CROSSROADS×Nagasaki  -クロスロード×長崎-

異国文化が交差した長崎を科学と情熱で探究

西郷隆盛 (1)-幕末哀戦士-

次の日曜日から、今年の大河ドラマ「西郷(※せご)どん」が始まる、ということで、当ブログでも便乗して多少、西郷隆盛に触れておこうかと。

幕末といえば、一橋慶喜、松平春嶽、勝海舟、大久保利通、高杉晋作、木戸孝允、鍋島直正、三条実美、岩倉具視、山内容堂、いくらでもキャラ立ちした人がいますね。
…あれ?誰か大事(と世の中で思われてるよう)な人がいないような……気のせいでしょう。

で、いきなりですが、この人、西郷隆盛(たかもり)ではありません

Saigo_Takamori.jpg

華麗なる手違いと寛容の精神で後の世に伝わっています

どう手違ったかというと、日頃西郷さんは「吉之助(きちのすけ)」と友達連中からは呼ばれているのですが、公的な場、つまり、政府の高官や貴族宛の手紙なんかには、当たり前ですが本名を書かねばなりません。

その証拠に、貴族だった岩倉具視(いわくらともみ)宛の直筆の手紙のひとつには別に、ちゃんとした名前のサインが残っているのがあるんです(※「吉之助」と書いてるものもあるんですけどね…)。
こんな感じで↓
岩倉様 吉之助

また、1869年8月、「正三位」という位を明治天皇より授かることになります

ここでも位を与えるのに、本名を知る必要があります。

けれど、これが歴史の面白いところで、西郷さんはちょうど函館戦争を終えて、鹿児島に船で戻る途中で連絡がつかなかったのです

明治政府は仕方なく、西郷さんの友人:吉井友実(ともさね)なら知ってるだろ、てことで西郷さんの本名を聞きに行きます。
でも、吉井はいつも「吉之助」としか呼んでいないため、なかなか本名を思い出せません。

はっ!と、吉井は思い出しました。

明治の役人に、「思い出しました、隆盛です!!」と伝え、明治政府はこれを理由に「西郷隆盛」の名で書類を作成しました。

しかし、実はコレ、西郷さんの父親の名前です

でも、これを変更することなく、この名で位を与えてしまいました。その後も西郷さんは名前が間違っていたことを知っても、
「ま、いっか」と、この父親の名前をそのまま使ったのです。

ちなみに、本名は「隆永(たかなが)」と言います

ところで、「間違い」ということではありませんが、似たようなことは他にもあります。
はい、コレ↓
西郷隆盛2

誰でもご存じの西郷さんの肖像画です。

でも、この肖像画も本人ではありません。

西郷さん、大の写真嫌いだったために、一枚も残っていないのです。
例えば、西郷さんのことを尊敬している明治天皇が、西郷さんの写真を欲しがった時でも断っているくらいです。

実は、あの西郷さんの写真は、イタリア人の銅版画家エドアルド・キヨッソーネが、西郷さんの実弟の従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を参考にして、なんと合成して描かれたものです

ただ、次の絵もあります。
肥後直熊筆「西郷隆盛像」(黎明館蔵)

この絵は、昭和二(1927)年、没後50年祭をきっかけに、西郷屋敷の隣に住んでいた肥後直熊が幼い頃、西郷に可愛がられ昔の思い出をもとにして描いたもので、これが西郷さんを見たことがある人によって描かれた唯一の肖像です。

ちなみに、
身長は、五尺九寸八分(181.194cm)
体重は、二十九貫(108.75kg)
 なので、当時としては超デカいサイズです。男子が150cm台くらいでしたから。ちなみに勝海舟が156cmで、一橋慶喜は150cmらしいです。

デカい、と言えばですが、こんなエピソードも残っています。

西郷さんはのちに西南戦争で自害して果てます。その時に切腹せず、介錯(かいしゃく)されたため首がなかったのですが、首のない身体を見て誰だか皆がわかったのです。というのは、西郷さんは「陰嚢水腫(いんのうすいしゅ)」に侵されていていて、いわゆるキン〇マが膨れ上がっていたから、「あ、これ西郷さん」と判別できたのです。

犬猿の仲である島津久光に、沖永良部島へ島流しの刑に処された時、過酷な炎天下で、しかも大変不潔な環境下での野ざらしの牢獄生活をしていたため、バンクロフト糸状虫に寄生されてフィラリア感染症になっており、その後遺症から象皮病を併発し、馬にも乗れないほどにカボチャくらい肥大化した陰嚢水腫を患っていたのです。薩摩へ戻ることが許された時には足にもダメージを負っていて、ほとんど歩けなくなっていたくらいでした(※調べたところ、もしかすると薩摩にいたころに寄生されたかも、という説もあるらしいです)。

この島流しの刑の話はいずれ必ず話をしますが、一般的のイメージや想像以上に、西郷隆盛は大変優秀な工作や諜報活動のプロです
せっかくの機会だから出来るだけ簡単に話をまとめられるよう、副業1が激多忙なんですが、ちょい頑張りますね(;・∀・)

ぜひ、今年の大河ドラマを日曜から深く・正しく・楽しく見るためにも、いきなり「核心部分(その1)」をUPしておこうと思います。
その次回の予告をしておきましょう。

「西郷隆盛 (2)-薩長同盟:坂本龍馬ファンタジーを打ち砕く-」・・・です。

お楽しみに~!



テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

幕末の偉人編 | コメント:0 |

「PEACEBLUE」 の2017年を振り返る…

こんにちは!
「PEACEBLUE」広報部長・Keikoです!!

2017年がもうすぐ終わろうとしています。
皆さんにとって、どんな1年でしたか?
LOGO

我々「PEACEBLUE」にとっては、今後に繋がる1年だったのではと☆
年末にふさわしく、この1年の主な活動を振り返ってみたいと思います。


2017年
1月 ブログ「CROSSROADS × Nagasaki」スタート!


最初の投稿は、もちろん代表・浜口先生。

「沈黙」遠藤周作と碧き海
http://crossroadsnagasaki.jp/blog-entry-9.html


1月21日に公開されたばかりの映画「沈黙-サイレンス-」にちなみ書かれました。
今の雰囲気からするとかなりあっさりとした仕上がり(笑)。

この投稿から積み重ねること、およそ1年。
今日のこのブログがなんと!100投稿目になります!!
(8割方書いている浜口先生を差し置いての記念投稿、ごめんなさい(^^; )



4月 「PEACEBLUE」ミーティング

ミーティング201704

写真は、ミーティング後の懇親会♪
私が一番楽しそうなのことはご覧のとおりです(笑)。

このミーティングで、今後の活動についての大枠が見えてきました。
まずは企画から!!と、イベントを立ち上げることに…



7月 長崎市立戸町小学校 訪問

戸町小① 戸町小②

戸町小学校3年生、約90人に長崎のこと、世界遺産のことを
お伝えする機会を頂きました。

我々の今後の活動におけるヒントもたくさんあった有意義な訪問でした。
何より、参加してくれた子ども達、とても熱心にメモを取ってくれたり、
元気に応えてくれたり…嬉しかったです^^

「PEACEBLUE」看板も設置されました!
看板① 看板②



8月 まさかの台風により企画延期(涙)

170924告知

【世界遺産公式ツアーガイド・浜口剛先生とさるく!グラバー園~学校では学べない長崎学☆】
を企画するも…
延期案内

からの!

リベンジ決定

ということで…



9月 【世界遺産公式ツアーガイド・
浜口剛先生とさるく!グラバー園
~学校では学べない長崎学☆】


170924グラバー園
やっとの実現となりました!!

ご参加の皆さまからも「えー!」「そうなんですか!?」と、
浜口先生のご案内に驚きの声が!
とっても好評で、企画して良かった!と心から思いました。



12月 2018年の企画に向け、始動!!

たくさんの子ども達に 長崎の歴史や魅力を 楽しみながら学んでもらうべく、
公的機関にも協力を頂けることになり、日々ミーティングを重ねています。
お知らせの日を楽しみにお待ちくださいね(^_-)-☆

シースケーキ
写真は、長崎オリジナルのショートケーキ・梅月堂の「シースクリーム」。
ワタクシ、広報部長として 様々な活動を展開しつつ、
ブログ【CROSSROADS×Nagasaki】では 軽いい記事担当として、
今後もおいしい長崎情報、たくさんアップできたらと思います♪

今年スタートした当ブログをご覧くださった皆さま、大変、大変、ありがとうございました!
来年は、浜口代表、いよいよあの人物をクローズアップします!!
(ヒント:佐賀に行かなきゃ――――!!行きたい――――― !!)
どうぞお楽しみにっ♡

2018年も、「PEACEBLUE」を
どうぞよろしくお願いいたします☆






副管理人:Keikoの らぶらぶ長崎 | コメント:0 |

歴史をちゃんと理解するための経済学 4 国立の監獄に、なぜわざわざいた?

江戸時代。イギリスが撤退した後、日本との交易をしたヨーロッパの国は、いよいよ出島に押し込められてたオランダだけです。
出島1
出島 川原慶賀筆 

「そんなんみんな知っているし」、と思われるでしょう。中学2年生までにはほとんどの日本人が義務教育で習う話ですから。

しかし、この特殊性を17世紀初頭における、ごく簡単な経済学の観点から考えてみると、かなり違った見方、というか深い観方が出来ます

<条件>
1:日本は、掘ればまだ山ほど金・銀を持っている。
2:カトリック国(スペイン・ポルトガル)を徹底的に排除する(ていうか、してもらう)。
3:オランダはまだ独立戦争中だから武器を買う金がかなり必要。
4:日本との交易を行うのに、最近やって来た同じプロテスタントのイギリスが邪魔。
5:カトリックに嫌気がさした、時の江戸幕府にどうにか気に入られるようにする。


これら単純化した5つの条件さえクリアすれば、オランダの(清と朝鮮はいますが、おおむねヨーロッパ勢としては)独り勝ち確定です。

例えば代替物が金・銀でなくとも、今の日本で「石油」が大量に国内から産出されたら、(一概には言えませんが)今よりとてつもなく豊かな生活が出来ます。

ボクが子供の頃、産油国(たぶん記憶では)クウェートの小学生は学校帰りに、先生を通じて国王からのお小遣いもらえるということを知って、相当驚いたものです。でも、石油が大量に出たからといって、それをどうやって使うかわからずじまいで、買う人がさっぱりいなければこの小遣いを出す余裕ないでしょう

現代では石油をエネルギーや原料としてメインに使うという、ほぼ世界共通の、しかも世界という巨大な「需要」があるからこそ、石油が高価な金に換えられて、豊かになったアラブ諸国では子供らに小遣いを渡せるほどであった、ということを覚えておきましょう。

経済的に豊かになるには、まず「イイもの出来たから、売るよ」という「供給」より、「わ!ソレ、めっちゃ欲しい」ていう「需要」が必須です

こうして生じる、豊かな社会になっていくための構造を「インフレ・ギャップ」と言います。下に図で示しておきます。

インフレギャップとデフレギャップ

図の左の方ですが、赤いバーが先行しているのがわかりますよね?青いバーである本来の供給能力(潜在GDP)が赤いバー:総需要(名目GDP)より低いけど、機械化や効率の良い方法が開発されることで、総需要とのギャップが埋まっていきます。そうすると、また欲しい人(需要)が増えるからギャップが出来て、また企業は技術革新が必要になり、新たな商品が開発されていってギャップが埋まっていく。物価は当然上がるけど、給与もUPして、人々の購買意欲が盛んになって国民の生活の質がどんどん向上していく。

これを「高度経済成長」と言います。

「作る人を増やせば供給量もかなり増えるのではないですか?」と思われた人、スルドいです!!

ただし、それでは本質的な経済成長は出来ません。例えば今、かなりコンビニに行くと外国人留学生が働いていますよね?コンビニのバイトに人が足りないからです。けれど、彼らの得た収入は日本国内に全て残るわけでなく、必ず国外へ流出します。外国人労働者は違法だけど、彼ら学生は合法というのが法の抜け道になっているのですが、原則として経済成長には国内で人材を賄うことが必要なのです。

逆が「デフレ・ギャップ」と言いますが、日本では2009年からの民○党政権に移行して顕著に起こったものです。労働不足を補うのに、「外国人移民を1000万人受け入れるぞ」とほざいていましたが、経済学のセオリーに反する暴論です。

というのも、内需を拡大せずに安易な他国に頼るやり方では、世の中がデフレの寒風が吹き荒れます。100均がここまで流行った背景を考えてみましょう。給与が上がらず、労働賃金と原材料費がめっちゃ安い隣国で生産を行うことで、バブルが崩壊した不景気の中、通常よりも粗悪な品物だけど、安いからまぁイイか、と妥協して使用していたことでしょう。

デフレ下においては、このような粗悪な輸入品が広まり、当然ですが、およそ芸術が発達することはありません。また、若者が自動車の購入に興味を持たなくなったことと、デフレ不況とは密接にかかわっているのです。

この表の右にあるように、「デフレ・ギャップ」を埋めるようにして社会が豊かになることはまずありません。先進国の給与が平均で1.5倍ほどUPしている中、日本は0.88。京都議定書とかいうイカサマにひっかかり、温暖化防止とかいう名目で数十兆円も血税を無駄にしたばかりか、モノづくりを海外に依存し、失業者続出。自殺者も増加して、と、こうしたデフレ状況がバブル崩壊後、日本はずいぶん続いてしまいました。
メディアもさんざん煽った「子ども手当」に騙されて政権交代を選択した挙句、詐欺でやらずじまい。少しは義務教育で学ぶ政治・経済のことを理解しないと、と実感したハズです。

こんな基本的な経済原理さえ理解せずに、むしろ悪化させる方向に舵を思っ切りきるという、一体あの民●党政権て何をしたかったんでしょうか?日本を利するやり方をあえてやらなかった(てことは、裏を返すと特定の他国を利することになった)のは、わざと?とはあえて言いませんが…。

好景気になるためには緩やかな(約2%程度のインフレ)上昇が必要です。今のアベノミクスがちょうどこのラインに乗っているところなのです。あと1週間もしたら、2018年を迎えますが、嘉悦大学教授の天才:高橋洋一先生によれば、未だになかなか民間では実感のない経済効果は、来年からだんだん表れてくるという予測です。
アベノミクスの成果
データがちゃんと出てますから。

実測データが信頼できないなら、どこかの都知事が言ってましたが、「科学的に安全でも、安心できない」ということになります。なら、何を基準にすればイイんですかね?
ちなみに、こんな話をすると、すぐ「お前、自○党が好きなんだろう?」などと言われますが、残念ですが全く違います

政権与党がどんな党になろうと、経済政策さえ間違っていなかったら、ボクは問題ないと思っているくらいで、むしろ、今の与党が「消費税を10%に上げる」と、のたまわっていることは、またデフレの悪夢に戻すつもりかっ!と批判しているくらいですのであしからず。アクセル踏みっぱなしでいけば豊かになるのに、なぜ消費税UPというブレーキを・・・。

日本の高度経済成長期には、この「インフレ・ギャップ」を技術革新でどんどん埋めていくことで、日本は物質的に大変豊かな社会へと変貌を遂げました。あまり強調はできませんが、あえて言うと、物質的な豊かさがあって、人心もゆとりが出てくると思います


かなりズレましたんで、そろそろ話を元に戻します(;・∀・)

生産者にとっては、複数の他国が購買競争するから、当然販売値段は高くなります。これが、一国しか買わなかったらだったらそうはいかなくなるでしょう。前にもオランダ東インド会社の独占の際に同様のことを書きました。(※「出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -」参照)

グローバル経済において、どこかから産出された金・銀、レアメタルなどを独占して大量にゲット出来ることなど、現代ではまずありえないでしょう。これが成功すると、どれほどの豊かさを享受できるようになるか…。

そして、先に示した5つの条件をクリアにすれば、オランダだけが日本にある豊かな金・銀の独占がまさに達成されようとしていることの利点を考えてみて下さい。

ケンペルが言った「出島は国立の監獄」という状況でも、その莫大な儲けを考えたら楽勝でガマンできるレベルだったのです

だから、「日本はオランダ人たちをあんな狭い所に閉じ込めて、なんて酷い!」ていうことを言う人もいますが、経済学の論理とまともな歴史の知識を総合すると、それがいかに短絡的な意見かがわかるでしょう

したがって、「国立の監獄の出島って、あんたらが莫大な利益を独り占めするために好きで入ってたんでしょ?」で終了です

ついでに言うと、「白人のための遊女は、吉原と違って、自由に出入りしてたし」です。

ここで上記の5つの<条件>を、これもごく簡単に検証してみます。

1:日本は、掘ればまだ山ほど金・銀を持っている。
→ のちも金山や銀山の開発が進んで、銅山も開発される。で、オランダに大量に持ってかれる(;´Д`)

2:カトリック国(スペイン・ポルトガル)を排除する(ていうか、してもらう)。
→ 幕府が、1624年にスペイン船来航禁止令、1639年にポルトガル船来航禁止令を出して正式に排除決定。代わりに「君ら、出島ね」となった

3:オランダはまだ独立戦争中だから武器を買う金がかなり必要。
 ヨーロッパでもいろいろあって、カトリック勢力から商業覇権を奪うことに成功。稼いだ金で武装できて勝利し、三十年戦争後に公式に独立

4:日本との交易を行うのに、最近やって来た同じプロテスタントのイギリスが邪魔。
→ アンボイナの虐殺と平戸での自滅でイギリスは勝手に撤退

5:カトリックに嫌気がさした、時の江戸幕府にどうにか気に入られるようにする。
→ 1637年に日本のカトリック信者が起こした「島原の乱」の際に、オランダは船から幕府を援助する艦砲射撃を行う。ここでも幕府の信用を得る

「オランダが独立出来たって、三十年戦争で勝ったからとか、スペインが衰退したからとかでなく、・・・ひょっとして根本は日本との貿易による利益が大きかったからじゃないの?」 ということも、実は真理の一面なのです。

こうやって、丹念にいろんな観点から捉えていくと、複雑な要因が一つひとつクリアになり、オランダの日本貿易独占の真相が明らかになっていくのです。

オランダ人が、なぜわざわざ出島にいたのか、だんだん理解が深まっていきますね!!

江戸時代が世界でも未曾有の平和を享受し、後の世界に衝撃を与えた精密な文化が発達したのは、この「技術革新」と無縁ではないのです。今の日本が、歴史上こんなに豊かだったという事実と要因を詳しく知って、未来の指針にしたいと、常々ボクは思っています。

では、次回もお楽しみに~!

dejima_agin_rogo-3.png

■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 1
■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 2 幕末通貨交換比率問題 
■ 歴史をちゃんと理解するための経済学 3 幕末通貨交換比率問題


テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

歴史をちゃんと理解するための経済学 | コメント:0 |

出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 22 - アジアへ(2) アンボイナの虐殺 -

関ヶ原の戦い後、江戸幕府が開かれて以来、平戸にはオランダとイギリスが次々に設置されます。

慶長十四(1609)年にオランダが平戸に商館を設置し、慶長十八(1613)年にイギリスが商館を設置します。
オランダ商館
2011年に復元された、平戸 阿蘭陀商館

しかし、香料モルッカ)諸島は以前にも書いたように(※「ポルトガル人はなぜ日本に来たの?」に答えられますか? 1 参照)、香辛料の丁子(ちょうじ)とナツメグの唯一の産地として、肉食のヨーロッパ人にとっては、相変わらず非常に重要な場所です。

オランダはこのアジアへやって来てから、相当な利益をゲットしています。

ちょい後の統計ですが、下に載せておきましょう。

オランダのアジア交易
オランダのアジア交易統計 1694年

日本との交易は断トツで儲かっています
オランダ人が、幅200mちょいしかない「国立の監獄」(=出島)に押し込められながらも、日本から出ていかなかった理由は、これを見てもよく理解できます

出島1
出島 川原慶賀筆

もう一度、東南アジアに目を向けてみましょう。

1511年、ポルトガルがまずマラッカを占領して、次にスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してきて以来、この両国が香料諸島で争うようになります。

香料諸島
香料諸島(モルッカ諸島)図

初めはポルトガルが香辛料を独占していましたが、17世紀にはオランダ東インド会社が進出して、この地にいたポルトガル勢力を追っ払います。そして、オランダがここアンボイナ島に要塞を築いたのです。

アンボイナ島
引用:4.インド・東南アジア史(II.東南アジア史) アンボイナ島

しばらくして、イギリス東インド会社が、この地の香料貿易に参入してきます

これでオランダとイギリスの東インド会社が香辛料の利権をめぐる交易で激しく争うことになってしまったので、同じプロテスタント国で友好国であるため、「まあ、ヨーロッパではあれほどカトリックにいじめられて、戦った仲じゃないすか、ここは仲良く」と、この二国は、ここでの対立を避けようとして、1619年に両社を合同、香料諸島を共同で経営することを決定します。

こうして、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にもイギリスも商館が設けられることになりました。

けれど、本国では両東インド会社の、香料諸島での合同は合意されましたが、現地ではオランダ人が合意をシカトして独占を続けて好き放題やるわ、バタヴィアではやられたイギリス人もオランダ人を追っ払うわ、など、交易を巡る対立はずっと続いている、という状況でした。

こんな中で大事件が発生します。

1623年にアンボイナのオランダ商館では、イギリス商人が日本人傭兵(武士)らをここへ連れ出して、ここのオランダ商館を襲撃しようとしているという疑念(妄想だったのですが…)を抱きます。

こうしてアンボイナのオランダ人は、イギリス人・日本人・ここに残存していたポルトガル人を捕らえて、ヒドイ拷問にかけます。
そして、あらぬ罪を自白させ、イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名の計20人を処刑してしまいます。

これを「アンボイナの虐殺(通称アンボイナ事件)」と言います

事件当時オランダの東インド総督はヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
Jan_Pieterszoon_Coen.jpg
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)
■オランダの軍人で、第4代オランダ東インド会社総督
(在任1619年 ~ 1623年、1627年 ~ 1629年)

なぜ「虐殺」なのかと言えば、オランダ人の行った拷問は、火責め、水責め、四肢の切断など、あのお馴染みヨーロッパ式(※「ヨーロッパの拷問方法・処刑方法【古代/中世/近代/異端審問/魔女狩り】」いちお参照・・・・しない方が良いですけど、いちおです、いちお)のバラエティ豊かな(もち、皮肉です)自白が強要されたからです。そりゃ、やってなくても自白しますよね、普通…。
ハイ、コレ
アンボイナの虐殺
アンボイナの虐殺

この虐殺の目的は当然、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占です

 この事件を契機に、イギリスは東南アジアでの香辛料貿易あきらめ、ある場所へ進出するのです。

それが、インド

…なぜインドなのかは、のちほどイギリス編にて。

ただ、
「出島でオランダ人だけが交易を許された」

という、これまで習ってきた常識は正確ではありません。
前回まで見てきたように、イギリス人だって徳川家康に許されていたからです

同じプロテスタントで、命がけで交易を開いたウィリアム・アダムス以来、イギリスとも交易を続けていました。

しかし、この1623年に、イギリスは銀の獲得のために日本までやって来たものの、平戸での貿易は採算がとれず、イギリス商館を閉鎖して、完全に日本から撤退しているのです

撤退の要因として、オランダほどの日本でのシステマティックな交易方法と、当時のヨーロッパにおける市場の規模とコネクションの差ではないかと推測されます。新規参入のイギリスが、商業の手練れ、当時のオランダにかなうわけがありません。

このように考えると、出島には、カトリックのように布教を目的とせず、交易だけをしようとしているオランダ人とイギリス人が同時に住む可能性だって十分にあったのです

しかし、1623年の「アンボイナの虐殺」+「平戸の不採算」の二点で、イギリスはごく短期間のうちに日本からも撤退していくのです。
つまり、「オランダ人だけが」ではなく、「イギリス人たちも認められてたけど、勝手に撤退していなくなったから、残ったオランダ人が出島で交易を行った」というのが正しい歴史観です。こう言わないとちゃんと理解できません。

この撤退は、ウィリアム・アダムスが平戸で亡くなった3年後のことでした。
あの世でアダムスは、ずどーん・・・・・・・・orzと、落ち込んだことでしょうね。

この「アンボイナの虐殺」はイギリス国内でオランダに対する憎悪の世論を喚起してしまいます

これが後の、4次に渡る「英蘭戦争」の一因ともなりました

事件をきっかけに、東南アジアでのイギリスの影響力は縮小します。
そして、覇権を手にしたオランダだけが支配権を強めていきました。

しかし、かつて無限の需要があり、同量の金と交換されたこともあったほどの香辛料の価格は、次第に下落していきます。
そして、オランダの経済的な世界の地位も…。

一方で、アンボイナから追い出されたイギリスですが、拠点をインドに定めたのには、現代の我々にとっても極めて重要な理由があるからです。

それが何か?・・・は、次回のお楽しみです!


dejima_agin_rogo-3.png

<オランダ編>
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 1
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 2
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 3
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 4
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 5.5 ―科学と非科学の違いー
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 6
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 7
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 8
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 9 - アントウェルペン編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 10 - オランダ独立(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 11 - オランダ独立(2) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 12 - オランダ独立(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 13 - オランダ独立(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 14 - 寄り道イギリス編(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 15 - 寄り道イギリス編(2) -
「ガリヴァー旅行記」に長崎が出てくるの、知ってました? イギリス編 外伝(1)
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 16 - アジアへ(1) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 17 - 寄り道イギリス編(3) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 18 - 寄り道イギリス編(4) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 19 - 寄り道イギリス編(5) -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 20 - 寄り道イギリス編(6)ウィリアム・アダムスに捧ぐ:最終回 -
出島表門橋開通記念! みんなで学ぼう、オランダ 21 - 特別企画展 出島の青い薔薇 -

<宗教改革編>
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 1 - 宗教改革(1) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 2 - 宗教改革(2) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 3 - 宗教改革(3) -」
「みんなで学ぼう、世界史としてのキリスト教 4 - 宗教改革(4)前編最終回 -」

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

オランダ関連 | コメント:0 |

シーボルト主要事項年表 <未完版>

※のちに随時書き加えていきますので、まだ完成版ではありません。
とりあえず、「江戸参府」終了まで。

1796年2月16日: 
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生 ドイツ ヴュルツブルク

1809年: 
間宮林蔵が二度目の樺太探検にて、カラフトが島であることを確認し、「間宮海峡」発見する。

1815年: 
シーボルト、ヴュルツブルク大学に入学。医学・科学・植物学・地理学・民族学を学ぶ。

1822年: 
オランダ外科軍医少佐に任命され、ロッテルダムからジャワへと向かう。

1823年: 
・オランダ領東インド・バタヴィアに到着し、 長崎の出島商館医師に任命される。
・バイテンゾルフにある総督ファン・デン・カペルレンの山荘で3週間滞在する。
・伊王島北端で、日本人の役人と通詞が来船し、オランダ人でないことがバレそうになる。
・其扇(タキ)が出島に通うようになる。

1824年: 
・鳴滝塾を開く。
・総督ファン・デン・カペルレンへ、長崎へ画家と医師を派遣してくれるよう依頼する。

1825年: 
・「薬品応手録」を執筆する。
・鳴滝塾弟子筆頭の美馬順三が江戸参府を前にして死去。

1826年: 
・念願の「江戸参府」へ、商館長スチュルレルに随行し出発。(2月15日)
・この時、弟子:湊長安・高野長英は情報収集のため1か月前に長崎を発っていた。 
・弟子:二宮敬作に島原の雲仙岳の火山調査を命じる。のち小倉で合流する。
・川原慶賀に太宰府天満宮を描かせに遣る。
・川原慶賀を石炭の産地木屋瀬に派遣し、絵に描かせる。この絵が「コークス作りの図」でのち発見。      
・下関の阿弥陀寺(現赤間神宮)に参詣し、関門海峡をファン・デン・カペルレン海峡と勝手に名づける。
・下関で先発していた湊長英・高野長英らと情報交換。
・高野長英が連れてきた平戸の捕鯨業者からクジラ漁の話を聞く。
・姫路の名城:白鷺城の美しさに感動する。
・京都で天皇の存在に興味を持つ。
・草津近郊の大野でトキの剥製をゲットする。
・鈴鹿山のオオサンショウウオを二匹ゲットする。(うち1匹はオランダに到着して1mに成長し、その後50年生きる)
・矢矧橋を測量し、図面を作成。川原慶賀にこの様子を描かせる。
・川原慶賀に、江戸に近い川崎から品川に至る港図をご法度ながらも描かせる。

・江戸で、オランダでも著名な薩摩の島津重豪(しまづしげひで)と出会い感動する。
・当時の江戸は130万人でコンスタンティノープルをしのぐ、世界一の都市。
・江戸参府一向の定宿は「日本橋長崎屋」。
・江戸で最上徳内がやって来る。(たぶん間宮林蔵とも会う)
・最上徳内から蝦夷や樺太の地図や資料を借用する。
・天文方兼御書物奉行高橋作左衛門も面会に訪れ、紅葉山の文庫を見たいと依頼。
・土生玄碩ら眼科医が来て、瞳孔を開く実験を見せる。
・作左衛門にクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などと引き換えに、禁制の「日本地図」をくれ、と告げる。
  (ミッテルビベラッハ城文庫、日誌に記載)
・択捉のラッコをゲットする。
・葛飾北斎にオランダ紙を渡し、絵画の依頼ををする。
・江戸城に登城し、目的のモノをゲットする。
・最も期待した長期滞在が出来なくなり、長崎へ向けて出発。
・最上徳内が、なぜかわざわざ小田原まで見送りに来る。  

・京都・大坂を経て、下関に至り海峡の記録をゲットする。
・商館長のスチュルレルとは犬猿の仲が激化する。
・143日に及ぶ長旅を終え、長崎に到着する。

テーマ:歴史大好き! - ジャンル:学問・文化・芸術

シーボルト先生 | コメント:0 |
<<前のページ| ホーム |次のページ>>