CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1

どうも、お久しぶりです。
副業1&2が激多忙過ぎて、すっかりこのブログもなおざりにしてました:(;゙゚'ω゚'):
ようやく副業奴隷解放宣言も出されたってことで、いろいろ溜めてたモノを開放していこうかと思われます。
いかに一般の通念が誤っているか・・・
では、副業1で世界史講師をも務める浜口改めメカ口が、今回は長崎とは何かとゆかりの深い国:ポルトガルについて書きます!!


そもそも、なぜポルトガルやスペイン、オランダが遥か彼方のアジアへ来たのか? これを考えたことがあるだろうか。

ます考えなくてはならないのが、ヨーロッパ人たちが住んでいた地理的条件と特有の食文化である。

中世のヨーロッパは国土や気候条件によって極めて貧しい食生活を強いられており、ほとんどが痩せた土地であるヨーロッパでは、食の中心が限られた野菜や穀物、塩漬け肉・野鳥・塩漬けの干し魚などであった。アメリカという、ヨーロッパ人たちにすると「新大陸」からもたらされたトマト・じゃがいも・とうもろこしがしだいに普及するのは16世紀以降のことなのである。
もちろんヨーロッパでも牧畜は行われていたが、豚や牛といった家畜のエサとなる干し草の保存が出来ないため、こうした家畜はほとんど秋に屠殺し、その肉を塩漬けにして冬を乗り切るために保存していた。ただ、当然これも日が経つにつれて腐敗臭が酷くなり、味も劣化していく。しかし、他に方法がないので人々はこの腐った肉をどうにかして食べて、冬をしのぐしかなかったのである。

ここで、この問題を解決したのがアジア特産の「香辛料」の再発見であった。

山川の世界史B用語集には次のような記述がある。

<香辛料>
胡椒(こしょう)・肉桂(にくけい)・丁香(ちょうこう)丁子(丁字:ちょうじ)など、おもにインド・東南アジア産の刺激性嗜好(しこう)品。肉を多食するヨーロッパでは、味覚と腐敗防止を兼ねて求められ、東方貿易最大の輸入品であった。

これを見ても、香辛料がどれほどヨーロッパ人の食生活に潤いをもたらしたのかがよく理解できるし、これが需要と供給量のバランスを考えても高額な商品になったということもうなずける。
香辛料は塩漬け肉の臭いを消して、肉を食べやすくする。必然的にヨーロッパの香辛料の需要が増大したのである。

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この山川の資料では、ナツメグは何と4000%以上の利益率となっていて、いかに香辛料が当時高額取引されていたかが具体的にわかる。

香辛料は以前にもヨーロッパへ多少なりとも流通したことがある。歴史を遡ると、アジア原産の香辛料は、地理的にヨーロッパへの香辛料の供給量は極めて少なかったものの、アジアでは既にこの交易が盛んであった。シルクロードと同様、海の道である、いわゆる「スパイスロード」を通じて中東辺りまでの交易は行われていた。古代ローマ時代には既に流通していたが、東ローマが滅んだことによってこのスパイスロードが断絶する。

次に、11世紀末からの十字軍によって、ヨーロッパ人が再び香辛料を知る契機が生まれる。

十字軍は神聖ローマ帝国のキリスト教軍が今のドイツ辺りから、中東のセルジューク・トルコによって奪われた聖地エルサレムを奪回に行った、イスラム教徒への虐殺である。その時、肉食のヨーロッパ人たちがここ中東に素晴らしいものを発見した、それが香辛料だった。そして、これがイスラムやイタリア商人たちによってイタリアのヴェネツィアなどへ運ばれて行ったのであるが、13世紀末に中東からヨーロッパ、アフリカにまたがる強大なイスラム国家:オスマン・トルコが建国され、ヨーロッパ人たちへの香辛料の交易が中断してしまったのである。何とかして香辛料を手に入れたいヴェネツィア商人たちは、このイスラム商人たちとの香辛料取引をしたかったために、香辛料は大変希少価値が発生し、胡椒の粒と黄金の粒が等しい価値になるほどであった。

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上の図で示されているのは、当時経済的に重要なシルクロード(赤)香辛料貿易のルート(青)である。これがオスマン・トルコ時代に遮断されてしまう。オスマン・トルコが1453年に東ローマ(ビザンツ)帝国を崩壊させたからある。この強大な帝国の存在によって、ヨーロッパ勢力は東方への交易ルートが遮断されてしまった。

香辛料を忘れられないヨーロッパ人は、実はこうした動機によってアフリカ航路開拓のための探検を促し、「大航海時代」を引き起こしたのである。クリストファー・コロンブスが1492年スペイン女王:イサベルの命によってアメリカ大陸へ到達したのも、根っこはこうした事情である。この当時、西ヨーロッパでは、東アジア・東南アジア・南アジアを含むアジア大陸東半分の地域を漠然と「インド(※スペイン語ではインディアス)」と呼んでいた。だから、香辛料を求めてアジアへ向ったコロンブスが、到達したアメリカを「インド」だと勘違いしたので、現地のアメリカ人を「インディアン」と呼んだのである

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クリストファー・コロンブス(伊: Cristoforo Colombo)
<DATA>
■1451年頃 - 1506年5月20日
■探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人
■定説ではイタリアのジェノヴァ出身

コロンブスはこの少し前に仕事の拠点であったポルトガルのリスボンで、地球球体説を唱えていたトスカネリと知り合って手紙の交換をしている。トスカネリは13世紀ヴェネツィアの商人だった、あのマルコ・ポーロの考えを取り入れていた。コロンブス自身もマルコ・ポーロの「東方見聞録」に記述がある黄金の国:ジパングに惹かれていたという。この書物によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」という。この富への野望が掻き立てられたのである。

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<DATA>
マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo)
■1254年 - 1324年1月9日
■ヴェネツィア共和国の商人
■「東方見聞録」(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家
■訪れた元で、色目人(しきもくじん)としてフビライ・ハンに重用される

また、地球が平面だと思われていた時代に、最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もあるほどだ。確かに、コロンブスにはこうした地理上の発見への野望があったことは事実であろう。しかし、彼を援助したスペイン女王や貴族にとってみれば、そうした功績に加えて、香辛料によって食の改善がなされることも現実的には重要なファクターであった。事実、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)でスペインからイスラム教徒を駆逐した後、ポルトガルやスペインの君主たちは直接香辛料貿易の恩恵にあずかろうと、大西洋に着目したのだ。つまり、先ほど書いたように、東方には強大な国家:オスマン・トルコがいて交易が遮断されている。ならば、危険のない西廻りや西アフリカ沿岸を遠回りする、東廻りの交易ルート以外を開発すれば良いのではないか、という発想になったのだ。これがスペインとポルトガルによる「大航海時代」への動機づけである。

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マルティン・ベハイムの地球儀(ドイツ・ニュルンベルク)

ポルトガルは「航海王子:エンリケ」の奨励でアフリカ西岸への探検に乗り出していた。これは司祭王:聖プレスタージョンの国を発見するためという目的と、現実的にはイスラム教を挟撃するためという目的があった。いずにしても、大西洋航路よりもアジアに近く、オスマン・トルコの息のかからない航路を開くことによって、香辛料貿易を進める目的があった。エンリケの後継者ジョアン2世の時代になると、この探検航海はかなり進み、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の「喜望峰」に到達する。喜望峰は「嵐の岬」と呼ばれていたが、そんな危なそうな名前では冒険が進まないということで「喜望峰」というポジティブな名前がつけられたという経緯がある。

このアフリカの下を廻る航路が発見されると、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがこの岬を迂回してインド洋を横切り、ヴィジャヤナガル王国の港であったインド西岸のカリカットへ到達する。ガマはアフリカ東岸のマリンディに寄港して、イスラム教徒の水先案内人であったイブン・マージドを雇い、その指示によってカリカットへは到達したのである。

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<DATA>
ヴァスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama)
■誕生:1469年頃~1524年12月24日 ポルトガル・シーネス
■探検家、航海者

このポルトガルによるこのインド航路開拓はある種の国営事業として行われた。したがって、これに伴う香辛料の直接取引は、当時わずか150万人の人口でしかなかったポルトガルの王室に莫大な利益がもたらされる結果を生んだ。このインド航路開拓によって、ポルトガルの首都リスボンが世界商業の中心となって、ポルトガルが16世紀の世界を支配したのである。

つづく

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スペイン・ポルトガル関連 | コメント:0 |

お母さんが預かったお年玉の行方 活動報告編

かなり久々の更新となりましたが
長崎好きの皆様、いかがお過ごしでしょうか?
副管理人の 高尾 です。

そもそもこのブログを立ち上げたキッカケは

長崎のことを知ってもらいたい
県外、国外の人々に長崎のことを発信したい

というものでした。


そして、できることならば
長崎の子ども達にこそ郷土に興味を持ってもらい
ゆくゆくは発信する側になってほしい
そう思っています。


そこで本日
長崎歴史科学伝習の第一手でもある
学校訪問講義 に行って来ました!

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長崎市立戸町小学校三年生の子ども達です。

自分たちが住んでいる町のことを
講師を呼んで勉強する

すでに大人顔負けの
ジゲモンプライドです。


長崎市の戸町地区には、長崎にある8ヶ所の世界文化遺産のうちのひとつ

「小菅(こすげ)修船場跡」

があります。


また世界文化遺産観点以外では
造船の町長崎を支えるドックがたくさんあったり
「魚見山砲台跡」という、かつて攻撃や、時間を知らせるための空砲を撃ったとされる
砲台の遺跡がある町です。
港の玄関口である女神大橋もありますね。


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配られたプリントに一生懸命メモをしています。

子ども達が素直で元気で
ほんとにかわいいんですよ。

挨拶もしっかりできる。
休み時間は精一杯はしゃぐ。
トイレは整理整頓清潔で
手を挙げて意見も言える。

ぼくも、昼前に起きてパチンコ行ってる場合じゃないなと思いました。


小菅自治会講師陣のあとは
いよいよ我らが理事長の登場です。


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大学受験だけでなく、低学年の子供たちにも
面白おかしく講義ができる
我らが 濱口 剛理事長。

ぼくらはこの戸町地区の出身ではないですし、この町に住んでいるわけでもありません。

それでも、長崎の他の文化遺産と戸町地区の小菅修船場のことを
子どもたちに分かるようにつなげて話すことができる、、、


すげー!と思いました。
小菅ですからね。すげー。


小菅自治区の方々と、当日同行なさっていた
長崎市役所世界遺産推進室のおふたり、
そして戸町小学校の先生方のご協力によって
無事終了することができました。


終わってからはぼくらのお約束
「米食おうか」

今日は出島ワーフで長崎のお刺身定食です。

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こうして我々の七夕の午前は終わりましたが

長崎が何ですごいのか
これから子どもたちが
目をキラキラさせながら
長崎のことを知ったつもりになっている大人たちに
一生懸命伝えてくれたら
うれしいです。



長崎市公式観光サイトより 小菅修船場跡

http://www.at-nagasaki.jp/spot/169/


アパートに帰って
机や中庭、靴箱、、、
あんなに小さかったかな?
校長室っていまだに緊張するな、、、

と、切なく思いながら台所へ向かう途中
派手に油をこぼしてしまい
ひとりで拭いている時に
今度はひとり暮らしの切なさを感じている
そんな32歳がいたら、それはわたしです。



今日の一曲 Sixpence None The Richer - Kiss Me





管理人:Takao の ぶらぶら噺 | コメント:0 |

Nill style cafe 復活!

数年前、大好きだったカフェが閉店しました。。
そう、プラザL B1Fにあった「Nill style cafe」

何を隠そう、在籍している司会事務所が当時は同じビルにあったこともあり、
毎日のように通っていました。
ベーグルサンドも、サンドイッチも、パンもすごーーーくおいしくて!!
それが食べられなくなるのがとても辛かったです。。

そんな切ない思い出を抱え続けていたのですが・・・
PEACEBLUEのメンバー・吉田篤郎さん
Caféをオープンするとのこと。
しかも!!
「Nill style cafe」というではありませんか!!!!
この衝撃と言ったら!!!

…ということで、行ってきました!!
外観
浜町アーケードに入ってわりとすぐ、みずほ銀行の向かい
「エルパナリ」の3階です!!

この看板に、復活をしみじみと感じます(涙)。
看板

ワクワクしながら階段を上ります。
店内1

店内2

到着!!
店内3

カウンターがあったり…
店内4

テーブル席や、おひとりさま席があったり…
店内5

テーブルの上はシンプルながらかわいい♪
店内7

インテリアもオシャレ♪
店内6
ちなみにこのセンスのいい絵本たちは、篤郎さんの幼い頃のものだそう^^

優しいメッセージとともにメニューが♪
menu

menu2
おっと!アルコールもあるではないか( *´艸`)

ハートランドビール・・・も恋しく思いつつ、
後のスケジュールもあったので今回はノンアルで♪


注文したのは・・・
セット
コーヒー
野菜のゼリー寄せセット♪
自家製パン、スープ、ドリンクも付いて、650円(税込)!

きゅうり・にんじん・紫キャベツ・小松菜 etc.
彩りもキレイですが無農薬野菜にこだわって
しかもできるだけ県内産のものを取り入れて…と、
体にも優しいのです^^
添えられたのはりんご酢で作ったピクルス☆
これも篤郎さんのお手製だそう!

そして驚いたのがこちら!
新玉ねぎのポタージュ
新玉ねぎと豆乳のスープ!
一匙目からフワッフワな口当たりと、素材の味が体中に染みわたる~!
使っているのは、なんと、じっくり炒めた玉ねぎと豆乳、塩のみ!

パンも、もっちもちであっという間に食べてしまいました~!!
グリーンスムージーもとってもおいしかった♪

そして、これらを手掛ける篤郎さんのほんわかした雰囲気が
Cafeの居心地の良さに一役も二役も買っています(*´▽`*)

オシャレ~なレンタルスペースもあります!
レンタルスペース

梅雨の時期はNill style cafeでゆったりと♪オススメです^^


< Nill style cafe >
長崎市浜町4-7 ハマイチビル 1F
095-824-0241
営業時間 10:30~20:00
定休日 水曜日
Webサイト https://ameblo.jp/elpanaly1f
Instagram https://www.instagram.com/nillstylecafe_cocowalk/



副管理人:Keikoの らぶらぶ長崎 | コメント:0 |

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 5 最終回

岩崎弥太郎の話も今回が最終話。書いてて胸が熱くなりました…。
では、いきましょう!

弥太郎が目指した日本の海運業の海外からの自立。
しかし、当時上海航路はアメリカの「パシフィック・メイル社(Pacific Mail Steamship Company 1848年創業で、アメリカ政府の助成金を手太平洋定期航路を開設していた)」が独占していた。ここでいう上海航路とは横浜、神戸、下関、長崎、上海を結ぶルートである。この巨大な外資に勝つ見込みなど未知数であり、相当な覚悟とバックグラウンド、資本を要するものであった。

この上海航路を巡って、パシフィック・メイル社と三菱との戦いの幕が上がったのである。

戦いの手段は「値下げ競争」である。これは双方にとって大変苦しい戦いとなった。明治八年2月から10月にかけての三菱の運賃は、横浜―上海間30円から8円へ下がった。今の物価に引き直すと、30万円から8万円への値下げである。実に73%減。そのため三菱の負債は増加の一歩を辿る。このまま値下げを続けていては会社の存亡に関わる。

しかし、弥太郎は勝つまで止めないという信念の下、値下げ競争が継続していた。ここでパシフィック・メイル社がついにこの値下げ競争に音を上げた。彼らの上海航路からの撤退を条件に、彼らの設備と船を三菱に購入して欲しいという要求を飲み、弥太郎は交換条件として今後30年間パシフィック・メイル社が日本航路へ復帰しないことを約束させたのであった。

だが、外資との戦いはこれで終わりではなかった。

パシフィック・メイル社の撤退を期に、イギリス最大の海運業者であるP&O社が参入してきたのである。この世界最大の海運業者との戦いを三菱は再び行わねばならなくなった。

やはりこの戦いでも値下げ競争が始まった。パシフィック・メイル社との戦いの直後で満身創痍の三菱は、やむを得ず会社経費を徹底的に削減するという策に出ることとなった。

しかし、三菱の役員連中から、自分たちの給与を半分にしてほしいという懇願も出た。経営者に人徳があると、このような苦境の中でも社員はついていく、という正に典型的な社員たちの振る舞いである。このような会社にいることが誇りに思える社員は苦境の中でも幸せだっただろう。ただ、弥太郎を初めとして、社員もこのまま値下げ競争をしては負けることがわかっていたが、なかなか妙案は浮かばなかった。

そこに、以前坂本龍馬が言っていたことを思い出した、という。それは次のようなものであった。

資本金がなかった海援隊は、ある藩に武器の購入を持ちかけて輸入を代行する。そしてその藩からの金を運用し、別の藩にその金を貸して武器を買わせる。このようにして、船荷をダシにして金を貸して儲けていく、というものであった。こうしたキャッシュフローの円滑化によって、流通が拡大していくのである。

これをヒントに、弥太郎は「荷為替金融(にがわせきんゆう)」という起死回生の秘策を思いつくこととなる。これは、荷主が船荷を担保にして融資を受けられるサービスのことであり、顧客の流出を防ぐことも出来る優れた案であった。

海運業者である三菱の顧客の荷主には問屋が多かった。この問屋とは、江戸時代に荷主から委託された貨物を販売したり、または、商品を仕入れて販売したりした卸売商人のことで、室町時代の問丸(といまる)が分化・発達したものである。

弥太郎が商品である荷を担保にして資金を荷主に貸し付けるという、この「荷為替金融」を始めたところ、顧客の定着と融資先からの金利獲得が可能になった。これも一石二鳥の策で、これ以降P&O社との戦いは有利に運んでいったのである。

そして、この「荷為替金融」のシステムが発展し、「三菱銀行」が設立した。

こうして9ヶ月に及ぶ値引き競争に敗れたP&O社は日本から撤退し、外国資本との戦いに勝利したのであった。

・・・しかし、世界の海運業へと乗り出し、サンフランシスコに日の丸の国旗を掲げる夢が実現することはなかった。

胃がんを患い、志半ばでついに倒れたのだ。最後の力を振り絞って遺した言葉は、「まだ志半ば、十のうち一つか二つしか達成しとらん。けんど、もはや仕方ない。みな、わが志を継ぎ、事業を落とすことなかれ」というものだ。

その日は明治十八(1885)年2月7日、家族・社員、あわせて40名に見送られて岩崎弥太郎はこの世を去った。享年50歳であった。

その後、郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併し、「日本郵船会社」が設立された。三菱出身の日本郵船社長、近藤廉平は、明治二十九(1896)年、日本発のアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパの定期航路を開発した。

ここに岩崎弥太郎の悲願がついに達成されたのである。

その最初の船の名は「土佐丸」。日本最初の5千トン級の大型貨客船であった。マストに掲げられた旗は、共同運輸と三菱を象徴する、白地に赤二本線の二引きの旗。それは奇しくもあの「海援隊」の旗に良く似ていた。これが、以前この<シリーズ2>で、覚えておいてほしい、と言っていたものである。

日本郵政社の旗
日本郵政社の旗

海援隊旗
海援隊旗

この二つの旗を見比べるにつけ、ボクには岩崎弥太郎や弥之助らの、坂本龍馬への尊敬の念を感じとってしまう。本当はこの旗に込められた当初の意味は全然違ったものかもしれない。しかし、度重なる困難に知恵と努力で立ち向かい、諸外国から日本を自立させようとする精神が脈々と130年以上も続く今の「日本郵船」に引き継がれているとしたら、この重厚な歴史が美しい結晶となって過去から学ぼうとする人を魅了すると思う。

そして、三菱は弥之助以来の多角経営により、造船業をはじめとして、世界の大企業へと成長していった。

最後に、次のエピソードをぜひ知ってほしい。

大正11(1922)年11月17日、アルベルト・アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

 私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の
海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の
島々を見た時でした。
 [1,p140]

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組
員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せた
ことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を
見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはい
そいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私は
そうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛
しています。
・・・[1,p140]

これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

日本郵船とアインシュタイン 
※<アインシュタインの見た日本


弥太郎の精神を受け継ぐ三菱の社訓:三綱領は次の通りだ。

所期奉公 :期するところは社会貢献である。
処事光明 :フェアープレイに徹しなければならない。
立業貿易 :グローバルな視野で考えて行動せよ。

この社訓を読むと、弥太郎の理念が良く理解できる。大変素晴らしい社訓である。しかし、多角化し、巨大化した今の三菱の社員達全員がこの社訓を暗記し、その歴史の重みを十分理解して行動していると言えないはずだ。

なぜなら・・・特に昨今の度重なる三菱自動車の不正のニュース:パジェロ事件・リコール隠し・燃費改竄(かいざん)などを聞くにつけ、この初期理念はどこへ行ったのか?と思うからである。これまで書いてきた岩崎弥太郎らのすさまじい努力の歴史を知って、そのような三菱の社員であることに誇りを持てるような教育がなされていないことに由来する、一連の事件なのだろう。三菱の復活のために、全員がこの素晴らしい理念にもう一度立ち返ってみる必要があるだろう。

高島 岩崎弥太郎像
長崎市高島町 岩崎彌太郎之像

最終話を書き終えて、岩崎弥太郎のこうした生きざまを整理して考え直すと、この立像をまた訪れたくなります。全部読んでくれた人も、弥太郎のことを知ってこの像の前に立つと、また違ったまなざしで対峙することが出来るのではないでしょうか。
ボクらにかかわる一人でも多くの子供たちが歴史からの有機的な学びを得て、その後の人生に活かされるよう、ボクら自身も襟を正される思いがします。



■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4


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三菱関連 | コメント:0 |

岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 4

もう飲んでも、筋トレしても、ギター練習しても、飲みながら映画観ても、にゃんと戯れてもさっぱり眠れないので、前回の続きを書こうと思い立ちました。結局、紫がかった東雲の空の頃寝落ちしました(;・∀・)

弥太郎4、いきまーす!!


明治七(1874)年4月、三菱商会はすさまじい経営努力の甲斐あって、業界2位へと躍進し、東京へ進出した。
船も10隻に増やし、社名を「三菱蒸気船会社」に変更。

この前年である明治六(1873)年11月に父の弥次郎が急逝。弥太郎の懇願もあって1年で留学を中断してアメリカ留学から戻った弟:弥之助も経営に参加していた。

岩崎弥之助
<DATA>
岩崎弥之介
■1851年2月8日~1908年3月25日(満57歳没)
■出生地:土佐国安芸郡井ノ口村


現在のように三菱が造船・金融・地所・倉庫など多角化したのは、この弥之介の功績である。1890年には、当時の価格10万円で、端島(軍艦島)炭鉱を購入している。また、後藤象二郎の長女:早苗子と結婚している。いずれグラバーの関連でまた登場することになるだろう。

そして、明治七(1873)年5月、三菱躍進の転機となる事件:台湾出兵が起こる。

台湾出兵
<台湾出兵>
この事件は、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害されたという事件があった。この犯罪捜査などについて、清朝政府が「台湾人は化外(けがい)の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避した。明治七(1874)年に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵である。54人が殺害されたという大規模な殺戮事件であるから、警察ではなく軍を派遣したのである。これは日本軍が行った最初の海外派兵であった。


話はそれるが、時の清朝政府が台湾の事を「化外」の地と考えていたということが公に語られている点である。・・・いずれこの話も詳細にすることがあるだろう。今の中華人民共和国の主張する台湾への考えと真逆だからである。

台湾出兵に際し、国には軍需物資を送る船と乗組員が不足していた。時の大蔵卿:大隈重信は、当然のように運輸業界トップの日本国郵便蒸気船会社頭取:岩橋万蔵を呼び、船を出させる提案をするが、外国への輸送は未経験という理由から、この提案を拒否する。

大隈重信
<DATA>
大隈重信
■1838年 3月11日~1922年1月10日 (満83歳没)
■出生地:肥前国佐賀
■内閣総臣(第8・17代)を歴任。早稲田大学の創設者であり、初代総長。
■身長:180cm (歴代内閣総理大臣の中で最も背が高い)


ただ、この岩橋万蔵がこの提案を拒否した裏には、自分らが断ればこの話が業界2位の三菱に行き、三菱がこの仕事を請け負えばその隙に日本の海運業の市場を独占し、主導権を更に盤石に出来るという考えがあったのである

しかし、弥太郎にはこれに対抗する策があった。それは政府が戦争のために購入していた10隻の船の借用を、この台湾出兵という政府の急場に付け込んで、申し出ることによって、これらの船を今後自由に使えるようにすることであった

そして弥太郎の目論見通り、台湾出兵後も政府の大久保利通より、この10隻の船の無償で使用許可を取ることが可能になる。大久保にとっては、海運に新参者の弥太郎への不信があった。しかし、海のプロフェッショナルを備えているという自負が弥太郎にはあった。なぜなら・・・・三菱にはあの解散した「海援隊」のメンバーを揃えているのであるからだ

大久保利通

<DATA>
大久保利通
■1830年9月26日~1878年5月14日(満47歳没)
■出生地: 薩摩国 鹿児島城下高麗町
西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。台湾出兵の戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡り、交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。ちなみに「義挙」とは正義のために行動を起こすという意味である。


これで、当初ライバルであった日本国郵便蒸気船会社を抜いて船舶所有数は21隻となって国内1位となり、台湾出兵で失った市場を瞬時に取り戻すことが出来たのである

更には、このようにして弥太郎は政府との大きなパイプを作った「政商」となり、政府からの支援金を年に25万円、台湾出兵後も船12隻を無償で借用することも出来たのであった。

 一方、この台湾出兵を契機として政府から見放された日本国郵便蒸気船会社は解散、三菱はこれを吸収し、「郵便汽船三菱会社」となった

ビジネスの業界において、このような一石二鳥のプランはそう易々と訪れるものではないだろうが、岩崎弥太郎がちゃんとしたビジネスの「機」を見ることに長けていたことを示す例の一つだと思われるし、リスクを背負い、認識し行動することの信頼度の高さがしっかりと政府側にも伝わったと思われる。

ボクも経営の立場にいるので人を見る時、この点は大変重要なポイントとなっている。リスクを背負わずに、外野からあーだこーだと指南するのは誰だって出来ることで、これがパートナーとして信頼できない人の典型と考えている。

自らの身の丈を認識せず、有能な部下のおかげで成り立っていることを忘れ、いわゆる数学的なリスクヘッジも行わず、感情の赴くまま拡大再生産をする経営者に誰もついていくはずがない。

この点において、岩崎弥太郎はやはり素晴らしい経営者である。自らリスクを背負い、権力者の顔を立てつつ自分の優位な条件を獲得する。もちろんここにはしっかりとした将来への予見も含まれていたのかもしれない。このような段階を踏まえているからこそ、次に訪れる最大の危機にあたって、後に紹介することになるが、社員達も一丸となって身を粉にし、三菱の危機を回避しようというモチベーションが生じたのである。


これで日本最大手となった弥太郎の次の目標は、外国船との闘争に勝つことであり、海運自主権を回復することにあった。ここに弥太郎の公民としての意識の高さもうかがい知ることが出来る。

当時は外国への航路が外国資本に独占されていた。そこへ大久保利通より、上海航路開設に向けた取り組みをしてもらいたいという依頼が舞い込む。

これで坂本龍馬との夢の実現へ向けて、世界の海運業へと乗り出すことになるのである。
世界の「海援隊」へと向けた、最初の船出であった。

■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 1
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 2
■岩崎弥太郎 ~世界の海運業への道のり~ 3

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