しましたこの中にはプロテスタントだけでなく、何とカトリックもいたのです。よほどの重税だったんでしょう。

1566年4月5日、彼らはブリュッセルの宮廷に赴き、総督パルマ公妃マルゲリータに、フェリペによる、トリエント公会議の決定事項の強制を取りやめるよう求める請願書を提出しました。
この請願の動きに、公妃マルゲリータは慌てふためきます。もし、これが広がって、請願を受け取ってしまうとフェリペが黙っていないからです。
これ対し、マルゲリータの廷臣ベルレーモンが、「公妃様、あのような下っ端貴族など、ご心配ありません。公妃様の権威を利用して『おねげえしますだ~』と物乞いに来ているに過ぎません。今度またやってきたら、あいつらのこと「乞食」と呼んで、踏みつけてやりましょう」と語ったとか。

その後、下ッパ貴族がやってくるごとに、「また『乞食』が来たぞ」、と呼ばれるようになります。そのうち下ッパ貴族たちも、「いいよ、別にそれで」ということで自分達でも「乞食」党と名乗るようになります

この「乞食」のことをドイツ語で「ゴイセン(オランダ語ではフーゼン)」と言います

この「ゴイセン」という言葉は、後にネーデルラントの愛国者を意味するようになるのですが、その意味はこの下級貴族らの「乞食」党に由来するのです(なにやら今この言葉は差別用語に指定されてるようですが、歴史上の事実として使用されていたのでそのまま使ってます。「乞食」はアウトで「物乞い」「ホームレス(といった横文字)」ならセーフ、てのは不明ですが…。以後のブログ記事でも、同様です)。

この下ッパ貴族のユーモアのセンス、あのユリウス・カエサル(あだ名「モエクス・カルウス」=ハゲの女ったらしと自認)に通じますよね?(笑)

さて、こうした下級貴族らの圧政に対する請願行動は、カルヴァン派の連中を中心に行われたので、オランダではカルヴァン派のことを「ゴイセン」の通称にもなっていきました。「ゴイセン」らは、オランダ各地で野外説法を行い、フェリペ2世の暴政を非難しまくります。過激派の連中は、教会を襲撃して聖像を破壊したりと、こっちもやりたい放題です

このようなオランダにおける治安の乱れをさすがに懸念したフェリペは、1567年にアルバ公をネーデルラント総督として派遣し、治安を平定させようと目論見ます。

いよいよ、「八十年戦争」の幕が上がります
ダークサイドのとばりが降りてきた・・・みたいな。逆か、この場合(;´∀`)

フェリペ子飼いのアルバ公は以前にも増して、ここぞとばかりの苛烈な圧政とプロテスタント迫害を展開します。この迫害によって多数のカルヴァン派が処刑されますが、この時の裁判所を通称「血の裁判所」というのです

こうした迫害の強化によって、しだいにゴイセンらの抗議行動は鎮圧されてゆくのです。

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フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba)

しかし、ネーデルラントはスペインへの抵抗を止めませんでした。

ネーデルラント諸州は1568年、オラニエ公ウィレム1世を先頭に、再びスペインに対する反乱を起こすのです。

そして、人類の起点となった、「三十年戦争」へ突入~!!! となります。

・・・あれ?そういうや、カトリックて、何で日本へ布教に来たんだっけ??

盛り上がってきました!!

次回も、お楽しみに~!

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<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
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出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -


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